池辺葵『ブランチライン』6巻

 共産党志位和夫は、社会主義——生産手段の社会化によって労働(賃労働)の性格は変わるという話をマルクスを引いて語っている

 労働の性格も大きく変わるでしょう。マルクスは、1864年に、労働者の国際団体――国際労働者協会(インタナショナル)を創立したさいに執筆した宣言のなかで、こう言っています。

 「賃労働は……やがては、自発的な手、いそいそとした精神、喜びに満ちた心で勤労に従う結合的労働に席をゆずって消滅すべき運命にある」

 他人の生産手段のもとで、他人のもうけのために、他人の指揮のもとで働く労働では、非人間的な労働苦は避けられません。それにかわって、各人の自由な意思でつくった連合体がもつ生産手段のもとで働くようになれば、未来社会での労働は、本来の人間的性格を回復するだろう。これが私たちの展望です。

 うん、まあ、そうかもしれないんだけどさ。

 「自発的な手、いそいそとした精神、喜びに満ちた心で勤労に従う結合的労働」って生産手段を社会化したら急に生まれるものなのかなとも思う。

 それって、資本主義の中でも育ってくるんじゃないの? と。

 マルクスが生きていた時代に、マルクスが『資本論』で紹介していたような工場労働を見ていると、そこに「自発的な手、いそいそとした精神、喜びに満ちた心で勤労に従う結合的労働」は片鱗もないように思える。

 だけど、労働運動が進み、労働時間の短縮があり、社会保障が発達する中で、資本主義の賃労働のもとでも「働きがい」とか「やりがい」というものは生まれ、それは一定の規模で大きくなっていく。

 自分たちのこだわりを持った労働が生み出した商品が、必要とされる人たちにちゃんと届いて喜んでもらえる。そのことの楽しさや素晴らしさを丁寧に描いているのが、池辺葵『ブランチライン』の6巻に出てくる、独立した小さな服のブランドTAKETOの物語である。

 Ondeというやはりこだわりのある服をつくるブランドにいた武人(たけと)は、Ondeでさえ他のスタッフがコストや効率で割り切ろうとする瞬間にその論理にあらがい、自分から見てこれしかないと思える形にこだわろうとした。実際に、その通りに作られた服は飛ぶように売れていく。

 武人はOnde社長の藤崎から独立を勧められ、TAKETOという別ブランドを立ち上げて独立するのだった。

 服を販売する会社の山田は、武人の苦情に対応するために武人のもとを訪れる。

 意見を直接に聞くためだ。

武人「何を言ったって妥協点を探すことになるんでしょうね 君たちのように大きいショップは合理性を求めるからね」

山田「いえ そんなつもりでうかがったんではありません まずはお会いして具体的なご意見を聞きたくて 精度を高めるにはより感度の高い視点が必要ですから」

 武人は少し意外なような顔をする。

 山田が単に「なだめ」に来たわけでもなく、武人の言うように妥協点を探るためでもなく、しかし経済的な合理性と整合性のある説明をして、武人を納得させたからであろう。

 

 そして、陳列されているシルクの商品に山田の目がいく。

 「すごく気持ちがいい」服なのに、売れていないからである。武人は高値のせいであまり人気がないのだと説明する。

 しかし生地を触り、見ながら、

すずしくて あたたかい

シルクはまさに文明の奇跡の布だよ

と愛おしそうにつぶやく。山田はその表情を見ながら自分たちの会社に出品しないかと持ちかける。武人は君らの会社とは価格帯が違うからというのだが、今はもっと価格帯が広がっていると説明しながら

特集を組んでシルクの魅力が伝わるようにして…

ここに眠らせておくのはもったいないです

そんなたくさん作れないんだから作った分は完売を目指しましょう

と武人に提案するのだ。

 ここには経済的な合理性や効率、営業における販売の成功=「命がけの飛躍」という、多くの生産と販売の現場で起きていることが語られている。しかし、製品の魅力を特別に抽出して必要な人たちに届けるということが、現実よりも見事に美しく切り出されて提示されている。

 

 資本主義の下での激烈な競争、巨大な資本の圧倒的な力の前に、こうした努力は往々にして吹き飛んでしまう。吹き飛んでしまうけど、それはゼロになるわけではないだろう。こうした努力は社会のそこかしこで生まれ、ある程度成功し、生産する者にとっても、それを販売する者にとっても、やりがいや生きがいを生み出し続けている。

 

 生産手段が社会化されるというのは、ある日を境に一挙に行われるものではない。

 市場経済をベースにして生まれた資本による利潤第一主義という社会の原理が、ある時は法律で、ある時は補助金で、ある時は職場の運動で、一つ一つ乗り越えられていくプロセスなのだと思う。

 コストや経済合理性とのせめぎ合いは、急に終わったりはしないものだ。資本主義のもとで苦労して生産物の良さを生み出して本当に需要をしている人たちに届ける喜びが日々開拓されており、それがそのまま地続きで新しい社会につながっていくものではないのか。

 武人や山田のような努力がもっとやりやすくなり、買い手の側ももう少しゆとりを持ってそれを買えるようになる、そんな社会なのではないか。いきなり全面的に変わったりするようなものではないだろう。

 『ブランチライン』6巻を読みながらそんなことを考えた。

 

「世界は思ってるより善意で満ちている」と思えるか

 武人が

君たちを見ていると

世界は思ってるより善意に満ちているって思えてくるね

としみじみ述べるシーンがある。

 自分の服を必要な人に届けるために、丁寧に動いてくれる人たちの存在を感じられるからであろう。

 そんなふうに思える瞬間があるのは実に素敵なことではないか。

 実はぼくもそうなのである。

 最初はぼくの苦境に対して、「水に落ちた犬を叩く」という人はそんなにはいるまいと思っていたら、そういう人が多くてびっくりし、「世界は実は悪意に満ちていた」と失望したものだった。信頼していた人まで棒で叩き始めたりして。

 しかし、やがて、そういう苦境に手を差し伸べてくれる人が意外にもたくさんいることもわかった。溺れている犬が棒で叩かれるのを見て恐怖で黙らされている人は仕方ないけど、そんな中で勇気を持って、ぼくに声をかけてくれる人は、本当にありがたいことだった。

 世界は思ってるより善意に満ちているって思えてくるね。