小川仁志『ヘーゲルを総理大臣に!』


ヘーゲルを総理大臣に! 見るだに『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら』(『もしドラ』)と、サンデル『これからの「正義」の話をしよう』の路線の融合だとわかる。

 『もしドラ』の表紙は「萌え」を狙ったものだが、個人的には萌えない。セーラー服でも萌えない。目と目の間が離れすぎているからである。それよりは、この、うめが描いた不健康そうな、なぜか脚を見せてくれている女性の方がはるかに色気がある。背景が草野原でなければ、完全にベッドへ誘っている構図だから(「『手をつかんで立たせて』って言っている構図じゃん」とかいうカマトト発言は断固弾圧する)。もしこの表紙がなければぼくは買わなかったに違いない。

 内容はタイトルが示す通りである。
 日常にぼくらが迷ったり対立したりする、しかもわりと本質的な問題をとりあげて、それをヘーゲル哲学のうち、もっとも上部の伽藍を構成している「政治哲学」(精神哲学)部分によって哲学的腑分けを行い、批判し、ヘーゲルがめざす国家と社会像こそが今の日本に求められている、とするものである。

 構成として、まずさまざまな若い男女をテーマごとに対立的に登場させ、著者がその議論・対立の根底にある哲学的対立を暴いていく、という作業をやる。これが第1部である。
もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら ここはまったく、サンデルの日本や米国での「講義」そのものを思い出す。学生を当てて、答えさせ、「先生」がその意見のもつ本質的部分を洗練させて提示し直すのである。小川という人は哲学のカフェをしているそうだから「サンデルのマネじゃないもん!」というかもしれないが、どう見てもサンデルです。本当にありがとうございました。

 貧困における再分配や自己責任の問題から入り、労働の意義へ話を移す。欲求、法と権利、人倫、家族、社会、国家、自由……という具合である。ただしそれぞれはそれほどカタいタイトルではなく「まともな人間でないとダメなのか?」「家族に意味なんてあるのか?」「地域のおつき合いは必要なのか?」などというやわらかいタイトルになり、そこでかわされている議論も、まことにぼんやりとした、「つぶやき」になっている。

 そして第二部でこれらの議論をまとめて、ヘーゲルの哲学の中に編み込んで一つの体系を示すのである。


サンデルの議論はなぜ緊張感に満ちているのか


これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学
 サンデルの議論がシャープで緊張感に満ちているのは、(1)功利主義(2)自由主義リベラリズムリバタリアニズム)という現代の主要な哲学潮流、そして現実にぼくらの思考のなかに必ずセットされていて、表面的にもこの二つの考えにもとづいて外に綴ることが多いというものを扱っているからだ。いわばぼくらのスタンダードな思考なのである。それに挑戦するサンデルが、その二つの立場の限界をロジカルに示しながら自らの立場=(3)共同体主義コミュニタリアニズムを主張するからである。

 サンデルは、コミュニタリアニズムを積極的に叙述することにはあまり多くを割いていない。
 むしろ多くの分量を使って描かれているのは、(1)功利主義と(2)自由主義の限界について、たっぷりと分量をとりながら批判していく。もちろん単なる悪口ではなく、功利主義自由主義のロジックが持つ意義にも十分にふれながら進んでいくのだ。
 功利主義自由主義に馴らされまくっているぼくらは、サンデルの記述をむしろ頷きながら読む。うなずきながらやがて、その限界について袋小路のようなところに追い込まれていく。
 サンデルは、結局共同体に帰属している自分というものから人間は逃れられず、そこにある共通善を磨いていくことがなければ功利主義自由主義をつきつめていってもその利点さえもうまく生かせないじゃん、ということに気づかせる。そこまで導けばサンデルの本の役割は終わる。「功利主義自由主義って限界があるんだ」「前提があるんだ」ということに気づけばいいのである。


あまりに性急にヘーゲルの体系への説得

 これにたいして、本書はあまりに性急にヘーゲルの体系を積極的に与えすぎようとしている印象を受ける。

 たしかに、労働にしろ家族にしろコミュニティにしろ自由にしろ、そのとらえ方については、ぼくらが日常生きている中で対立がある。
 労働は果たして自己実現のためなのか? それとも生きていくための苦役なのか?
 家族は安心を蓄積するシェルターなのか? リスクの源なのか?
 強い個人こそ必要で中間的なコミュニティなど不要なのか? 有用なのか?
……などなど。

 サンデルほどのシャープさがないのは、そうした一つひとつのテーマに対して、十分な分量をもって批判したり展開されてたりしていかないからであるが、もう一つの原因は、ヘーゲルの政治哲学の結論自体があまり魅力的でない部分もある、ということに起因するだろう。

 コミュニティのなかの人間、を前提にする点では、広い意味ではヘーゲルコミュニタリアンである。まあ、マルクスだってそうなんだけどね。
 サンデルではこの部分は功利主義自由主義への批判として主要なテーマを占めるのであるが、本書では結論的にいえばごく一部のテーマになってしまっている。そしてサンデルでは成功した功利主義批判、自由主義批判という形にはあまりなっていない。緊張感をもって論じられていないのだ。かわりに、ぼくらが価値判断をする根底には共同体の感覚があるではないか、というぼんやりとしたものになってしまっている。



