架空インタビュー2.0 『一般意志2.0』ふたたび

 東浩紀が『一般意志2.0』についてインタビューを受けている。

「一般意志2.0」が橋下市長の“独裁”を止める?―現代思想家、東浩紀インタビュー(BLOGOS編集部) - BLOGOS(ブロゴス) 「一般意志2.0」が橋下市長の“独裁”を止める?―現代思想家、東浩紀インタビュー(BLOGOS編集部) - BLOGOS(ブロゴス)


 全体に「言い訳解説」的になっているのは、誤解というか攻撃というか、マイナスの風がものすごいから、一言言っとくか、という感じなのだろう。知らないけど。


 そのなかで明らかにぼくの記事に対する反論もある。

東浩紀『一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル』 - 紙屋研究所 東浩紀『一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル』 - 紙屋研究所

 「しょぼい」という批判にたいして「しょぼくない」と言ってるわけだが、「具体構想がしょぼい」といったのはぼくだから、ぼくの記事への批判だろう。違うの。
 んでもって、誰もインタビューしてくれないので、架空のインタビューをしてみた。


東の具体構想の二つの問題点

一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル――東さんが“しょぼいというが、お前の想像力が足りないんじゃねーの”と批判しています。


 東さんの構想の柱は、専門家や選良の熟議を、大衆の無意識で抑制するというものだったと思うんです。それ自体は「大事」だとぼくは書きました。一般的にいって、熟議が一部の人間のものでしかないのに、そこにたくさんの人がもっと低いハードルで参加して、日常的なダラダラした感覚をぶつける、それ自体はいいと思うんですね。
 ぼくが「しょぼい」といったのは、東さんのいう具体的な手だてでは、こういう目的をなかなか実現できないんじゃないかということなんです。


――東さんの具体構想は、国会審議の場に、ニコ生みたいなコメントの嵐やソーシャルグラフが現われる大画面をもうけて、国会の熟議を牽制・抑制するっていうことですよね。そこが問題ってことですか。


 はい。二つ問題があると思いますけど、ひとつは本当に熟議の抑制や牽制になるのかということです。もう一つは、現時点でこの技術構想ではおよそ「一般意志」とよべるほどの大衆の無意識を表現することにはならんのではないか、ということです。

二つの問題点その1 本当に熟議の抑制になるのか

――最初の点、「本当に熟議の抑制になるのか」という点ですが、なりませんか。


 あー、いや、もしそういう議会改革がなされるのなら、議会改革としてはぼくは支持しますから、あんまりムキになって「無意味だ無意味だ」と言い募る気はないんですが。
 議会改革の一つとしては支持するけど、それが大衆の無意識が熟議を抑制するという形で民主主義をバージョンアップするほどに変化をもたらすかどうかは、わからない。むしろ過剰に期待しすぎではないかなと思うのです。


――東さんは、“ツイッターフェイスブックが出てきたとき今みたいな革命性は想像もしなかっただろ。だから俺のいうことが今理解できなくても仕方ないんだ”と言っていますよ。


 東さんの構想が「未来のツイッター」なのか、そうでないのかは、今の時点で東さんがきちんと言語化して証明してくれないと同意しようがありません。自分の構想にツイッターとかネット動画が入っているからといって、それが無条件にツイッターイノベーションを起こすって思ってもらえると主張するのは虫がよすぎます。ぼくらは東さんをいつでもどこでも肯定してあげる「ファン」じゃないんですから。
 じゃあ、ぼくが今「ツイッターで世界を相手に弁当を売ると年商10億はいける」「弁当販売2.0」とかいったら「そんなわけないだろう」とか「それだけいわれてもよくわかんない」とかいう疑問が当然に出るでしょう。それに対してぼくが「ツイッターフェイスブックが出てきたとき今みたいな革命性は想像もしなかっただろ。だから俺のいうことが今理解できなくても仕方ないんだ」「いまの俺の主張が理解できない=ツイッターのすごさが理解できなかった10年前の人間状態」「弁当を店頭で売らないっていう構想が新しいんだ。しかし俺は弁当ビジネスマンではないから具体的な弁当ビジネスモデルは考えない」って言ったらものすごく無謀だと思うでしょ。
 東さんの構想に類似したものはすでに現実にいろいろあるので、それを解析して言語化し、提示してほしいんですよ。東さんは何か実験結果を一つくらい示して、「ほら、こんなに熟議を牽制しているよ」とかぼくらを説得すべきです。


