バトラー後藤裕子『英語学習は早いほど良いのか』

 英語が必修になったのは、いつごろからだろうか。
 1950年代くらいだろうか。
 さにあらず。
 2002年からだという。


「なんで英語やるの?」の戦後史 ――《国民教育》としての英語、その伝統の成立過程 というのは少し不正確で、必修になったのは「外国語」である。そして学習指導要領では外国語というものは「原則として英語」として定め、英語を学ばせているのである。寺沢拓敬『「なんで英語やるの?」の戦後史』(研究社)による。


 寺沢の同書は、戦後史のなかで英語がどのようにして「みんなやる」教科として成立していったのかという「謎解き」をしている。1950年代に「一度はふれる教科」となり、1960年代に事実上の必修化をしていく。


 『「なんで英語やるの?」の戦後史』は、戦後の英語教育論争をまとめてあるのが役立った。加藤周一が、英語なんて義務教育で全員に必ずやる必要があるんかいなと問題提起したことや、自民党平泉渉参院議員が渡部昇一とやった論争などが紹介されていて、そこで今日議論になっていることがほぼ出そろっているのである。


 2016年3月の今現在、小学校では「外国語活動」ということで小学5・6年生に限って英語を教えることになっている。
 福岡市では、市(市教委)独自のプランをつくってそれを前倒しして小学校1〜4年生からやらせるらしい。


 さらに、日本全国のすべての高校ではいま学習指導要領によって「授業は英語で行うことを基本とする」ということにさせられている(2013年から)。

英語に関する各科目については,その特質にかんがみ,生徒が英語に触れる機会を充実するとともに,授業を実際のコミュニケーションの場面とするため,授業は英語で行うことを基本とする。その際,生徒の理解の程度に応じた英語を用いるよう十分配慮するものとする。〔強調は引用者〕

http://www.mext.go.jp/component/a_menu/education/micro_detail/__icsFiles/afieldfile/2011/03/30/1304427_002.pdf

 いやー知らんかったわ。
 文部科学省の解説はその意味について次のように書いている。

「授業は英語で行うことを基本とする」こととは,教師が授業を英語で行うとともに,生徒も授業の中でできるだけ多く英語を使用することにより,英語による言語活動を行うことを授業の中心とすることである。これは,生徒が,授業の中で,英語に触れたり英語でコミュニケーションを行ったりする機会を充実するとともに,生徒が,英語を英語のまま理解したり表現したりすることに慣れるような指導の充実を図ることを目的としている。

http://www.mext.go.jp/component/a_menu/education/micro_detail/__icsFiles/afieldfile/2010/01/29/1282000_9.pdf

 福岡市は学習指導要領よりも「先を行く」ということで、これを中学校におろす。「オール・イングリッシュ」授業を一部の中学校でテスト的にはじめ、全市に広げ、「英語のできる中学生日本一」をめざすそうである。「英語のできる中学生日本一」になるために、それを準備する小学生の目標は「英語が使える小学生」にすることだそうだが、これは英語がぺらぺらしゃべれるということなのか、「ワンツースリー」といったら「英語が使える小学生」になるのか。はっきりしない。
http://www.city.fukuoka.lg.jp/data/open/cnt/3/23520/1/27kyoikusesaku.pdf


小学1〜4年生に英語をやらせること

 まず、最初の英語教育の早期化というか、小学1〜4年生におろすことについて。
英語学習は早いほど良いのか (岩波新書) バトラー後藤裕子『英語学習は早いほど良いのか』(岩波新書)という本がある。タイトルだけみると、いかにも反語的に見えて、「英語学習は早いほど良いわけない」という結論を持っていそうな本にみえるが、そうではない。

早く英語を導入すると、日本語に悪影響を及ぼすことを懸念する人もいるようだが、そのような懸念を裏付けるような実証データは、筆者の知るかぎり存在しない。(p.157)

筆者は、小学校段階での外国語学習には意味があると考えている。(p.172)

 こういう一文をみてもわかるとおり、いわゆる「反英語教育」や「反英語教育早期化」の議論とは距離をおいたスタンスをとっている(それがいいことか悪いことか別として)。バトラー後藤裕子は、どっちの側の議論であっても、実証やデータの存在、その解釈に慎重な態度をとっていて、そこは好感がもてた。


