篠原ウミハル『図書館の主』

モジャ公』を与える

藤子・F・不二雄大全集 モジャ公 (藤子・F・不二雄大全集 第3期) 4歳の娘に「マンガの英才教育」を施そうと、全集版で出た藤子・F・不二雄の『モジャ公』を買い与えた。この寒いのに、「早くフロに入りなさい」という親の忠告もそっちのけで、脱衣場で裸になったまま『モジャ公』を広げて読みふけっている。
 母親であるつれあいは、マンガに夢中になる娘にイヤな顔である。絵本を読まなくなったらどうしよう、というわけだ。


 そういえば、保育園の先生たちはどう思うんだろう、と考えた。
 連絡ノートに「昨日、娘にYouTubeSMAPの『ベスト・フレンド』を聴かせていると…」と書くと「電子音はまだ早いので、大きくなってからの楽しみにとっておきましょう」と書いてくるほど、「発達段階にふさわしい保育」への強烈なこだわりがある。もちろんわが娘の担任だけでなく、園全体の方針だ。
 「文集ではテレビやアニメキャラクターの話題は書かないでください」とか「歯ブラシやコップにはキャラクターものは避けてください」などという指示が出る有様である!
 意地の悪いぼくは「もともと『アンパンマン』は、やなせたかしの素朴なただの絵本だったではないか」とか「『ぐりとぐら』はキャラクターか」「『ばばばあちゃん』や『ババール』や『バーバパパ』や『11ぴきのねこ』はキャラクターか」などと考えてしまう。


 マンガと絵本の境目はどこにあり、どのようなマンガはよくて、どのような絵本はよい、というのだろうか。

 ぼくは保育の専門家ではない。だから、保育園の先生たちの言うことは、保育に関しては、いくばくか(というレベルを超えていることが多いが)杓子定規であっても、「専門家の判断だ」ということで基本的に従っている。じっさい、親の方が「先生たちは硬直しているなあ」と思っていることでも、従っているうちに「なるほど」と思えることもある。まあ、きちんと説明責任を果たしてほしいとは思うけど、そのあたりは、綱引きである。


 であるにしても、『モジャ公』を読ませているといったら、何というのか。「ブラックだからやめてください」というのか「まだマンガは早い」というのか「すばらしいですね。次は『エスパー魔美』ですね!」というのか。


 子どもにとっての「楽しさ」を専門家はどう判断するのか。

平凡な絵本

図書館の主 1 (芳文社コミックス) 本屋や図書館にかかわるマンガは最近ふえてきたが、篠原ウミハル『図書館の主』がいっぷう変わっているのは、「児童図書館」という限定された図書館の話だからである。しかも公立の図書館ではなく、オーナーが自分のためにつくらせた私設図書館(タチアオイ児童図書館)だというさらにかわった設定をもっている。


 御子柴という、メガネでドライな、キノコ頭の司書が仕切っている。御子柴は児童図書の真理を体現した存在である。彼のつっけんどんな解説が、毎回子どもの本に隠された人生の真実をあばきだす役割を果たしている。


 ぼくが面白いなと思ったのは、2巻の第17話「はじめの一歩」で絵本作家になりたいという書店員・伊崎が絵本の習作をタチアオイ児童図書館にいろいろと描いてもってくる話であった。
 図書館スタッフたちの、伊崎の絵本への感想をみれば、だいたいわかる。

つまんない
どっかで見た話
ワクワクしない
盛り上がりがない
総括「おもしろくない」

絵はすごく可愛いと思うんです!
絵は!

「大好きなおばあちゃんが入院している間の孫の気持ち」
…ってテーマはいいと思うんだけど
共感以上のものがないのよねー
なんてゆーか…
井崎くんらしさがもっとほしいってゆーか

 なんてゆーか、「ヒマなので絵本でも描いてイッパツあててやろう。絵本なんてホイホイのホイってできるよね!」みたいな、「余技としての絵本作家」的手軽さで描かれた絵本を想像してしまう。みなくてもいかに「ありがち」か想像できてしまうのがすごい。

子どもに読み聞かせてみる

 発言において容赦がない御子柴も、伊崎の絵本を読む。
 しかし、御子柴は感想をあえてのべず、

…あれ
今からやるおはなし会で
子どもに読んでみろ

と伊崎に提案する。子どもの感想を聞けるめったにないチャンスだと言われ、勇気を出して伊崎は話し始める。
 冒頭で、おばあちゃんと、おばあちゃんを大好きなマーくんを登場させたものの、おばあちゃんが病気で入院してしまったと告げたとたんにブーイングが出る。さらに、ヒーローが出てきて悪いやつをやっつける話がいいなどと混乱させる意見をいう男児が現われる始末。
 狼狽する伊崎。別の女児が男児を静止しながらも、「おばあちゃん助けないと!」と、なんだか男児と似たようなことを叫ぶ。
 伊崎の中で何かが弾ける。

…………
そう…
悪いやつがいてな
そいつがおばあちゃんを病気にしてしまったんだ
その名も悪キノコ!!