――東さんの本では、クリストファー・アレグザンダーの「パターン・ランゲージ」が紹介されていますよ(p.158〜)。


 あれはわかりやすいですね。『一般意志2.0』をパラパラとめくっていたつれあいが「この図なに?」って聞いてきたので、「理性による道路や都市の設計じゃなくて、無意識に大衆が行動するパターンを地図におとして、それにそって、もしくはそれを避けて道路や都市をつくるっていう手法だよ」って、ぼくが東浩紀にかわって説明してあげたほどですよ(笑)。
 ただし、これは「無意識による理性への抑制」という発想そのものの説明ですから、「無意識による熟議への抑制」という具体モデルの説明ではありません。


――じゃあ、紙屋さんが「東さんは具体的モデルで説明してほしい」っておっしゃってるのは、それこそ具体的にはどういうことなんですか。


 津田大介さんの『情報の呼吸法』(朝日出版社)を読んでいたら、津田さん自身が被災地の支援のバスツアーをやる話が出て来て、「情報と人を結びつけて行動を起こす」という自分の構想に具体性を与えている。その具体例の検証がそのまま津田さんの構想を説明する論理になっている。だから読んでいる方は「なるほど」と思えます。そういうことを東さんもやってみてはどうかということです。
 たとえばですけど、実際に政治家を議論させてそれをニコ生の大画面の前でやってもらい、コメントを流すとか、「いいね!」ボタンを視聴者に押してもらうとか。んで、終わった後に、東さんが参加した政治家にインタビューして「緊張した」とか「あれは痛かった」「強いプレッシャーだった」とか語ってもらってそれをきちんと検証したら、すごい説得力だと思いますけどね。
 でも、今のところ、そうした類似例をみるかぎり、そんなに大きな抑制効果は期待できそうもない。ニコ生政治討論会はいろいろあるけども、それが大画面で、熟議に対してプレッシャーを与えるって恰好でやられているケースはぼくはほとんど知らないんですけど。

首相官邸の「オープン懇談会」はちがうの

――東さんはインタビューで「『ニコ生政治討論会の内容を政治に移す』という話じゃないんですよ。プラットフォームの変革の話なんです。政策論ではなく制度論」とおっしゃってますよ。


 サンドウィッチマンの富沢じゃないですけど、「ちょっと何言ってるかわかんない」。
 足りないぼくの頭で解釈するに、その東さんの言葉は、「政策を生み出す公式の熟議の場(プラットフォーム)への関与(公的な制度にするということ)でないとダメだ」という意味だと思うんですが、どういう場であれ、無意識が熟議への抑制になるかどうかが問題なんですからこの「反論」は反論になっていないでしょう。ニコ生政治討論会がそんなに大したことはないと思われているので、ニコ生を例に出されるのはまずいという思惑が働いたように見えますが。
官邸から見た原発事故の真実 これから始まる真の危機 (光文社新書) じゃあですね、こういう例はどうですか。田坂広志さんという原子力工学関係の学者で、内閣官房参与だった方がいますよね。あの方が、『官邸から見た原発事故の真実』(光文社新書)って本の中で、官邸の会議をネットを通じてオープンにして、国民が直接首相と懇談したということを「政府の在り方が大きく変わる」とおっしゃっていました。ツイッターを使って誰でも質問やコメントを自由に官邸に送れるようにしたそうです。
 田坂さんは、こういうものはツイッターによるアラブの民主革命に匹敵するような大革命を起こすぞ、って興奮されているわけですが、まあ、たとえばそういう具体例の解析が必要なんですよね。
http://nettv.gov-online.go.jp/prg/prg4972.html


――アラブの民主革命って、誰かさんのインタビューで聞いたような話の流れですね(笑)。でも、具体例、あるじゃないですか。その官邸の話は、けっこう画期的だったというわけでしょう。


