『虹色のトロツキー』は90年代半ばに初版が出た時に読んだが、セックスシーン以外あまり興味を覚えなかったことを覚えている(「ちょっと『虹トロ』買ってくる」と出かけんとする御仁のために行っておけば、それはわずか2シーン。しかも超控えめな表現)。今にして思うとあまりにひどい読み方だった。
愛蔵版が出たのでこの機会に読み返す。
一体以前は何を読んでいたのだろう、と大いに反省した。
この物語では、スターリンと対立するトロツキーを利用してソ連の分裂国家をつくるとか、中国共産党内のトロツキー派を使ってコミンテルンとの仲を裂けるんじゃないかとか、トロツキーという存在を利用することをめぐって日本・満州・ソ連・中国でさまざまな勢力が描いた「幻想」を「虹色のトロツキー」という言葉で表している。トロツキー本人は出てこない。
主人公のウムボルトは、日本軍部のトロツキー極東政府工作にかかわった深見という中尉の、モンゴル人女性との間に生まれた子どもである。自分の消えていた幼少期の記憶をたどるミステリーが、そのままトロツキーをめぐる各国勢力の構想解明に重なっていく。
ウムボルトは一体何をめざしているんだ
最初読んだ時にモヤモヤしたのは、ウムボルトがまるで山崎豊子の小説の主人公よろしく、純粋・熱血そうな顔をして、その実、一体何を希求しようとしているのかよくわからなかったからである。
まあ、まず自分の父親や母親の死をめぐる謎を解き明かそうとしているのはわかった。でもそれ以外の行動原理がふらふらしていて読み取りにくい。
ウムボルトが自分から理想らしいことを述べるシーンは限られている。
誰かに利用されるんじゃない
本当の国を造りたいんだ!
満州国を造り変えたいんだ!(3巻、p.352)
いや ボクは
民族というよりもっと大事ななにかで
人と人とは結びつき合えると思っている!(同p.456)
非道な犠牲を人に強いるような大義など
正しくはありません!!
そんなものは犠牲になった者達の流す涙の
万分の一の値打ちもない 独りよがりです!!(4巻、p.421)
人が死んでもそれが当たり前なほど大事なことなんて
世の中に そんなにないと思いませんか!?(同p.497)
いい世の中っていうのは
人と人がみんな
なかよくできる世の中のことだ
そんな日がはやく くるといいな……(同p.507)
さて、これに、安彦が愛蔵版の巻末に添えられたインタビューで述べていることを付け加えてみよう。
――となると、『虹色のトロツキー』の登場人物は、誰もが歴史の制約性の中で必死に活路を見出そうとしていたものの、絶対的に正しい見地に立つ人はひとりもいなかったということになりますね。
そうです。明らかに問題のある人物を除いては、皆なにがしかずつ正しくなにがしかずつ間違っていたというわけです。その人が好むと好まざるとにかかわらず立たざるをえなかった立場や、自己形成の過程で引きずってしまっている観点というものがあって、そういう人たちの寄り集まりが、この世の中なんです。だから、ある立場の人たちの陣営と、違う人生の人たちの集まりがあって、どちらかが正しいか間違っているかということを判断することは、所詮できないのです。
そういった陣営に分けてものを考える考え方が、僕らの全共闘世代もそうでしたし、日本の近代の考え方の基本でした。右か左かしか選択肢がないような歴史がずっと続いてきたことに、不幸な現実が隠されていたのだと思います。そのことに気づかせてくれたのが、まさに冷戦の終わりでした。
「陣営」の障壁を越え個人と個人が結びつくこと
ここから見えてくるウムボルトの行動原理、理想というものは、国、民族、左翼右翼という「陣営」、立場の障壁を外して、人間一人ひとりが結びつかなくてはならない、というものになるだろう。
陣営が掲げる大義は、ある状況で正しさをどれも幾分かは含んでいる。だからそれに従うことはやむを得ないが、それによって個々の人間が犠牲にされていくような全体主義的大義はごめんだ、という世界観、価値観になるだろうか。
たとえばコミンテルンの大義は、日本の帝国主義的侵略が間違っている分だけ正しいが、社会主義の大義の防衛=ソ連の防衛=外蒙の属国化、中国革命の道具化……というようなものへと堕していくことによって誤りになっていく、と安彦は考えたのだろう。
ウムボルトは、抗日勢力でありコミンテルンとの連絡員であるジャムツにたいして、次のように述べる。
ジャムツ 日本が間違っている分だけ たぶんキミは正しい
だけど それ以上に正しくはない
共産党やソ連だけが正しさを独り占めすることは良くない
こんなにみんなが苦しんでいるんだから
――なおさら――(3巻、p.450-451)
同じように、日本とアジアの恒久平和のために、ソ連との対抗を考えた日本軍部の石原莞爾、それを俗悪化して引き継いだ参謀の辻政信はノモンハン戦争を引き起こした。
大義のために人を犠牲にするのは間違いだと叫ぶウムボルトとは対象的に、辻は作品中で、ノモンハンにおける日満軍の死屍累々の上に立って次のように叫ぶ。
敗けんぞ!!
