東浩紀『一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル』

 「オルタ」という雑誌で東浩紀の「民主主義2.0」について書いたことがある(2009年11-12月号「メディアから時代を読む #9」)。
 そのときまだ茫洋としていた問題について、ぼくは批判や疑問を書き連ねたが、定義づけや具体案をふくめ、これらのぼやけていたものは東の近著『一般意志2.0』で一定の輪郭を与えられることになった。


 先にぼく流にざっくりと中身をまとめてみよう。


  1. ルソーの「一般意志」は、あるアルゴリズムにしたがって生まれてくるグーグルのページランクみたいなもので、人々の無意識のデータベース*1から抽出されてくる数学的な結論のようなものである。*2
  2. しかしそのような一般意志は大衆の欲望の集積であり(グーグル型民主主義)、それで政治を運営するのは危険。専門家や政治家たちの熟議(ミクシィ型民主主義)と相補的に用いるべき。民主主義2.0(=ツイッター型民主主義=グーグル型民主主義+ミクシィ型民主主義)。
  3. 具体的には、議会・審議会など熟議の場に、ニコ生(ニコニコ生放送)みたいにコメントやそれを数値化・グラフ化したものを流して、熟議にプレッシャーを与え抑制する。
  4. そもそも未来社会では、国家はセキュリティ部分(治安+生存的基礎給付)で動物的な生の安全のみを保障する最小のものにとどまり、それ以外の広大な領域は私的領域として市場に委ねられ、国家は口出ししない。国家部分は効率的な資源配分をするだけの、まるで水道のインフラのような、日常あまり関心の向けられぬ、純技術問題領域となる。


 「オルタ」連載でぼくが批判した段階では、東の構想は「グールグ型民主主義」、つまり大衆の無意識・欲望を数学的に秩序立て、それによって社会を設計するものだと思っていたのだが、本書ではそれは「誤解」だとしてしりぞけられ、熟議とセットで相互抑制的に用いられるものなのだ、ということになっている(上記2.の部分)。

拍子抜けする具体構想

一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル ただ「オルタ」連載でも指摘したのだが、問題のカナメは、それを具体的にどう構想するのか、という部分なのだ。専門的な領域が無数にある現代政治のなかで、熟議のような形では大衆は参加できないから、つぶやきや無意識の欲望を反映させ、しかもそれを熟議に影響を与える形で制度設計をするということが求められるというわけだ。
 この問題意識自体は悪くない。しかしそれをくみだす技術に結実しないと、お話にならないのである。質量はエネルギーに変換できるらしいよ! といってもその技術がなければエネルギーが1カロリーも取り出せないのと同じだ。
 そのカナメを論じているのは上記3.の部分なのだが、まさにここがしょぼい
 本書ではp.175〜177、およびp.183あたりにその具体的構想が描かれている。しかし、東は書いていて説得力がないな、と自分でも思ったのだろう。次のように言い訳している。


え、それだけ? ともしかしたら一部の読者は拍子抜けするかもしれない。そんなことはそこらへんの学生でも思いつきそうではないか、そんな平凡な提案のためにここまで大仰な議論を展開してきたのかと。(東p.177)


 その具体構想は3.として要約したが、東の言葉で少し聞いてみよう。

筆者はつぎのような光景を想像している。国会議事堂に大きなスクリーンが用意され、議事の中継映像に対する国民の反応がリアルタイムで集約され、直感的な把握が可能なグラフィックに変換されて表示される。舞台俳優が観客の反応を無視して演技を進められないように、もはや議員はスクリーンを無視して議論を進めることはできない。すぐれた演説には拍手が湧くだろうし、退屈な答弁には野次が飛ぶだろう(ネットワークに投稿された反応の解析の結果が、議員にわかりやすいように拍手や野次に変換されてスクリーンに表示されると考えてみたい)。視聴者は議決には介入できない。だからそれは直接民主主義ではない。議論に参加するのは、あくまでも民意を付託された議員だけである。しかし、視聴者の反応がそこまで可視化された状況で、私利私欲や党利党略で動くのはなかなか勇気がいるはずだ。そこでは、議員は、熟議とデータベースのあいだを綱渡りして結論を導かねばならない。(東p.182)


