ほったゆみ・小畑健『ヒカルの碁』

 ぼくは少年漫画は長い間ひかえてきた。しかし、小学生のあいだに碁ブームを巻き起こしている漫画として、この『ヒカルの碁』だけは一度読んでみようと常々思っていた。が、なかなか手がのびなかった。

 

 


 そんなところに、知り合いから、その知り合いの奥さんが囲碁教室の運営にちょびっとかかわる関係上、『ヒカルの碁』を割り引きで買う、という話がもちあがり、ぼくが漫画好きだと知っているので、声をかけてくれたのだ。22巻すべて(以後続刊だが)。
 ぼくは、「それなら」と1巻を試しに自分で買って読んで、それで全巻買うかどうか決めようと言ったのだが、大間違い。1巻で止められようはずもなく、その日のうちに6巻まで買ってしまった。「誰か止めてーっ」と叫びながら。もう、すぐお願いして全巻注文してしまった。

 面白い。

 この面白さはなんだ。

 

少年漫画がもつジレンマ

 たとえば、比較のために、同じ週刊少年ジャンプ連載の『テニスの王子様』(許斐剛)を少し読んでみたが、こっちはまるっきり子どもだまし。まったく、全然、これっぽっちも面白くない。

 少年漫画の王道にとして究極の天才を登場させるというパターンがあるが、それは(1)強敵を次々つくっていく(2)主人公を成長させる、というふうにわかれる。
 (1)は手っ取り早い。『サルまん』で「敵の強さのインフレ」と指摘された現象を引き起こすのだが。「まあどうせ勝つんだろ」などという斜に構えた読者も出る。
 (2)は、読者と等身大のところから出発でき、喜びも悲しみも読者とともにできるという強みがある。しかし、いつまでも弱いというのでは、読者にとってはあまりにも日常的に過ぎてしまう。いつも負けている主人公を見ていてもなんのカタルシスもない。テンポとしてもだらだらしてしまう。そこでいきおい、急速に強くなっていくのだが、しかし、それではすぐ(1)の物語に切り替わってしまう。

 このあたりのジレンマというものがある。むろん成長を描いて成功したという物語はあるのだが、たとえば『スラムダンク』(井上雄彦)でもけっきょく(1)のタイプへの移行が急速にはかられていく。『プレイボール』(ちばあきお)はチームの成長だしなあ。『リングにかけろ』(車田正美)は論外。形式は成長をして永遠のライバル(ここでは剣崎)と対峙するという『ヒカルの碁』に似た形式をもっているけど、全体の荒唐無稽さがきわだちまくっている(それが醍醐味だが)。「ギャラクティカ・マグナム」はまだいいとして、「スコルピオン・クラッシュ」「トロイア・クライシス」「ゴッド・イリュージョン」ってなんだよそれ。パンチの名前とはもはや思えん。ボクシングじゃなくて、すでに魔法の域。

 

成長物語として画期的

 『ヒカルの碁』の面白さというものは、「成長物語」は「成長物語」なんだが、実は、この「成長物語」をこれまでの少年漫画にないほどくわしく、段階的に描いたことではないかと思っている。いかに『ヒカルの碁』がくそていねいに成長の段階を描いているか。
 よく考えてみると、ヒカルは囲碁完全初心者から、第一部の終わりにはたかだかプロ初段にしかなっていない。なんか世界大会とかで優勝するでもない。大半は院生時代の苦闘で占められている。いかにこの物語がゆっくりしたものなのかわかるであろう。
 成長の段階の一つひとつの苦悩や喜びを、子どもたちは(あるいは大人たちも)ていねいに、一体となって追うことができるのだ。読んだ人間の「共感度」「一体感度」が、従来の少年漫画のレベルをはるかに上回ったのである。「興奮度」は他の漫画にもあるのだが(たとえば『スラムダンク』は成長のシーンではなく、試合シーンが異様に長い)。

 それは、たとえば『リングにかけろ』を読んでボクシングを始めようと思った人間はおそらくかなり少数になるものと推察されるが、『ヒカルの碁』を読んで「囲碁を始めたい」と思った小学生が非常に多い、ということにも示されている。むろん、『スラムダンク』や『キャプテン翼』を読んでバスケやサッカーを始めるという人はいるのだが、囲碁という現代小学生の日常にはなかったものに多数を巻き込んだ力は、やはり破壊的なレベルだったといえる。
 子どもの囲碁人口は50万人といわれ、ある学校で半数が『ヒカルの碁』を読んで囲碁部に入ったという新聞記事があったから、えーと、その伝でいくと、25万人が(おいおい無理な計算するなって)『ヒカルの碁
を読んで囲碁を始めたことになるのだ!