正義王道の楽土をこの大東亜に実現し!
ユーラシアを打って一丸となす大使命を果たさんがためなら
百万の命もオレは惜しまんぞ!!(4巻、p.498-499)
こうした記述の念頭には、近代の戦争の歴史ばかりではなく、「大義」を掲げて凄絶な連合赤軍の「総括」へと迷い込んでいった全共闘運動の末路も、全共闘運動に参加した安彦の頭には当然あったことだろう。
「陣営」という障壁の破壊をまっすぐに個人主義へと結びつける、いわば「全体主義対個人主義」という構図を土台に据えようというのは、まさに全共闘運動を経験した安彦良和の面目躍如といったところである。
もちろん、この反省には大いに道理がある。
ぼくが左翼として、「国」や「民族」は相対化しえても、「組織」を相対化しえず、個人を犠牲にするようなことをするのであれば、ジャムツや辻と選ぶところはそうあるまい。とりわけ個人の意志や意欲、幸福と対立させて組織の掲げる大義を追求する風潮は油断すればあっと言う間に忍び込んでくるものである。
とはいえ「障壁」=「陣営」の存在は必然であり合理的である
といっても、ぼくらは「国」や「民族」や「組織」という「陣営」を無にしていきなり個人同士だけが結びつくことはできない。これらは近代という社会――それは現在も続いている――のなかでは一定の必然性をもっているし、ある程度は合理的なものだ。むしろそれらをどううまくコントロールし、陣営と陣営の障壁からできるだけ解放され、ポジショントークとか頑固な行動姿勢に固執しないような自由さを確保できるのかが課題となる。そういう仕事から逃れて個人の自由を得ようとする作業は、個人をおそろしく無力な地位におとしめてしまう。
組織嫌いだというバカは、組織の力なしに社会が動かせるかどうか頭を冷やしてよく考えればいい。グローバル時代だから主権国家が黄昏れているなどと騙る輩は、依然GDPの途方もない部分を制御している国家の役割に目をつむって世界政府とか国際運動を妄想していればいいのだ。
ウムボルトは「陣営」=障壁をどうしようとしていたか
安彦とウムボルトはこの点でどうだったのか。
もう一度さっき列挙した引用をながめてみよう。
その列の最初に、
誰かに利用されるんじゃない
本当の国を造りたいんだ!
満州国を造り変えたいんだ!
というウムボルトのセリフがある。
もともと外モンゴルと内モンゴルを分けて争うのは周辺大国の都合なのであって、独立させられたモンゴル(外モンゴル)と中国に属していた内モンゴルや満州にいたモンゴル族(満蒙)からすれば、濃淡はあってもモンゴル民族である。
田中克彦の『ノモンハン戦争 モンゴルと満洲国』は、ソ連と日本が緩衝地帯としてモンゴルや満州を手に入れたがり、それによってモンゴルが引き裂かれ、これら大国の手からモンゴルを独立させようとしたモンゴル人政治家たちや汎モンゴル主義の活動家たちがいかに悲惨な死を遂げたかが書かれている。
このような認識は、『虹色のトロツキー』のなかでもくり返し出てくる。汎モンゴル主義者や満蒙独立論者が政治的に実に危険な立場におかれていることや、凌陞という満州の政治家の内通容疑での処刑などがそうである。ウムボルトの恋人となる、麗花が次のように叫ぶのもこの流れだ。
もおいやだ! やめてよお!
