竹内文香『カテメン』


カテメン 1 (マーガレットコミックス) 表題の「カテメン」とは、「家庭メンター」の略で、生徒がかかえる主に人間関係上のさまざまな問題をいっしょに解決していくための助言者、つうかコーチみたいな人のことである。
「人のことである」なんつって今書いたけど、もちろん架空の職業である。
 勉強を個人的にみてくれる家庭教師のように、人間関係やコミュニケーションの悩みをまるで家庭教師のように個人レッスン・個人コーチをしていっしょに解決してくれるのである。


 学校は本来的に教科教育をする場所であるという建前に立てば、教科教育をしてくれる専門家=家庭教師がいて当たり前なのだが、実際には学校は人間関係の牢獄であり、コミュニケーションの地獄でもある。そんな複雑きわまる場所に、子どもは放り込まれる。じゃあ、教科教育だけじゃなくて、人間関係のレッスンをしてくれる専門家がいたっていいじゃねーの、というのがたぶん発想の出発にはあるんだろう。きわめてまっとうな感覚だ。


 学校ほど人間関係が複雑なところは、大人になってからのコミュニティ(職場など)には実はあまりないのだと鈴木翔が『教室内カースト』のなかで書いていたが、うん、確かにそうかもしれんね、と思う。


 学校で人間関係についても解決にあたってくれるとおぼしき唯一の専門家は教師だけなのだが、教師がすべてすぐれているわけでもない。ひどいのに当たってしまうことだってある。
 本来、複数いる教師集団によって、「はずれ教師」から逃れて別の教師に相談することもできるのだろうが、それがさらに機能しないというので、スクールカウンセラーのような新たな役職が配置される。


 しかし、そうした人々も、一人の人間をつきっきりでみてくれるわけではない。
 だとすれば、「カテメン」のような存在がいても全然不思議じゃないなと思わしめる。理想の存在。よく考えると、ドラえもんとかオバQってそういう機能をもっているのかと思う部分もあるけど、本作はもっと切実で、現実主義的で、テクニカルである。


 いま「テクニカル」って書いたけど、この作品はある意味でものすごく技術主義的な体裁をとってるといえるんだよな。
 1巻には2つのエピソードだけが載っている。
 一つは、対人恐怖症…というほどではないけど、人前ではあがってしまってうまくコミュニケーションをとれない高校1年女子が主人公。マスクをしていると表情をよみとられずにすむので、ものすごくうまくコミュニケーションがとれるようになり、マスクがどうしても外せなくなってしまう。マスク依存つうか、表情を隠したいという激しい欲求がある(「CASE1 マスク依存症」)。
 もう一つは、4人だったグループに1人押しの強い子が入ってきて、パワーバランスがくずれ、自分だけがいつも「余り者」みたいな境遇に押しやられてしまう悩みをかかえている、やはり女子高生が主人公。「いじめ」じゃないけど、人間関係の硬い力関係の中で身動きがとれずに苦しんでいる(「CASE2 補助席」)。


 こういう題材を、これまでの少女マンガのように、物語化して心の解放を描くのではなくて、「メンター」という一種の専門家を配置してそのコーチのもとに技術的に解決してしまうのである。
 たとえば「CASE2 補助席」では、メンターである進導(しんどう)が、主人公の女子・舞の悩みを聞いた後、バスに乗って人間観察に出かける。そこでさまざまな人間集団を観察させて、自分が最初に抱いていたイメージがいかに狭くて独り善がりなものであり、じっくりとした時間をかけた観察によって客観的な人間関係の分析ができるのだということをコーチするのである。
 まさに技術指導。
 そういう意味ではかたおかみさお『Good Job〜グッジョブ』によく似ている。


 だけど、『Good Job〜グッジョブ』ほどにはオトナではない
 というのは、用意されている結論の中に、変化球や逃避のようなものはなくて、現代の少女たちがもっている倫理世界におけるド真正面からの課題への格闘を要求するからである
 具体的に、どういうことか。


 たとえば、「CASE1 マスク依存症」。
 前に共産党の関連団体である民青の新聞(民青新聞)を読んでいたら、看護職場のキツさを書いた記事があって、そこで取材に答えている看護師の女性が、患者の前ではマスクを外せない、表情を読み取られて患者に負担をかけたりトラブル源にならないようにするために表情を隠すのだ、という旨のことを言っていた。仕事がキツいからこそマスクで表情の省力化をはかるというのだ。
 まあ、これ、すごくわかるよね。
 ぼくも花粉症なんだけど、マスクしているとコミュニケーションコストがかなり低減するからラクなんだもん。
 「だから、当面マスクして友だちに向かったら?」とは、このマンガは行ってくれないのである。
 主人公の楓(かえで)は、マスクがないと人と向き合えないことをものすごい病理のように描かれ、マスクをちょっととられただけで、自分のすべての価値を剥奪されたかのようなオニみたいな形相になっちゃうんだもん。
 メンターの進導は、さばけてるから、楓がマスクなくしてももってきてくれたよ。でも楓は泣きながらこう吐露するわけだよ。

マスクなしで 友達とおしゃべりがしたい
マスクなしで 友達とお昼を食べてみたい
マスクなしで 人と向き合いたい
マスクなしで


マスクなしで 自分に自信を持ちたい!

 マスクを外し、顔中涙にして感情を爆発させる楓。
 「本当の自分、真実の自分を、丸ごとすべて受け入れてもらいたい」という少女的な倫理がここには厳しく吹き付けている。厳しいんだけども、それを克服する姿は美しいものだとされる。

 「CASE2 補助席」は、さらに驚いた。
 自分が「余り者」としてバスの補助席のようなポジションに追いやられているという自己規定を、舞は持っている。
 最初に舞がとったのは、自分が補助席ポジションから自力で抜け出すという戦略。しかし、それは、誰かを補助席ポジションに追い落とすということに他ならない、というメンターからの批判をくらうのである。
 えーとね。
 古い世代の少女マンガであれば、4人グループの力関係を破壊した、現在グループ内で最も力をもっている新参者・美子(みこ)の支配をうちくだく「革命」をするか、こうしたパワーゲームがいかにくだらないか、悪態をついて離脱していく、というパターンになるはずだ。
 ところが、本書は意外にもそういう結論をとらなかった
 自分はいつでも補助席になってあげられる、という気遣いや優しさをもつことで、その共同体でかえがえのない役割を果たすべきなのだ、というオチなのである。
 スクールカースト的な秩序を否定するのではなく部分修正をかけて、その中でよりよく生きることを提唱しているようにぼくには思えた。
 ちょっとぼくはそこで戸惑ってしまった。
 え、いや…まあ…こういのもアリだよね…現実的っていうか…いやでも、それでいいのかよ…? みたいな。


 だからくだらないという作品じゃなくて、悩みの取りあげ方やその解決にいたるまでが現代的で、結論に納得しようがしまいが、面白い作品だと思った。
 2巻以降、単調にならないよう願うばかりである。