阿部彩『子どもの貧困II 解決策を考える』


 この本は次のような動機で書かれている。

 筆者には苦い経験がある。財務省のおエラい方々を前に、「子どもの貧困」についての講演をさせていただく機会があった。私は切々と、いかに子どもの貧困が広がっており、いかに貧困の子どもがたいへんな状況にあるかを訴えた。しかし、私の長い訴えをじっと聞いていた一人の官僚に言われたのである。
「阿部さん、わかりました。では、何をすればよいのですか。具体的に、どのような政策を打てば子どもの貧困は解決するのですか。それがわかれば、私たちだってお金をつけますよ」
 その時、言葉が出なかった。それが今でも悔しくてたまらない。私がこの本を書く情熱の源は、この時の悔しさにある。
 残念ながら、五年たった今でもその問いに対する決定的な答えはない。
(本書「はじめに」iii)


 これは、ぼく自身も似たような経験がある。
 子どもの貧困に対する自治体の政策的対応をどうすればいいか尋ねられる機会があって、答えられなかったのである。
 「答えられない」というのは、この場合、「批判ばかりして対案がない」という意味とはちょっと違う。
 すぐさま児童扶養手当をはじめとする母子家庭への支援が思い出された。次に、教育の無償化や就学援助の充実などが思い出された。そのあと……と断片的な政策が次々に浮かんできた。
子どもの貧困II——解決策を考える (岩波新書) つまり一つは、これらは「子どもの貧困対策」という括りではなく、従来は別の括りをされていた政策であり、「他分野の施策に吸収されてしまうな…」という思いが頭をよぎったのである。もう一つは、「無料塾による落ちこぼれ防止」とか、「保育園を貧困の砦としていろんな機能を付与する」ということなど、「子どもの貧困の独自施策」っぽいものがいくつか浮かんできたのだが、部分的なものがいくつもありすぎて「これ」というふうに言えないことなのだ。
 まさに阿部の言うように「決定的な答え」がない。


 おそらく阿部が「言葉が出なかった」というのはこのような状況ではなかっただろうか。


 その答えを書きたくて本書を書いたというわけだ。本書のサブタイトルは「解決策を考える」である。ぼくもそれに惹かれて読んだ。

景気回復は貧困対策となり得るか

 第1章は「子どもの貧困の現状」で、これは阿部の前著『子どもの貧困』とダブる現状告発ではないのかと最初は思った。ただ、阿部は「新しい知見」も入れたから、といっている。
 基本的な事実として、「子どものうち6人に1人は(相対的)貧困だ」ということを押さえておくのは重要だろう。20人の保育園のクラスなら3人、小学校の35人のクラスなら5人か6人は貧困だということになる。


 第1章で重要だと思えたのは、「景気回復は貧困対策となり得るか」という章である。一般の格差と貧困が大きな問題となったとき、「成長があれば貧困は消える」という議論をする人もいた。いわばトリクルダウンである。
 阿部は先進諸国の30年でこの問題を検証したレーン・ケンワーシーの研究をひいて、それを否定した。単純にいえば「経済成長で自然に貧困が解決するわけではない」ということ。つまり、経済成長は大事な条件になるが、社会保障や再分配などの「回路」を用意しておかないと富は流れていかないということである。

学歴下降回避説

 第2章は「要因は何か」である。
 「要因」と思われるものを阿部は19あげている。そんなにたくさん!? 貧困はいろんなものがからみあって起きるのだからそれくらいは出るだろう。
 しかし阿部がそれらをすべて要因としてマジで考えているのかというと、データ的には疑わしい・立証されていないものもあげている。
 たとえば「認知能力の遺伝」。要するに「トンビがタカを産むか」という問題である。「○○ちゃんのお父さんは○○大学出身だから○○ちゃんも頭がいいはずだ」「低学歴の親をもつ子どもは低学歴になっても当たり前」という議論である。
 阿部は研究を根拠に「ある程度の相関はある」(p.53)としつつ、「影響は限定的」(同)だと述べる。その裏付けの一つは「双子の研究から得られる」(同)と阿部はのべる。生物学的遺伝ではなく、家庭環境などの社会経済的要因を親子が共有しているからだということだ。
 つまり、「○○ちゃんのお父さんは○○大学出身だから○○ちゃんも頭がいいはずだ」「低学歴の親をもつ子どもは低学歴になっても当たり前」はある程度いえることなのだが、それは「遺伝」ではなく、家庭環境のようなものが影響していて、言い換えれば外からの介入で改善できるということだ。
 「学歴下降回避説」という吉川徹の説も紹介される。


これは、親と子の両方において、親の学歴と同等かそれ以上の学歴を子が得るべきという考えに縛られ、親は自分と同じような学歴を子どもに与えようと躍起になり、子どものほうもそれに応えようとする努力をするというものである。(p.51)


