セミョーノフ『人類社会の形成』

 藤子・F・不二雄のSFに、性欲と食欲の社会的取扱が逆転した社会になる、という話がある。食堂で食欲が公然とした社会的サービスとして支えられるように性欲が公然のもとなり、食欲の充足が羞恥をもって社会的に取り扱われる。

 なぜ一方の本能の充足が公然とおこなわれるのに、他方は隠ぺいされるのか。

 セミョーノフ『人類社会の形成』は、この謎をとく。

 といっても、こういう俗な関心を書いた本ではなくて、本書はきわまめてまじめな学術書である。上下巻あわせて650ページもある大部で、古今東西からの知見の引用は、参考・引用文献を眺めるだけでも膨大なものである。
 もともとは、エンゲルス『家族・私有財産・国家の起源』を批判的に継承し、そのあとの人類学的な発展を埋める労作で、こういう俗な関心にこたえる新書あつかいしてはいかんのである。

 エンゲルスは、無規律性交→血族婚(親子間の婚姻の禁止)→プナルア婚(きょうだい間の婚姻の禁止)→氏族婚(女系の一族間での婚姻の禁止)という発展を描いたが、セミョーノフによってこのあと、「プナルア婚」と「血族婚」が歴史上存在しないことが証明される。セミョーノフの「家族」史の発展は以下のとおりである。

(1)サルのハレム家族。一頭のオスが数匹のメスを独占するシステム。動物園のサル山とかいくとよく見ますね。
 しかし、これ、われわれが予想するとおりなのだが、あぶれたオスはとうぜんメスを奪うためにちょっかいをだし、深刻な色恋沙汰になる。セミョーノフはアウストラロピテクスの骨なんかをしらべると、頭蓋骨がメタメタにやられているのがけっこうあるという。
 つまり、頭とかを、覚えたばかりの石の道具とかでぶん殴るという過激な略奪闘争がおこなわれ、群れがメタクソになったらしい。「ハレム家族の危機」である。

(2)ハレム家族の解体と原始人群の形成。「じゃあ、もうボスがメスを独占するってシステムをやめよう」という話になる。社会がなりたたんから。どうなるかというと、「だれでも自由にヤレるようにしよう」ということになる。ハレムはいかん、と(ハレムタブー)。こうして無規律性交を原則とする集団が生まれる。嫉妬という感情から解放されるわけである。

 このあたりでセミョーノフが、欲望を自己規制するという意識行為が、人類の頭のなかで何億回と行われる結果、タブーというものがうまれるという過程を、サラリとではなく、かなり粘着質的に、脳のしくみから集団の道徳規範の形成まで、微に入り細に入り描く。ただ、この記述はうっとおしいものではなく、むしろ知的興奮をもよおす。

(3)性=生産タブーの出現。狩猟という生産活動にのりだした人類は、狩猟とその準備期間には、性関係を制限するという「性=生産タブー」をうみだす。これはいまでも残っているというので、セミョーノフは世界各地からこのタブーをいっぱいあつめて例証する。狩の前にはセックスしてはいかんとか、狩猟期間に女を近づけないとか。
 こうして人類には性の抑制旗(生産活動の強化期)と、性生活期(生産活動低下期)の2つの時期が存在するようになる。つーことは、後者を短くすればするほど生産はさかんになっていくので、どんどんどんどんどんどんどんどんこの期間を短くしていって、ついには、性生活をいとなむ時期というのは、非常に短くなる。1年のうちの、ある一瞬だけになる。そいでもって、独特の「お祭り」になるというのだ。
 これが「オルギー祭」とか「サナトゥリア祭」とかいわれるもの。
 セミョーノフは、このオルギー祭も、世界各地にその痕跡が残っているというので、膨大な例証をあげる。

 こうして、人類の生活から、「性」をかくすという習慣は、この時期にはじまる。
 冒頭に紹介した藤子のSFが提出した謎の答えは、この「性=生産タブー」に本源がある。

 じっさい、氏族社会がつづくあいだ、「性=生産タブー」はずっと残りつづけたにちがいない。

 なお、セミョーノフは、オルギー祭は、“男根を模したもので踊る”という祭として世界各地に残っているという。そして、この痕跡の残存地として「日本」をあげている。
 ぼくの故郷には、厄年の男性が赤い装束を身にまとって、男根を模したダイコンをつけ踊る奇祭がある。地元の解説ではこの祭は清和天皇のころにはじまった「豊穣を祝う祭」として伝えられているが、ぼくはこのセミョーノフの著作をよんで、これはオルギー祭の痕跡ではないのかと思った。これはネアンデルタール人のころにあたるという(ふるっ)。

 さきほどのべたように、セミョーノフのこの著作の無類の面白さは、こうした人類学的な仮説の組み立てが、「文学的」には絶対おこなわれず、やや粘着質的に膨大な例証と論理をもってすすめられるところである。
 ほかにも、原始人群が「一族は特殊な動物の祖先を持つ」という観念にしばられ(トーテミズム)、そこから一族内の閉鎖的な婚姻にハマりこみ、近親相姦による退化があらわれてくることを、かなりねっとりと描き、そこから「原始人」らしく、どう脱出するようになったか、ということもくどくどと書く。だが、けっしく「くどく」はない。

 筒井康隆に原始人の意識を描いた実験的小説があり(たとえば、川を見た原始人の意識を「川川川川川川川川川川川川川川川魚川川川川川川川川川川川波波川川」と叙述する)、それは近代人の意識のままで太古の小説を描く手法を暗に批判したものだが、セミョーノフはまさにこの筒井の批判にこたえるかのように、注意深く原始人の意識をもってインセストタブーから脱出する過程をえがく。けっしてそれは近代人のように、「近親相姦による退化」を科学的には自覚しない過程として描かれる。

 エンゲルスの『起源』のあとをうめるひとつの重要な著作であるが、エンゲルスを知らなくても十分に楽しめる。