朔ユキ蔵『お慕い申し上げます』について書きたいと思いながら1年以上たってしまった。
書けないなら書けないでもいいじゃん、という声も自分の中から聞こえてくるけども、アウトプットしなければやがて消えていってしまう。いろいろ本も読んでいろいろ考えたことが消えてしまう。それは俺としては惜しい。社会的損失かどうかは別にして。
『お慕い申し上げます』は、寺の話である。
寺の跡取りをどうするか、という話も一つのテーマで、そこから、寺院というシステムが将来存続できるのかという広がりに繋がっている。
もう一つは、仏教そのものがテーマである。寺院が存続していけるのか、ということは信者と集金のシステムとして存続できるかという問題であるが、その中核にあるのは、本来仏教という宗教がこれからも必要とされ続けるのか、というテーマでもある。
佐伯清玄(さえき・せいげん)という29歳の男が副住職をつとめる祥願寺という寺に、マラソン日本代表の一人でトップをつねに奪われてきた挫折のある清沢節子がやってくるという設定である。
ぼくはこの二つのテーマのどちらにも深い関心をもった。そして、本作はこの2つのテーマが実によく描けていると思った。まず初めに言っておこう。非常な力作である。
まず、寺院というシステムが維持できるのかという点。
これまで寺を支えてきた檀家が、子どもの世代にかわるころを契機に次第に離れていく(離檀)。日常的に信仰をしているわけでもないのに、法事のたびにおカネが必要となるし、ときには本堂の修理のような経費を求められる。ましてやその地方を離れてしまえば、なおさら縁は薄くなる。
2巻で檀家を回る話が出てくる。
嫌な顔をする家が多い。「はーい」と明るい顔で出てくるが袈裟をきた姿をみたとたん、冷たい表情になる。また何か金をせびられるという顔である。いや、そこまでアレかなあ……。
ぼくの実家の集落ではすでに終戦直前の地震で本堂が崩壊し、それ以来本堂もなくなり、いまは住職もいない。ぼくが物心ついたころにはもう、となりの自治体にある同宗派の寺が面倒をみるようになっていた。
母親の実家のある集落についてもけっこう立派な寺院があるのだが、住職が失踪し、そのまま隣の市の同宗派の寺がやはり編入する格好になっていた。*1
よく300軒の檀家で独立した寺院を維持できるといわれるが*2、それがゆっくりと崩壊しているという感じだろうか。
2巻では宗教法人としての祥願寺の役員会の様子が描かれている。
雨漏りをしている本堂などの修理に1200万円もかかる。
その費用を出す論理を、ある総代(役員)はこう言う。
「高木家の墓もこの寺にあるだろう
キミもいつかそこに入るんだ
総代の一家として寺をもり立てていくのが
務めじゃないか」
しかしそうしたやりとりを冷ややかに、茶化すように、あるいはラディカルに問いかけるようにとらえている高木一(たかぎ・はじめ)は次のように笑いながら返す。
「いやあ 俺は別に墓に入らなくてもいいなぁ」
そして、一般の檀家の空気をこう代弁する。
「寺に好意的じゃない人は
昔よりもふえてますよ おそらく
私がそうです
生まれた家がこちらの檀家だっただけ
坊さんにありがたみは感じないし
ましてや自分を仏教徒だと思ったこともない
お坊さん達は
それでいいんですか?」
常識的な感覚からすると、1200万円を集めるために奔走するって、まあ俺はやらないね。
300軒の檀家で割ると4万円だ。だが、高木が資料を繰って発言しているように3分の1が寄付をしていない。200軒で割れば6万円である。なかなかキツい。「1万円で勘弁してください」という家もあるだろう。すなればさらに負担は重くなる。
そこから次のテーマが出てくる。
寺は維持する必要があるのか?
あるいは、寺を何のために維持するのか? そのために払ってもいいと思えるコストはどれくらいなのか? ということである。
たとえば非常にドライに墓とお参りの霊的空間だけの管理だけでいいのであれば、いっそ霊園のような形にしていくつかの宗派で共同のものにしてしまえばいい。
あくまで寺が信仰の場だというのであれば、その信仰とはどんなものか。現代人にとって不可欠のものなのか。
4巻では、15年前に出奔した清玄の父に出会うエピソードがある。
清玄の父は寺の体面のためにDV被害にあった女性を救えずに死なせてしまう。そのために寺に絶望し、妻子も捨てて寺を出ていった。そしていま「心のホットライン ナムナム」という悩み相談をボランティアでやっている。
うむ。
これこそまさに「出家」ではないか?
そして、寺などという余計なシステムは何一つなく、袈裟をきた宗教的権威である必要は何一つなく、みすぼらしいスナックの一室でうす汚いカッコウをして真剣に電話のむこうの相手の相談にのっている。
しかし。
これこそ、まさに宗教がなすべきことではないのか?
