フィリップ・ショート『毛沢東 ある人生』(山形浩生・守岡桜訳)


 ヘーゲルトロツキーときて、毛沢東かよ。
 上下巻合わせて800ページをこえる大部で、途中で投げ出すかと思ったが、読了してしまった。
 日経新聞(2010年9月12日付)に載った毛里和子の本書書評に

本書の価値は、訳者も強調するように、「もっともバランスのとれ、充実した毛沢東伝」だという点にある。

http://www.nikkei.com/life/culture/article/g=96958A96889DE3E6E6EAE2E2E7E2E3E3E2EBE0E2E3E29F8893E2E2E3;p=9694E3E4E2E4E0E2E3E2E5E3E2E4


という一文に惹かれて手に取ったものである。


「もっともバランスのとれた毛沢東伝」

毛沢東 ある人生(上) 下巻巻末に山形浩生の「訳者あとがき」が載っており、そこには日本における毛沢東の伝記には詳細で完全なもので、「まともな伝記」は(新刊では)一冊もない、という出版状況にかんがみて訳出されたという事情が書いてある。
 それとおぼしきものを6冊ほどあげて、それぞれを批判していく。

 前出の毛里は、書評のなかで「これまで出た詳細な毛沢東伝は二つある」として、中国の準公式党史である金冲及『毛沢東伝』とユン・チアン、ジョン・ハリデイ『マオ』の二つをあげて、

前者は毛沢東礼賛に終始しており、とても客観的とは言えないし、逆に後者は、「毛沢東は生まれた時から悪いやつ」で「軍事的にも政治的にも理論的にも無能だった」と描き切ろうとしていて、これもまたとても危うい。

としている。地の文で書いているから、山形の評価ではなく、毛里自身の評価であろう。


チアン&ハリデイの『マオ』へのアンチテーゼとして

 だが、このような出版状況全体のことを山形は書いているものの、この訳書の出版前に書かれたホームページの一文を見れば、この出版の直接かつ最強の動機がチアン&ハリデイの『マオ』批判であったことは一目瞭然だろう。


要約: ショート版の毛沢東伝は、思想史も追い、共産主義を選ぶまでの毛沢東の迷いと成長を描き出す。人間的な成長もあり、また文革を初め毛沢東が何を考えていたのか、それなりの論理を持って追う。これを読むと、チアン&ハリデイ『マオ』がいかに偏向しているか、一面的かはよくわかる。

http://cruel.org/cut/cut200602.html


 旧ソ連からの新資料を駆使しての新情報は評価するものの、「毛沢東は生まれた時から悪いやつ」で「軍事的にも政治的にも理論的にも無能だった」という毛沢東像はとうてい納得のいかないものだ、と山形は述べている。

 しかしながら『マオ』は基本的に、毛沢東が生まれたときから悪いやつで、ぐうたらでバカで金と権力と女にしか興味がなかったかと決めつけており、それをきちんと裏づけようともしない。邦訳で千ページに及ぶ本で、毛沢東は生まれてから15ページ目には共産党に入っているがその理由もろくに説明なし。金と女と権力にしか興味のない怠け者が、何で当時まったく勝ち目などなかった非合法団体の共産党なんかにわざわざ危険を冒して入るのか?


 また『マオ』は毛が軍事的にも政治的にも理論的にも無能だったとする。すると当然の疑問は、なぜそんなやつが圧倒的に優先だった蒋介石軍に勝てたの、ということだ。これまた納得のいく説明なし。結果として『マオ』は、なぜ毛沢東があのような人物になったか、読んでもまったくわからない。

(山形、本書p.354-355)


 ぼくはチアン&ハリデイの『マオ』を読んでいないので、この評価が妥当かどうかはわからないけども、少なくとも山形がチアン&ハリデイの『マオ』をこう感じて、本書の翻訳を痛感したという流れはきわめてよく理解できる。

 今の日本で、一定の年齢以上の世代を考えれば別かもしれないが、毛沢東中国共産党の準公式党史並みに考えているという人はたぶん少ないだろう。そういう意味では、本書はまさにチアン&ハリデイの『マオ』批判、そのアンチテーゼとしての翻訳書の出版という意義があるのだろう。



「バランスのとれた毛沢東伝」とは?

 では、「バランスのとれた」(毛里)とは何か?
 あるいは「毛沢東を権力欲の権化としてのみ描く近年の類書の手法をしりぞけて」(加々美光行)何をもってそれにかえているというのか?