 一言で言えば、バトラー後藤裕子のスタンスは、

早期英語教育には潜在的なメリットがたくさんある。しかし、その一方で、いくつかの重大な課題もある。(p.185)

というものだろう。
 たとえば、小学校段階での英語教育(外国語活動)については、

小学校の段階は、子どもたちが興味をもつやり方で、良質のインプットできるだけ多く与えることが一番重要である。良質のインプットとは、必ずしもネイティブ・スピーカーによるインプットに限定されるものではない。応用範囲の広い、わかりやすい英語ということだ。(p.176、強調は引用者)

としている。


ネイティブのような発音をさせるのではなく

 バトラー後藤裕子は、「『ネイティブのような発音』は(小・中学校の)目標には不適切」(p.177)とし、本書の冒頭で、「子どもが小さいときに英語を身につければネイティブのようにしゃべられるが、ある時期を過ぎるとダメだ」的ないわゆる臨界期仮説を検証し、それについて手放しで賛同できない「複雑」さをあれこれ書いているように、「早く始めてネイティブのようにする」という目的で「早期英語教育」の意義を語っているのではない。

臨界期仮説は、大量のインプットを受けながらの、必ずしも明示的な言語指導を必要としない自然な状況下での言語習得を前提としているからである。……外国語環境はふつう、そのような条件を満たさない。(p.135)

 ひらたくいえば、小さいときに英語にふれて「キレイ」な英語でペラペラになるのは、外国で英語をシャワーのように浴びていたからであって、そういう前提もないのに「早いほど英語がうまくなるんだよ!」的な言い分でもって、学校教育にもちこむのはダメだよ、ということだ。


 そうじゃなくて、まず英語に興味をもつ。そして、耳から入ってくる(わかりやすい)英語を聞いているうちに、英語そのものに慣れる。これを小学校のうちにやっておけというのだ。
 そういうことをやっておくと中学校にいって、英語を「書く」作業、文章を「読む」作業、英語を「しゃべる」作業、文法を学ぶ作業をさせたときにスムーズだよね、みたいな話である。


 これはまあ、実は文部科学省の方針も、だいたいこんな感じなのである。文部科学省の「英語教育の早期化」を否定するのではなく、むしろ叱咤激励しているといってもよい。

小学校英語教育はどんな条件がそろえばいいのか

 ぼくがバトラー後藤裕子の本を読んで重要だなと思ったのは、小学校における英語教育(外国語活動)では、どんな条件がそろえばいいのかを明らかにしていることだった。

いずれにせよ教員が英語指導を自信をもって行えるようになるには、韓国が行ったようなすべての教員を対象とした、徹底的な教員研修が不可欠である。(p.189)

ネイティブ・スピーカーに依存しすぎる教育政策は不安定なばかりか、実証研究によれば、言語習得上の効果は一般に期待されているほどは大きくないようだ。(p.190)

費用対効果の観点からも、ネイティブ・スピーカーの大量採用はどれほど得策か疑問だ。(p.191)

 つまり、まとめると、ネイティブのようになるために英語を早いうちからやらせるわけでないこと、中学の基礎をつくるために英語に興味をもたせ、よいインプットを大量に与えること、そういうことができる先生をたくさんつくることなどである。そして、そういう目的のためには、ネイティブをたくさん雇ってもあんまり意味がないんだよね、ってこと。

語感を養うために小学校で蓄積させる

 では、バトラー後藤裕子は小学校の英語で何を目的にしているのか。

良質なインプットをたくさん与えることで、英語のリズムなどのプロソディー(韻律)や、フォーム(形式)に関する語感を養うことにつながる。冠詞や形態素、コロケーション(第3章参照)などに関する語感を少しでも養うことができると理想的だ。“I have apple”と言われたときに、「あれ、なんだか変だな」と思える感覚である。こうした暗示的な言語知識がある程度蓄積したところで、中学校に入って明示的な文法説明をして整理してあげれば、文法知識がすっと入りやすくなる。(p.173-174)

 つまり、語感を養う。
 本格的にわかるのは中学校に入ってからでいいけど、小学校のうちに英語の感覚を大量の良いインプットで養っておけば、中学に入ってから学ぶさいのベースになるってわけだ。
 この発想は、たとえば中学校の学習指導要領(外国語)の中にある

