『響』と『月と六ペンス』

 天才的な高校生の小説家を描いたマンガ、『響』について、つれあいは「たかが高校生に芥川賞はともかく直木賞を取れるような文章が書けるはずがない」「しかも本人に社会性がなく、経験もない。世事に疎そうだし」という批判をした。

 

 

 

 

 年齢については一見説得力のあるところだが、朝井リョウ直木賞を受賞したのは23歳だそうだから、高校生が受賞することはそれほど無理な話とも思えない。

 

 こうしたつれあいの批判以外にもAmazonのカスタマーズレビューにも批判はたくさん上がっていて、例えばこうだ。

2巻まで読みましたが、駄目ですね。
肝心の、主人公の少女の書く小説がどう凄いのか読んでもさっぱりわからないので反応に困ります。グルメ漫画で例えると、変わり者のシェフがこしらえた料理の、絵も一切書かず、どんな味なのかも説明せず、ただひとこと「美味い」とだけ言うようなものですからね。

https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R1BEWT12U8MG84

 そのこと〔本が作られるまでの苦労――引用者注〕に敬意を払わず、自分の感性とやらにのみ従って暴言を吐き暴力行為で物事をすすめようとする響には虫唾が走るだけで全く魅力を感じない。どうせなら人間性に多大なる問題があったとしても、本だけは愛するという信念をもっていてほしかった。

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才能があれば何をしてもいいのだ!!!というのなら、その才能の片鱗でも見せてくださいよね。思いつかなかったのでしょうが。

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 「天才の片鱗(小説の中身)を示せ」という批判、性格がひどすぎるという批判が多い。

 しかし、こうした批判は、天才画家の生涯を「私」と称する作家の目を通して描く、モームの『月と六ペンス』を最近読んだばかりのぼくとしては、「いやこれはぜんぶストリックランド(モームが同作で虚構として描いた天才画家)の描写に当てはまるよね?」という反論を思い浮かべてしまう。

 

月と六ペンス (光文社古典新訳文庫)

月と六ペンス (光文社古典新訳文庫)

 

 

 

 まじめ一徹で無骨で無趣味な株の仲買人だったはずのストリックランドはなんの前触れもなく妻子を捨てて出奔。「私」が探し出して問い詰めても、人が変わったようになり、意に介する様子もない。

「ご婦人を無一文で放り出すなんて、とんでもないことですよ」

「なぜ」

「奥様はどう暮らしていけばいいんです」

「十七年も食わしてやったんだ。そろそろ自力でやってみてもいいと思わんかね」

「無理です」

「やらせてみるさ」……

「奥様がどうなってもいいんですか」

「いいとも」(モーム前掲書、p.81-82、土屋政雄訳、光文社)

 

 絵の描写はあることはある。しかし、これはAmazonのレビュアーたちが求めていたような「天才の成果物の描写」と言えるだろうか。

 ストリックランドの絵の天才性を知る数少ない一人、売れっ子だが凡人の画家・ストルーブの言葉だ。

 

「すごい絵だった。大傑作だ。ぼくは打たれた。もう少しで恐ろしい罪を犯すところだった。もっとよく見ようとして近づいたとき、何かが足にぶつかった。見たらスクレーパーで、身が震えた」

 ストルーブの感動の一部が私にも伝わってきて、不意に別世界に連れていかれたような不思議な感覚にとらわれた。そこは価値観の異なる世界だ。見慣れたもののはずなのに、引き出される反応がまったく違う。土地不案内の私は、ただ途方にくれて立ちすくんだ。ストルーブは絵のことをしきりに話してくれたが、言葉は支離滅裂で、何を言いたいかは私が想像するしかなかった。そして自分自身を見つけた、とも言った。いや、そんな手垢のついた表現では間に合わない。そうではなくて、思いもよらぬ力を持つ新しい魂を発見した。大胆に単純化されたデッサンからは、豊かで得意な個性が見て取れる。だが、それだけではない。色使いは肉体に情熱的なまでの官能性を与え、奇蹟的なまでの何かをとらえ得た。だが、それだけでもない。中身の詰まった肉体は圧倒的な重量感で迫ってくる。だが、それだけでもない。そこには、見たこともない、心を騒がせる精神性がある。それは見る者の想像力を思わぬ方向へいざない、薄暗い虚空へと導く。永遠の星明りで照らされるだけのその虚空で、人の魂は赤裸となり、新しい神秘を見つけようと恐る恐る足を踏み出す……。(前掲書p.249-250)

 正直、モームがこの作品で絵を形容するくだりは、こんな調子だ。「舞い上がった表現」「三文小説的表現」と自嘲気味に書いている通り、少しでも条理のある描写は期待できない。

 だけど、それでいいのである。

 『月と六ペンス』という小説を読んで「天才の絵画」そのものを見たいわけではないのだ。むしろストリックランドという天才と呼ばれている人の凡人との距離を見たいのである。

 絵についていえば、『月と六ペンス』には、お金に換算するエピソードが随所に出てくる。生きているうちにはまったく評価されなかったストリックランドの絵だが、死後莫大な高値がつく。そのことをすでに知っている現在の「私」は、後で高値がつくとも知らない絵を、ストリックランドを取り巻く世間の人々が二束三文で取り扱おうとする皮肉を、その時の値段の比較によって表すのだ。その通俗性こそ、痛快なのである。

 

 ちょうど『響』における鮎喰響の天才が、小説の言葉ではなく、数々の賞、世間的評価、群がってくる金銭話によって表現されるのに似ている。

 そして、人格の欠片すら見出せない傍若無人なストリックランドと、自分の尊厳に対して異様にセンシティブでその侵犯に対して極端な暴力で反発を表す響とは、どこか通底するものがある。

 

 ただ、『月と六ペンス』と『響』はやはり違う。

 『響』のどこが面白くて読んでいるのかといえば、響その人というよりも、響によって照らし出される凡人たちの凡才ぶりであり、天才という狂気に群がる金銭欲の通俗ぶりなのである。主人公はむしろ響ではなくその周りにいる人々だと言える。

 そこそこ才能があり、本当ならもっと注目されていいはずのリカが響に抱く劣等感やコンプレックスが、ぼくにとっては特に興味を引く。あるいは、受賞ができるかどうかという次元で悩んでいる作家たちと、ただ小説というものをひたすらに突き詰めようとしている響との差。天才の周辺を照らす役割としての天才――それこそが『響』の魅力ではないのか。

 『月と六ペンス』では売れっ子だが、平凡極まる絵を描いているストルーブの存在がそれに似ているが、あくまでそれはストリックランドの引き立て役でしかない。主人公はあくまでもストリックランドなのである。