清玄の父の姿は、寺院というシステムがいかに余計なものか、そして仏教の教義とは何かということを、挑戦的につきつけてくる。
そうだよ。これでいいじゃん、と。
ぼくは呉智英『つぎはぎ仏教入門』を読んで、仏教の全体像を知った。部分的にはいろいろ言いたいこともあるし、呉の本を持ち上げるのはしゃくであるが、たしかにわかりやすかった。いい本である。
そのときに仏教の原初的な姿というのは、死への恐怖を中心にして人間がいだく恐怖や欲望などの執着心をいかにコントロールするのか、ということが役割なのだと思った。だから宗教というよりも、哲学というか、精神コントロールのスキルだという見解をもった。
それゆえに、仏教が悟りを開いた人、つまり精神を統御できるようになった人のものであり凡俗にはなかなかマネできないものだというのは仕方のないもので、本来「小乗」的、つまり自分の宗教的完成のみを優先して大衆を救えないのは、そりゃ仕方ないな、と思った。
こういう精神コントロールのスキルをお裾分けして、民衆にもできるだけ現世での苦しみに対してラクになってもらおうというのが「大乗」であるなら、それにはおのずと限界がある。
限界があるけども、そこに意義を見出すのもまたよくわかる。
大乗仏教の中でも、浄土宗や浄土真宗はそれが徹底されすぎてしまって、「あまり難しいことは考えずに、とにかく祈る(念仏を唱える)ことで気持ちを落ち着けなさい」というところまで行き着いてしまった。少しでも自力で救われようという気持ちがあると逆に批判されてしまうほどである。そして、そういう宗派が実は日本で一番信者数が多いことになっている。呉が指摘しているように、キリスト教やイスラム教のような姿をしているのである。
精神をコントロールして自分の恐怖や欲望を飼いならすということは、実はとても現代的な課題である。多くの人がこれに苦しんでいる。本当は仏教の出番のような気もする。
しかし。
「現代ではたとえば心理学のようなものがそれにとってかわってしまっている。だから、もう仏教は必要ないのではないか?」――こういう問いが出て来ても不思議ではない。
また、浄土系のように「南無阿弥陀仏」とひたすら唱えることへの精神安定は、一神教のような絶対を前提としなければ、なかなか現代人の心には馴染めないのではないだろうか。本気でそれを唱えて安心する、という心持ちはどうにも生まれにくいような気がする。
せいぜい仏教の生き残る道は、もはや「ホットライン ナムナム」でしかないのではないか?
こうした挑戦がつきつけられているのである。
本作はそれにたいする一つの回答を示している。
清沢節子は、スポーツ選手としての栄光にたどりつけず、自分の心は制御しがたい嫉妬心でいっぱいである。
清玄は、抑えがたい性欲、未熟で不安な心、親友の死の恐怖など、とても僧侶としての成熟がみえず、煩悩に惑わされ続けている。
一見「諦観」をもっているかにみえる清玄の親友・清徹も、自分の癌による死の恐怖にとらわれている。
こうした煩悩まみれの人たちは、寺の住職である峰博(ほうはく)和尚の言葉にしばしば導かれる(顔が仏像に似ている)。
たとえば、4巻で「諦める」ということについて、峰博が清沢に説く。
断念するという意味ではなく、物事の原因を見極めて、自分がどう振る舞うかを知る、つまり諦観=達観するという意味である。実践の一つとして、口角をあげて、つまり笑うような恰好をして「止む無し」といってみろ、と教える。「止む無し」という事物の必然を見極めたうえで、それを受け入れるという態度であろう。たとえば重力によってモノが落下することは必然的な法則である。あたかも自然法則のように因果の必然を知ることでそれをいったん受け入れるという意味だろう。
しかし、和尚の言葉ですべてが解決するわけではない。教えをうけてもまた苦しむ毎日なのだ。
問題はこれを理論として知ることではない。
実際に同じようなことを清玄も知っているが、知っているからといって己の性欲や恐怖心が制御できているわけではないのだ。清沢もまた同じである。
縁があってそのことを知ることは第一歩であるが、日常生活の中で苦しみ、実践のなかでつかみとるほかないのである。本作では、登場人物たちがそのことにもがく中でつかみとっていく様が描かれる。
清沢は、家族やライバルに対して向き合っていなかった態度を改めるなかで、無常観に到達する。
このような格闘の拠点として寺がある、ということを、非常に自然な形で描いている。寺はまず気付きを与え、迷った時に格闘をするための場所として存在している。3巻で峰博が「必要なものの為に寺はあるんじゃよ」というのはそういう意味であろう。
説教を受けて感化されて悟りを開く……というようなものではない。逆にいえば、心理学のような理屈を知っていても、欲望や恐怖がコントロールはできないということになる。
この作品は、寺という場所の必要、その核心にある仏教的な教義の中核が非常に見事に物語として昇華されている。1ミリも解説的なところがない。いや、ところどころ仏教について解説はしているんだけど、この核心点については押しつけがましさがないのだ。
というわけで、この作品は本当にまじめに仏教と寺院にむきあった作品であると思う。宗派をこえて、仏教界が「必読文献」として布教用に普及してもいいんじゃねーのと思う。セックスシーンとかあるけど!