『40歳からはじめる健康学』『一生太らない体のつくり方』『40歳からの元気食「何を食べないか」』『「リスク」の食べ方』


 つれあいが、夜中にコーラ(キリンメッツコーラ)を飲んでいた。なんか、ぼくのつれあいはいつも夜中に何か食べているように書いているので、空前のデブのように思っている人もいるかもしれないが、中肉中背の女性である。食べたものが一体どうなっているのか不思議だ。
 それはさておき、ぼくが
「夜中にそんなもん飲んで。ブタへの道まっしぐらだな」
とからかうと、
「ヴァーカ。これみてみ。トクホだよトクホ」
と反撃された。うそだろうと思って、見て、吹いた。本当にこいつ、トクホだったのである。トクホとは特定保健用食品。まあ、これ、一般には「政府のお墨付きがある、体によさそうな食品」というイメージで流布されている。メッツコーラは、脂肪の吸収を抑えるということでトクホになっているそうだった。*1


 トクホを摂る、という「健康」のありように、ぼくはたえず貧しさを感じる。後から紹介する岩田健太郎『「リスク」の食べ方』ではどちらかといえば批判的にとりあつかわれ、島崎弘幸『40歳からはじめる健康学』ではやや肯定的に取り扱われる。
 健康をめぐる情報はぼくらのまわりに山のようにある。
 考えてみれば、ぼくは自分の身体について、実に非科学的な態度を長年とり続けてきた。


 社会については科学的なものの見方を身に付けたいと常々思っているけど、自分の体については長い間、科学的に取り扱うということを放置してきた。
 たとえば、前にぼくの目が「角膜びらん」というやつになって、目の表面が傷だらけになったことがある。治療を受けているときに、「目をきれいにしないとな」と思って、プールの後みたいに水で流していたことがある。目がちっともよくならないので、医者が不思議がっていたのだが、そういうことをしていると医者に告げたらしかられた。
「あのねえ。水道水っていうのは、雑菌がいっぱいいるんです。別にきれいなわけじゃないの。健康なときに飲む分にはいいけど、目みたいなデリケートな傷口をそれで洗っていたら逆効果だよ」
 これはほんの一例。
 食生活とかひどい。
 長い間事実上の独身生活がつづき、外食中心で、中身もアブラべっとり。全体はやせている感じなのに腹がぽっこりして、しかも中性脂肪や悪玉コレステロールの値が基準をこえるという状態が続いていた。
さらに。健康情報が超断片的・超聞きかじり。後でもいうけど、体系化された身体観のなかでこうした情報を扱わないと、とんでもない過剰摂取とか、必要な栄養をぜんぜんとらないことになっていたりとかするハメになるのである。


40歳からはじめる健康学 知っておきたい栄養の話 (平凡社新書) 40歳になると、身体的、とくに食生活において一つの転機がくると思っていた。20〜30代までの食生活を続けると自分の体がやばいことになる。それでこの機会に食生活を変えてみたいと思っていたのだが、そのためには、自分の体、というか主に食生活についてできうる限りトータルな科学観をつくりたいと考えた。
 それを数冊の新書を読んでやろうと決意した。根拠はとくにない。いや、だって、専門書をたくさん読む時間なんてないじゃないのさ。


 しかし、まあ、世の中の健康本というものを、専門家は相手にしていない。

専門家は「健康本」を「馬鹿馬鹿しい」と相手にしない傾向があります。…また、こういう本の欠点を一々指摘するのは大人げない、みっともないと考える人も多いようです。(岩田健太郎『「リスク」の食べ方』p.158)

 それなのに、新書を読んで科学的(食生活)健康観をつくりあげようなんていうのが、そもそも無謀なのかもしれない。
 玉石混交なのはよくわかっている。
 まあ、だから、ここに書いたことを読んでみて、いろんな人が反応をしめしてくれたらうれしいのだが。

 ぼくがとりあえず読んだというのは、次の3冊である。

  • 幕内秀夫『40歳からの元気食「何を食べないか」』(講談社プラスアルファ新書)
  • 島崎弘幸『40歳からはじめる健康学』(平凡社新書
  • 仲眞美子『一生太らない体のつくり方』(幻冬舎経営者新書)

一生太らない体のつくり方 (経営者新書) 岩田健太郎の『「リスク」の食べ方』(ちくま新書)は、まったく別の動機から読んだのだが、「『トクホ』を摂れば長生きできる?」「健康本に騙されない!」などの章立てが含んでいて、「科学的食生活観」の確立という問題意識にかみあうものだった。