中学校における「聞くこと」,「話すこと」という音声面での指導については, 小学校段階での外国語活動を通じて,音声面を中心としたコミュニケーションに対する積極的な態度等の一定の素地が育成されることを踏まえ,指導内容の改善を図る。

http://www.mext.go.jp/component/a_menu/education/micro_detail/__icsFiles/afieldfile/2011/01/05/1234912_010_1.pdf

という方針と整合的に見える。
 聞く・読む・書く・話す・文法を学ぶなどという作業が中学校でいっぺんにやってくるので、中学に入っていきなり英語にあたると混乱してしまう……というわけだ。小学校から英語を学ばせるのはネイティブに近づけるための「臨界期」対応じゃなくて、これまでのような日本人英語でいいんだけど、それをもっとスムーズにさせたいということなのだ。

でもそんな条件あんの?

 ただなあ。
 まあ、たしかに小学校からそれをやったらスムーズになるってことはあるのかもしれない。でも、バトラー後藤裕子が明らかにしたように、そういうことを小学校でやるには、かなりの条件整備が必要になる。


 まず、「良質で大量のインプット」。
 バトラー後藤裕子自身が「外国語に充てられる授業時間数は、ふつうはかなり限定されている。授業時間内だけで高い外国語能力を身につけることは不可能だ」(p.173)とハッキリ言ってしまっている。

学校での授業に加え、自ら進んで、どんどん英語を聞いたり、読んだりしていけるような環境づくりと、動機づけの強化が必要だ。(p.174)

 これは厳しい。結局授業だけでは「良質で大量のインプット」は確保できないということである。まあ、国語だってそういうふうに言えばそうなんだけど、国語は授業が終わって家に帰っても否が応でもそれに囲まれる環境にある。しかし、英語はそうはいかない。興味をもつように動機づけられなかった子どもは、「良質で大量のインプット」を得られないのである。
 語感を養うほどの「良質で大量のインプット」による蓄積は現実には得られず、ごく一部の子どもだけにその効果は限られてしまうに違いない。


 そして、「徹底的な研修」。
 今のべたように、小学校の子どもたちに、「自ら進んで、どんどん英語を聞いたり、読んだりしていけるような環境づくりと、動機づけ」をできるような小学校教師の力量アップが必要になる。
 うん、まあ、そういうカリキュラムを組んで、そのような教師を育てる必要があるんだけども、そんなふうになっていないよね。
 小学校に英語をおろすやり方は「逐次投入」とでもいうべきもので、チョロチョロと広げているだけなのである。英語があることが前提になっていない先生たち――ハッキリいえば英語の免許もない先生たちに、急場しのぎでやらせている。もしくは、担任とは別の形で英語の先生をつれてくる。
 こんな条件のもとで、英語教育(外国語活動)をやらせても、「良質で大量のインプット」や「自ら進んで、どんどん英語を聞いたり、読んだりしていけるような環境づくりと、動機づけ」は難しいだろう。
 むしろ、英語嫌いを生産していく危険が大きい。


 英語教育にたずさわってきた教師集団でつくる「新英語教育研究会」は2014年に文部科学大臣に要望書を出しているが、その中で次のようにのべている。

 小学校の教育現場では英語科の教員免許のない教師が担当しています。日常の授業で少しでも英語の興味を持たせようと担当教師がさまざまに工夫しながら指導していますが、現場からは「うまく展開できない」などの声が多く寄せられています。計画における英語教育の教科化、専科教員やALTのさらなる活用などの方針をだしております。条件の整わない中でのこの方針は小学校教員への負担だけでなく小学生の知的発達に負の影響を及ぼすと考えられるので、撤回していただきたい。

http://www.shin-eiken.com/info/2014/20140803demandingpaper.html

福岡市教委の「小学1年生から英語をやらせる」という方針

 こういう目からみると、福岡市教委の方針――小学1年生から英語をやらせるという方針はどうなるのか。


 「小学校段階での外国語学習には意味がある」というバトラー後藤裕子でさえ、

やみくもに早く始めることに意義があるわけではない。あえて一年生から導入する必要はないだろう。(p.172)