 うーん、これは体感としてすごくよくわかるんだよね。
 ぼくら夫婦はどちらも大学を出ているが、娘の将来を語っている時に「大学進学」が無条件に前提とされていたりすることがある。小学校から引きこもるかもしれないし、高校の途中で漫画家になると言い出すかもしれないのに、である。


 こんなにたくさんの貧困への「経路」を示しながら、阿部には明確な答えがない。
 「なんだ、解はないのか」とがっかりしてほしくない、と阿部は言う。明確な経路を押さえることは時間がかかるし、たぶんできないだろう、でもやれることはできるだけやろうじゃないかと阿部は言う。


 ぼくは、貧困へいたる経路をこのように多様に示す、そのこと自体に大きな意義があると考える。湯浅誠は貧困の問題を「溜め」が失われていくものとしてとらえたが、自分を成り立たせているたくさんの、無数の、見える・見えない多様な支えが消える時に貧困が訪れる。「怠け者で働かないからお金がない」という貧困観とは大きく隔たっている。
 このような貧困理解があれば、おカネ以外の小さな、「え、こんなものも?」というようなことも支援になりうる。「無料塾」という支援の仕方はその一つだし、後でのべられるメンター・プログラムなどもこうした貧困への多様な回路を考えることをしなければ出てこない方策だろう。
 そして、貧困対策としておカネを渡すこと自体への理解も広がる。なぜなら、多様な要因に対処するためにいちいち小さなそして多様なプログラムを組むことは非効率であり、おカネという自由に使えるものがあってはじめてそれに対応できることがわかるからだ。

貧困対策の収益性

 第3章「政策を選択する」は、たくさんある政策の選択肢のなかから何を選ぶか、その基準についての議論である。
 ひとことでいえば、効果をどうはかるかという問題で、それを収益性の観点からみることを問題提起している。
 収益性というのは要するに人に投資するのだと考えて、貧困に陥って様々な政策コストを将来かけてしまうのか、それとも今の小さなコストで貧困から抜けだして将来働いて税金を納めて……という形で収益をもたらすのか、金額によって一目瞭然に示そうというわけだ。
 アメリカではプログラムごとに費用対効果を明確にする考えが発達していて、費用1000ドルに対して、「ペリー・スクール」というプログラムは3822ドルの収益を生む、というような具合である。


 こういうアメリカ流の数字の出し方は、どうもうさん臭さがつきまとうんだけど、それは不当な先入観だろう。
 たしかに、スマートなんだよね。貧困対策に反対する人々へ反論するときに。「生活保護母子加算の増額がダメだって? いや1万円投じて30万円の収益があるんですよ。断然おトクでしょ?」てな具合に。

普遍主義か選別主義か

 第4章は「対象者を選択する」。
 つまり、選別主義か普遍主義かの争いである。
 選別主義というのは、貧困になったその人だけにむけて政策を行なうというもの。たとえば一定の所得以下の母子家庭に児童扶養手当を出すのは選別主義である。
 これに対して普遍主義は、金持ちでも貧乏人でも、すべての子どもを対象に施策を行なうこと。前の「子ども手当」「高校無償化」がまさにこれだった。


 貧困対策といえば選別主義しか頭にない人は、普遍主義がまったく理解できないかもしれない。普遍主義のわかりやすい例は、義務教育である。小中学校は無償であるが、金持ちまで無償にしてけしからん、という話は出てこない。社会生活を営むうえで必要不可欠であり、社会全体で支えるもの、という合意があるからであろう。


 阿部は、普遍主義と選別主義の国でどちらがよいかデータを紹介している。1980年代くらいまでは普遍主義の方が効果があったというデータ(選別主義のパラドクス)になっているが、その後はあまり差がない。


 結局のところ、貧困削減に有効であるかどうかにいちばん効いてくるのは、再分配のパイの大きさであって、普遍主義か選別主義かという違いではなさそうである。(p.112)

 面白かったのは、「ターゲティングが上手な国」として紹介されていたオーストラリア。「お金持ちが政府から給付をもらうなんて、トンデモナイ」という考え=「フェア・ゴー」という理念がある。
 しかし、それは「貧困層だけを狭く狭く狭くしぼりこむ」というのではなく、「金持ちだけを除外する」というやり方にしているのだという。日本の生活保護が、「その労力を他に使えよ…」というくらい馬鹿馬鹿しいミーンズテスト(資力調査)をやるのに対して、オーストラリアは「富裕層を除外する」という政策にしているので、ミーンズテストはそれほど厳格ではない。


 福岡市でも新年度から「生活保護ホットライン」というのを始める。
 ほう、生活保護が必要な人なのに保護が受けられていない人のためのものかと思ったがそうではない。それも含んでいるというのだが、同時に生活保護の不正受給やギャンブル・アルコールなどの生活の乱れを通報するしくみなのだ。
 生活保護を受けているのが誰かはわかっていないはずなのに、一体市民は何の根拠で「通報」するのか。膨大な労力をかけて相互監視社会をつくりだし、生活保護受給者への「二等市民化」を進める愚策である。

