藤原カムイ『ROOTS』

ROOTS
 藤原カムイという作家にはずいぶん早くから出会ったのだが、一度も好きになれないで来た。お前になんか好きになってもらわなくて結構、という藤原の声が聞こえてきそうだが。出会った当時としては、絵柄がスタイリッシュだったので目を見張ったものだったが、ストーリーをふくめマンガとして読ませるものに乏しいという印象なのだ。

 最近も朝日新聞出版の「週刊マンガ日本史」シリーズの第1回目に藤原と出会い(「出遭い」と書いた方がいいかもしれない)、げんなりさせられた。
http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/himiko.html

 そういう藤原であるが、今回「マイまんが道にハズレなし」というぼくの確信にもとづいて買った。フィクションではあるが、多分に自伝的であろうマンガだからである。

 『ROOTS』というタイトルが示すとおり、一人の漫画家が生成されるまでに影響を受けた様々なサブカルチャーや歴史事件が「書誌的・リスト的・目録的」に並べられていく。
 スプートニク、ダッコちゃん、力道山、テレビ、安保反対運動、坂本九ガガーリン、ミッチーブーム、てなもんや三度笠……という具合である。

 この「書誌的・リスト的・目録的理性」について、以前、竹内一郎手塚治虫=ストーリーマンガの起源』批判で書いた。
http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/storymanga.html

 大塚英志伊藤剛を引用する形でそれを書いたので、今回も引用しておこう。

イデオロギー的視点を排した時「歴史」は、それに代わる歴史観がなければ、ただの固有名詞の羅列になってしまう。もしくは他愛のない「蘊蓄」になるしかない。まんがで最初に女性器を描いたのは誰の何という作品かとか、それが、ある歴史の流れの象徴的な出来事として位置づけられるのならいいけれど、「トリビアの泉」的な「へえー」で終わってしまうのでは意味がない。
(大塚『ジャパニメーションはなぜ敗れるか』p.47〜48)

二上洋一『少女まんがの系譜』の作品史は――引用者注〕ただ時代順に列挙されているという域を出ず、固有名詞ばかりがひどく目立つ。個々の作品に対する評価や相互の位置づけは行われておらず、ただただ総花的に「抜け」を作らないように固有名が並べられているように見える。個別には意味のある情報だったものが、並列に扱われることによって「ホワイトノイズ化」しているのである。……〔中略〕……二上は歴史の記述、とりわけマンガのような表現の歴史の記述には、歴史観、一定の枠組みが必要であることを承知している。そのうえで、それを提示することを避けている。
(伊藤『テヅカ・イズ・デッド』p.284〜285)

 主人公の光貴の乳児期は仕方がないとしても、内面が形成される幼児期になってからもこうした「書誌的・リスト的・目録的」な調子はあまり変わらない。
 いや、もちろん一本調子ではなくて、ところどころにアクセントは置かれている。
 たとえば『鉄腕アトム』の影響を描くところでは、心象風景がマンガらしく拡大されて描かれる。自転車の前に載せてもらった体験を、「空を飛ぶ」体験として描き替え、それをアトムと一体化した内的風景として描く、という具合だ。
 だけど……まあ、それだけなのである。
 とりたてて深みというものがない。

 電車に乗ったとき、仮想忍者をつくって電車と並走させる、という妄想は、ぼくも小さい頃よくやったものだが、このモチーフは最近でも黒田硫黄がもっと面白くやっている。

 漫画家が形成される、歪み切ってデコボコになった内面史こそぼくが期待していたものであるが、これでは凡人の「なつかしい昭和史」ではないか。困ったものである。
 竹内一郎を批判した時に書いたことではあるが、一体自分の「ルーツ」をこのように「書誌的・リスト的・目録的」に並べていく必要がどこにあったのだろうか。
 光貴の家庭の事情などもあまりアクセントが置かれず、大事だったことが時系列的にそのまま(素材のまま)ごろりごろりと置かれているような印象を受ける。
 生まれた。
 従業員にお金を持ち逃げされた。
 また雇った。
 電車を止めた……
 一つひとつは決してつまらないことではないのかもしれないが、この平板さはどうだ。

 ぼくは、このマンガを面白いと思う人は、あまりマンガという文化には今現在触れていないような、そしてこの時代を共有しているような世代、ぼくの職場にいる50代前後の男性たちではないかと思う。
 彼らがこの作品を読みながら、「そうそう、森永のミルクキャラメルのCM、こんなのあったよなァ」と言いながら楽しくそのCMソング口ずさむ、とか、「たしかにウルトラQからウルトラマンになったときこんなこと思ったよ」と言いあうとか、「あのころ電気風呂ってあったよなあ。あれって何だったんだ?」と思い出話に花が咲くとか、そんな光景である。

でも「マグマ大使」ってさあ…
怪獣がカッチョわるいよねェ…
やっぱり怪獣は「ウルトラマン」だね
バルタン星人とかほんとうにいそうだもんな!

この作品にはこうした子どもの短い、しかし鋭い批評が随所に差し込まれる。サブカルチャーやマンガ文化に長い時間浸ってきた人にはあまり目新しさはないのかもしれないが、大多数の一般人にとっては「書誌的・リスト的・目録的」に並べられた事象の一つひとつにこうした「鋭利な」コメントがつけられていくのは快感なのかもしれない。
 たとえば、「脱脂粉乳が臭い」というp.160-161のような描写でさえ、読む人は共感し、そばから話題にするだろう。

 この漫画はそのような人たちを対象にしてし、ノスタルジーを掻き立てるために描かれた、と考えれば合点がいく。

 だが、これが藤原カムイが選んだ「個人史から出発して漫画家としてのルーツを描きながら普遍性を獲得する」という方法であるとするなら、ぼくは大層残念な気持ちである。

 その普遍性はその世代にしか届かないうえに、マンガ作品としてどうなのかという思いが残るからだ。

ピコピコ少年 たとえば押切蓮介『ピコピコ少年』は作者のゲームというルーツを思い切ったデフォルメで描き、主人公の病的なゲーム廃人人生ぶりをマンガとして楽しみつつ、ぼく自身もゲームに浸った自分史を振り返って共感することができた。
http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/picopicoboy.html

 マンガ作品としての普遍性を獲得するとはそのような方法ではなかろうか。

 なお、この作品は冒頭に描かれた戦後漫画の樹形図が話題になったのだが、もともとすべてを網羅する形でこのような系統図を描くことは至難であって、ここに描かれたものは、まさに藤原カムイの内面形成における戦後漫画史の樹形図なのであろう。
 逆にいえば、ここに描かれていない人を見ることで、藤原の中では誰が存在感を持ち、誰が「いない」ことになっているかに興味が湧く。

 あと、言っておきたいどうでもいいこと。藤原のナレーションの書き方で「…」が多いのが本当にクドいと思う。やめて!