柳原望『高杉さん家のおべんとう』

 ぼくはいま3歳の娘の保護者である。
 つい先日まで娘は0歳の「赤ちゃん」であったのだが、今ではすっかり「子ども」だ。やがて「少女」という段階に発展していくはず(次にいきなり「少年」とか「老人」とかになったらびっくりである)。

 まあ、自分の娘に性的な眼差しを向けることは(おそらく)ないと思うけども、たとえば娘が小学校高学年になったとき、中学生になったとき、高校生になったとき、マンガの形象としての小学校高学年の少女、中学生少女、高校生少女に性的な眼差しをむけることができるだろうか、と思う。

 「もうさー、あんた娘の父親なんだからさー、いい加減そういうのはやめなよー」とはつれあいの苦言。もっともである。
 もっともなんだけども、そういう時期になってもたぶん、マンガの形象として登場する中学生女子に萌えているような気がしてならないのだ。

高杉さん家のおべんとう 1 本書『高杉さん家のおべんとう』は、31歳のさえないオーバードクター・ひょろ長メガネ男子=高杉温巳(はるみ/ハル)のところに、12歳の従妹である少女・久留里(くるり)をひきとり、「保護者」として同居を始める物語だ。最初はディスコミ気味のハルと久留里であるが、タイトルが物語っているように、しゃべるコミュニケーションがへたくそな久留里との間の関係を構築するうえで「弁当」(というか食)が大きな役割を果たす。


ハルは「残念な人」か

 久留里がハルに「淡い恋心」を抱く…といえば恰好はいいけども、どんなに鈍い読者でもわかるように、かなりはっきりとした恋愛感情だ。誰がなんといおうと、「フラッパー」読者たる男子(ぼくを含む)は、久留里に、あるいは久留里とハルの関係に性的な眼差しを向けているのである。

12歳の淡い恋心キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!
 だけど、奥手きわまるうえに、「現実と虚構の区別」をきちんとつけている「ひょろ長メガネ男子」の諸兄は、久留里とセックスなどはとてもできないだろう。自分でない誰かがセックスするならいざしらず、この物語において主人公は「ひょろ長メガネ男子」という自分の似せ絵なのだ。
 そこでは妄想は飛躍せずに、現実の強い制約を受けながら足場を固めていく。
 ハルは、保護者としての社会的役割を「不器用に」こなす。

 まったく「不器用に」だとされている。

 たとえば、新しい中学での久留里の様子を見たハルは、このままではクラスで孤立しかねないとベテラン教師に諭されるものの、自分のなすべきことだと自覚したものは、周囲にとけこむようにするというアドバイスではなく、「悪目立ちしないように弁当の品数を増やす」というトンチンカンな努力だった。ハルは研究(フィールドワーク)でお世話になっている遠くの山村へ野菜をもらいに行き(そもそもガソリン代の方が買うよりも高い)、野菜がなくてコンニャク芋からつくったコンニャクを分けてもらい、深夜に帰ってきたあげく、久留里はコンニャクが嫌いだと判明する有り様なのである。
 同窓の女性からは「いつもの事じゃん 全速力で空回り」とからかわれる。

 あるいは、久留里をドライブにつれだすものの、そのあとのコースがグダグダで、久留里や同乗者たちはミニスカートで来ているのにアスレチックやハイキングなどを予定し、「ハルっちってさ人のこと全然見てないよね」などとキツい一言を浴びるのだった。

 いや「不器用」とはご謙遜。
 たしかにハルは「ドジ男」「ダメ保護者」のように設定されている。作者や担当編集者から「残念な人」と笑われる始末だ(2巻あとがき)。
 しかし考えても見たまえ。
 リアル保護者であるぼくの目からみれば、これほど「有能」な保護者はいない。
 休みにキノコ狩りに一緒に出かけ、ともに食事をつくり、つねに食卓を囲み、自分の持てる教養や知識を伝えようとする。そしてここの言葉に久留里は傷ついていないかと常に心配している。家事といい、子どもへの気遣いといい、申し分ないのである。つまり「男性家族員」として実は「ひょろ長メガネ男子」ども(そして背後にいる女性読者ども)のハイスコアを叩き出しているのだ。

 高杉温巳は我々の「似せ絵」であるとともに「理想」である。

 もしもリアル12歳が突然同居することになれば、「ひょろ長メガネ男子」たちは温巳めざして同じ行動をとるに違いない。いーえ違いあ・り・ま・せ・ん。
 その理想の姿に12歳少女は「淡い恋心」なんか抱いちゃったりするのである。そればかりではなく、女性同僚研究者の小坂に思いを寄せられたりするというボーナス付きだ。

 20代中葉以降の女性たちに聞きたい。
 なるほど女性にとっては家事や育児はあたり前のことであるが、現在の統計的平均からみて、男性がいくら不器用であるとはいえ、このような熱心さと誠実さで家事や育児に真摯に臨もうとするのであれば、それはポイントが高いと言えるのではあるまいか?

