オカンはデマを真に受けるかなあ?


なぜ、オカンはデマを真に受けるのだろう - kobeniの日記 なぜ、オカンはデマを真に受けるのだろう - kobeniの日記


 すなわち、オカン世代は今回の震災でデマにおどらされやすかったというのがこの記事を書いたブロガー(kobeni)の実感であり、その原因はオカン世代は「国家・政治家を信用せず、自分の信じられるネットワークを簡単に信じる」が、その子ども世代は「誰も信用していない」ので、たえずネットなどで補正をしていく、という趣旨だ。

 この記事を読んでただちに頭に浮かぶのは、「影響されやすい同世代もいること」「影響されないオカン世代もいること」という、あまりにもありふれた反証的事実だ。

 このまえ、うちの保育園のクラスのMLで、節電を呼びかけるチェーンメールを下敷きにしたメールがまわってきた。職場の同僚にこの話をしたところ、同僚の子どもが通う別の保育園でも、別の種類のチェーンメールがまわってきたという。
 ぼくは出ていないのだが、クラスの「母ちゃん会」があって、うちのつれあいが出て、そこで聞いた話によると「ネットには触れているが、深入りしていない」という人が圧倒的だった。「深入り」とはツイッターとかオークションとかブログとかそういうことをやっていない、という人だ。これはぼくの実感と同じだ。

 他方で、ぼくのオカン世代というか、ぼくのオカンは、ネットには一切タッチしない。携帯電話は持っているがメールは一切しない。ちょっと想像してみるけど、節電の呼びかけがリアルつながりで来ても何も反応せんだろな〜と思うw
 この人(うちのオカン)はいわゆるネット上のデマには疎い。いや「疎い」とかいうレベルじゃねーぞ! 「全然知らない」とかいう話でもない。「こういうデマがあるんだよ」とかいう話をして、そのデマの意味を解説するところから始めないといけないんだから! なんで俺はデマを懇切丁寧に肉親に説明してるんだ。
 こうした事実自身は上記記事のはてブのコメント欄でも指摘されている通りである。

 うちのオカンじゃなくて、義母の方は、メールをやる。PCで。しかし、たとえば「ユーチューブってどうやって見るの?」というレベルの質問をする人である。そして教えてあげると、熱心にオバマ核兵器廃絶演説などを見る、教員畑出身の人だ。ブログもツイッターもしない。この人がデマを真に受けた話は今回聞いてないが、節電呼びかけはいかにも反応しそうな気がする。

 つまり、ここから浮かび上がることは、「中途半端にネットにかかわった人がネットのデマにひきずられ、それを訂正する機会をなかなか持たない」ということになる。世代に関係なく。


世代論としては支持しうるものがある


 kobeniが指摘する世代論はある意味当を得ている。「1980年ごろまでは『大きな物語』が作用しているので国家、政府、大企業にたいする対抗・警戒感覚が強い」という議論で回収されるものだろう。
 しかしこれは世代の違いを説明しただけであって、「デマを真に受ける」かどうかの差とはいえないだろう。ネットへの関わり方の違いにすぎない。強いていえば、回りにネット利用者が多いので、補正を受ける機会が若い世代の方が多い、というふうになるだろうが。

 kobeniが言いたかったのは、「デマを真に受ける」かどうか、ということより、上の世代と下の世代の差のことの方だろう。

 さっきぼくは、上の世代について、「大きな物語」という用語で書いたが、厳密にいうと少し違う。この言葉は使わない。
 もともと資本主義を批判するものとして左翼(社会主義共産主義)があり、それが現実批判の対抗言論として大きな影響を持っていた。国家・政府・資本といった社会制度への批判ということがわかりやすく、実際にそうだったから、対抗言論には少なからずこの要素が入っていた。
 しかし、ソ連社会が凋落していくにつれ、この対抗勢力は魅力を失い、同時に、先進国では社会矛盾の現れが、ストレートに社会制度の問題として出現せず、個人を通して複雑に現れるようになった。貧困の根底でマルクスのいう「資本主義の蓄積法則」が作用するにせよ、それが人の目に映るときには、個人の能力や責任の問題としてしか現れない、というような話だ。児童虐待なども親の「ひどさ」に目が向くので、「鬼のような個人」が一面的に強調される。

 これがkobeniのいう「私達の世代は、誰も信用していない。」の根底にある。だから、くり返すけど、世代論としてはある程度、ぼくもわかる。しかし、「デマを真に受ける」分岐として根拠にするのはいささか勇み足ではないか。



新聞やテレビ情報の方がまだマシだと実感したのは俺だけか

 直接この話題には関係ないかもしれないが、kobeniの議論に関連していうと、ツイッターなどの利用でこそ本当に大事な情報が得られた、みたいな議論がある。
 kobeni流に言えば、「誰も信用していない」世代が、権威や縁故に頼らず、一つひとつの情報を主体的に吟味し淘汰したなかでつかみとった凱歌ともいうべき言説だが、ぼくには全然そんなふうには思えない。テレビ・新聞・書籍をよく読んでいた人の方が、ネット中心にしていた人より、はるかにまともな結論と感覚にたどりついているというのが実感である。ネットの海で溺死した人の方が多いんじゃないか。必死で対岸にたどりついた少数の人だけが凱歌をあげている構図だ。

 新聞やテレビ情報の方がまだマシ(効率的に正確な情報を得られる)だと実感したのは俺だけか。