ブルボン小林『マンガホニャララ』

 本屋で偶然手にとったのだが、最後まであっという間に読んでしまった。

 関係ないけどジュンク堂福岡店は、こういう本までシュリンクするなよ。マンガじゃねーじゃん。しかも、中を確認したいので指を入れて見ようとしたら「本が傷みます!」と激怒された。「どうすればいいんですか」と聞くと「カウンターにお持ちいただければ袋を破きます!」とものすごい剣幕である。あのなあ、いちいちそんなことやっていたら買い手の側が大変だろうが。エロマンガとか、そこまでいかなくてもちょっと買うのが恥ずかしいというようなマンガ(超メジャーマンガを買うとかも個人的には恥ずかしい)とか、そういうものをいちいちカウンターに1冊1冊持って行って羞恥プレイをせねばならない、その精神的負担感を多少でも想像してみろ。そもそもぼくの買おうとしたのはマンガですらないのに。いやがらせに100冊くらい持って行こうかとさえ思ったよ
 書店員とかに意見を聞いてみたいのだが、シュリンクのかかっていない隙間から指を入れたり、本の天の部分を凸レンズ状にしてわずかに本の中身を確認することも「本が傷む」のだろうか? そもそも一般書籍を内容確認程度に「立ち読み」するのと、本の傷み具合はそんなに差がないと思うのだが。

 気をとりなおして本題。

 マンガの評論やレビューを紙媒体でやるときにつきまという困難は、限られた字数で知らない作品を紹介するというのは、どうしても読者の興がのらない、ということである。
 読んだもののレビューを読むのは敷居が低い。当たり前である。「おれが読んだアレ、他のやつはどう感じているのかな」っていうのはむしろ読み手の側から求めている場合すらある。これに対して、見たことも聞いたこともないマンガについては関心はゼロである。何が面白いのかを最初から、ほぼ文字のみで説明しないといけない。前者はマンガ本体の面白さが味方をしてくれているというのに、後者はその援護は頼めない。前者が戦車やミサイルなどの武器をもって戦うのに対して、後者は竹槍で戦うのに等しい。
 「マンガ評を読む人はそのマンガを読んでいなくても『どんな楽しいマンガがあるのかな?』という期待感で読むんじゃないか」と思う人がいるかもしれないが、そういう期待感をもって読むのはインターネットの検索で来る人であって紙媒体の読者ではない。「朝日新聞」の日曜日の「コミックガイド」くらいじゃないのか。
 「週刊文春」とか、ぼくが書いている「ザ・スニーカー」や「週刊アスキー」なんかでマンガ評を読もうと思って買うやつなんかホント少数だろう。

マンガホニャララ そこで本書である。

 本書の前半部分は「週刊文春」でのブルボン小林の連載を単行本化したものである。
 本書が採用した方法は、第一に、「週刊文春」読者が知っていそうな80〜90年代マンガと新作マンガの評論をからみあわせていることである。
 これはぼくがリアル生活のなかで接する経験に合致している。
 ぼくがマンガ好きだとわかったとき、相手の「一般人」は、マンガの話題を振ってくるものの、それは主に70年代から80年代、せいぜい90年代のメジャーマンガなのである。『ドカベン』『タッチ』『マカロニほうれん荘』『北斗の拳』『キャプテン翼』『寄生獣』……それらのマンガは読んだことがあるものの、ぼくが熱をこめて読んでいる今のマンガとは違うので、おのずとずれてしまう。「音楽が好きです」といったときに、ヒップホップが好きなのにバッハや松田聖子について語られてもなあというようなものであろう。
 本書では、『いじわるばあさん』と『カラスヤサトシ』を並べて論じたりする。あるいは『巨人の星』と『おおきく振りかぶって』、『ルパン三世』と『あずまんが大王』、つげ義春衿沢世衣子といった具合である。
 昔のマンガしか言及しない回もあるし、新作・マイナー系マンガだけのときもあるが、昔のマンガが顔をのぞかせる比率が圧倒的に高い。「マンガについて語りたい」「マンガについての語りを聞きたい」ということはよほどのマンガファンでないかぎりはおそらくこのような比率で語られることを望んでいるに違いない。
 それによって、読者は格段にこの欄に近づきやすくなっているのではないか。

 もう一つの本書の方法は、作品論ではなく、マンガのなかに共通してみられる「構造」や「現象」に着目して、そこから導入しているということである(そればかりではないが)。書き出しをいくつか書いてみよう。

創作には、作られたときの「気分」が保存されている。

漫画には「人気」がある。

ギャグ漫画には賞味期限があるとは昔からいわれることだ。

・スポーツ漫画だからといって、出てくる人物全員がスポーツするわけではない。見守る人というのが出てくる。

漫画はその特性上、人物に必ず見た目がある。

 これは第一の手法とつながっているのだが、読者がよく知っているマンガにもある構造や現象をとりあげながら、新作も同じ構造を持つとかそれを大きく逸脱しているとか、そういう話の運びをする。

 加えて、ブルボン小林の批評には、オタクくささが弱い。というとブルボン小林は怒るかもしれないのだが、オタク本来のありようとしては書誌目録的な知識の量・細かさが背後に存在し、それが厳密化するとマンガ研究者のようになるわけだが、そういう洗練された形跡がない。本人が本書のカエシのプロフィール欄で「なるべく取材せず、洞察を頼りに」がモットーだと書いているから、当然のことかもしれないが。
 ぼくになぞらえて恐縮だが、ぼく程度の知識量で書いている、という臭いがぷんぷんしているのである。だから「ジャンプは昔は『明るいお調子者で女の子に甘いが、やるときゃやる』という主人公だったが、近頃は草食系男子が増えている」などという厳密な研究者ならしないであろう決めつけを平気でやるし、「キャラと個性は違う」という主張もマンガ評論に慣れた人間にはいかにも素人くさい議論であろう。
 しかし、逆にそれがいい。
 こういう温度でうかつにマンガを語りたいのだ、という欲望に本書はよく応えている。
 マンガ評論は、マンガ研究に席巻されたので、データ解析とか書誌目録的歴史知識とか表現論からのものがぐっと多くなってしまった。そのために「文の芸」としての評論や批評はずいぶん衰退したように思われる。
 本書のような評論を「粗雑な印象批評」として退けるむきがあったのだが、もともと批評という行為は対象のゆらぎや違和をつかまえる営為であるから、それが直感によるかデータやロジックによるかは問わない。選択肢は多い方がいいけども、直感や印象、データにもとづかない洞察などだけで批評を組み立てるということももっと残されていいはずである。
 ネット上にそういう批評はたくさんあるけども、やはりクオリティが高いものは少ない。そのために、人を楽しませ、感興をもよおさせる「文の芸」としての、このような評論はもっと讃えられるべきであろう。

 それにしても、ぼくはブルボン小林を知らなかった。
 年をみるとぼくと同世代だけど、ぼくよりも若いやつではないか! 若輩のくせに「週刊文春」などというメジャー媒体に連載などしおってけしからん、こちらに菓子折りのひとつももってきて挨拶があってしかるべきだと思っていたら、長嶋有の別名かよ! ひょっとして有名すぎる事実だったでしょうか。知らぬは紙屋研究所ばかりなり。