 即座にスケッチブックに「悪キノコ」を描いてみる伊崎。子どもたちの反応に次第に興がのってきた伊崎は、「悪キノコ」がいかにおばあちゃん以外にも世の中に悪いことをしているかを列挙していく。
 次の展開を輝いた目で待ち続ける子どもたちを前に、伊崎は押し出されるように、「マーくん」に「悪キノコやっつけ隊」を編成させてしまうのである。話をさらに展開させながら、伊崎は心のなかでつぶやく。

――
俺のつくった話には
キノコなんてでてこない
マーくんは
ただおばあちゃんとの思い出にひたって
帰りを待つだけだ
きっとそれじゃ
この子たちはこんな顔をしない


ページをめくるたび
次はどんな絵が出てくるのか
ドキドキして
ワクワクして


そうだあの感じ

 伊崎は自分が心をときめかせた絵本に出会ったときの感覚を思い出す。はたと思い立った伊崎は「続きはまた来週!!」と大声で叫んで、出ていってしまう。そうして、伊崎はわずか1週間ののちに、この物語を完成させて再び図書館にやってくるのである。
 本業の仕事もおろそかにするほど徹夜でのめりこみ、つくった「悪キノコ」のお話は「みんなでそれを食べてしまいました!」というブラックなラストで終わる。しかし、子どもたちは大喜びである。

「ねぇ もっかいよんで!」
「面白かった!」

 絵本作家としてこれほどの冥利はないであろう。
 伊崎は、

…うん 俺も…
俺も たのしかった…

とつぶやく。
 ここには絵本というものの原初的な楽しさがある。ときどきぼくが娘に読んでやる絵本のなかで、「どうしてこんな奇妙な展開になっているのだろう」と思う絵本は決して少なくない。しかし、もしもこんなふうに絵本が出来上がっているのだと仮定してみれば、その奇妙さも合点がいく。

『いやいやえん』の奇妙さに思いを馳せる

いやいやえん―童話 (福音館創作童話シリーズ) たとえば『いやいやえん』(中川李枝子・作、大村百合子・絵)の展開の「奇妙」さは印象に残る。
 主人公のしげるが通う「ちゅーりっぷほいくえん」には70ものきまりがあり、しげるがそれを今日は17もやぶったなどという話からはじまる。その破ったルールがすべて事細かに書いてあるのだ。それで終わり。オチがとくにあるわけではない。一体なんなのか、と思ってしまう。
 次の話の「くじらとり」は、「ちゅーりっぷほいくえん」の積み木で捕鯨の船を子どもたちがつくるところから話がはじまり、その船に乗れる子ども、乗れない子ども、何を乗せるか、乗せないか、ということが細かく描かれる。やがて航海に出るのだが、本当に海原が広がっているような描写になり、現実と空想の境目があいまいになっていく。鯨を捕獲したあと、鯨はなぜか笑っている。最後は園にもどって鯨は花輪をかぶり、みんなといっしょに記念写真をとっている。そこに合理的な説明があるわけでもないし、鯨がキャラクターづけされているわけでもない。まるで、昨日見た夢であるかのように、一つひとつの筋の流れにきちんとした説明がない。
 しかし、その論理の飛躍や展開は、うちの娘がつくった「お話」のトーンにどことなく似ていて、関心のあることだけが非論理的にクローズアップされているのである。


 このように、このマンガは、児童図書がもっているある種のあたたかさ、鋭さ、えげつなさ、楽しさをモチーフにしながら、あるときは子どもの世界に、あるときは大人の世界に斬り込んでいく。
 だからどういう年齢層が読んでもおそらく楽しめるとは思うのだが、やはり児童書にどう向き合うのかという話が多く、いま子育て真っ最中のぼくのような世代にはとくに感じるところのある作品ではなかろうか。