 東が熟議を否定せず、制度の主要な枠組みを間接民主主義にすることを暗に認め、グーグル型(データベース型)民主主義はあくまで相互補完的に使うだけであるとしてしまったので、ぼくが「オルタ」連載のころに感じていたような、グーグル型民主主義による統治(以前の東の用語でいえば「SNS直接民主制*3)、すなわちギリシア以来の政治思想をひっくり返すほどの革命性はもはや東の議論からは失われている
 もはやこうなってしまっては、これ自体は国会や地方議会でよく議論されている「議会改革」「議会の情報公開」「市民参加」というテーマの一つにすぎない。しかもそのうちの「ITを使った議会改革」とか「インターネットを利用した議会の情報公開」という、さらに狭い一分野の話になる。
 もちろん、そんなことはくだらないとかどうでもいい話だとか言うつもりはないし、そのタイプの議論自体はすごく意味のあるものだとぼくは思う。ただ、議論の次元はもはやそういう地点に行ってしまったも同然なのだ。


ルソーとかそのあたりはツッコミ禁止なんだってさ

 もともと東は“ルソー解釈としては厳密じゃないなからそこはツッコんでくれるな”と言い訳している(p.250)。ぼくももう、東にはそういうことはもはやまじめに期待していない。つまり東がもち出すルソーとかフロイトとかは本当にそいつらがそう言ったの? とかいうレベルのことなのでマジにつっこんではいけない。ルソーがもち出されているのは、ルソーが現代の民主主義論の源流になってるからで、いわば自分の議論が「議会改革レベル」の話ではない、民主主義の原論・根幹を議論しているんだよ、という「体裁」にすぎない。たしかにルソーによるハクつけがないと、「あ、あの、ニコ生みたいにやったらどうでしょう」という、そのへんの学生みたいな提案が丸裸で残るだけもんね。
 東の議論というのは、下記でも書いたけど、「お、面白いね」といって話の入口になればいいもの、着想次第のもの、あるいは結びつかないような両者を結び付けて一つの「体系」に見せて他人の議論を引き出す役割のものなので、そこに駆り出されたルソーをとりあげて、それについて厳密に概念論争したり学問史検証しても仕方がない・意味がないのである。
 「なんかさ、ルソーの一般意志ってグーグルのページランクの考えに似てね?」――それは本当にルソーの考えなのかと問いたい。問い詰めたい。小1時間問い詰めたい。お前、ルソーって言いたいだけちゃうんかと。
 早い話が、学者の居酒屋談義だと思えばいい。「酒を飲んでツッコミを入れていただけ」(東)であり、その自由さ・気軽さ(いい加減さ)が東の「魅力」なのだ。


東浩紀×茂木健一郎「分数も年号も覚える必要ありません」 - 紙屋研究所 東浩紀×茂木健一郎「分数も年号も覚える必要ありません」 - 紙屋研究所

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 したがって、東の口からルソーだろうがマルクスだろうがメルロ・ポンティだろうが本郷猛だろうが北条響だろうが誰が引用されてきても、そこに食いついてもあんまり意味がないというか、「そこは流せ」という程度のものなのである。


 そして、1.と2.の流れからいえばその具体的構想である3.がしょぼいために、4.へと流れていかない。4.のような主張はそれはそれでいいんだが、そのような気宇壮大な構想がなぜ「ニコ生+ツイッター+グーグル的ランキングでの議会中継」程度の制度いじりで生まれてくるのか見えてこない。

 つまり1.がツッコミ禁止で、肝心の2.は3.のしょぼさで台無しになっており、4.には話が流れていかないという具合に、本書はなかなか悲惨な状態になっているのである。


東は一回、どっかの市町村の議会改革とかやってみたらどうか

 だからですよ。
 この本のカナメは何度も言うように、3.の具体構想にあるから、ここまでしょぼいと全体を結び付けるものがすごくしょぼくなるので、東はもっといろんな人から意見を聞いたり、自分も体験したりしてふくらました方がいい。


