わたせせいぞう批判の批判

 柴門ふみとあわせて、わたせせいぞうを論じたらら、ご批判のメールをいただきました。
 本人のご了解もえて、紹介させていただきます。

 

******** もらったメール ここから *************

わたせせいぞうについて。
 君は「待つ女」しかわたせは描けない保守主義だといっているけど、
彼の限界と特徴は、「待つ」ということが、女性だけではなく、男性もふくめて、
「恋人があらわれるのを待つ」にとどまらず、「運が来るのを待つ」というところに
あるのではないかな。

 だから、登場人物は、服を汚すことなく、いつも糊付けされていて、
洗剤の香りがしており、読者も安心して呼んでいられるんだと思いますよ。
 そのへんは、実はあだち充の漫画の主人公にも共通している点だと思います。

 柴門ふみについて。これは直感だが、彼女のすぐれていた点は、男性誌において、
あの時代に、『東京ラブストーリー』のなかの赤間リカのような人物を描いたことだと
ぼくは思う。

 赤間リカのような人物というのは、ぼくからいわせれば、現代では実は、
ひきこもりになるような人物、あるいは登校拒否になるような人物なのだ。
 それを描き、そのような人物の存在、あるいは読者自身の内面にある赤間リカ的なもの
――つまりひきこもり・不登校的なもの――あるいは、カンチ的なものを自覚させた、
認知させたところにあるのではないかな。

 そして彼女の限界性は、彼女の漫画の主舞台が男性誌にあったことではないだろうか。
男性誌には、そこで提起された課題を立ち向かい、解決していくという道は今日の時点では
まだ存在していない(星里もちるにちょっとあるかなあ)。男性誌では、そういうたぐいの
課題は捨象されなければならないのだ。男性の生き方としては。
 そして柴門ふみ自身は、生き方において男性的な生き方を選んでいるのだと思う。

******** もらったメール ここまで *************

【紙屋のコメント】

わからない点がいくつか。
(1)なぜ運が来るのをまつのが、服を汚さない、糊付けされた世界になるのか。
(2)なぜ赤間リカがひきこもり・不登校的人間なのか。
(3)カンチ的なるものとはどのようなものか。
(4)男性誌ではなぜ提起された課題に立ち向かい解決される道が用意されていないのか。
(5)星里もちるにそれがあるとはいったいどのようなことを指しているのか。
(6)柴門ふみがなぜ男性的生き方をしているといえるのか。

と、これじゃあ、謎だらけだ。
メールをくれた人の再投稿を待ちたいですね。