 いやいや、実際にどれくらい効果があったのか、田坂さんの本を読んでもよくわからないですよ。民主党政権の「仕分け」がネット中継されたのが画期的と騒がれましたが、その後はしぼんでしまったでしょう。初期効果としてのインパクト以外に、制度としてのすごさが本当にあるかどうかは、よく見極めないといけないと思います。だから、よく検証してほしいんです。すでにいろんな方がこの「オープン懇談会」については話しているようですが。
http://blogs.itmedia.co.jp/mm21/2011/06/openkonc-3a06.html
 そもそも、もうそれくらいになると「大衆の無意識」「集団の無意識」ってレベルじゃないでしょ。つまり、懇談会に「ネット参加」して首相に「意見を述べる」っていうふうになるとね。
 熟議の一形態ですね。
 あるいは「朝生」でうしろにドシロウトの傍聴者がいて、ときどきコメントをいうっていう形あるんじゃないですか。あと、今でもNHKあたりでありますけど、視聴者のコメントが随時画面に流れてくるし、番組の途中でファックスやメールが読み上げられたりとか。
 そういう従来のものと東さんの言っている具体構想はどれくらい違うのか。「同じです」っていったら、新しいものを提起しているっていう東さんの立場なくなるでしょ(笑)。
 そして、それはもう「集団の無意識」とかいえるレベルじゃなくて、東さんが熟議に含めてしまっている「市民の明示的な意志表示」(p.117)じゃないのかとか、そういうことを考えちゃうわけですよね。
 そういうことが概念的に未分化です。

二つの問題点その2 一般意志といえるほどに大量のデータか

――「概念的に未分化」ですか。


 整理されてない。誤解が起きるのもむべなるかな、ですよ。それなのに“誤解されてはたまらない”と言うのはどうかと。
 最初にぼくは、東さんの具体構想は本当に熟議の抑制や牽制になるのかということとともに、現時点でこの技術構想ではおよそ「一般意志」とよべるほどの大衆の無意識を表現することにはならんのではないか、という懸念を表明したでしょ。


――そうでしたね。


 だってネットユーザーの中で国会や審議会の動画をみてコメントしたり、その行動がソーシャルグラフに反映する人って、本当にごく一部でしょ。そういうものは一般意志っていわないでしょう。特殊意志(個別の国民の意志)です。
 ぼくが「これじゃあ議会改革程度の話じゃん」と批判したら、東ファンと思しき人が「全然わかってない。議会改革レベルの話というのは一般意志ではない。特殊意志だ」とツイートしていました。まったくその通りなんですね。でもそれは残念ながらぼくにではなく、そのまま東さんに行ってしまうブーメランなんですけど(笑)。


――そういわれてみると、東さんの例に出したニコ生的なものは最初の「一般意志」のイメージからずいぶんかけ離れている気がしますね。


 東さんの例よりもはるかに「大衆の無意識」を体現しているものは、他にありますよね。
 たとえばいまの政治では、「マーケットの反応」というのを気にします。何かの政策を出すと、株価が反応したりしなかったりして、それが政治への牽制や抑制になりますよね。首相が記者にコメントを求められて、「マーケットはマーケット。粛々と改革を実行します」とか言って、たいていは動揺してないフリをしてますが。
 あるいは、たとえば個人消費が伸びないという統計は、「社会保障に不安がある」とか「国民の懐が温まっていない」とかいうメッセージとして受け取られます。この前そういうやりとりを民主党の岡田さんと共産党の志位さんが国会中継でやってましたよ。
 この種の経済行動は、まさに「無意識」です。個々人は政治へのメッセージをするつもりではなく、目の前のことを考えてやっているものですが、しかしそれはたしかに熟議を抑制したり牽制したりしていますよね。そして、莫大な国民がその経済行動には「参加」している。
 ニコ生的なものよりも、はるかに行動のハードルが低く、しかもはるかに大規模です。「ネットを使って国会中継みるのはごく一部」という批判に、東さんは「他の形態だって一部の国民しか参加していないぞ」と「反論」していますが、マーケットのようなものを想定したら、これは反論になっていないですね。
 東さんが新しいといってもち出しているものが、こういう従来からある「無意識」とどんなふうに違うのかがよくわからんのです。さっき言った通り概念的に未分化なんですね。