現金給付のメリット

 第5章は「現金給付を考える」だ。次章の「現物給付を考える」と対になっている。
 現金で渡すのか現物で渡すのかは論争的なテーマである。
 阿部が紹介しているように、「親に現金を渡してもパチンコで使ってしまう」的な俗論が支配する日本では、貧困対策としての現金給付への風当たりは強い。
 しかし、この章で阿部が明らかにしているのは、それでも現金給付は重要な利点があるということだ。
 さっきも述べたが、貧困にいたる回路が多様ななかで、それに対応する現物給付のプログラムを無数に組むことは不可能であり、非効率である。

その点、色のついていない現金給付は魅力的である。それぞれの家庭において、今いちばん必要だと思われるものにお金を使うことが可能だからである。それが、育ち盛りのお兄ちゃんのための一カ月に一回の焼き肉デーであっても、サッカーやピアノのレッスン費であっても、母親が夜の仕事をひとつ減らすことであっても、現金であればこそ、それぞれの家庭の事情にあった使い方が可能となる。(p.140)


 阿部は100%の政策効果を期待するな、と牽制する。
 早い話が、そりゃ不心得なやつだっているだろ、でも、多くの世帯はそれがあるだけで自由で多様な「貧困対策」を各家庭でやれるんだぜ、そっちの方が大きいだろ、と言っているのである。

 
ぼくはつい現金給付についてひるみがちであった。
 たとえば子ども手当(現在は児童手当)。「まあ現金とかよりも保育園の充実とかの方がいいですよね」というふうになりがちだったわけだけど、阿部の本書を読んでもっと正面から現金給付の意義について考えるべきだったと反省をした。

メンター・プログラム

 そして第6章は「現物(サービス)給付を考える」。
 この章で注目したのは「メンター・プログラム」。
 つまり、子どもの時期から「信頼できる相談相手」というのを意識的につくって、その子どもを意識的に気にかけてあげつつ、遊びや勉強の相手になってあげるというようなサービスのイメージである。
 阿部は、まずこれを「居場所」づくりの事業として提起している。
 たとえば、福岡市には地域に児童館がないから、中高生は放課後に居場所がない。部活動というのがあるが、その資力のない貧困世帯は排除されかねない。


 阿部は、中高生や中退者・不登校の子どもたちが集まれる居場所づくりの必要性を説くが、それは児童館・図書館・公民館で来るのを待っているようなものでは成功しないんじゃないかと心配する。

アメリカにおいては、通ってくる子どもに金銭的インセンティブを与える実験プログラムもあるが、そこまであからさまな手法はともかく、子どもたちが魅力に感じるゲームがある、食事が提供される、一対一でケアしてくれる人がいるなどの工夫は必要であろう。(p.174)


 ぼくはこれを読んで、自分がいる左翼組織、その若者グループ組織のことを思い出した。「あ、いい線いってんじゃん」と。
 なんか食べられる。相談相手になるお兄さん、お姉さんがいる。たまり場に、マンガが山のようにおいてある(笑)。ときどき勉強したり、ワークショップをしたりする。ぼくが出入りしている、サヨ系ユース組織はそんな感じである。

「子どもの貧困対策」という枠組みに変える

 第7章は「教育と就労」。
 ここで注目したのは、「義務教育の完全無償化」だった。
 義務教育は無償というのが建前であるが、それは「授業料」だけのことで、実際にはなんやかやとお金がかかる。それをフォローするのが「就学援助」だ。しかし、対象範囲が狭い上に、所得制限が厳しい。
 「就学援助の充実」ではなく、「義務教育の完全無償化」というふうに括られることで、まったく違ったものに見えてきた。


 そうなのだ。
 終章の「政策目標としての貧困削減」でも思ったことなのだが、たとえば「就学援助の充実」とか「給食費の無償化」という個別課題の方が一つひとつを前進させやすいように一見思える。
 しかし、行政や保守系の議員、それを支えている支持層の反対を押し切って説得をさせるうえでは、「就学援助の充実」とか「給食費の無償化」という個別テーマの方がむしろ困難である。
 今回「子どもの貧困対策法」が出来てその具体化をする大綱づくりが始まったように、「子どもの貧困をなくすための計画」という括りをすることで、「就学援助の充実」とか「給食費の無償化」はたとえば「義務教育の無償化」というちがったカテゴリーに位置づけられることになる。


 ぼくは率直にいって、「子どもの貧困対策法」が死文化させられる危惧をもっている。「子ども・被災者支援法」がほとんど具体化されていないように。
 その動きを警戒しつつ、ぼくは国待ちにならずに個別の自治体でも同じような条例をつくって、自治体ごとに子どもの貧困の削減にとりくむ計画をつくるべきではないかと思う。


 というような感じで、自治体ごとの施策をすすめようという刺激になった。自治体への運動にかかわっている人は読むべし。