近代科学の立場での島崎・仲

 島崎は生化学の研究者、仲は医者、幕内は管理栄養士である。
 体についての知見といっても領域は膨大なものだから、とても全部を知ったり理解するわけにはいかない。アウトラインであったとしても。
 ぼくが知りたいのは、40歳前後の食生活のあり方について。つまり、血糖や脂肪を中心にした知識とそれにかかわる食事のことについてである。
 この点で、島崎は肥満、血糖値、脂質、血圧、尿酸値などのしくみをとりあげて解説していて、3冊のなかでも一番網羅的なものだ(もちろん専門家からみれば笑い出すほどの量だろうが)。それでも読むのが骨だった。書き方が難しいのである。物語形式をとってやさしく読ませようというサービス精神はわかるのだが、全然それが効いていない。物語の途中で授業や講義形式がもちこまれ「だれも居眠りをせず、静かに聴いている。志摩は続けた」みたいな無意味きわまる一文が入って説明が続くのは勘弁してほしい。なんだこれ。学者にありがちな「わかりやすさ」。やさしいのは最初だけ。「やさしくするから」といってはじめておいて、結局痛いっていうアレ。「平易」に書く、という意味がわかっていない。女子大生や居酒屋を出したらそれで説明がわかりやすくなるわけじゃないんだよ。
 仲は、血糖と脂肪の関係に焦点をあて、男女での脂肪のつき方の根本的な違いを説明する。そのうえで、効果的なダイエットの方式を提案している。


 島崎と仲の著作を比べてみて思ったこと。頭のうえでは、島崎のような網羅的な本を欲しているはずなのだが、書き方の問題もあって、どうも頭には入ってこなかった。それに比べて、仲の書き方は、世の中で言われている断片的なダイエット情報から入って、それらが結局トータルな身体科学のうえではどこに位置づくものなのかを書いていて、こちらのほうが断然わかりやすかった。

 そして、書いてあることの中身では、仲と島崎ではニュアンスが違うこともあった。
 たとえば、中性脂肪の評価である。
 仲は

中性脂肪が増えることにより、過剰な脂質が血中にだぶついてしまい「高脂血症」のもとになります。(仲p.24)

と批判的にとりあつかうが、島崎は「中性脂肪は怖がらなくても大丈夫」という柱を立てて、一部の学会では「高脂血症」とはもはやいわない(脂質異常症)とか、検査の朝の食事で値が増えることがあるとか書いておきながら、脂質異常症が長く続くと動脈硬化になるとも書いていて、なぜ「怖がらなくても大丈夫」なのかよくわからないのである。中性脂肪ができるメカニズムなどはそう書いてあることにかわりはないのだが、評価を書き込む文章にニュアンスの違いがあって、それがシロウトが読む際にはかなり大きなイメージの違いを生むのだ。

保守主義としての幕内

40歳からの元気食「何を食べないか」-10分間体内革命 (講談社プラスアルファ新書) こうした近代科学や栄養学の立場に懐疑的なのは幕内である。
 彼のスタンスは次の言葉の要約されているように思う。

 科学を過信してはいけません。科学者はすべてを知っているような顔をしているかもしれませんが、じつのところ、人間が生きていくのに必要な栄養素が何種類あるのかすべて知っている人など、この世に一人もいないのです。しかも、正確にいえば、自分に必要な栄養素は日々変わるはずです。それを数字にすることなどできるはずがありません。
 もちろん、わかっていることもあります。人間が生きるためには、まず水が必要ですし、体を動かすエネルギー源としての糖質や、細胞の材料になるタンパク質も欠かせない。それ以外にも、ビタミン、マグネシウム、カルシウム、鉄分など、数え上げればキリがありません。
 おそらく、生命に欠かせない必衰栄養素の数は一〇〇ではきかないでしょう。しかし、その全体像は明らかになっていないのです。…
 いまのところ(なのか永遠になのかはわかりませんが)科学は万能ではありません。その、科学的合理主義だけでは割り切れない部分を補うのが、伝統的な食文化、私たちが長い年月をかけて培ってきた「知恵」でしょう。なにが含まれているのか科学的に分析はしていないけれど、長くそれを食べてきたら健康でいられた。それが科学的な知識とは違う、人類の知恵というものです。(幕内p.73)

