磯谷の絵柄は、『本屋の森のあかり』のときからすでに、おとぎ話じみていた。とくに、静謐な空間や夜の薄明かりの中で物語が進行しているイメージがある。だから現実の余計な夾雑物を捨象して、設定をピュアに楽しむにはもってこいのものだ。
ずっと後の時代。一人っ子が当たり前の世界となり、兄弟姉妹がいることはもはや遠い昔のおとぎ話でしかなくなった時代の物語である。
そのために、兄弟姉妹の存在は「気持ちの悪いもの」という差別の対象になっている。兄弟姉妹が存在することが知られれば、友だちが誰もいなくなる。
「イジスの話! あの子 弟がいるんだって!!」
「お 弟!?
うそ……
気持ち悪…!!」
いまの感覚でいえば、少し前の頃の「同性愛」を見るような視点だろうか。あるいは「兄弟姉妹で恋愛をしています」と告白するような感覚だろうか。
単行本のカバーには
「いつも気になる。触れてみたい。ずっとずっと一緒にいたい。
“誰かを想うこと”を描く、6つのストーリー」
そしてオビには、
「恋いこがれるって、どういうこと?」
とある。
禁忌を設定することでピュアな恋愛感情を浮かび上がらせる手法はとても古典的なものだけど、ここで浮かび上がってきているのは、必ずしも恋愛感情だけじゃない。
この6つの短編のうち、ぼくが興味をもったのは「#2」の「シックとアリーズ」である。
シックとアリーズはこの世界に生きる姉弟であり、姉弟であることを隠している。しかし、二人はきょうだいがいることを積極的に肯定するコミューンに属し、父親はそのコミューンの指導者である。弟のシックは父親に従い、きょうだいを肯定するビラまきや宣伝の活動を一般社会で行っている。姉であるアリーズはシックやコミューンとの関係を隠して一般の学校に通わせてもらっている。
父親の唱える教義は、きょうだいの肯定にとどまらない。
兄弟姉妹が積極的に愛し合うことまでを「自然な姿」として唱導しているのだ。
アリーズにシックというきょうだいがいることがバレ、アリーズが学校にいられなくなったとき、父親はシックに対してここでアリーズと関係をもって「つなぎとめてみろ」と要求する。つまり、セックスをして支配しろといっているのである。
アリーズに恋愛感情のようなものをもちはじめていたシックは、父親の要求を拒絶し、アリーズと駆け落ちしようとする。アリーズは、膝枕をしてシックの耳掃除をしたり「かわいい!」といって抱きしめるくせに、そして、父親の要求を拒んだ今、つかまれるのはシックしかいないといって、シックに深く依存するのに、シックにシックの気持ちには応えられないという。
「なんにもしないって約束するよ
恋愛じゃなくていいんだ
姉弟ですらなくたっていい
ただずっとふたりでいたいんだ」
そして二人は駆け落ちする。
「なんにもしない」ってことは、セックスしないってことだ。
恋愛でもない。姉弟ですらない。
あらゆる媒介を取り去ってもなお、無形容・無目的なまま、ただ二人でいたいという欲求。
そんなものあるわけないだろう。
自分がシックなら、アリーズに膝枕したり耳掃除してもらったり、体にふれていたりしたら、それはどうしてもセックスになるよ。
「いやそれは友情ですよ」――恋愛感情であるにもかかわらず成就しない感情を友情というのだと吉野朔実なら言うかもしれない。
もうそんなことを友情だと思い出したり、想像したりすることすらできない。
「だたずっとふたりでいたい」と想うだけの、どんだけピュアなんだという恋愛感情の表明。これこそ、現実にまみれていない、析出するに値する、創作としての透明感のある恋愛感情。
だけどぼくはそうは思わないんだよね。
たぶん、この後、旅先でシックとアリーズはどんどん親しくなっていって、どこかできっとやっちゃうんだよ。セックスしちゃうんだ。膝枕したり耳掃除したり体のどこかに触っているうちにセックスしちゃうんだよ。だから、シックの表明は方便のように聞こえる。今ここでアリーズを連れ出すための、その場しのぎのうそ。
だからかえってエロい。
思春期にさしかかった男女が、じゃれあっているうちに何だか恋愛だか性欲だかわからない感情がわきがってきて、結局セックスしてしまうみたいなシチュエーションを、もっと人為的に設定して蒸留している感じだ。
ハフハフしながら読む。
今、静かに萌えている。