 たとえばだよ。
 小さな地方議会とかにお願いして、いっしょに議会改革の委員会かなんかに入らせてもらったらどうなんだろう。
 地方議会なんかだと、たとえば「地域に出前」して、その地域の町会幹部を前にして各党横並びのシンポジウム的な議論をさせ(当局とのやりとりではなく)、ツッコミを受けるだけでも緊張度がもう全然違ってしまう。この前、ぼくは自分の校区で、地元選出の複数の政党の市議会議員をむかえてのこういう企画に参加したのだが、会場やUstからの激しいツッコミになかなか馴れないで市議たち(の一部)は右往左往していた。
 素朴な質問ばかり。「大衆の無意識」に近いレベルだったと思う。
 わざわざ大スクリーンだのコメントの数値化なんてしなくても、それだけで「視聴者の反応がそこまで可視化された状況で、私利私欲や党利党略で動くのはなかなか勇気がいるはず」という状況がつくりだせる。
 東はさ。そういう、自分のフィールドと違うところに出かけて、それに無理にまみれてきた方が面白いことが言えると思うよ。好きなことばっかりやってるだけだと、「ああこいつニコ生とかツイッター見てテキトーなこと書いてるだけだな」と思われるようになっちゃう。


社会保障を入れるか入れないかで大違い

 あと、今述べた通り、4.にかかわることは、もう話の論理があんまり流れていないからツッコんでも仕方がないことなんだろうけど、国家がセキュリティ(治安と生存の基礎給付)だけに限定されるっていうのはとりあえず、いいとしよう。
 ただ、そこに社会保障を含めるか含めないかは全然違ってくる。
 東は、ノージックをひいて、未来社会を展望し、

国家の役割は、国民の安全保障の確保に限定されることだろう。つまり、ある地理的な境界を前提として、外部との暴力を伴う関係を管理するとともに(外交および防衛)、その内部で暴力を管理する(警察)、国家の機能はその二つに集約されることだろう。それ以外の機能、教育や医療、社会保障、公共事業などは、すべて国家以外の組織が担うように変わることだろう。(東p.237)

と述べながら、すぐあとに社会保障もソーシャル・セキュリティだから、広い意味ではセキュリティだよな、として、健康で文化的生活の最低限のアクセスは保障すべきでベーシック・インカムみたいなものも含む福祉国家的なもの(ノージックが批判したもの)もアリだよな、と大きく転換することを言ってみせる。

したがって、守るべき安全=セキュリティの範囲をどう捉えるかで、国家のすがたはかなり変わりうる。もしそこでセキュリティが、国民の健康や文化的生活への最低限のアクセスなども含め理解されるとすれば、そのすがたは、ノージックが想定した最小国家夜警国家)からは離れ、むしろ彼が批判した福祉国家に近くなるかもしれない。(東p.238)


 うん。社会保障を入れるか入れないかで大違いだし、その範囲をどこまでとるかで、もう国家像が天と地ほどにちがってきちゃうから、限定が意味をなさなくなっちゃう。「犯人は20代から30代、もしくは40代から50代」みたいな、「絞り込みしなさすぎだろ」状態。
 東は一体「社会保障」とか「健康で文化的な最低限度の生活」をどうとらえているのか知らないが、コンビニでのバイト代くらいの基礎給付を渡して終わるレベルのものじゃないだろう。人生前半の社会保障としての教育、生存に不可欠なものとしての医療……こうしたものを「健康で文化的な最低限度の生活」水準でそろえようと思えば、この「基礎給付」はかなりの厚みのものになる。

 東の展望とは真逆に、先進国では「大きな政府」が主流になってきたのは、「最低限度の生活に必要な基礎給付的なもの」の範囲が大きくなってきたことがかなり寄与しているはずだ。小さくなんかならないよ。

http://www.mof.go.jp/budget/fiscal_condition/basic_data/201104/sy2304k.pdf



 ぼくだって、きちんと「健康で文化的な最低限度の生活」水準でそろえば、あとは政府がなんも手出ししてくれるな、とか言ったっていいよ。



水道のたとえに見られる東の「テキトーさ」

 東は水道のようなインフラの例をひいて、この問題を考えている。生存に不可欠なインフラを純技術的に議論することが、これから(未来の社会で)は政治を議論するってことなんだよ、というわけだ。