 なにかすごく危険な反科学主義を主張しているようにも思うかもしれないが、まあちょっと待ってくれ。
 哲学的には、合理主義に対する保守主義フランス革命のような人間の合理による設計の危うさを批判し、人間が長く培ってきたもののなかに、合理ではとらえきれないうまくいくしくみが作用しているとする立場だ。
 マルクス主義はこの両者のアウフヘーベンであるように、マルキストたるぼくは、保守主義のなかに、くむべき要素があると感じている。幕内の主張もまたしかりである。

健康情報における合理主義一辺倒のあやうさ

 栄養にかんする情報というのは、「○○が体にいい」とか「○○は体に悪い」というような俗な情報がまず頭に浮かぶ。こういうのは、一片の真理を含んでいるわけだけど、たとえば「ヨーグルトは体にいい」といって、それがどういう条件のもとでどれくらい「体にいい」のかがわかっていないと、ヨーグルトばかり食べていて過剰摂取のような逆効果を生むことになる。つまりどれくらいの「大きさ」の情報なのか、受け取ったシロウトはよくわかっていないので、ものすごく極端な振れ幅を持ってしまうのである。
 それだけじゃなくて、幕内があきれているように、「体にいい」といわれていたものが、数年後とかに逆のものだったと否定されてしまうこともある。
 栄養に関するものだけでなく、たとえば中性脂肪コレステロールに関する知見のようなものだって正反対になってしまうこともありうる。
 なんという危険な話だ。ぼくらは専門家ではない。そういうシロウトがあやふやな「科学的知識」にたよって食生活設計をするわけにはいかない。

 だとすれば、「なんでもバランスよく」という一般的真理以上にもう少しふみこんだ食生活観を得ようとすれば、幕内が日本人の寿命の長さに着目し、日本の伝統的な食文化にたちもどれば長生きできるんじゃねーの? と主張していることに、ぼくは賛同する。具体的には「脂と砂糖をできるだけ追放し、ごはんを中心にした和食に切り替えろ」というものだ。
 「日本食により日本人の寿命が延びた」論については、岩田が本で批判しているのだが、うん、まあ「元禄時代の食事にしろ」とか「元禄時代の日本人が長生きだ」とかそういう主張をしなければ岩田の批判はあまり説得力がないと思うんだよね。欧米的な食生活の導入で改善された部分はもちろんあるわけだし、他にも医療の進歩もあるだろう。
 日本食で長生きする、という命題にしてしまうと確かに何が違う感じがする。

 島崎と仲と幕内(と岩田)の本を読んでぼくがたどりついた食生活は次のようなものだった。

「リスク」の食べ方: 食の安全・安心を考える (ちくま新書) 40代からの食生活は、アブラや砂糖をできるだけとらないことを意識したほうがよい。むろん完全追放しようとしたりするのはできないし、無理なので、あくまで「できるだけ」。島崎や仲のいうところに従い、血糖値の急上昇をおさえ、インシュリン出っ放しをおさえるために、平日の間食はなるべくしない。できれば土日におやつの楽しみはとっておくし、土日もできるだけおやつは食べない。
 幕内の言うように、ごはん中心の食事にする。まあ昼と夜はごはんが多かったのだが、朝食が決まってトーストだった。ごはんと納豆と味噌汁。ごはんがない時は、もち。野菜の入った味噌汁にもちを入れるだけ。いや、別にパンを完全排除したりはしない。毎日パン食だったのを週の半分かそれ以下にする、というくらい。
昼は、おにぎりに野菜。酢の物とか浅漬けのようなもの。
 夜は、肉より魚だが、魚はなかなか摂れない。幕内によれば寿司や刺身でもいいということなので、大いに活用する。しかし、肉も普通にたべる。仲によれば赤身の方がいいそうだから、アブラ分はできるだけ排除する。いや、アブラもそれなりに食べるけどね。
 仲によれば、食物繊維を先にとれば吸収が悪くなるので、太らない。だから、野菜→タンパク質→炭水化物の順でおおむね摂る。でも、おいしいごはんで食べたい、という食事もあるし、おいしくないのはだめだから、その順番はあまり厳格にしない。
 夜の食事は、副食をあまり考えていなかった。タンパク質やアブラが多いメインのおかずが過剰だったきらいがある。味噌汁に加えて副食に野菜を出すことをもう少し考える。

 結局この組み立ては、「伝統食を主張する幕内の考えを柱にしながら、近代栄養学の考えにもとづく島崎や仲の主張で補正する」というものになった。そんなに悪くないと思うがどうであろうか。

*1:むろん、つれあいはネタとして反論している。