――そういうのは「単純な合計」、つまり東さんの言うところの「スカラーの和」であって、東さんが提唱している「ベクトルの和」ではないんじゃないんですか。


 個別の銘柄の株を売買するなんてそれこそいろんな思惑ですし、今年の消費を控えようという行動なんかはこれもいろんな動機や事情から出ていることでしょう。しかし、それが一つの統計になると、あたかも何か全体で意志を示したかのようなものになってしまうわけです。
 でも「マーケットも無意識だ」とかいったら、とくに目新しい主張ではないから、東さんとしては「マーケットは違うんだ」と言わざるをえないわけです。
 そして、もし東さんがそういう具体的な姿や技術について話したくないなら、「技術構想は誰か考えて」とかいう具合に、最初の構えを徹底して貫いておけばいいと思うんですが。ところが自分は技術屋ではないから技術構想はしないといいながら、ニコ生的な具体例を出してしまい、「しょぼい」といわれると今度はそれに噛み付いてしまうのはどうかと(笑)。


――あのニコ生的な話は、ちょっとしたたとえ話というか、東さんのなかでは軽いコーヒーブレイク程度の話題じゃないんですか。


 だから、それならぼくの批判もスルーすりゃいいじゃないですか。
 今年の1月6日付の日経新聞に東インタビューが載ってるんですが「IT使い政治開く」というタイトルで、大々的にお話になっていらっしゃるのが、このニコ生構想ですよ。

 政府内の様々な会議を生中継してしまうのはどうか。動画配信サイト「ニコニコ動画」の生放送番組のように、画面に視聴者からのコメントが流れるようにして、それを出席者たちが見ながら、会議を進める。


 画面には刻々と視聴者のコメントが流れるし、事後的にネット上で「炎上」するかもしれない。基本的には無視していい。コメントする人々には何らの決定権もないのだから。ただ意識せざるをえない。あるのとないのとでは、結論も微妙に変わってくるだろう。

 ITの仕組みを活用し、普通の市民がなにげなく発信する声を集め、精度が高い形で民意をみえるようにする。最終的には大衆の無意識を可視化することにつながる。

 もう真正面からコレですよ。だから、東さんの心の中では「なかなか気の効いたアイデア」だということになっているんじゃないですかね。

「ルソー」のいう「差異の和」とは

――熟議を完璧にするのが民主主義の理想ではない、ということをわかってもらうために民主主義の起源であるルソーをもち出して、ルソーでさえ熟議を懐疑しているとわかってもらいたかったんだから、単なるハクづけじゃないと東さんは憤ってます。

 本当にルソーの思想なのかどうなのかを争うのは馬鹿馬鹿しいですよ。実に。東さんの構想の核心部分である「大衆の無意識による熟議の抑制」という部分だけを論じた方がよくて、ルソーうんぬんにこだわっても何ら建設的な議論にはなりませんね。
 そもそも東さんはあの本の随所で、“これはルソーの拡大解釈だ”とか、“俺の解釈だとルソーの言ってることとは矛盾してきちゃうよな”とか(p.88)、言っていて、そこはツッコんでも本当に意味がないと思うんです。
 試しにつっこんでみましょうか。
 ルソーは、一般意志の内実について、人民の「共通の利益」なのだという簡潔な規定を与えています。個々人の利害の思惑では人々は絆を保てないから、共通の利害でもって結び合うんだと『社会契約論』第2編第1章の冒頭で言っています。
 東さんはこの定義を一応たどっていますが、それだと自分にとっては都合が悪いので、他をあたるんです(p.43)。自分の論立ての「足場」にならない。
 そして、『社会契約論』第2編第3章にあるくだんの箇所を使うんですね。


――「差異の和」のくだりですね。


 そうです。岩波文庫の桑原・前川訳の方で紹介します。

これらの特殊意志から、相殺しあう過不足をのぞくと、相違の総和として、一般意志がのこることになる。(岩波版p.47)

 この最後の部分「相違の総和として、一般意志がのこることになる」は、フランス語の原文では「reste pour somme des différences la volonté générale.」となるので、東訳よりも桑原・前川訳の方がいいと思いますね。
 この箇所の解釈は明快でして、個々人のさまざまな利害や思惑という「違い」の部分をぜんぶ足し合わせて、プラス・マイナスで相殺してしまうと、共通の利益部分だけが残る、という意味です。
 特殊意志、つまり個々人の利害や思惑を単純に積み重ねるだけでは、個々人の利害の集積にしかならないけども、過不足分を相殺するという算術操作をすると、それが「共通の利益」というものを残すことになるんだという意味ですよね。これは先ほどの「一般意志の内実=人々の共通利益」という解釈と整合的です。非常にわかりやすい。
 ところが東さんはこの部分を「差異の和が残るが、これが一般意志である」と訳しているために、あたかも共通部分ではなく差異部分が残っているかのような印象になってしまっています。そして、ルソーの時代にはまだ確立されていないベクトルやスカラーの話をもちだし、ルソーがここで数学的な概念を扱っているかのような話に仕立て上げています。逆に神秘化されてしまっているんですね。こうして東さんは「一般意志は数学的存在である」という命題を手に入れ、以後、原典のこの箇所に立ち戻ることはありません。その命題さえ手に入れれば、もう意味が東さんの都合のいいように変換されてしまっているので、原書に用はないんです。
 「一般意志は数学的存在である」というふうに命題化すると、ぐっとグーグル的なものに近づくでしょう?