 仮に、成長物語をこれまでにないほど、段階的に、かつ、詳細にそれを追ったとすると、先ほど述べたジレンマが訪れる。あまりに弱っちいとドラマチックではなくなるのだ。が、『ヒカルの碁』はこのジレンマをクリアしてしまった。

 読む前から、棋聖の霊がのりうつる話だというようなことは聞いていた。
 「しかし、けっきょく霊の力で強くなった、なんていう話にしかならねーじゃん。そんなんで少年の心をどうやってわしづかみにできるんだよ」という危ぐというとか、ギモンがわいていたのだが、実は、原作者ほったゆみは、このアクロバティックな設定を逆に利用して、「詳細な成長物語」と「ドラマチック」ということを両立させてしまった。

 

ガラスの仮面』とくらべると

 この漫画は、よく『ガラスの仮面』(美内すずえ)との異同が話題にされる。
 究極の高みにいる師匠をもち(月影千草/藤原佐為)、血統のいいライバルをもち(姫川亜弓/塔矢アキラ)、最高の普遍性への到達をめざし(紅天女/神の一手)、ときどきのよき援助者をもち(速水真澄/緒方九段)、成長過程での研鑽集団がいて(劇団つきかげ/院生たち)……などがすでに各所で指摘されている。
 そのなかには、「成長」ということも無論入っている。
 たとえば、『ガラスの仮面』でも、自分の強烈な個性(舞台あらし)を消して演劇集団の中での調和能力を獲得するとか、恋愛感情を芸の肥やしにするとか、「紅天女」という最高の演技へと到達するために、マヤは幾多の成長の段階をへる。そういう点では同じではないか、といぶかる人もいるかもしれない。

 しかし、『ガラスの仮面』は、実は「成長」の物語ではない。個別の「成長」の課題を達成した前と後で、マヤは変わっていない。ただ、難問が解決された、という事実だけが残っている。諸兄は、「ジーナと青い壺」を演じたころのマヤと、「紅天女」の選考のころのマヤとに、大きな違いを見い出すことができるだろうか? 
 われわれが見るのは、難問をクリアして、仮面をかぶる瞬間に到達できたマヤだけである。1巻で「椿姫」の観劇チケットをとりに冬の海に飛び込むマヤと、芸能界から追放されても演劇を捨てられぬマヤとの間には、狂気ともいえる「芝居への情熱」が変わることなく存在している。「変わらない」ことのほうのが、ここでは大きな要素を占めている。無論、「成長」の話ではないからといって、この物語に瑕疵があるのかというと、まったくそんなことは心配無用で、マヤの眼がすわり、仮面をかぶる瞬間(「あたしはいま、キャサリンの仮面をかぶる」等々)、読者であるわれわれは、鳥肌を立てながら読んでいるのである。「成長」があるかどうかなどということは、『ガラスの仮面』にとっては、どうでもいいことなのだ。この物語を太く貫くドラマツルギーがあるおかげで、コトバのもっとも貧しい意味での「リアリティ」がどれほど随所で破たんしていても、われわれはものすごい力によって、作品世界のなかに吸引されていく。それは『あしたのジョー』(ちばてつや画/高森朝雄作)でも同じだ。現代では、細部における事実へのヲタク的妄執が、逆に物語を貧しくしている。プロットを精緻に仕上げ、整合性をもたせるための事実描写ばかりに念が入り、ドラマそのものが著しい衰微をしめしている。大塚英志流にいえば、「神が宿らない細部もある」のだ。

 『ヒカルの碁』の場合は、そうではない。
 「成長」の物語であることによって、子どもたちは自分とヒカルを重ねることができる。
 囲碁に何の興味ももつことができなかった1巻冒頭のヒカルは、すでに1巻の途中では、「塔矢名人のように碁石を打ってみたい」という衝動に憑かれたヒカルへと変貌している。そして、『ヒカルの碁』に夢中になった人は、まさにヒカルのように「あんなふうにオレも打てたら」とヒカルよろしく思ったのではないだろうか。
 佐為に打ってもらっていたヒカルは、やがて自分で打てないことの悔しさを噛み締める。この決意をした前と後ではヒカルは別人である。
 さらに、図にあるように、まだ能力のないヒカルの碁のスジをみた佐為が、「11の八はおもしろい一手! その発想に続く腕が今のヒカルにないのが惜しいけれど それでも一手一手からこう打ちたいというヒカルの意志がしっかり伝わってくる」というのは、成長というものにしっかりふみこんだ作品だけが持てるセリフだと言える。
 また、はじめは何の恐れもなく打っていたヒカルが、逆に成長することによって、大胆さを捨て、臆病になってしまうという豊かな逆説も描きこまれる。
 プロ試験の場面では、予選で、「騒ぐ大人」に呑まれてしまい、うまく調子が出せないのだが、大人の碁会所を回ることで勝負度胸がつく。また「置き碁」をすることで、「尋常ならざる手で地を奪い取らねばならぬ! つまり 荒らしがうまくなる――それは互先で生きてくる 劣勢の局面をはねのける力となって――」というふうに新しい能力も獲得していく。そして、この碁会所回りをする前と後でのヒカルの成長ぶり=変化自体が、一つのテーマとして正面から扱われる。
 それは、成長をとげきったかと思われるプロ以降でも同じである。日中韓団体戦のなかで、倉田淳7段はヒカルをこう評価する。「“昨日のアイツ”じゃ今日の対局のあの猛追はなかった そしてその逆転の手“今日のアイツ”は気づけなかったけど “明日のアイツ”はきっと気づく」。
 
