今日(2011年9月30日付)、「しんぶん赤旗」に「こんなマンガもあるんですか」の最終回が載りました。計4回。短いですねー。この間、編集部にやらせ……反響のメールなども届いていたようですが、「よし。4回という方針をやめ、1面に5年連載だ!」というふうにはならなかったようです。
やっぱり方針を変えさせるには、こちらが送り込んだ読者代表とかが手帳を見ながら、「危ない、危ないと言われて、紙屋の連載が開始して4回近くたつが、私の家で作っている米とか野菜が放射能の影響で売れなくなったことはない」と農家を装ったりしないとダメなんでしょうかね。現実は厳しいです。
さて、最後の回でとりあげたのは、こやまゆかり『バラ色の聖戦』(講談社)です。
『バラ色の聖戦』は、銀行員の夫と2人の子どもをもつ専業主婦・真琴がプロのモデルをめざすという物語です。テレビドラマにもなりました。
「赤旗」の方では、「聖戦」というタイトル、専業主婦である真琴の自己実現(モデルとしての成功)と、夫の側の「主婦のお遊びは、家庭の平和を乱さない範囲でやれ。夫と家事に支障がでたらすぐやめろ」という論理との対決に焦点をあてて書きました。家でこれをたたき台にしておしゃべりしてもらえたらいいな、と思いました。事実、我が家では、今日の夕食時につれあいと議論しました。
しかし、これとは違う角度で『バラ色の聖戦』を考えてみることもできます。
オニババとしての専業主婦表現
専業主婦の古典的なマンガ表現の一つは、古谷三敏『ダメおやじ』の「オニババ」や堀田かつひこ『オバタリアン』でしょう。パーマ頭、額のばんそうこう、肥満体、底抜けの図々しさ……(1)性的魅力が枯渇し、中性化された、(2)「生活のためにうごめくバケモノ」として描かれてきました。こうした主婦の描き方は、今でも男性向けマンガや、主婦を「母親」としてのみ描くマンガの中に息づいています。
(2)についてもう少し言っておくと、これは社会とのつながりを断たれている存在というふうに見ることもできます。いや社会的に孤立しているという意味じゃなくて、政治的公民でもなく、経済人でもない、という意味です。社会参加してない、といってもいいでしょう。形而下の生活のことしか考えていない、という主婦像です。
この二つへの「転落」を恐れる主婦が増えてきたと思います。
(1)についていえば、20代はもちろん、50代、60代までのファッションや生活スタイルにおいて「ああなりたいわー」と思える手本が、雑誌、テレビだけでなく身近にもたくさん増えてきました。
又野尚『ママ友のオキテ。』(ぶんか社)のなかで、
という33歳の「ママ友」が出てきます。イヤミでないバランスのとれた洗練をもっているステキさがあるというわけですが、オチは、
何年も母つき合いをしていると
何人かにひとりはこのタイプ!
正直ちょっと飽きます
というもの。それくらい「ステキママ」が量産されている、というわけです。
(2)についていえば、単に仕事復帰という形だけではなく、趣味を広げていくとか、社会運動などへの参加という形もふくまれています。
夫の愛をとりもどしたいという真琴の行動
『バラ色の聖戦』でとりあげられる「モデル」という活動は、この(1)(2)の問題をまさに兼ね備えています。
冒頭、毎日子どもたちのウンチの処理や吹きこぼれるナベの始末に追われ、見事な「鏡もち」の腹をさらけだしながら、ジャージ姿でぐったりしている真琴が描かれます。
夫の不倫を契機に、真琴にとってこうした姿は「危機」として映るようにないります。それはまるで、性的魅力の減退と生活に追われる様を「オニババ」化とみなす価値観の裏返しのようです。
真琴が読者モデルに応募するきっかけが「夫の不倫問題で明らかになった自分の性的魅力の減衰」という主観的動機です。真琴オーディションの面接で次のように語ります。
でも夫の本心を知ったとき――
“やっぱり”と思う自分もいたんです
誰よりも女捨ててると思ってたのは自分自身でしたから
だから――キレイになって
もう一度夫の気持ちを取り戻したい
昔に戻ってやり直したい
そして 自分に自信を持ちたいです
(1巻p.84)
夫を激しく糾弾するのではなく、夫の承認を取り戻すことで自分の価値を回復させたいと試み、自分の美的なブラッシュアップへ向かおうとするところが、ある意味で特殊です。
これを「卑屈」「男性の従属物」とみる見方もあるでしょうが、自分の性的魅力の枯渇への危機感は、これを読む主婦層の支持を獲得する源泉の一つでしょう。
そして、30歳という、モデルのスタートを切る年齢としてはどうなんだというところから、真琴が次々に自分の中に眠っていた美的価値を再発見されていく様は、男のぼくが見てもなかなかに痛快です。
夫の不倫相手を前に、モデルを始めた真琴が圧倒してしまう描写は、古典的な少女漫画っぽい仕返しだとは思いつつも、この、ぼくの心の底からこみあげてきてしまう爽快感は一体なんなんでしょう。
定番の、
うそ…
これがあたし!?
(1巻p.138)
は陳腐なセリフではなく「待ってました!」という期待感すらある展開です。真琴をメイクした女性が叫ぶ「女はね 加工品なのよ!!」というセリフは、30前後の女性が努力次第でこうした「眠っている美的価値」をいかようにも発掘できることを表現しています。モデルになれるとまでは思わないでしょうが、ある程度は真実だからこそ、真琴の自己再発見は読者に強い共感を与えるのです。
モデルにおける「社会とのつながり」
社会とのつながり、という点では、モデルになってからの真琴の活動において、「依頼主がこだわっている、場合によっては依頼主さえ気づかなかったファッションの価値をモデルが引き出す」という点にひとつの焦点があてられています。
自分を見せることだけにこだわって大失敗をする真琴は、着られる服のほうがその価値を引き出されるものでなくてはならないことを学びます。
失敗の後、真琴が試着モデルをするブランドをよく観察します。
商品を手にとり、見えないところにきちんとした工夫がされていることをつかみ、バイヤーが集まってきた時に、その部分をさりげなく見せたりします。そのしっかりぶりに依頼主が感動するんです。
これは社会とのつながりを回復していく描写です。
この「つながり方」と対比する形で、真琴が育児や家事に「閉じこめられる」という描写がさしはさまれ、それを「檻」と感じるようになる点についての違和感は「赤旗」の方で書いたのですが、育児や家事が「家庭の私事」だとみなされている現代では、こうした感覚が先に来るのはやむを得ないといえばやむを得ないところがあります。真琴のような感じ方の方がリアリティがある、と思う人も少なくないでしょう。
『バラ色の聖戦』はいわば、「オニババ」化主婦像の裏返しのわけです。
その反「オニババ」化へのすさまじい執着がこの物語を面白くしています。「赤旗」の方では、そこに「いや、オニババ、反オニババでない視点というものがあるよ」ということをぼくは書きたかったのですが、それを強調するあまり、このマンガのパワフルな駆動力の側面は伝えられなかったなと思い、補足のつもりでこの一文を書きました。
前半で紹介した、ぼくら夫婦の会話でいえば、「そうはいっても専業主婦であるということを一定変更するわけだから、夫との調整はもっと必要じゃないか? 一方的な思いだけでやっぱり家庭運営はできんだろ」というのが真琴の行動についての「ポリティカル・コレクトネス」の評価なんだろうと思うのですが、そこを逸脱してどんどん真琴の思いをふくらませていくのが痛快なのです。
面白いか面白くないかといえば、文句なく面白いです。