 それは日経新聞の書評欄(2010年9月26日付)で加々美光行が本書を評してのべているように、

あくまでその政治実践を政治思想に結び付けて論じた

ということであろう。
 加えて、やはり加々美が述べていることだが、

他方で、日常の衣食住から性生活に至る毛沢東の私生活全般を微細に紹介している。……私的領域の行為はその人間理解に深くかかわっており、それゆえ人の精神の「改造」を基軸とする公的な思想と切り離せないはずである。

という点に、まさに「バランス」があるのだろう。「政治実践を政治思想に結び付」けること、そして「公的な思想と切り離せない」深いかかわりをもつものとしての「私的領域の行為」の取り上げ方――この2点を組み合わせているということがまさに「バランス」と呼ぶゆえんであろう。『マオ』は、(繰り返すがぼくは読んでいない)前者はかざりものであって、後者の醜悪な動機からのみ毛沢東という人間が組成されているという人間理解、ということか。

 たとえば本書では、前者についていえば、共産党に入る前の毛沢東の思想形成について、次のように書いたりしている。

……パウルゼン『倫理学原理』中国語訳の余白に毛が書いたメモは残っている。それは全部で一万二千語におよび、ものすごく小さい、ほとんど読めない手書きメモだが、毛の政治キャリアを通じて続く三つの中核的アイデアを含んでいる。中央集権化された権力を強い国家の必要性、個人の意志の圧倒的重要性、そして時に対立し、時に補いあう中国と西洋の知的伝統の相互関係である。
(上p.76)

 こんな具合だ。
 この本の出版の意義は、まさに『マオ』的な理解を批判することであり、「バランスのとれた」毛沢東伝の不在を埋めるということにあるといえよう。



ぼくの毛沢東観をだいたいにおいて補強する感じ

 ぼくが通読して感じたことは、この本が与える毛沢東像は、ぼくが持っている毛沢東像を大きくは刷新しない、ということだった。それは本書が無価値であるとか、読み物として面白くない、という意味ではない。

 ぼくの毛沢東像。毛沢東は3つの大きな画期にかかわっており、3つの「功罪」がある。一つは共産党の権力掌握、すなわち中国革命そのもの、二つ目は大量の餓死者を生んだ「大躍進」、三つ目はやはり大量の犠牲者を生んだ「文化大革命」である。本書によれば、毛沢東は自分がやったことは内戦と文革だと総括しているようである。
 国民にとってよかったかどうかは別にして、「勝利する」という目的の前に、内戦・革命において毛沢東が果たした役割はかなり大きなものだったということ。他方で、統治、とりわけ経済運営において、致命的な欠陥をもっており、その破滅が「大躍進」と「文革」(文革自体は経済運営ではないが経済を破滅させたという意味において)だったこと――こうしたざっくりとした毛沢東観である。
 戦争・闘争という、ヒト・モノのリソース動員は得意であったが、統治と経済運営は三流以下だった、というような認識だ。
 本書はこうしたぼくのもっている毛沢東像を強化し、その理由を、毛の個人的資質の面から説明していく、という役割を担うことになった。

 

内戦における「三つの中核アイデア」の役割

 たとえば、先ほどのべた「三つの中核アイデア」は、軍事を担う上では大いに役立つもののように思える。
 中央集権はいうまでもないだろう。
 個人の意志の圧倒的重要性は、これを「主体性」と読み替えることができる。これに経済的客観条件のようなものを対比的におくとすれば、たとえば主体をとりまく経済条件が良いから、悪いから、という説明は、えてして主体的努力の放棄を合理化する言い訳になる。それにたいして、主体の意思、それを作り替えることで状況を突破するという思想は軍事という人間営為では、かなりの重要性を占めることになるだろう。実際、中国共産党は無謀きわまると思えた物量差を押し返して抗日戦と内戦を勝利してしまうのだから。
 中国と西洋の知的伝統の相互関係、は、コミンテルンソ連という運動の権威にたいして、毛が、それほどの学識キャリアをもたないのにその影響をやがて消して、知的権威としても登場するためにはどうしても必要なことだった。
 

「大躍進」と「文革」における「三つの中核アイデア」の破滅的役割

 これらは経済運営では破滅的に作用した。
 中央集権というシステムは、戦後期経済においては適合的なはずだが、これを一元的計画経済の、最悪の形で「機能」させてしまったから、国民はたまったものではない。具体的にいうと、「大躍進」における密植や驚異的低品質の製鉄を「模倣」させるやり方だ。
 個人の意志の重要性は、経済繁栄を追求しようとした劉少奇や鄧小平にたいして、個人を主体的に改造し続けようとする毛沢東のやり方との対比となって現れた。「大躍進」でいったん毛は中国(人)を豊かにする、という作業にとりくむがそれが深い挫折を味わう、というあたりも「文革」へつながる問題として興味深い。