 
 いやいや、もう十分だろう。
 ことほどさように『ヒカルの碁』では、「成長」が正面にすわる。
 塔矢アキラや塔矢行洋が、ヒカルの一手に佐為の影を見て、やがてそれが重なっていくというのは、無論、最初に佐為がヒカルの体を借りて打っていたせいであるのだが、それはヒカルという発展途上の「特殊」の段階のなかに、佐為という「普遍」が含まれている、という成長の弁証法そのものを見事に表している。佐為が消えた後、ヒカルが「佐為は自分の中にいる」と気づくのは、まさに、自らのなかにある囲碁の普遍性に気づくところまでヒカルが進歩したことを示している。

 『ガラスの仮面』では、亜弓はむしろマヤにつねに敗北感を味わわされる存在であるが、塔矢アキラはヒカルにとってはつねに追いつくべき、「上」に存在するライバルである。こうしたタイプのライバル、というのは少ない。少年漫画では多くは主人公の方が一枚上手なライバルがほとんどである。21巻になっても、ヒカルはまだ次のように言う。「塔矢の強さは『力』だ――盤上で勝利をもぎ取ろうとする力がスゲェんだ 多少の不利などものともしない ヨミ合いなら塔矢と互角のつもりだけど その力の部分で一歩負ける 今のオレに足りないモノ コイツの強さ コイツの力 それがオレにあれば――」。ヒカルを成長させるために神が用意したライバルとして塔矢は存在する。そこからも、ヒカルの「成長」がこの物語のメインテーマであることがわかる。

 

囲碁の空気を濃密に伝える

 ちなみに、ぼくはまったく碁がわからないし、『ヒカルの碁』を読んだ今でも、ごく基本の原理以外はまるでわからない。にもかかわらず、この漫画は、囲碁の勝負の空気をあますところなく伝えている。『ヒカルの碁』を担当した編集者は「分からない言葉によって出る雰囲気を優先させることにした。『「右上スミ小目」と言ってバシッと打つ。マンガの絵と合わさって「右上スミ小目」なんてどこか分からないのに、それっぽい。かっこいいんですよ』と、碁石を打つ真似をする。言葉の意味が分からなくても話の展開は面白い。分からない言葉を知りたかったら自分で囲碁を始める」という編集方針を述べている。


 囲碁漫画はかつてほとんど存在しなかったが、将棋漫画は存在した。古くは、つのだじろう『5五の龍』があるし、最近では能條純一月下の棋士』、山本おさむ『聖(さとし)』がある。
 どれも将棋世界そのものを知らなくても成り立っている漫画であるということは共通している。しかし、これまでの将棋漫画は、それが背負っている人生、みたいなものを描くことに熱心だった。『サルまん』では能條の麻雀漫画を「おおっ! なんだかよくわからんが面白そうに見える」というふうに皮肉っている。麻雀などまったく知らなくても、「人生っぽい」絵をつらねれば「それっぽく」なってしまうということである。
 囲碁がわからなくても読める漫画という点ではかわりないが、この編集者の方針をみると、より囲碁の雰囲気、囲碁そのもののもつ空気を大切にしていることがわかる。『月下の棋士』を読んで将棋を始める人間は少ないが、『ヒカルの碁』を読んで囲碁を始める人間が多いのは、そこにも一因があるように思われる。『聖』を読んで「2七銀!」というふうに、べつにぼく自身はやりたいとは思わない。しかし『ヒカルの碁』を読めば、たしかに「右上スミ小目」とやりたくなってしまうのだ。

 

絵と原作の幸福な出会い方

 絵と原作の出会い方も『ヒカルの碁』は幸福だったといえる。小畑が鳴かず飛ばずであってこの作品で一気にスターダムに伸し上がったことはよく知られる。小畑の絵柄は、勝負の背負う深刻さと、アニメチックな異世界性を両方表現することができる。ほったが書くセリフは、他方で非常に印象深く、絵とセリフがどうしても頭のなかに残ってぐるぐると回ってしまう力強さをもっている。
 たとえば、図にあるように、洪秀英がヒカルに負けたときに悔し涙を流すシーンは、もっとも鮮烈なシーンの一つであり、敗北を見つめることで涙を流せるという成長のストーリーも印象に残る。また、そこで佐為がいうセリフ「いさかいで始まったにもかかわらず なんとなんと心躍らされる碁であることか 2人共工夫した手を打ち 工夫した手を返してくる このどうしても勝ちたいはずの一戦で無難な一手を選ばない まるで石を持つ手が勝手に新しい道を切り拓いていくようだ なんという伸びざかりの時期の眩しさよ」も、つい使ってみたくなるセリフである。
 この手の漫画はストーリーが一度わかってしまうと二度とは読まなくなるものであるが、『ヒカルの碁』についていえば、ぼくはもう数えきれないくらい読み返している。それは印象に残る場面をくり返し味わいたいからである。

 少年漫画を再興した、近年の最高傑作。
 ところで、「クルクル」と「よそ事」ってまさに愛知県人のぼくはよく言うんですが。