――あっ、そうですね。しかし、原書の意味とはかなりはずれているような気がします。


 そうなんです。最初の「一般意志の内実は人々の共通利益だ」というルソーの定義は一体どうなってしまうのかなあと思います。
 このように東さんは、アクロバティックな解釈によって、他にも次々と原文を自分に利用しやすいように加工した命題に変えていきます。“一般意志はモノの秩序である”とか。
 でも、そういう厳密なテキスト解釈論争をやってもむなしい。“俺はルソーを自由に解釈しているだけだもん”ということですから。こういう「現代的利用」「拡大解釈」が許されるなら、ぼくだってマルクスの文章を使って「マルクスフェイスブックを原理的に予言していた」とか導けます。


――ホントですか。


 うそです。
 まあ、だから、少なくともぼくはこういうルソー解釈の部分には、かかずりあう気はないんです。知識もありませんし。あくまで「大衆の無意識によって熟議を抑制する」というしくみそのものの部分が有効かどうかに興味があるんです。
 そもそも「熟議への懐疑」っていう言い方だと熟議を基本としながらそれへ抑制や牽制をかけるっていう印象が生まれますが、東さんが熱心にあの本で書いているのは、「熟議じゃないものがルソーの思想の中心」っていうあたりでしょ。だから「ルソーの一般意志はグーグル的」という部分だけがものすごく印象に残って、東さんの言うところの「誤解」が広まったわけじゃないんですか。あの本の前半で東さんが熱心にやっているのは、いかにルソーがグーグル的アルゴリズムに似ているかという類似性の強調だと誰もが思ったはずです。
 熟議へ抑制をかけるものとしてルソーが一般意思を紹介していたというなら古典を蘇らせる意味があると思いますが、その部分はよくわからないというのではあまりルソーをもち出す意味はないんじゃないでしょうかね。

ルソーは熟議に懐疑を抱いていたのはホントだけど

――ルソーは実際に熟議への懐疑を抱いていたんでしょうか。


 それは間違いないでしょう。
 たとえば関曠野さんは『フクシマ以後』(青土社)のなかで2008年の文章としてルソー論を書いていますが、ルソーにおいては一般意志がどう生成するかを書いていて、

それは理性的討論によるものではない。……そうした諸個人の理性的討論なるものは特殊意志の総和に過ぎない。(関p.58)

としています。
 まあ、だからこそ、昔から言われていたわけで、「ルソーが熟議を懐疑していた」なんていうことだけが言いたいのであれば、東さんがわざわざ本を著して言うほどのことでもないわけです。実際、東さんの本にも出てきますが、こういうことにからんでハーバーマスとかはルソーを批判してますし。東さんにしてみれば、別の部分、つまり「一般意志ってグーグルに似てね?」っていう珍奇なアイデアを強調したいからルソーをもち出して本を書いたわけでしょ。


――なるほど。東さんは他にも“俺の構想の画期性がわからないなら、ツイッターによるアラブの民主化革命の意義とかわからんだろ”とおっしゃってますけど。


 まあ、この部分もどうでもいい話です。東日本震災でもそうでしたけど、情報がたちまち共有されて、信じられないくらいのスピードで行動が加速していきましたよね。アラブでツイッターが活躍したというのは、そういうことだと思っているんですけど。別に「無意識による熟議の抑制」という意味でツイッターが活躍したわけじゃないでしょう。ぼくの不見識かもしれませんけど。
 さっき紹介した内閣官房参与だった田坂さんも自著でアラブの民主化革命でのツイッターの役割について言及されてますけど、先進国での熟議の問題とはちゃんと区別されてますもんね。まさか東さんともあろう人が「ほら、ツイッターで革命とか起きたじゃん」という程度の認識で持論の補強をされているわけではないでしょう。
 だから、この点で東さんがアラブをもち出しておっしゃっていることがちょっとよくわからないですね。いやほんと、どうでもいいことですが。