とわざわざ述べている。
 バトラー後藤裕子は小学3年生くらいからの導入を提案しており、文部科学省の小学校中学年への早期化方針とこれまた整合的であるのだが、福岡市の方針は、これに照らしてもやりすぎなのである。


 しかも福岡市教委のかかげる「英語が使える中学生 日本一! 」という大目標のための、「英語が使える小学生」という小目標の設定は、明らかにアウトプットを前提としている。バトラー後藤裕子のいう「大量の良質なインプット」を中心にした小学生の英語教育の理念とは対立的である。

日本の小学校では、コミュニケーション重視ということで、クラスの子ども全員に発話させるなど、アウトプット中心の授業をしばしばみかける。発話させること自体は悪くないのだが、強制は好ましくない。十分なインプットのないままにアウトプットを急がせると、児童によっては、逆に英語を話すことへの抵抗感が増してしまうことがあるからだ。(p.175)

「オール・イングリッシュ」という愚挙

 さて、もう一つの問題である「オール・イングリッシュ」。
 こちらは、英語教育の早期化にくらべると、わかりやすく愚挙であるということができる。
 国民全体の教育の仕方として、それって意味あんの? 大間違いじゃね?
 バトラー後藤裕子は、大学レベルでは選択肢の一つとしてはありえるけども、あくまで選択肢の一つだし、初等・中等教育(高校が含まれている)では「導入は慎重にすべきである」(p.184)としている。ヨーロッパでの効果があがっているというデータなどについてもふれているが、それが日本ではいかに条件がちがうものかという指摘をしているのだ。
 バトラー後藤裕子は中国・韓国での実験を次のように総括している。

英語で教えることによって数学・科学の理解が不十分になるなど、デメリットの方が大きかったのである。(p.185)

 いやー、ホントに日本の高校でもう「英語を基本とする」授業ってやってんの? と思ったので文部科学省に問い合わせてみたけど、やっているっていうんだよね。ただし「指導要領は強制じゃないので…」と「君が代」「日の丸」のときはうってかわって、自信なさげだった。

 実際やっているところを見ると…

 うーん、俺もわからんわ(笑)。
 これ大変じゃね?
 「できるコ」は、いいよ。
 でも、そうじゃない子どもはどうなるんだ。


 現場はどうなっているのか。

「授業は英語で」の重圧感(高校教員から) - 希望の英語教育へ(江利川研究室ブログ) - Yahoo!ブログ 「授業は英語で」の重圧感(高校教員から) - 希望の英語教育へ(江利川研究室ブログ) - Yahoo!ブログ


 「オール・イングリッシュ」にすることを、しばしば「水泳でも畳の上で解説していてもダメだ。実際に水に放り投げてみないと泳げるようにならない」みたいにたとえる人がいる。
 その比喩は、そもそもおかしい。
 「畳の上で解説」するのは、英語を話さずに、「英語はこういうものらしい」と解説することにたとえられるのであって、日本語中心の授業であってもその中で英語を実際に読んだり、発話したりする場面があればそれは「水の中に入って泳いでいる」ことになるのだから。
 だいたい、その比喩でいっても、水に放り投げたら泳げるようになるやつは確かに一定数いるけど、泳げないやつは死ぬだろ。常識的に考えて。


 この辺のところは、新英語教育研究会が先述の要望書の中で次のように言っている。

 昨年4月から高校では「授業は英語で行うことを基本とする」の方針が実施され、生徒から「先生が何を言っているのかわからない!」といった声が多く寄せられています。こうした高校での検証も経ないまま、中学校においても「授業は英語によることを基本とする」方針を実施したらその傾向が増えるのではないかと心配します。「ベネッセ」調査では中学生がもっともわからないと回答しているのが「英文法」で、78.6%にも達しています。英文の基礎構造もわからないまま、教師が英語で説明を行っていったら「英語がわからない」、「英語が嫌い」がますます増えるばかりかと危惧します。また、高等学校においては「授業を英語で行うとともに言語活動を高度化」との方針が示されております。母語を外国語学習から排除するのは理論的にかつ実践的に誤りだと考えられるので、これらの方針は中止していただきたい。

http://www.shin-eiken.com/info/2014/20140803demandingpaper.html

 文部科学省の方針は、今後高校だけでなく、中学校から「オールイングリッシュ」をやるっていうのである。福岡市教委はこれを先取りして、実験校でおこない、さらに広げていこうとしている。やめてほしい…。

