「ゲバラ」という非日常、「日本」という日常
週刊誌「SPA!」で、911事件直後、ビンラディンに賞金がかけられたこともあって、「ビンラディンが日暮里に潜伏していたとしたらどこに通報したらいいのか」、という記事が載ったことがある。
この記事が何となく可笑しいのは、「ビンラディン」という国際的な非日常と、「日暮里」というあまりに日本的な日常がセットになっていることである。
ぼくはしりあがり寿の『ゲバラちえ子の革命的日常』について「しんぶん赤旗」で書いたとき、「キューバ革命の英雄チェ・ゲバラはゲリラ戦に生き、僕らの日常とは縁遠い生涯を送ったイメージがある」と冒頭に記した。
しりあがりは、自著『表現したい人のためのマンガ入門』(講談社現代新書)のなかで、笑いについて考察し、ベタなギャグとシュールなギャグにわけ、配置した要素の「関係性の距離」の違いだと論じたことがある。
「たとえば、『アヒルの産んだ卵から恐竜が生まれて、アヒルがビックリ』なんてオチのギャグマンガがあるとしましょう。この時、アヒルから生まれる者が何であるかによってギャグの質が変わってきます。……アヒルのヒヨコでなく白鳥のヒヨコだったらどうでしょう。これは『意外性』と『納得性』のバランスはとれているかな、と思いますが、生まれたのが白鳥のヒヨコではギャグとして意外性に乏しい。……ところが卵の中から『風呂上がりのイチロー』が出てきたらどうでしょう。もうワケがわかりません。……でもそれでもそこに(この例はオモシロくないですが)ギャグの成立する可能性があるのです。……アヒルの卵とイチローの間にあるのは『因果』ではなく『コントラスト』です。そのちがいは、ヒモでひっぱりあっている二人と、引力でひきあっている月と地球の関係のちがいにたとえられます。月と地球の関係は、ひもでひっぱりあっている二人に比べ、はるかにデリケートです」(しりあがり前掲書p.95〜98)
しりあがりは「ヒゲ」と「OL」というコントラストや、「おらあ」と「ロココ」というコントラストをいつもギャグに使ってきた。ぼくがよくしりあがりのギャグセンスを述べるときに例に使う、「お母さん」と「落ち武者」という要素をかけあわせた短編もその一つだ。
ゲバラという非日常、それは革命のロマンチシズムの代名詞のような存在であるが、それと日本というわれわれの日常の配置が、ギャグになるほどのコントラストを出してしまう、としりあがりはふんだのである。
永遠の革命戦士、エルネスト・チェ・ゲバラが、新宿のマツキヨで3箱500円のゴキブリホイホイに手を伸ばそうとして、横にいたおばさんにぶつかり「痛った〜」と苦情を言われている日本的日常の光景など想像できまい。
しりあがりの『ゲバラちえ子…』では、「ゲバラ」の名を冠し戦闘服を着た日本の主婦「ちえ子」が、お茶の間で、人生を知ったかぶりで歌う若手歌手が出ているテレビ番組にツッコミを入れていたりする。
「ゲバラ」と「日本」はそれほどにコントラストが激しいのである。
ゲバラは日本に来ていた
しかし、ご存知だろうか。
ゲバラは日本に来ていたことがある。
うそだろう、ネタか、と思う人もいるだろうが、本当なのだ。
キューバ革命の直後の1959年7月、ゲバラは日本に来て、各地を訪れているのだ。
このゲバラの日本訪問をくわしく書いたのが、直木賞作家でもある三好徹の『チェ・ゲバラ伝』である。
ぼくも他のゲバラの伝記をくわしく知っているわけじゃないんだが、大きな本屋においてあるような外国人のゲバラ伝にはこうした日本訪問の描写はないし、日本人の書いたものにも管見にして言及されているのを他に見たことがない。
この本は9年ほど前、最初の原書房版が出たころに読んだのだが、その点がやたら印象に残った。
口絵*1のところにゲバラが都知事を訪問して「都民の鍵」をもらっている写真があるのが何とも笑える。日本的政治家の野暮ったい背広姿、薄ら笑いと、軍服姿・ヒゲづらでなんとなしに山出し感のあるチェ。すでに冒頭の写真からして激しい日常と非日常のコントラストである(笑)。
東(あずま)都知事はゲバラに会ったこと自体に記憶がなかった。
「そういわれてみれば、なにか戦闘服の訪客を迎えたことは憶えているが、あれがチェ・ゲバラだったのか! という程度だそうである」(p.187=旧原書房版、以下同じ)
ゲバラは何しに日本に来たのか。通商条約を結ぶ下調べ、さらにいえば砂糖をはじめとするキューバの生産品の売り込みであった。このときさまざまな政府関係者にあっているが、最も注目すべきなのは、のちに「所得倍増」政策をうちだした首相として有名になる池田勇人との会見だろう。当時池田は通産相だった。
三好のこの本には、池田とゲバラの会見の全体が載っている。
三好も書いているが、「両者の対話を読みかえしてみて、なによりも強く感じられるのは池田のエコノミック・アニマルぶりである。通商協定を結びたいなら、まず日本の繊維製品をうんと買え、というだけだ」(p.194)。
会見はわずか15分。会話も池田のそっけなさが目立つ。
思えば、チェが革命をしたのは31歳。いまのぼくよりも若い。そんな若造、しかもヒゲぼうぼうの軍服男が来て、大臣相手にキューバの砂糖を買えと言っているわけである。まあたとえていえば、民青(共産系の青年組織)の県委員長とかが「革命やりました。私が革命のヘッドです。うちでとれた砂糖買ってください」とTシャツ姿で売り込みに来ているようなものである。何かクラクラする光景だ。
しかし、世界の認識はそうではなかったと三好はいう。
池田という日本の高度成長の代名詞のような男の態度と、「ナセル、ネルー、スカルノ、チトーといった指導者たちの態度と比べてみても、チェに対する認識不足がはっきりとうかがわれる」(p.195)と三好は揶揄する。「歴史は厳正な審判者である。いまかれらは共に鬼籍にあるが、その世界史における評価にははるかなへだたりが生じてしまった」(同)。
そして、ゲバラは、わが故郷、愛知県にも来ているのである。
ゲバラが愛知県に!