日本の民主主義の機能不全は「違いのない二大政党制」だから

――なんか東批判ばかりで生産的ではありませんね。建設的な話はないんですか。


 もともとの学問的議論は別として、いまマスコミで「熟議」が話題になるのは、最初からイデオロギッシュな意図があります。
 二大政党制を前提にして、両者がよく話しあって一つの合意に達して政治を動かしていこうという含意で最近やたらに強調されているわけですよ。朝日新聞とかで(笑)。ところがそれが機能不全に陥っている、ということで慌て出した。


──しかし、民主主義の機能不全は先進各国共通だとも言われていますが。


 2月24日(2012年)付の日経新聞にスティーヴン・ヴォーゲルっていう学者が民主主義の機能不全問題をとりあげているんですが、彼は「確かに富裕な民主国家は、効果的な経済政策を必要とするこのときに、政治の失敗という共通の問題を抱えている」としつつ、「だが、この失敗の性質は国によって大きく異なると考えられる」と述べています。ヴォーゲルの言うとおり、国によって問題も処方箋も違うと思いますけどね。
 日本の場合、熟議が成り立たず二大政党の政治が機能不全に陥っているのは、熟議という問題じゃなくて、政策的に違いがないからでしょう。端的に言って。消費税でもTPPでも、財界と米国の枠組みを不動のものとするなら、出口はないですよ。ゆきづまっている同じ考えの人たちが熟議を重ねても何も出てきません。

「もっとシンプルにしよう」――定数削減と独裁の誘惑

 そこで、もっと意思決定をシンプルにすれば、機能不全の閉塞は打開できるんじゃないかということで、国会議員の定数をむちゃむちゃ削ろうとしています。しかし、これ、まるで逆ですよね。安定的に当選する二世のボンボンだけが残って、選挙に弱いけど面白い考えを持っている議員は消える。究極的には一人になればいいということで、橋下市長みたいな人がもてはやされるわけでしょう。でも橋下さんがどういうビジョンを持っているかわかっている人はあまりいないように、中身としては従来の政治の延長ですから、早晩大阪市ではゆきづまり、国会に行って時間をかせぐようなお茶を濁す話になるだけじゃないですか。
 二大政党制は小選挙区制度に支えられているわけですが、4割台の得票で7割の議席がたたき出せる制度です。

 つまり、民意とかけはなれた虚構が成り立ちやすい。「よりマシなこっちに入れとくか」というのでつくられた幻影の議席虚構の民意なんですから、政治を運営するうちに「この政治、オレの気持ちと全然違うぞ」ということになって当たり前なんですよ
 定数を削ったり、究極的に一人にゆだねるようにしてしまえば、この虚構は極限にまで達しますから、たとえば橋下さんが首相になったとして、最初は華々しくいろいろやっても、次第に「オレの気持ちと違うぞ」ってならざるをえないんです。
 ルソーが、人民の声を代表するというふれこみの中間団体のうち、その一つだけが「きわめて大きくなったら」どうなるか書いてますが、

これらの団体の一つが、きわめて大きくなって他のすべての団体を圧倒するようになると、その結果は、もはやさまざまのわずかな相違の総和ではなく、たった一つの相違だけがあることになる。そうなれば、もはや一般意志は存在せず、また優勢を占める意見は、特殊的な意見であるにすぎない。(岩波版p.48)

 つまり、独裁者が登場すると、そいつは人民の「共通の利益」の体現者じゃなくて、一つの「個々の利害」の代弁者になりさがる、って批判しているわけですね。
 二大政党制とか小泉・橋下劇場みたいなものは、いかにもあやういというわけです。



――池田信夫さんなんかは、東さんの『一般意志2.0』への書評で、「日本の民主主義は過剰だ」「日本に必要なのは独裁的な『立法者』だ」とおっしゃっています


 理想は北朝鮮ですねわかります。
 その理屈だと、ああいう国ほどスピード感をもった迅速果断な対応が可能だということになるわけですよね。

国会議員の定数を3倍に

――どうすればいいのでしょう。


 東さんが代議制と熟議を結局否定できず、むしろ肯定したように、熟議の柱をきちんと充実して、国民の意志が如実に反映するようにしたらいいんです。国会議員の定数を3倍、衆議院で1500人くらいにして全部比例代表にすればいいと思いますよ。
 そもそも人口比で見ても日本の国会議員数は少なすぎで、政党助成金を全廃すれば国会議員の歳費にして400人分くらいあるそうですから。


