マルクス主義者にとっての人生の意味

神聖喜劇〈第2巻〉 (光文社文庫) 旧日本軍に入営した主人公・東堂太郎が異常な記憶力と軍の規定を駆使して、軍隊内の不条理と向き合う、大西巨人の小説『神聖喜劇』をくり返し読んでいる。
 風呂でほぼ毎日朗読している。
 光文社文庫版第2巻の372〜373ページには、ヨッフェの遺書が掲載せられている。
 ア・ア・ヨッフェは、ボルシェヴィキの一人で、革命ロシアの外交官になった人物である。トロツキーと親しく、のちにスターリンによって自殺に追い込まれた。その際の遺書である。

 すでに三十年以前に私は、人間の生命は、ただ人類が吾人〔私たち――引用者注〕の脳裡に意識せしめる無限のためにそれが用いられる範囲内および期間内においてのみ、吾人に価値がある、という哲理を把握したのであった。人類以外〔の誰か個人――引用者注〕はすべて吾人にとって有限であるがゆえに、それらに仕えることは無意味である。人類は必ずしも絶対に無限ではないにしても、その終焉を吾人はほとんど無限なほどに遠く遥かな将来の出来事としてしか考えることができない。人類の発達を私とおなじように信頼する人人は、わが地球の死滅する時期が来ても、それよりずっと前に人類が他のもっと若い遊星に移住する手段を獲得しているであろうことを、たやすく想像し得るはずである。
 かくて人類は生存を続けるであろう。そして吾人の時代において人類の利益のため営まれたすべてのことは、そういう未来永遠の上になんらかの痕跡を遺しつつ生きるであろう。そこに、吾人の存在は、それが所有し得る唯一の意義を見出すであろう。(強調は引用者)


 「人間の生命は、ただ人類が吾人の脳裡に意識せしめる無限のためにそれが用いられる範囲内および期間内においてのみ、吾人に価値がある」はわかりにくい一文であるが、要するに「ある個人の生命は、無限に続く存在としての人類のために奉仕してこそ、価値のあるものになる」という意味だろう。


 主人公・東堂の独白の形で、大西はこの部分全体を「浪漫主義的・無神論的・マルクス主義的表白」と評し、「その時分の私がやはり一定の感動を受け取らせられた」としている。


 結局、マルクス主義者にとって、人生の意味、生きる意味とはこのようなものである。
 人間は、社会の中にある法則を知り、ジグザグはありながらも、その認識をもとに社会を少しずつ改造していく。ヘーゲル的に言えば、それは人間が自由になっていく歴史でもあるし、別の言い方をすれば人権を発展させていく歴史でもある。
 ぼくが子どもの医療費無料化を拡充させる運動に加わって、その結果、ぼくの住む自治体で対象年齢が広がったとする。実際、広がったけど。
 それは、社会保障を前進させる動きの一つであり、貧困とたたかい、生存権をより強化するたたかいの一つ(というか一滴)を構成する。今この動きは、「子どもの医療費無料化を国の制度に」という運動となり、遠からず実現するだろう。
 あるいは、学費値下げの運動。学生時代に熱心にやってきたその運動は、社会人になってからも関わる機会があり、ついに数年前、国際人権規約の「高等教育(大学などのこと)の段階的無償化」を定めた条項を日本政府に結ばせる(留保の撤回をさせる)ことになった。紆余曲折はあっても、長い目で見れば前進していくに違いない。


 町内会やPTAで今ぼくが苦労していることだって、そういうふうにまとめることができる。
 学習院大学教授・青井未帆が「学問は面白い」 *1というシリーズの中で述べていたが、

 日本社会は同調圧力が強く、「個人」や「権利」という言葉を避ける傾向がありますね。「私の権利です」と正しいことを主張しても、なかなか正当な評価を受けられないのではないでしょうか。
 不自由な社会であるに、多数派に同調することが楽だと感じられれば、不自由を自由と感じない。しかし同調圧力の前で、不自由を感じる人が一人でもいる以上、国家や家族、地域共同体や社会というものを個人より優先させるのはおかしいといい続けなければなりません。
 何かおかしいと言葉に表したいときの足掛かり、武器になるのが憲法です。

まさにこれである。今日もまたPTAの会議でぼくは異論を言い、アウエイな感じをハンパなく受けた。「任意加入をちゃんと形にしてほしい」というごく簡単なことが受け入れてもらえないのである。
 個人の尊厳を守る、という人権の強化に、ぼくの行動もささやかな一滴として役立つかもしれないという思いでやっている。


 ぼく個人はいずれ死ぬ。
 しかし、ぼくが社会保障の前進とか人権の発展のために微力を差し出したことは、「なんらかの痕跡を遺しつつ」人類の歴史の流れの中に合流していく。


 そのことにハッと気付いたのは、今から十年以上も前に、無党派の人たちと平和運動をしていた時のことだった。ぼくをコミュニストだと知った、ある無党派のドキュメンタリーの映画監督が「ぼくの家の近くの学童保育とか、みんな共産主義者の人たちががんばって作ったんですよね」とぼくに親しげに言ってくれた時のことだった。


 保育園や学童保育をこの日本中につくる運動を、ぼくが小さい頃に、多くの人たちが参加してやってきた。そして、その中に共産主義者もたくさんいたわけである。
 結局、「ポストの数ほど保育所を」という運動をしてきた世代があって、その中の中心的役割を果たしたのが、左翼のおばちゃんたちで、それが今の日本の社会保障のベースをつくっている、ということを実感的にとらえた瞬間であった。つながった、腑に落ちたのである。小さな無名の無数の人たちの努力と、それが社会の土台を形成していくという流れがフーッとぼくの脳裏に映ったのである。


 例えば保育園をつくる署名を書いたことくらいは誰でもあるだろう。
 そういう意味で、多くの国民大衆がその歴史の流れの中に、何らかの貢献をし、合流している。しかし、共産主義者マルクス主義者は、そのことを自覚的にやる。そのことによって、歴史に自覚的に参加しようとする。ここにマルクス主義者としての人生の意味がある。ヨッフェの遺書の一節はそういうことを言っているのだ。



 神とか死後の世界のようなものを設定しない限り、いったい一般の人たちは、どんなふうに自分の人生の意味、生きる意味を与えているのか。
 会社の社長になって栄華を極めたとして、引退したのちその会社が潰れたとしたら、そこにどんな意味があるのだろうか。人類といったような大きな尺度の中で考えない限り、人生の意味はでてきようがないように思える。

 

 余計なお世話だろうが。

*1:しんぶん赤旗」2016年5月25日付