 ひとつの例を挙げれば、それはあたかも、いまのわたしたちにとっての水道事業のような存在である。わたしたちの生活は水道に全面的に依存している。水道が止まったらだれの生活も成り立たない。
 にもかかわらず、わたしたちはふだん、その体制や運営にまったく関心を向けていない。水道局は、ただ契約世帯に水を配るだけではなく、季節や日時や状況に応じてかなり柔軟に供給量を変えている。つまりは、水道局は市民の水を飲む「権利」を一方的に管理しているとも言えるわけだが、それでもわたしたちは、水道局に消費者に代表を送り込もうとか、住民会議で供給量について議論しようとはまず思わない。(東p.242)

 これはもう揚げ足取りの部類に入ってしまうが、水道は東の考えているような“生存に不可欠だが誰も関心をよせないひっそりとした純技術的インフラ問題”などではない。いまマスコミを激しくにぎわせている「八ッ場ダム」問題って、東はどういう問題なんだと思っているんだろう
 環境問題とか?
 八ッ場ダム建設の是非は、一つは利水をめぐる問題である。首都圏で使う水の量が今後足りるのか足りないのかという激しい論争なのだ。*4
 ぼくの住んでいる福岡県政・福岡市政で、まずムダ遣いといって思い浮かぶのは、実はダム建設問題である。すでに利水上、水は足りているのに過大な需要予測にもとづいてダム建設を強行しようとしている。そんな計画がいくつもあるのだ。


 下水道の問題だってそうだよ。
 福岡市の都心部でいえば、大雨のときの排水をどう計画するかということは、それはもう住民から一番の要望として市にあがるくらいの喫緊の課題だし、田舎にいけば、高額な下水道の管を引くよりも、合併浄化槽で十分だ、市は建設をやめてくれ、なんていう意見が住民アンケートに山のように出てくるんだから。


 この問題を東が例に使ったのと同じような「不適当さ」が、社会保障の給付水準をめぐる東の扱いにそのまま出ている。
 東はそれを純粋な技術問題だと思っているのかもしれないけど、ぼくがかかわっている社会運動なんて、この給付水準をめぐる激しいやりとりのものばかりであり、そこには理念やイデオロギーが密接にからみついている。それを切り離して純技術的に解決なんかできるわけないだろう。
 ここでも、東は、いっぺん保育園をつくれとか、生活保護の給付を切り下げるなとか、介護保険料をこれ以上あげるなとか、そういう社会運動にズッポリとハマりこんでみてはどうだろうか。
 東の本にはいたるところに「だれそれとの討論に着想を得た」みたいなことを書いている。*5自分が体験した範囲のことからは、それはもうかなり敏感に反映をうけるタイプの人なんだろうね。あずまんは。だからそういう社会運動とか、町内会とか、そういう全然ちがう頭の筋肉を使うことをやってみてまた理論の分野にかえってきてみると、東なんかはきっと面白い厚みが理論で出てくると思うんだけどなあ。

*1:東は一般意志2.0はあるところ(たとえばp.83)で「データベース」だといい、別の箇所で「データベース」ととらえてもらうのは誤解だ(たとえばp.216)と矛盾したことを述べている。

*2:グーグルのページランクのような「アモルフなものからの秩序の自動創出」は今に始まった珍しいものではなく、たとえば価格というシグナルを中心に自動生成されてくるものと言えば言わずもがな「市場メカニズム」である。東が“資源の共同管理が政治”だと本書で述べているので、無意識の欲望にもとづく資源の自動配分がもし政治であるなら、それは「国家を廃止して市場に委ねろ」ということになる。東は、グーグルのページランクのようなものは市場メカニズムとは違い自覚的なものだと言っているが苦しい。

*3: http://news.livedoor.com/article/detail/4413360/

*4:もちろん治水も大きな問題点である。

*5:本書でもたとえばp.203を見てほしい。