関川夏央の予言は的中したのか

 第一の見開きは突進する将兵の絵柄で、〈合戦は……〉と文字が添えられている。
 第二の見開きには〈終わった……〉と文字があって、突進したはずの将兵がこぞって「ずっこけ」ている。

 関川夏央『知識的大衆諸君、これもマンガだ!』(文春文庫)に出てくるみなもと太郎風雲児たち』に対する解説である(p.142-143)。
 この解説の後、関川は、「作者(みなもと)」は島本和彦のアイデアに触発されたのではないかとして次のような一文をつけている。

 作者は、少年マンガ島本和彦が『炎の転校生』という作品で試みた最終ページの方法から、ヒントを得たかも知れない。
 高校生が喧嘩へと至る経緯と喧嘩の技術に関しては克明にかきこんであるのに、喧嘩のシーンそのものはすべて省略、最終ページの「そして滝沢は勝った!!」という特大文字の一行と主人公のシルエット画だけで済ませてしまった。なんのために、どのようにして、誰に勝ったのか、少年マンガの本来的なテーマをすべて素通りした「革命的な」マンガである。(関川前掲p.143、強調は引用者、以後同じ)

 関川のこの評論は1988〜1990年に書かれている。
 すでに30年前に関川は島本の方法の「革命性」に気づいていた。


 ……と言いたいところだが、この文章の後に、次の一文が続いている。

もっともこの作者〔島本のこと――引用者注〕は、この作品以前も以後もまったくふるわない。方法として成熟させる意志に欠け、マンガ作家にありがちなたんなる思いつきにとどまったためだろう。(同前)


 この部分の批評は、半分は当たっているが、半分はハズレている。
 確かに島本は自分の物語創作の中にこうした革新的な技法を生かすことにはあまり成功しているとは思えない(使われるが成功していない、という意味)。それを「方法」と思わせないほどにシームレスに作品や物語に溶け込ませ切れていない。


 しかし、島本ほど方法に自覚的な作家は他にいまい
 一般的な物語作品ではなく、方法を自覚的に扱った作品にこそ、島本の精髄がある。
 自分や他人が採用した無数の方法を徹底的に批評し、笑いの対象にしてしまう見事さは、『燃えよペン』『吼えろペン』シリーズとなり、『アオイホノオ』へと結実した。
 この分野での最良の成果の一つであり、巨峰と言ってもよい。
 下図の島本『アオイホノオ』18巻(小学館、p.119)のセリフとコマを見るがいい。

 自分の方法と特性が絶対的に雁屋哲の原作に合わず、懊悩するさまをびっしりのセリフで描いている。しかもそのセリフの批評性の的確さに読者であるぼくらは惹きつけられざるを得ない。さらに、このこのシークエンスの直後に始まる主人公・ホノオの作画自体がこれらのセリフを反転させる見事な、マンガとしての批評性を表現している。このように、方法を自覚し、外側からその批評性をマンガにしてしまう作家など他にいまい。

 「熱血」という、それこそ六〇年代までの高度成長期のド真ん中にあった価値観を八〇年代において表現しようとすると、それはもはやパロディにするしかない。そして、パロディという「解毒」作用を持った器の中だからこそ、改めて真摯に熱血を語ることが可能になる。そのような装置の中でこそ、ロマンは輝かしさを取り戻す。
 そういう認識を持ち、それを自覚的に表現した島本和彦の当時の身振りは、やはりひとつの「倫理」の表明だったのだ。(ササキバラ・ゴウ「おたくのロマンティシズムと転向」/『戦時下のおたく』所収p.36-37)

 ササキバラは1999年に発表された島本の「炎の転校生 〜同窓会を叩け!!」に触れて、それを島本による80年代論として位置付け、「このようなロマン的な文脈を生きようとする者が、九〇年代以降の日本の中でどう振舞うべきかが、改めて現在における問題として見据えられている」(同前p.37)としている。
 つまり、ササキバラは島本はすでに80年代から方法に自覚的であったという評価をした上で、その空気が過ぎ去った90年代以降では、さらに外側からその時代を批評的に捉えているとしているのである。


 物語創作においては「方法として成熟させる意志に欠け」て、方法を内面化して作品に取り込むことはうまくなかったかもしれないが、方法という対象を徹底的に批評する旺盛な意欲に満ち、方法を外側から徹底的にイジってついにマンガ作品にまでしてしまったのである。「マンガ作家にありがちなたんなる思いつき」から出発したとしても、その自分や他人の思いつきをイジらずにはおれない、自身の中に充満した批評性が否応なく横溢してしまっている作家、それが島本なのである。