高杉さん家のおべんとう 2 (MFコミックス) 12歳美少女の、そして20〜30代女性の気を引きたいのであれば、ありもしない自分のカッコよさを演出する必要などない(できない)。ひょろ長メガネ甲斐性なし男子の唯一とりうる戦略は、育児と家事という保護者としての社会的役割を真摯に、誠実に遂行すること──これである。その真摯さのうちに、12歳美少女が惚れてくれるかもしれないんだからぁ! 完全に妄想だけどね

 これこそ、告白やモーションといったあらゆる恋愛的能動性から無力な、ひょろ長メガネ甲斐性なし男子がとりうる唯一の道なのだ。

 「ドジだけども、まじめな私にきっとふりむいてくれる」というのは、往年の少女マンガの基本であるともいえる。いまそれを三十路、四十路の甲斐性なし男たちがヨダレをたらしながら採用しているのである。キモ


 このマンガにおいて、「お弁当」=料理・食・家事の全体の細部が描かれる。

 キノコ狩りをするときは、キノコの見分け方に始まり、キノコは洗わない、いろんな種類をいっしょに煮た方がおいしくできる、脂ものと一緒に煮るとうまい、等々といった話だ。
 あるいは、久留里の同級生の家に行った時、久留里が後で「師匠」と仰ぐおばあちゃんは、サンドイッチに塗られたバターを批評しながら、冷蔵庫から出してすぐに塗りダマになっていると批判する。それを防ぐためには、どういう準備が必要なのかを説き、段取りと見通しが家事にとっていかに重要かを述べた後で、それ以上に重要なのはその場その場で帳尻をあわせる(その場をしのぐ)という行き当たりばったり力だと矛盾したことを主張するのだ。見通しと段取りは決定的だが、それは十分に見通せない。見通せない以上、その場合になってそれをやりすごしてしまうチエが要るのだというわけだ。
 バターの例で言えば、いちいち時間をかけてバターを解凍なんかできない。それなら、レンジで一瞬のうちに解凍してしまえばいい、とかそういう力のことだ。

 ことほどさように家事の細部を、まさにそれに淫するかのように描くのは、12歳少女とその背後にいる女性に気に入られる自分をリアルに固めていくための手続きなのだ
 もちろん、それがあざといとか、いやらしい、などという気は毛頭ない。
 トゥリビャルな生活のリアルさを描くほどに、このマンガは性的な欲望を補強していく構造になっている。それが丸ごと心地よいのだ。保護者でありながら、オタクとしての性的欲望を眼差すぼくは、両者の視点を破棄することなく、どちらにも制約をうけることなくこのマンガを楽しめる。ありがたいことではないか。

研究の手法が微細な心の動きをとらえる

 さらに、この作品ユニークなことは、ハルの研究分野である地理学のフィールドワークの手法をしばしばマンガの中でエピソードに重ねていることだ。調査対象となる住民の生活を観察したり、本音を話してもらうために信頼関係をつくったりしていくことが、ハルと久留里の関係にも「応用」される。そのことによって、久留里がハルに心を開いていく過程が微細に分析されるということにもなる。

 マルキストであるぼくは、学問的知見が生活の知恵と統一されることに心を躍らせるので、こうした話は大好きなのである。

うさぎドロップ (1) (FC (380)) ちなみに、冒頭にも紹介したとおり、つれあいにとっては、「年の離れた疑似親子が同居を始めて恋愛関係に陥る」というパターンは、いまや娘の保護者となっただけに「虫唾が走る」ようだ。宇仁田ゆみうさぎドロップ』を読んでいても「すごいいい話なのに、このあと、『父』と『娘』が恋仲になるとかそういう最悪な話じゃないよね!」などとぼくに迫ってくるのである。知るかっつーの。

 本作については、1巻を読んでいた時は、あまり好きになれなかった。80年代的なオタク女子のような、フラットな会話のやりとりがなじめなかったし、久留里とハルだけの関係がクローズアップされすぎていてそれはそれで貧弱なものを感じたのである。ところが2巻になって、二人のまわりの人間関係がにぎやかになり、いろんな恋愛のベクトルがさしはさまれることで、ややこしくならずに、逆にいい意味で二人の関係を(物語上)中和することになった。キャラの逐次連続投入が功を奏する稀有な例ではないか。