目標はもはや中国を豊かにするということではなかった。それは劉少奇の論理だった。革命の意欲は豊かさと反比例していた。……暗黙の帰結として、中国が豊かになれば革命的でなくなることに毛は気づいたのだ。……階級闘争が人間の意識を変え、世の人にかがり火のように輝く革命の広がりを生み出す「紅色道徳」の王国へと中国を変えるには、劉少奇やかれのような思想を持つ人々にかれらにとっての正説と共に一蹴する必要があった。(下巻p.217)


 中国と西洋の知的伝統の相互関係は、ソ連の猿真似を脱したのはよかったのだが、逆に「中国式」というやり方が孤立無援な状況での、毛沢東が考えたことの実践という形になってしまったために、ひどい結果を生んでしまった、ということにつながっている。

 他にも、毛沢東の政治路線というものを考えるうえで、興味深いターニングポイントがどうやって訪れたのか、どう準備されたか、ということを本書は書いている。

 いくつかあげておこう。



毛沢東が暴力を認識する転換点――農民・農村調査

毛沢東 ある人生(下) まず暴力(「革命的暴力」)の問題である。
 毛沢東マルクスクロポトキンといった左翼系の思想にふれたとき、理想主義ゆえに、それらを「暴力」的であるがゆえに否定した。
 しかし、ショートが「見事な知的力作」「詳細なフィールド調査に基づいていた」とのべた、1926年の毛沢東による「湖南省農民運動視察報告」で見聞きした事実が毛沢東を大きく変える。
 毛沢東は、村落で聞き取り調査を重ね、農民協会という農村組織が無数に組織されていき、封建的地主秩序を攻撃して崩壊させていく様をつぶさに見たのである。旧秩序が草の根で次々と解体していく熱狂は、文革さながらの私刑的暴力をともなった。毛自身がこれらを「テロル」「恐怖政治」と呼んだが、そのような「過剰」「行き過ぎ」があってこそ、徹底した改革がすすむのだと毛沢東は考えるようになったのである。
 有名な次の一文はこの報告に登場する。

革命は人々をお食事会に招いたり、小論を書いたり、絵を描いたり、刺繍をしたりするのとはちがう。そんなに洗練され、優雅で優しく、「温和で折り目正しく、礼儀正しく柔和で穏やか」ではいられない。革命は蜂起であり、ある階級が別の階級の権力を打倒する暴力行為である。

 のちに『毛語録』に掲載され、「文革」でさかんに使われるこの悪名高き一文であるが、それが現実の詳細な調査と観察にもとづく結果だという点にこの視点の強靭さがある。
 その方法が中国革命においても最善だったかどうか、現在の各国の革命であてはまるかどうかはまったく別の問題としても、毛がこのような現実観察から得た結論をもとに、内戦と抗日戦における優位を戦い抜いたということは記憶しておいていいことだろう。

湖南省でのこの数週間にわたる、毛沢東の経験はきわめて強烈であり、そこから得た教訓はその後一生毛沢東から離れなかった。

(上巻p.219)


 毛沢東は1930年にも大規模な農村調査をおこなっている。
 革命前(内戦期)の毛沢東の有能さは、このような詳細な実地観察にもとづいている。そしてボンクラのような目でそれをただの事実の集積にせず、理論として普遍化する知能が毛沢東にはあったのである。その知性の準備について、ショートはかなり多くのページを割いて探求をしている。チアン&ハリデイ版が「15ページ目で共産党に入党」するのにたいし、ショート版では第4章が始まってもまだ毛沢東マルクス主義にさえ目覚めていないのである。

 ショートは、若き日につくられた毛沢東の思想基盤を次のようにまとめ、それは否定されずに、毛沢東の基底をなした、としている。

毛沢東が若き日の思想をはっきり否定したことはない。むしろかれの思想はだんだん拡大することで発達した。パウルゼンとカントから学んだ理想主義は、デューイのプラグマティズムで上書きされた。ジョン・スチュアート・ミル自由主義は社会ダーウィニズムで、アダム・スミスはT・H・ハックスレーで。梁啓超立憲主義は江亢虎と孫文社会主義に道をゆずった。康有為のユートピア主義は、アナキズムマルクス主義の下地となった。こうした「現代的知識」のすべては、古典の伝統によって補強された──明代の王陽明から、宋代の新儒学者朱熹まで。唐代の大文人、韓愈から、戦国時代の屈原まで──そしてそれ自体が、毛が韶山村の学校で子供時代に吸収した、仏教と儒教道教の混在した伝統的な中国思想の基盤にしっかりと根ざしていたのだった。それぞれの層が他の層を吸収している。失われたものは何もなかった。(上巻p.134)

