末次由紀『ちはやふる』

 引っ越し第一弾の記事なので、やっぱり大物マンガをとりあげたい。まずは末次由紀の『ちはやふる』について書こうではないか。

スポーツのエトス

 スポーツでも将棋でも仕事でも何でもよい。「勝負」をして「負けた」とき、あなたはどうするか。敗北感と向き合うことは実にツラいことである。何しろ「負けた」のである。負け。相手や他の人は価値ある者として認められ、自分は価値なき者もしくはより価値の低いものとしてクッキリと烙印を押されたのだ

 とりわけスポーツというものは、勝と敗の明暗そのものを問う行為である。「みんながんばった」「みんなが勝者」などというのスポーツのエトスにおいて欺瞞以外の何者でもない。

 スポーツとは勝者と敗者を決めることだ。

このスポーツのエトスから導かれる競技者のエトス(内在的目的)とは何でしょう。それは勝利です。
(川谷茂樹『スポーツ倫理学講義』p.81*1


 どんなに実力がある、強い、といわれていても、試合という勝負に敗れるなら、その評価は何の意味もない。勝った方こそ強者であり、負けた方こそ弱者である。

ほんとうは強かったけれども負けたということは、ありえないのです。……「強さ」が試合の勝敗によって決定されるという思想こそが、スポーツの根本的な思想です。……スポーツにおいては、試合で発揮されない潜在的な「強さ」などナンセンスです。
(川谷前掲書p.54〜55)

 だからこそ、勝敗の決定をエトスとするスポーツは、暴力的ともいえる作用をおよぼすのである。「子どもの教育にはスポーツ♪」とか呑気なこと言ってんじゃねーよ! スポーツは道徳的にはものすごく「危険」なものなのだ!

 末次由紀ちはやふる』は、このスポーツのエトスを、敗北感の側から描きつくす。


競技かるたというスポーツ

 『ちはやふる』は競技かるたを描いた物語である。主人公の綾瀬千早は、競技かるたを見たとき、次のような印象を抱く。

あたしの知ってるかるたは——
ひまつぶしのトランプや
ボードゲームみたいな——

違う

スポーツだ
(1巻p.89〜91)

 千早は「遊び」と「スポーツ」を判然と分ける。
 千早はそれを論理化して示すことはないが、物語の随所で示されるのは、まさしく哲学者である川谷茂樹が明らかにしたようなスポーツのエトスそのものである。川谷は前掲書において、自分の幼少期を振り返ってこう書いている。

チームの中心にはYという同級生がいた。四番・サードで実質的には監督も兼ねていたYは、きれいごとではない、ほんとうのスポーツマンシップを全身で表現していた。一言で言えばそれは、「なりふり構わず勝ちにいく」という精神である。たとえちょっとしたお遊びの試合でも、負けるとグローブを地面に叩きつけて悔しがるYの姿や、それに気押されて敵も味方も静まり返る校庭の空気感を、今でも鮮明に思い起こすことができる。
(川谷前掲書p.250)

勝負を「降りて」しまうということ

 『ちはやふる』は勝負を「降りて」しまう人間の悲しさや弱さがこれでもかというほどに描かれる。
 千早がつくった高校のかるた部に所属した「肉まんくん」こと西田優征は、小さい頃にかるたがうまかったものの、自分を常にまかす男の出現に、勝ち抜くということを「あきらめて」しまう。スポーツのエトスを放棄するのである。
 しかし、全国高校かるた選手権大会の東京都予選に出ているとき、西田は相手に勝ちたいという気持ちがよみがえる。

あきらめない
あきらめない
おれだけの試合じゃない
ああ師匠 もっと練習してればよかったよ
勝ちたいよ
勝ちたいよ
(2巻p.178)

 あるいは、負けて泣く人たちの横にはこんな一文がそえられる。

悔しい
悔しい
あの日 悔しくて良かったって
いつか笑って言いたい
(8巻p.106)

 スポーツという勝負を真剣かつ純粋に追求すれば、負けたときのツラさはたとえようもない。だからその負けたツラさから目をそらせることもできる。
 はじめから本腰を入れなければよいのだ。
 「遊び」だということにしてしまえばよい。気持ちをすべて乗せ、持てるリソースをすべて動員するからこそ、勝った時には突き抜けるような爽快感が生まれるし、負けた時にはたとえようもない屈辱感に苛まれる。

 西田に敗れた真島太一は、敗れた後で、西田の勝利は偶然ではないかという思いに囚われる。実際西田はチャンスをよく自覚していなかったのだ。しかし自分がチャンスを何度も逃し、振り返って西田がよくしのいだことを思い起こして、自分の甘い敗北総括を否定する。

まだまだだったんだ おれが
きついな
一生懸命って…
言い訳がきかねえよ
(4巻p.145)

 ここには作者・末次の勝負観、あるいは敗北感が端的に描かれている。スポーツのエトスの前では「言い訳」はきかないのだ。敗者は純然たる敗者である。どのように弁明しようとも、負けたという結果しかそこにはない。「スポーツにおいては、試合で発揮されない潜在的な『強さ』などナンセンスです」という川谷の論理がそのまま敗者の口をふさぐのだ。


敗北を通してスポーツのエトスを描く

 そして、『ちはやふる』の勝負描写は、少なくとも現行の8巻までにおいては、勝利の描写ではなく、敗北の描写こそが圧巻である。
 千早は、かるたクィーン(競技かるたにおける女性のトップ)で高校1年生の若宮詩暢と対戦し、徹底的に制圧される。ほとんど手も足も出ず、若宮の勝ちっぷりの前にギャラリーは心中、「公開処刑ってゆーんだよ こーゆーの」「マジ当たりたくねー」と戦慄する。
 千早自身はかろうじて終盤に反撃を繰り出すのだが、結果は大差で敗北。
 会場から消え、ロビーで座っている千早に声をかけようとした真島が見たものは、大粒の涙をこぼしながら、自分に言い聞かせるようにつぶやく千早の姿だった。

直線 まっすぐだ
暗記をもっと完璧にしないと
出られない
暗記 暗記
まっすぐ まっすぐ
まっすぐ 速く
よく聴いて もっと もっと
あの子に勝つにはどうしたら!?
勝つにはどうしたら!?

 それを陰から見た真島は、

ああ 今日だ
いまやっと
千早の夢が 本物の夢に
(5巻p.118〜120)

 千早の夢とは「かるたで日本一=世界一」になることである。それが「本物の夢」になるとは、漠然とした願望ではなく、具体的に首位にある者を打倒し、自分がそこに立つことをイメージする——そんな歩みを始めたことを意味する。
 ここには、スポーツのエトスそのものが、敗北の屈辱から見事に描かれている。読者であるぼくらは、千早の悔しさをわが事のように味わいつつ、何としても勝とうとする千早の気迫に打ちのめされるだろう。8巻までのなかで白眉ともいうべきシーンである。

 作者の末次は、「トレース騒動」によってそれまでの作品を絶版に追い込まれた経験をもつ。そのことが本作に影響しているのかどうかは、ぼくの勝手な想像にすぎないのだが、マンガという仕事の舞台を一つの勝負と見立てるなら、末次は途方もない敗北を味わったに違いない。敗北を嘗め尽くした者だからこそここまで敗北の描写を鋭角にできるのではないか、そんなふうにぼくが思うのは、邪推というものだろうか。