こんな戦争になんの意味があるの!?
なんのためにこんな所で殺し合いをするの!?
こんななにもない草原だけの土地で!!
もともと誰のものでもない土地だったのに!!
包に住むモンゴル人が羊や馬に
好きなだけ草を食べさせていたのに!!
何百年もそれでよかったのに!!(4巻、p.323)
『ノモンハン戦争』では次のように書かれている。
モンゴル人民共和国の歴代指導者は、……ソ連の占有から解放され、多くの外国から承認を得て、国際的な認知を得た独立国になることを望んだのだが、コミンテルンもソ連も、モンゴル人民共和国が外国はおろか、国境外の同族との交流を持つことさえ許さず、完全に秘密のヴェールの中に閉ざしたのである。(田中p.29)
国境によってへだてられていた満洲国のモンゴル人、すなわちバルガ族やダグール族と、モンゴル人民共和国のハルハ族はたえず、異なる主人のもとでのたがいの生活状況を見比べていた。一方の主人は日本であり、他方はソビエト連邦とコミンテルンであった。(同p.31)
たいへん興味深いことに、モンゴルの指導者たちもまた、満洲国との交流のきっかけがほしいと渇望していた。繰り返される国境衝突も、そのような背景から見ると、モンゴルにとっては、ソ連の厳しい監視のもと、ホロンボイルとバルガ族との極めて限られた条件下での、異常ではあるが接触できる場面であった。(同p.32)
ものすごい推論であるが、ノモンハン事件(ノモンハン戦争)を、モンゴル民族に潜む内的な衝動から説明し、それを大国が利用してノモンハンへとつなげていったのだとする説明は興味深いものだ。
安彦は、もしウムボルトが戦死しなければどうしていたかという問いに、
外蒙を含めた、本当の蒙古独立を目指すことになったんでしょうね。(4巻、p.528)
と答えている。そして日本人の血が入っているから蒙古ナショナリズムには立てなかっただろうとのべ、その民族独立運動が解毒=相対化されたものになったはずだという理想を述べている。そこにウムボルトをハーフとして描いた意味もあったのだろう。
結局安彦も「陣営」が持つ障壁を批判しつつも、それは個人と個人が自由につながるという夢想を直接実現することはできないことを知っているので、やはりその「陣営」のコントロールこそが重要な中間段階であると考えていたようである。
この作品が本当に障壁批判=近代批判であるためには、その建設へむかうウムボルトを描かねばならなかったはずで、そういう意味ではこの作品は肝心なところで終わっている、といわねばならないものである。
さらに付け加えておけば、ノモンハン事件(ノモンハン戦争)といえば日本軍の戦略戦術研究に明け暮れる話ばかりが多い。そのような「戦史」熱中のくだらなさを田中は冒頭で批判している。
田中も安彦も、そこに関心の焦点はない。
田中の著作は、この戦争をモンゴル民族の内的衝動から説明し、そこに大国の思惑がからんだものとして描いていることに卓越した視点があるし、安彦の著作は自分史総括をかねて「陣営」というものに固執する近代を批判しようとしたところに意義がある。新しいノモンハン史というべきではないか。
主題以外の問題をいくつか
ところで、本作は、「BSマンガ夜話」でとりあげられ、いしかわじゅんがその表現にケチをつけ、安彦がそれに反論したことから、その分野でも有名になった。だけど、ぼくとしてはそのことにはあまり興味がない。
また機会があれば、そこに立ち返るかもしれないけど。
本題以外の点で気になったことは、安彦の女性の描き方であろうか。
あのねーどうも安彦の描く歴史モノのセックスって、すごく自分的に興奮しちゃうんだよなあ。『ナムジ』でもそうだったけど。いや別にどうということないシーンなんだよ。
虫プロで鍛えられた安彦には、手塚的な伝統が生きている。
フラウ・ボウやセイラ・マスに劣情を感じたぼくとしては、やはり手塚的なエロスが絵に宿っているとしか思えないのである。