サブタイトルにあるとおり、現代日本では6人に1人がその状態にあると言われる、子どもの貧困を描いたマンガである。
いま、ぼくは「6人に1人」と述べた。
これは「相対的貧困率」といって、1人あたりの所得*1が全人口の中央値の半分未満の世帯員を貧困にあるとみなして、その割合を求めたものである。
つまり世の中の人の半分ほどにも所得がない家の子ども、ということである。それが貧困の定義だというのであれば、貧困を描くマンガなのだから、貧困の実態を折り込めば成立する、すなわち「お金のなさ」を描けばそれで成立するように思える。
しかし、このマンガは、孤立、文化的な意味での貧困、DV、児童虐待、女性にだけ押しつけられる家事、生活保護など、「お金」以外の問題を多様に扱う。様々なものがからみあって現代の貧困が生まれているのだから、貧困を描こうと思えば、それはある意味で当然ともいえるものだろう。
自己責任論とたたかう
この作品がすごいと思うのは、貧困をめぐる、各種の形をかえた「貧困は自己責任である」という議論にたいして、実に戦闘的に反論を行っているということである。
前作『陽のあたる家』で生活保護問題を扱った時にも、この漫画家が発揮した戦闘性であったが、本作ではそれがいっそう明瞭に、遺憾なく発揮されている。
たとえば、主人公のかつて同僚であり、今はNPOで働いている大川先生が行う反論はその典型的な一つである。“両親が共働きすれば学費くらいは貯金できるし、少なくとも学費の安い国公立に進めば捻出できるし、いざとなれば奨学金もあるし、公務員になれば免除されるではないか”というよくある考えを大川先生は一つひとつ反論し、「ことごとく粉砕」(p.212)してみせる。
「あーもー 40代以上の人ってこれだから〜」
と大川先生が苦笑まじりにつぶやくのは作者の真情なのだろう。
大川先生は単に自己責任論に反論するだけではなく、貧困によって与えられる屈辱感(スティグマ)や誤解についても果敢に反撃する。たとえば学校で貧困の家庭と面談して生活保護を受けるのがいいのではないかと大川先生が勧めると、その保護者は、涙をこぼして次のように言う。
「一生懸命……働いてきたのに
主人だって病気になる前は
それこそ過労死寸前まで
なのに……そんなものの世話になるしかないなんて」
大川先生は毅然と「反撃」……というか、認識をただす。
「お母さん お言葉ですが
『そんなもの』とは聞き捨てなりませんね
生活保護は立派な社会保障制度のひとつです
国民なら誰でも
利用する権利があるんです
『世話になる』んじゃありませんから!
はい 言ってみてください!
『権利だから利用するする』って!」(強調は引用者)
そして「さん、はい!」といって、保護者に復唱させるのである。
保護者が急に戸惑って「えっ… え? 『権利だから利用する』…」と言われた通り復唱するのがちょっと可笑しい。
いや。
こうした登場人物による会話形式の問答だけではない。
主人公を最初は「夫が正社員、自分は非正規教員、子ども1人、持ち家あり」という比較的恵まれた境遇におかせて、貧困を外側から眺めさせるような視点をもたせる。そのとき貧困に陥る家庭の行動が理不尽で不可解にしか見えなかったのであるが、その後、主人公は一転して貧困の立場に落とされる。
自分に跳ね返る言葉
「もっとがんばれ」
「子どものことじゃないか。必死にやらないと」
「どうしてできないの?」
かつて貧困でない立場から他人に浴びせていた非難や疑問が、自分に跳ね返ってくる。
日の光にきらめく正しい言葉たちが
病んで弱った心にはまるで猛毒の鏃(やじり)だ
かつて私も明るい場所から毒矢を放っていた
「私だったら
歯を食いしばって
立ち直ろうとするわよ!」
これはきっと
その罰だ
『陽のあたる家』では、登場人物の一人で、生活保護を受けていない貧困線ぎりぎりで奮闘している女性が生活保護をあしざまに罵り保護の切り下げに溜飲を下げていたが、やがてそれが就学援助などの切り下げとなって自分に跳ね返り絶望するシーンとして描かれていた。
今回はそれをさらに主人公のメインの変転として描く徹底ぶりである。
「罰」という刺激的な言い方をみると、貧困への連帯をせずに唾を吐きかけてきた者がいよいよ「思い知る」シーンであるので、反貧困を標榜するぼくのような読者は、まあ正直なところ、痛快さを覚える感情が心の隅にわきあがるのはどうしても否定できない。スカッとしてしまうのである。「ざまあみろ。罰だ、罰」と。
が、それは下世話な感情。
貧困への連帯は、単なる他人への同情ではなく(それを出発点としながらも)、「明日は我が身」という自分自身の問題だという捉え直しによって社会保障そのものの底上げを闘い取ることなのだということを、辛辣に描くものだ。思い知らせるという欲望にギリギリまで傾きつつ(ここはさすがマンガ表現としての面目躍如といってよい)、公正な怒りを描くという離れ業である。
本作は、終盤で大川先生が無料塾のような教育支援をするNPOにかかわることを描いているが、教育が貧困脱出のルートとして重要であることは認めつつ、その限界・厳しさを描いている。
松本伊智朗「教育は子どもの貧困対策の切り札か?」(貧困研究vol.11)。ぼくも無料塾で貧困解決を的なことを訴えてきたわけだが、学習支援は重要であるものの、「支援しても効果があがらない」子どもに「できない俺が悪い」的な内面化をさせる危険性がある。自戒したい。
— 紙屋高雪 (@kamiyakousetsu) 2014, 3月 30
学習には意義があるものの、いくら勉強をがんばっても、イバラの道であり、容易に絶望へと転落しかねないという限界を、この作品は、登場人物の一人曽我のロジカルなあきらめ・諦念・無気力に仮託している。このきわどいところをうまく表現できている。
「命の大切さ」教育の危険
ぼくが本作で認識をあらたにしたのは「命の大切さ」教育の「諸刃の剣」的性格だった。
命の大切さ、自分のかけがえのなさを強調することで、自傷行為を止めようとした主人公のもとに、授業の直後に彫刻刀で自殺を図った子どもの一報が舞い込む。
「どんな子どもでも神様に愛されている愛おしい存在」だという強調(まあ、「神」という考えを媒介するかどうかは別として)は虐待や貧困に苦しむ子どもには「自分だけはそうではない」ということを逆に浮き出させる危険な教育だということだ。
本作は、というかこの作者は「日向・日影」「光・闇」というイメージを多用する。この「いのちの教育」の話は、強烈に光=正しい言葉・世間の「常識的」認識を浴びせることで、影はいっそう濃くなるという比喩にもなっている。
本作のタイトルである「神様」は、博愛の存在であるが、それは他でもないぼくたち自身であり、その背後にいる子どもたちの貧困に、ぼくら自身が気づくことをメッセージとしている。
この時代に、貧困を描くことの勇気は、自己責任論に斬り込み、反論し、たたかいを挑むことである。それをしない作品やルポの腰の引けぶり・臆病と比較すれば本作の英雄性は明らかである。そのことに正面から挑んだ本作には敬意を表したい。