冬目景『イエスタデイをうたって』

 プーのリクオと、高校を中退したハル、リクオの片思いのシナコとのだらだらした恋愛・交流。

 

イエスタデイをうたって 1 (ヤングジャンプコミックス)

イエスタデイをうたって 1 (ヤングジャンプコミックス)

 

 

 これほど絵がうまいのに!
 スジは二流だ。冬目景はいつもそうだ。

 二流、ということは、そこそこよくできているのだが、まさに「そこそこ」なのだ。

 それは「二流」としかいいようのないものだ。

 冬目は、つぎのような「情感を生み出す情景」に頼り過ぎている。2例あげよう。

 (例1)片思いをしている人は、死んだ人を思いつづけているので、それはいつまでも美しい。

 冬目はここからほとんど一歩も動かない。遺品を整理して物思いにふけるシナコを、いかにも「物思いにふけっています」としてしか描かないのだ。死者への思い出にしても、学校で消しゴムを貸してくれた思い出とか、なんのひねりもない。そしてリクオはその死者の神聖さへ挑戦するでもなく、「死者の無敵さ」は物語の前面には出てこない中途半端な扱いをうけているのだ。

 同じような「情景」を基盤にしている『めぞん一刻』(高橋留美子)とくらべてみればはっきりする。作者は死者である「惣一郎」の顔を意図的に黒く塗りつぶし、「現実からの批評をいっさい許さない美化されたもの」という徹底した記号化をはかる。惣一郎の日記を読むうちに「彼女からこのようなものが届いた。不可解なり」という一文をみつけ、「未亡人」である響子が悩む話など、まるまる惣一郎のエピソードに話をあてたりする回もあり、それだけにエピソードはよく練られたものが多い。そして、主人公・五代と響子がその死者の幻影に挑戦し、それを克服していくという正面のテーマにまで高めており、作者はこの「情感を生み出す情景」にいささかも甘えていない。


 (例2)いなくなった父親に会いにいき、そこで父親の家庭を見てショックをうける。喪失感。

 こういう情景は、作家の創作意欲を刺激するのであろう、ずいぶんたくさんの作家がやっている。
 おもなものをあげると、
(1)近藤ようこ(『心の迷宮』)
(2)吉野朔美(『いたいけな瞳』)
(3)谷口ジロー(『父の暦』)
(4)一丸(『1年1組甲斐せんせい』)
 そのなかでも冬目のは、いちばんインパクトが弱い。

 冬目の描き方は、こうだ。母親にできた新しい恋人を紹介されたハルは、別離している父親についての思い出を刺激され、こっそりと会いに行く。しかし、玄関から出てくる子どもをみて、もう父親は自分とは別の生活をはじめており、自分の居場所はそこにはもう跡形もないことを思い知らされる。

 これにたいして、吉野の例をあげてみよう。やはり同じように、子どもが、別離した父親の家をこっそりとかいま見に出かける。そこでやはり父親が築いた新しい家庭を見てしまうのである。ここまでは冬目と同じだ。ところが、その子どもの名前は、自分とまったく同じだったという挿話を入れている。父親が自分をおきざりにしてまで手に入れたかった幸福が、まるで自分たちの家族のコピーのようなものだったことに主人公は衝撃をうける。自分たちとは違う幸福を追って父が自分たちを捨ててくれた方のが、まだ「しあわせ」だった。自分たちをコピーしたような家族のなかで幸せそうに暮らす父を見て、主人公の胸には「自分たちは何のために捨てられたのか」という思いが迫る――衝撃の深さが、冬目の造形したそれとは段違いであることがわかるだろう。

 冬目のえがいたハルの母親は「たくましく」描かれていて、夫との別離に傷を負っていないように見える。対して、吉野の作品では、主人公が小さい頃、母子家庭の悲しい自己防衛のために「目立たないように」生きるよう母親からいつも諭されている。そのために、主人公は「大きくなったらめだたないひとになりたいです」という作文を授業参観で読んでしまうのだ。

 冬目と吉野の差は歴然としている。

 冬目はなにも考えていない。描きたい情景だけがあって、それをだらだらと描いているにすぎないのだ。それでは作家としては早晩、伸び悩むだろう。

 冬目は遅筆のようだが、作品がなかなかすすまないのは、ゆきづまっているせいかもしれない。


 作者は「女」説が主流だが絶対に「男」だ。男の感性だ。
 女性の描き方も、捨象しているつもりだろうが、そこはかとなく性的で、絶対に男が書いているにちがいない。


これ書いたあと、やはり冬目は女だという情報が。うそだー。