――世の中で言われていることと完全に逆ですね。そうするとどうなるんですか。


 いろんなアイデアをもった人が国会に出てきやすくなります。議席占有率でいうと民主と自民は自動的に激減します。それが一番シンプルな二大政党の機能不全を打開する道です。
 たとえば共産党みたいに空気を読めない、読まない議員が一人いるだけで議会が全然違ったりしますよね。


――「KYousantou」って文字通り「KY」政党ですからね。


 だれがうまいことを言えと(略)。
 この前、ある県の介護保険の広域連合議会の話を聞いたんですけどね、共産党以外、ほとんど誰も質問しない。住民負担やサービスの削減の問題をえんえんと質問している。究極のKYですよね。町内会レベルの会議だったら激怒されますよ。んで、そういう感覚で怒った保守系議員が「これからは質問は10分だけだ!」って制限かけようとしているそうです。怒り方が違うんですよね(笑)。
 まあ共産党でなくても無所属の名物議員とか、他の党の面白い議員なんていっぱいいるわけですが、そういう人が切り捨てられずにけっこう国会に出てくる。そうなると、閉塞の枠組みが崩れるんですよ。

イデアが多い方がグラデーションの政策が作りやすい

――不安定になって、何も決まらないということはないですか。それと政策の一貫性がなくなるんじゃないですか。


 さっきも言った通り、安定しないのは民意とかけはなれているからです。消費税増税法案に国民の過半数が反対なのに、国会で多数を占めているのは民主・自民といった増税派ばかり、という虚構性が「何をやってもうまくいかない」という状態をつくっているんですよ。
 原発だって同じです。民主と自民では「そのまま再稼働」派ばかりだから、まったく動かせられないんです。原発再稼働するにしても、いまみたいに事故前のトーンをちょっとゆるめるだけで再稼働できるかのような安全神話ボケしたような原発行政は変わらざるをえないですよ。
 いろんな小党がいろんな色合いの提案をおこなって、こまごました連立をやるんです。いまこれが少なすぎるんですね。政策の提案をのむ、のまないで、合従連衡の騒動を国民の前でやるわけです。


──うんざりしませんか。


 いえ、むしろ国民は政策論議がいろいろ楽しめて、しかも実効的なものができやすいと思いますよ。
 もし、たとえばいろんな色合いの中間派が合計で3分の1くらい議席をもっていたらどうなるか。たとえば「事故調の調査がすべて終了し、そこで提起された措置を全部講じるのが終わるのが確認できてから再稼働を問う」「そのさいに、立地自治体と周辺自治体の住民投票で3分の2をこえたときに再稼働の同意とする」「原子炉に10くらい等級をつけて、上の方から3つくらいの等級しか動かさない」「世界平均の20年で廃炉にする」とかいう中間的な再稼働提案になるでしょ。そしたら、再稼働にむけて国民の気持ちも動くかもしれないんですよ。国民に気持ちがよりそった色合いがぐっと出た方が話が早いんです。いえ、別にぼくは再稼働しろといっているわけじゃないんですが(笑)。
 それから一貫性のことですが、世の中、社会というものは、多様な意見があっちにいったりこっちにいったりしてジグザグを描きながら動いているわけで、「透徹した理性的な存在」が「一貫した政策」をやっていたらおかしいですよ。まちがったものを一貫してやることほど始末におえないものはないですね。それこそ危険な独裁国家です。
 日本みたいな「あいまいな国」では、こういう政策をグラデーションにして、民意が吸収しやすくしておいたほうがいいし、政策決定も一貫したすっぱりさではなくて、いろんなニュアンスを残せるようにやや「あいまい」にしたほうがいいんじゃないですかね。


──プレイヤーが多いですね。


 そうそうプレイヤー。
 テレビタレントをみて、視聴者はタレントが代表している個性に感情移入するでしょ。オセロ中島の事件なら、おれの身近でもハマったヤツいるな、とか。沢尻エリカみたいなやつは職場のアイツだよな、とか、雅子妃はアタシみたい、とか。
 そういうときに、画面にキムタクと前田敦子しかいなかったら、いくら豪華スターでも気持ちを託しようがないでしょ。