「教養としての英語」

 さて、最後に、英語教育はどうあるべきかを考えておく。
 英語を学ぶのは、英語を使えるようになるためだろ? というのは、いまや常識化しているといってもいい、中学校・高校における英語教育の目的論だろう。


 しかし、実際に学習指導要領ではどうなっているのか。

外国語科の目標は,コミュニケーション能力の基礎を養うことであり,次の三つを念頭に置くこととしている。

  • 外国語を通じて,言語や文化に対する理解を深める。
  • 外国語を通じて,積極的にコミュニケーションを図ろうとする態度の育成を図る。
  • 聞くこと,話すこと,読むこと,書くことなどのコミュニケーション能力の基礎を養う。
http://www.mext.go.jp/component/a_menu/education/micro_detail/__icsFiles/afieldfile/2011/01/05/1234912_010_1.pdf

 わかりにくいかもしれないが、英語を話したり読んだりできるようになる能力は3番目に書いてある。それ以外にもあるのだ。
 2番目は、まあ外国人とかに積極的に話しかけたりできるようなコになれよってこと。ガイジンがいたら「ノーイングリッシュ」とかいってどっかに消えちゃうんじゃなくて。
 1番目は、日本とは違う言語や文化があるんだなあと学ぶこと。


 もともと戦後教育のなかでは、1番目が重要だった。
 1951年の「学習指導要領外国語科英語編(試案)改訂版」にはこうある。

 以上の目標のすべてに浸透しているものは,生徒をして平和を愛する個人および公民に発達させるという目標である。言い換えれば,平和への愛なくしては,列挙したその他のいろいろな目標を達成することは不可能であろう。ゆえに平和のための教育は,英語教育課程をも含めた全教育計画の条件であり重要な部分である。
 生活様式・習慣および風俗に関する個人的ならびに国民的差異を理解しないでは,また自国のものとは異なる生活様式・歴史および文化をもつ人々に対して望ましい態度をもたないでは,生徒は寛容な世界的精神をもつ公民に成長することはできない。さらに生徒は,一般人類の福祉に寄与する公民に成長すべきである。さもなければ,外国語の習得もほとんど意義を有しないであろう。習得した技能はその目的を離れてはなんの意義も有しないのである。

http://www.nier.go.jp/yoshioka/cofs_new/s26jhl1/jp-chap1.htm

 戦争を反省した戦後教育は、英語を学ぶ意義を平和におき、平和の基礎として他国文化理解をおいたのである。
 いやもちろん、当時だって「多くの職業,特に商業は,英語を習得しないでは不可能であり,英語が重要な程度にまで世界の商業語となったので,英語は職業的能力に寄与することができる。」として英語教育の目標をすえていたので、使えるような英語にするという目的はあったんだけど、全体をよめば、戦後はいかにそれが文化理解に力点がおかれていたかがわかる。


 この議論は、「教養としての英語」対「実用としての英語」の議論に行き着く。
 財界は、これからはグローバル人材を育てないとダメだっていうんで、「実用としての英語」を学校でやらせようとしている。学校での英語教育の色彩はどんどんその色が濃くなっている。とくに、リスニングやスピーキングの比重が高まっている。


 しかし、しばしば言われるように、話し言葉も書き言葉も、自動翻訳の性能が高まれば、ますますそれに依存していくことが大きくなる。
 学校でやったほうがいいのは、むしろじっくりと文化理解・言語理解として英語を見つめることではないのか。文字で書かれたものを読んでいくという、従来の英語教育の延長線で差し支えないと思う。実用的にもインターネットの発達で、「文字を読む」ことのほうが実際に話すよりも実用性も高い。
 実用性が高い方がいいといって、数学の抽象的なものを教える時間を減らし、複利計算とか株の話とかに重点をおくようになるのは愚かしいとの同じである。


 そして、外国語を必修にするのはいいけども、英語を「原則」にするのではなく、それこそいろんな国の言語を扱えるようにした方がいいのではないか。