矢口高雄『9で割れ!』

 矢口高雄『9で割れ!』は、高度成長期、矢口が漫画家になる前の銀行員時代のことを描いた自伝的漫画である。

 

 

 銀行がシャッターを閉めてから出納と伝票の結果をあわせて一致していれば仕事終了のメドがたつが、一致していないと「出納事故」となり、勘定間違いや集計ミスをさがして一致するまで繰り返される。
 そのとき、まず最初にやる作業が「9で割る」ことなのだ。一番犯しやすいミスは桁を間違えて記入することである。たとえば1万5千円を15万円と記入すると、13万5千円の不足が生じるが、その不足額を9でわると13万5千円÷9=1万5000円とたちどころに元の記入ミスをしている数字が発覚するのである。これがタイトルの「9で割れ」の由来である。
 最近まで信金に勤めていた女性に聞いたのだが、今でもやるそうである。
 1円でもミスが許されず、そのために膨大なエネルギーを消尽するという銀行の世界を象徴する慣習として、矢口はこのタイトルをとりあげた。

 1958年に秋田の高校を卒業して銀行に勤めた矢口高雄のもとには生命保険会社の勧誘が次々やってくる。そのあとは「背広」の仕立て注文伺いがやってくる(当時の銀行には「試雇」という期間があり、この間は矢口は学生服ですごした)。

 コンベアに乗せられるように、新入社員である矢口の生活が次々と「定められて」いく。
 どこでもいいから会社にいけば正社員がいて、そして毎年だいたい供給され、それにむらがれば保険でもスーツでもちゃんと関連業界がスムーズに吸い取ることができたし、吸い取られた方もそれで「世間標準」のサービスや保障のなかに身を漬けることができた。

 それだけでなく、仕事も決まっている。
 仕事も入ってまず最初は札束の勘定(「札勘」)、そして「計算係」になって前日の収支を記帳し、日計表やバランスシートをつくる。「たいていの新入行員がたどるお決まりのコースでした」(矢口)。
 なにもかもが決められたコースのように道筋が決まっている。人生も。
 そもそも、矢口は地元の高校から推薦をうけるような形で県内1、2位の銀行をうけて入社する。高度成長期の銀行員、ひいてはサラリーマンには学校の出口の段階から人生が設計できるしくみになっている。

 高度成長とはたえず富(生産財消費財、サービス)を拡大していく過程であり、それが最終的に国民各層にふりわけられるわけで、多少の争いはあるだろうが、全体としては「決まりきった仕事」をしていても、自分たちが得る富は増えるか、少なくとも減らない、というタテマエの社会である。

 矢口の『9で割れ!』は、自分が人生の階梯のどこに来ているのかを正確に見定められる、そんな「決まりきった世界」の記録だ。「決まりきった」ものなのに、矢口の自然主義的な解剖にかかると、ひどく心騒ぐ。もちろん、矢口流の精選されたエピソード(当直で殺害される銀行員、水商売の女性に溺れて身を持ち崩す銀行員、テレビを売る銀行員など)がふんだんにもりこまれることで、鮮やかな彩色が施された作品に仕上げられているのだが。

 この本を読んでいると「決まりきった世界」というものは、なんと安心感にみちた世界かという気がしてくる。余計な野心さえおこさなければ(漫画家になろう、とかw)、適度な目標と安楽さのなかで暮らしていけるからだ。
 実態がどうだったかはさておき、本書のなかの戦後日本は、「戦後民主主義とは、なかなかいい社会だった」とナイーブに思えるだろう。

 近代の草創期がもたらす明るい楽観は、日本では明治時代にあったとされている。司馬はその伝説を信じて小説を紡いだ。日本は十五年戦争の敗北によってそのナショナリズムをご破算にしてしまう。
 かわって、「近代の草創期」を再びやりなおしたのが新憲法下、高度成長下の戦後日本だった。矢口のこの作品から漂ってくる奇妙な安心感と楽観は、日本の、やり直された「近代草創期」への懐古である。

 以前ぼくの出ている自主ゼミで、高度成長期の「表象」が頭にないことが問題になった。つまり、経済史としてはわかるが、「実感」「イメージ」をもって歴史をふりかえる作業ができないことだ。源氏鶏太の小説とか城山三郎の小説とかNHKのビデオとかいろいろ出たが、矢口のこの本はそのために使うことができるだろう。