もう本当に、愛知生まれのぼくからすれば、冗談としか思えない組み合わせである。あのぼくがほげほげした幼少時代をすごした空間にゲバラが? 塾の帰りに「うまい棒」20本ドカ買いしたあの土地にゲバラが? きらいな肉じゃがの給食を完食できず放課後居残りで食わされることが嫌でポケットに肉じゃがをつめて帰ったあの街にゲバラが?
エルネスト・チェ・ゲバラがその愛知に何をしに来たのかというと、トヨタの工場の見学なのであった。
ここでもやはり案内役はゲバラとの会話内容を記憶していない。
ゲバラは日本に来て最も感動したことの一つは「工業力」とそれをささえる労働力の「勤勉さ」であったようだ。「かれのその後の文章や演説中に、しばしば日本の工業力をほめる言葉が見られる」(p.213)。
ゲバラに同行したフェルナンデス大尉は次のように述べている。
「チェは日本に行く前、日本人の精神力というか、日本の心を高く評価していた。日本人がきわめて勤勉だということも理解しており、日本を訪問国に選んだ動機のひとつにもなっていた。その面について、じっさいに日本へ行き、大阪で工場見学をしたり、東京でソニーの工場を見たりして、その考えが間違っていなかったということを認識した。……日本の若い世代が非常に進歩的だという感じもうけた。日本の前にインドに行ったときは、国自体がなにかダランとしてゆるんでいるように見えた。少しも働こうとしていなかった。日本では、すべての人が働く意欲にみちていると思った」(p.211)
ゲバラのヒロシマ訪問
しかし、なんと言ってもゲバラが来日において最も心を動かされたものの一つは、ヒロシマ訪問だったようである。
フェルナンデスの証言によれば、ゲバラは初めからヒロシマ訪問を切望していたようであるが、日本側はどうも乗り気ではなく、ゲバラ一行は急遽予定を変更してヒロシマを訪れている。もちろん「広島」ではなく「ヒロシマ」である。
陽気でおしゃべりなラテンの人たちのなかで、ゲバラは寡黙だった——日本での証言者たちに共通する内容である。そして「眼が澄んでいた」というもの共通している。
その寡黙なゲバラが広島の原爆資料館を見ている中で声をあげた。
「『きみたち日本人は、アメリカにこれほど残虐な目にあわされて、腹が立たないのか』
それまで見口氏〔県の案内役——引用者注〕はもっぱら大使と話すだけで、チェやフェルナンデスとは、ほとんど口をきいていなかった。それまで無口だったチェがこのとき不意に語りかけ、原爆の惨禍の凄じさに同情と怒りをみせたのである。見口氏はいう。
『眼がじつに澄んでいる人だったことが印象的です。そのことをいわれたときも、ぎくっとしたのを覚えています。のちに新聞でかれが工業相になったのを知ったとき、あの人物はなるべき人だったな、と思い、その後カストロと別れてボリビアで死んだと聞いたときも、なるほどと思ったことがあります。わたしの気持ちとしては、ゆっくり話せば、たとえば短歌などを話題にして話せる男ではないか、といったふうな感じでした』」(p.206〜207)
ゲバラと短歌!
この見口氏の感想とエピソードは、ゲバラにわれわれがよせるロマンチシズムを非常によく体現している。ゲバラは「政治」の渦中にいた男であるが、それは「統治」の側ではなく、最後まで「運動」の側にいたこと、すなわち原初的な怒りや悲しみの共有の側にいたのではないか、もっといえば「感性」の側にいたのではないか、というロマンチシズムである。
しかしこれはまあ、われわれの勝手なロマンチシズムである。
見口氏が「かれが工業相になったのを知ったとき、あの人物はなるべき人だったな、と思い」と述べているのは、ゲバラの統治への能力についても買った言葉であろうと思う。
ゲバラは帰国後「原爆から立ち直った日本」と題するレポートをカストロに提出していて(非公開)、そのタイトルから推察されるように、あるいは帰国後のテレビ番組で日本の印象について報告した際に原爆と工業力について触れたように、原爆の惨禍から出発しながらも統治の論理へと冷静につなげる視点も持っていた。
この三好の『チェ・ゲバラ伝』には、他にも広島のホテルでチェックアウトのさいの電話代の支払いについて「おれ、こんな電話かけてねーよ!」とフロントとセコく争う姿(笑)や、ゲバラが大阪の料亭に行く話、ゲイシャガールに会う話、銀座でみやげものを買う話などがあって、興味がつきない。
まぎれもなく、ゲバラは日本という日常に「実在」していたのである。
いや、誤解しないでほしいが、三好のこの本は『チェ・ゲバラの日本滞在珍道中』ではない。日本訪問の記録はごく一部であって、全体は、ゲバラという人物の生涯をわかりやすい筆致と、印象的なエピソードでつづってある格好の「ゲバラ入門書」である。