──たとえがひどい。


 田中邦衛みたいな役で表現してほしい気持ちがあるのに、それをAKB48のメンバーに頼むわけにはいかない。
 そういうものがバリエーションに富んでいた方が、民意を反映しやすいですね。


──党議拘束をはずせばいいんじゃないですか。


 他国で例がないわけじゃないですが、近代政党としては困難だと思いますし、何よりも自民党民主党ではいくら党議拘束をはずしても、政策的出口はそんなにバリエーションないですよ。だから小党分立の多党制でプレイヤーを増やした方がいいんです。


関のルソー研究の結論が「比例代表・小党分立の多党制」

 そして、こういう「比例代表または大選挙区制による小党が分立した多党制」というのは、さっき述べた関曠野さんのルソー研究の結果出された、現状での「最善」の結論なんです。


――えっ、そうなんですか。


フクシマ以後 エネルギー・通貨・主権 関さんによれば、一般意志が常に正しいのは、主権者が決めたことは主権者に跳ね返るというしくみのもとでは、決定の一般性が保証されている、とルソーは考えました。しかし、間に執行者として政府が入ってくると、その政府が権限を濫用して悪さをする。そこで、政府との関係で不断に緊張をもつために、人々が定期的に公然と人民集会を開いて一般意志を表すんだ、とルソーは考えたのです。
 そしてそこからがルソーではなく関さんの結論なんですが、選挙制度と議会を、無数の人民による意志が集まる人民集会に近いものにしていけ、というわけです。
 人民集会については、ルソーはローマの民会をイメージしているんですが、演説して議決の投票をするだけ。理性的討論のイメージじゃないんですね。

東は「人民集会としてのニコ生」を打ち出すべきだった

 東さんは『一般意志2.0』でむしろこの人民集会をもっとクローズアップさせた方が良かった。民集会というのは、政府への抑制というか、緊張を生み出す源ですから。ルソーは政府が勝手な行動をして主権者の意志をないがしろにしまう危険をふりかえり、ならば「主権はどうして維持されるか」という問題をたてて(第3編第12章)その箇所でこういってます。

主権者は、立法権以外のなんらの力ももたないので、法によってしか行動できない。しかも、法は一般意志の正当な働きに他ならないから、人民は集会したときにだけ、主権者として行動しうるであろう。(岩波版p.127)

 ルソーは熟議への抑制じゃなくて、政府への抑制として人民集会を考えていたんです。
 だから、関さんは抑制をきかせる人民集会として、現代ではデモや集会やストライキみたいなこともいいはずだといっているんですが、その一形態としてぼくは東さんの「ニコ生」的なものもアリかな、と言いたいですね。それは最初に言った通りです。議会改革あるいは行政監視の一環としてそういうものはアリだと思います。まあ、ネットよりも議会のリアル傍聴者をふやしたり、傍聴者が質問できるようにした方がはるかに簡単だろうと思いますけどね。いまでも議会傍聴なんかは人数がものすごく限られるうえに、なにか発言したらつまみ出される世界ですから。いずれにせよ「人民集会としてのニコ生を!」というのは東さんのポジションとしてはとても口にできないことなんでしょうね。不自由なお立場で気の毒です。
 ただ、ぼくとしてはそれ以上に、議員そのものが大量になって、議会が人民集会的なものになったほうがなお効果的だろうと思います。



――だから、小党分立による多党制なわけですね。しかし、ルソーのモデルなので熟議は出てきませんよね。


 そりゃそうです。
 たしかに関さんは熟議のモデルとしてルソーや小党分立をもち出しているわけではないんです。
 しかし、一般意志ができるだけ理性的で公正であるためには、ルソーは「人民の意志が一人一党と言えるほどに多様に細分化していて党派形成の余地がないことである」(関p.58)と考えました。「その場合は意見の断片化に反比例して到達された決定が一般的な性格を持つ可能性が高まり、党派の意志が一般意志を僭称する危険が少なくなる(だから二大政党制は最悪の特殊意志の支配であろう)」(同前)というわけです。
 これは東さんがスコット・ペイジの「多様性予測原理」をもち出していることに似ていますね。それは熟議にとってもよいベースになるはずです。


――きれいにまとめましたね。


 なんだと。お前。この。(インタビュアーの首をしめる)