 本書を読んでいると、日本の「連合赤軍」の方針を思い出す。彼らの戦術の源泉の一つは間違いなく毛沢東であるが、戦術だけでなく組織方針や思想表現までが著しく似通っている。
 にもかかわらず、たとえば、暴力についての発言も、中国の膨大な農村調査によって生み出されたものとしてみれば一定の合理性と必然性をもって感じられるのに、その背景を切り離されて「輸入」されたものになるや否や、ある意味で荒唐無稽で、ある意味で慄然とすべきコピペになってしまうのだ。


 経験的観察を理論として鋳直す力をもっていた毛沢東であるが、革命後はこの経験的事実から切り離されていたことが、彼の不幸の一つであった。「大躍進」の前の毛沢東について、ショートはこう書いている。

表向きは、一九三〇年代に江西省でやったように新しい政策を考案する前に大衆の調査をして「事実の中に真実を求めて」いたわけだ。だが決定的なちがいがあった。四半世紀前の「中華ソヴィエト共和国」では、思うままに調査できた。一九五八年の人民共和国では、毛のあらゆる行動が数日あるいは数週間前から演出された。「大衆のもとへ行く」とは、地方の第一書記に会って慎重に選ばれたモデル農園を訪れることであり、そこではだれもが地元権力者の望み通りの内容のみを毛に伝えるように指示されていた。毛は正確な直接情報を得ていなかった。得ていたのは充分に情報を得ているという錯覚だったが、これは無知よりはるかに危険であることが後にわかった。

(下巻p.160)

KOEEEEEEEEEEEEEE! こわすぎ。ひとごとではない。


 以上が毛沢東における「暴力」の問題。


豊かさを実現するという20世紀中葉の共産主義

 次は、「豊かさを実現するという20世紀中葉の共産主義観」。

 共産主義は経済的豊かさを実現するものだ、という近代主義的な共産主義ヴィジョンの表現だ。まあ、貧しい国家からの変革だから、そういう表現がいっぱい出てくるのは仕方がないといえば仕方がない。レーニンだって「共産主義とはソビエト権力プラス全国土の電化である」っていったくらいだもんなあ。*1

 「大躍進」時代の農業担当副総理、譚震林は次のような「フルシチョフの『グヤーシュ・コミュニズム』(ハンガリー式の国民の豊かさに主眼を置いた共産主義)も真っ青な、豊かな展望を明らかにした」(ショート)。

結局のところ、共産主義とはどういう意味だろうか? (中略)第一に、単に腹を満たすだけない、良い食事をとること。毎食、肉を摂取して、鶏肉か豚肉か魚か卵を食べること。(中略)猿の頭、燕の巣、白トリュフといった珍味が「必要に応じて各人に」提供される。(中略)第二に衣服。人々が欲しがるものはすべて手に入るはずだ。大量の青い服[だけ]でなく、さまざまなデザインやスタイルの衣服が。(中略)労働時間が終われば、人々は絹やサテン(中略)狐の毛皮がついた外套をまとう。(中略)第三に住居。(中略)北部では集中暖房、南部では空調設備が与えられる。だれもが高層ビルで生活する。言うまでもなく、そこには電灯、電話、水道、テレビがある。(中略)第四に輸送路。(中略)あらゆる方面への空路が開かれ、各国に空港が備わる。(中略)第五に、万人のための高等教育。(中略)これらすべてを合わせたものが共産主義である。

(下巻p.163-164)

 ちょwwww 生活の水準によって共産主義や新社会を語るということの「わかりやすさ」と、それが数十年たったあとの「無惨」をはっきりと見せつけられる例である。『ゴータ綱領批判』の一面的な理解によってもたらされる「分配の共産主義」は、依然としてぼくらコミュニスト、および近代主義全体に根深く残っている。
 譚震林のこの一文を戒めとして部屋にでも貼っておきたい気持ちだ。

