深見じゅん『おとぎ話つづく』

 登場人物の服装にどれくらい気をつけているか、ということは、女性漫画家によってずいぶんちがうと、つれあいから教えられたことがある。

 もともと、男性系アニメに出てくる女性の服装とか髪型があまりにも浮き世離れしていて、街でこんな格好をしている若い女性というのは、一人もいまい、というようなものばかりである。欲望を十全に満たすという前提から出発して、ある種の定向進化をとげていった、奇妙なものが多い。
 この欲望から眺めることのできる「女性像」については、別の機会に論じることもあるだろう。

 さて、女性漫画の服装である。

 たとえば、槇村さとるというのは、非常に描くものに気を遣っているといえる。いま流行っているものをきちんと折り込むし、おそらく楽しんで描いているのだろう。
 逢坂みえこになると、かなり横着な状況になる。作者が青春時代をすごしたであろう80年代で基本は停止し、そこからわずかに現代的なアレンジをしているだけで、あまり気を遣っていないことがわかる。

 あまたの有名な女性漫画家群のなかで、突出して無頓着なのは、深見じゅんだ。
 任意の作品のどれもが、おどろくべき服装・髪型をしている。

 女性はまるで70年代の安手のテレビドラマでわりと初期に殺されるB級女優のような格好をしている。「○○湯けむり殺人事件」とか。
 男性にいたってはさらにひどく、だいたいハンサム系だと物語のなかで設定されている男性の顔は毎回決まっているのだが、時間が止まった商店街にある「おしゃれサロン ブチック・マエダ」というあたりの名前の店で売られている服と、そこに貼ってあるモデルの写真並みのふるさだ。
 深見じゅんの短編は80年代の作品が多いが、90年代、そして21世紀になってもあまり変わらない。

 この絵にくわえて、筋そのものの「ありきたり」さ。
 たとえば、この短編集の冒頭にでてくるのは、都会に出てきてスーパーの売り子をしている女性の話。ひょんなことで大学の構内にいたために、そこの学生とまちがえられ、学生と恋に落ちる。
 主人公は、ふだんの売り子の生活と現実を忘れるために、自分の生活には踏みいられないようにし、その男子学生との逢瀬を「おとぎ話」だと設定する。
 やがて、男の昔の女が現われ、復縁をもとめて泣き叫び、主人公との関係は終わる。

 こう書けば、どこにでもあるメロドラマのようだ。
 そこに、時代とは無縁のような絵が配されるのだから、救いようがなく思える。


 にもかかわらず。

 深見じゅんは、うまい。

 出来のよい短編は泣けてしまう。
 前述の短編「おとぎ話つづく」では、女が一目惚れをした男が、「大丈夫 酔ったら介抱してあげるよ」と冗談ごかして言うと、それはもう真剣なまなざしで「ほんとですか?」と聞き、くりかえし「ほんとですか」ともう一度尋ねる。このシーンだけで、少しばかり狂気じみた熱情が伝わってくるから、まったく不思議だ。
 恋が終わって、自分の部屋で入浴し、Tシャツとタンパンに着替え、缶ビールをのみ、マットレスのうえで、涙を流す。

 

 

 「大理石のバスタブをお湯が流れます シルクのドレッシングガウンを着ます バカラのグラスにブランディが光ります 毛皮のクッションにもたれて お姫さまは泣きませんでした」

 と、現実とおとぎ話が交錯し、次のページで、お城にたたずむお姫さまの大画面。

 「とってもいい恋だったと思えたから 泣きませんでした」

 現実を忘れるためにはまり込んだおとぎ話ではなく、ひとりの男性にむけた熱情だったということを、恋が終わった後に主人公が自分で承認するのだ。「とってもいい恋だったと思えたから」は、非常によく考え抜かれた、いいことばだと思う。
 そして次のページから、再び売り子として営業用の笑顔を浮かべながら店頭に立つカットがつづく。
 日々の労働へかえっていく。

 深見は、長篇はまるでちがう味をだすが、短編はこのようにシャープで、とくに悲劇や狂気にすぐれた描写が多いと思う。それは昨今はやりの「サイコホラー」ではなく、生活のすぐそばで染み出てくるような狂気で、わたしたちのとなりで絶えず、今も湧き出ている。この短編集のなかにも、「欲望について」という、主婦がキッチンドリンカーになっていく小品がある。

 時代を感じさせない服装や登場人物が、かえって、物語に読者を集中させるのか。
 深見の絵柄は、どれもが、普遍性をもった「おとぎ話」のように見えてくる効果を逆にあげている。


 「YOU」への連載が多いことから、主婦層を対象にした作品が深見の一大ジャンルをなしている。

 松田道雄は『恋愛なんかやめておけ』のなかで、エンゲルスの「恋愛=結婚」観??愛のある結婚だけが道徳的であり、愛のない結婚をつづけることは道徳的ではない??を批判し、戦前の左翼である伊藤野枝を例に出して、「結婚=恋愛」という観念に苦しんだんだとのべ、だからこそ“ものがわかる”男たちは、結婚と恋愛を別ものだと考えて姦通や女郎買いに精を出したとのべる。

 これにたいし、日下翠は、『漫画学ノススメ』で、この松田の見解――結婚と恋愛は別ものだ――を批判し、深見じゅんをあげて、深見の作品こそ、恋愛のあとにやってきた結婚のなかにどんなふうにわれわれが恋愛を見い出していくのかということを示しているとのべる。そして、深見の作品を、恋愛から結婚への軟着陸だと指摘する。

 さきほどあげた「欲望について」という短編も、結婚後のわれわれの幸福や交情についてである。
 女は結婚して幸福を手に入れたはずなのだが、そこに広がる倦怠は、欲望の圧殺と理解されるようになり、やがてその欲望をゆがんだ形で実現していくという狂気にかわっていく。

 そしてその解決として提示されるものは、夫と「ゆっくり話そう」ということにつきるのだ。
 それはやはり日下が前掲書のなかでとりあげた深見の別の短編でも、女が他愛のない話を男に聞いてもらいたがっている、という解決として提示される。

 夫とむきあうということはたしかに大事な解決への道なのだが、ぼくの実感からすれば、むしろ夫との狭い世界こそが、結婚後の愛情の隘路を用意してしまっているのではないかと思う。つまり、夫の愛情の有無が自分の頭のなかの巨大な割合をしめている人生こそが問題なのではないか、と。

 松田の『恋愛なんてやめておけ』は、近代の恋愛観と恋愛事件をふりかえり、そのことを結論付けているのではないかと思う。恋愛に人生の大きなエネルギーをそそぐな、ほかにやるべきことはいっぱいあるのだぞ、と。でも、こう記述するとたしかに、日下のいうように、ジジイの説教みたいだなあ。