「労働」を称揚するヘーゲル

 たとえば労働の意義をみてみよう。
 自己実現か苦役かという対立軸にたいして、小川は結論的にいえば労働讃歌というヘーゲル解釈をしている。しかもヘーゲル=分業肯定論者、マルクス=分業否定論者として。
 しかし、

それでも人間には誇りが必要なのです。どんな生き方をしていようと、どんな仕事をしていようと、やはり誇りが必要なのです。それを与えてくれるのが労働なのです。だから心のもちようなのです。与えられた持ち場をきっちりとこなす。そういう人は誇りをもって日々を過ごしています。
(p.148、強調は引用者)

なんて言われてもねえ、と鼻白んでしまうんじゃなかろうか。

マルクスの労働論と比較する

 マルキストであるぼくはマルクスと比較する。
 たしかに、マルクスは初期に、分業的人間を否定し、

各人が活動の排他的な領域をもつのではなく、むしろそれぞれの任意の部門で自分を発達させることができる共産主義社会においては、社会が全般的生産を規制し、そして、まさにそのことによって私は、今日はこれをし、明日はあれをするということができるというようになり、狩人、漁師、牧人、あるいは批評家になることなしに、私がまさに好きなように、朝には狩りをし、午後には釣りをし、夕方には牧畜を営み、そして食後には批評をするということができるようになる。

マルクス・エンゲルスドイツ・イデオロギー』)

とのべていた。小川が紹介したのはこの「マルクス」である。
 しかし、マルクスはこの見解を捨て、のちに『資本論』などで、人間の全面発達ということを分業の廃止ではなく、第一に社会全体の主人公になること、社会に参加することで克服し、第二に、労働時間を短縮することで自由時間のなかで(人間の全面発達、能力の開花を)とげようとした。そして労働にはどうやってもイヤイヤやる部分というのは残ると考えたのである。

 なるほど、労働が誇りになる、という人はいるだろう。否定はしない。でも大抵の人は果たしてそういえるだろうか。来る日も来る日も車体の一部のネジを回す仕事をして腱鞘炎になりそうな派遣労働者は簡単に「誇り」を持ち得るだろうか。
 かつての俗流マルキストのように、共産主義社会になれば労働は疎外を克服され輝かしいものになる、というふうにいうだろうか。いや、ヘーゲリアンこと小川はそれさえも言わないだろう。「心のもちように」よって「与えられた持ち場をきっちりとこな」せば、労働は誇りあるものになるのだ!

 ことほどさように、ヘーゲルがつくりあげた政治・国家論には、一定の魅力もあるものの、中途半端さが否めない。

 まず読まれて実感されてみればいいが、プロローグのヘーゲル総理大臣の就任演説は、そのまま読めば実に能天気な規範の押しつけのように聞こえる。小川はぜひ全体の議論を終えてからもう一度読み直してほしいと懇願しているが、たしかに一読後にこのプロローグを再読すればヘーゲルのどのような意図からそれが生まれているかはよくわかるけども、これが日本社会を救う処方とは読めない人も多かろう。


ヘーゲルの政治哲学で目を見張るべきものは

 小川がプロローグの末尾で認めているように、もともとヘーゲルプロイセン国家の秩序の中でモノを言わねばならないという制約におかれていたので、叙述においても思考そのものにおいても、ハンパな部分がある。とりわけ政治を論じた精神哲学部分はそうである。

 ヘーゲルの精神哲学で目を見張るべきものは、合理主義(理性主義)とロマン主義保守主義)との対立を止揚した部分である。
 「社会主義みたいな理性の設計図にもとづいてつくりだされた合理主義はヤバい」という保守主義ロマン主義の主張と、「因習にとらわれまくった保守主義ほど湿っぽくておくれたものはない」という合理主義の主張は、対立の極致にあった。

 それにたいしてヘーゲルが唱えた立場は「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」というものだ。現実の中で生み出されてくる未来的な新しい萌芽こそが新しい現実をふくむものであり、それは古い現実を否定して生まれてくる新しい現実でありそれこそが合理的・理性的なものだとしたのである。
 この革命性こそ、マルクスが受け継いだ唯物史観だった。社会主義というものは、本来、資本主義の現実の中から育ってくるものでなければならず、人造的な、役立たない青写真ではダメだったのである。

 だから、いま保守的なもの=コミュニティとか地域のつながりとかが見直されているけども、そういうもののなかに新しい現実をもって蘇っている側面こそとらえなおすべきだったのだ。

 などとこき下ろしておいて、ナンであるが、この二部構成で哲学的対立を、一つの哲学潮流に斬らせようという試みは、ぼく個人としてはけっこう参考になった。ヘーゲルではなく、マルクスにこれをやらせてみたらけっこうイケるのではないかと思うのである。
 マルクスの解答を与えてマルクス主義オルグするというよりも、マルクスを現代的アポリアのチューター、アドバイザーとして位置づけるようなものができれば、面白いかもしれないな、と思った。