 以上が、「豊かさを実現するという20世紀中葉の共産主義観」。



押っ取り刀で理論武装していく姿がまるで俺

 最後は、毛沢東が自分の理論を武装し構築していくときの「イタさ」である。

レーニン以降、どの共産党指導者もマルクス主義理論への貢献を基盤に築いてきた。これは毛の鎧の最大の弱点だった。党内のライバルである帰還学生組とその指導者の王明は、ロシアの大学で正統派レーニン主義を吸収してきたし、毛はその間、荒野にいてゲリラ戦を闘っていたのだ。(下巻p.11)

 毛沢東は、ロシアの経験や理論を機械的にもちこむ教条主義を批判して、民族独自の理論を創造するという方式によって、それにうちかつことをめざした。
 これ自体には道理がある。
 社会にはその社会に固有な発展法則があるのだから、それを知らなければ型紙に現実をあてはめるようなことになる。
 それ自体は毛沢東が正しい。

 毛沢東はそれで「マルクス主義の研究を再開した」が、「二十年前の学生時代以来、哲学的な文献解釈に取り組んでいなかったので、おっかなびっくりではあった」(下巻p.13)。

かれの開講の辞は、ヨーロッパ哲学の進化を唯物論と観念論の闘いと見なして、十七世紀、十八世紀のフランスから始めて十九世紀のドイツをたどったもので、きわめて退屈だった。本人も聴衆にこう警告している。「これらの講義はまったく適切でない。私自身も弁証法を学び始めたばかりだからだ」。一九六〇年代なかばになると、毛はこの講義の記憶にゾッとするあまり、自分がこの講義を書いたこと自体を否定しようとした。(下巻p.13-14)

 急ごしらえにソ連の本とか引っ掻き集めてにわかづくりで「理論武装」するっていう様子がもう痛々しいというか、それ俺じゃん、みたいな身悶え感がある。
 毛沢東は、「大躍進」期にも自然科学的知識にいろいろ興味をもち、あらたな世界観を獲得するんじゃなくて、自分の見解の補強に使ったみたい。

毛は熱心に読書したが、新たな知見を得るためというより自分の見解に安心するためだった。まもなく演説にはかれの政治思想を物語る科学的分析が散りばめられるようになった――原子の構造は万物に備わった矛盾を示している。

(下巻p.164)

 レーニンだってマルクスだって、そのとき読んで興奮した本や理論がすぐさま著作に出て来たりして、そういう意味では人の子なんだし、それが人間がつくる理論っていうもんなんだろうけど、毛沢東っていうのはこのショートの本を読む限り、西欧の正統的学問伝統じゃなくて我流で和洋華洋ごちゃまぜに独学した人間、という印象が強く、とにかく手当たり次第に食べた、というふうに映る。しかもマルクスとかヘーゲルの原典をきわめた感じがなくて、主要著作くらいはふれただろうけど、あとは周辺の研究書なんかをいろいろ、みたいな。

 こういうのが、いちいち俺っぽいんだよな。
 ただし、ぼくには毛沢東ほどの読書意欲や理論造成力はない。ましてやベースにある経験は雲泥の差である。

 毛沢東マルクスや西欧マルクス主義を深めていくというものではなく、膨大な農村調査とか内戦を経ての軍事・組織実践という経験をたくわえて、それを東西の雑多な知的道具によって独自理論にまで加工してしまった人間だというふうに読めた。やはり知の巨人には違いないが、マルクス主義の連峰とは区別された独立峰である、というところか。

誤字などの補足

 あとは補足。
 異様に誤字が多い。
 下巻の終わりに知らせてくれ、という訳者の呼びかけがあるので、メモした分だけでも知らせておく。

上p.95 〈秦の宰相曽国藩〉→〈清の宰相曽国藩〉
上p.281 〈朱徳のの兵〉→〈朱徳の兵〉
上p.287 〈井崗山に終結〉→〈井崗山に集結〉
上p.298 〈第七次党代会決議〉→〈第七次党大会決議〉
上p.330 〈党の同士を殺すな〉→〈党の同志を殺すな〉
上p.352 〈スターリンによる粛正〉→〈スターリンによる粛清〉
上p.386 〈根拠地にに追い込んでいった〉→〈根拠地に追い込んでいった〉
下p.34 〈ご乱交〉→〈ご乱行〉
下p.489 〈左翼主義が休息に高まった〉→〈左翼主義が急速に高まった〉

*1:関係ないがこの有名な言葉のアネクドート(ロシア的風刺小咄)がある。 「共産主義ソビエト権力+全国土の電化」→「ソビエト権力=共産主義−全国土の電化」∴「全国土の電化=共産主義ソビエト権力」