柴門ふみ『女ともだち』

 

 

 いま、柴門ふみを好きだということには、わたせせいぞうが好きだということに似た気恥ずかしさがある。
 どちらも、バブルの絶頂期に人気の最盛期があった作家だから、そういうバブル的な価値をいまさらのようにありがたがっているかのような印象をあたえてしまう。

 しかし、この両者は根源的にちがう。

 わたせせいぞうが、「待つ女性」や不倫という名の姦通しか描けないのは、根源において保守主義だからだし、もっといえば、古臭いオトコの、ええかっこしい、でしかない。
 柴門ふみは、それが成功しているかどうか別にして、たえず社会に目をひらいて、そのなかでの男女の息苦しさということにちゃんと切り結んでいる。最近の『お仕事です!』や『非婚家族』がそうだ。

 とくに、初期の作品は、すごい。
 その代表作がこの短編集『女ともだち』。柴門の本領はこういう短編にあるとおもう。
 いろんなテーマがあるけど、ぼくがいちばんつよく感じることは、80年代初頭の女性――男女雇用機会均等法前の女性――というものは、かくも息苦しく生きねばならなかったのかという慨嘆である。

 たとえば、「縁談」という短編がある。
 同窓会名簿が送られてきて女性の場合、右側にカッコがついて、旧姓を書くことになっている。そのなかに、「石橋(石橋)」というのがあって主人公は不思議におもうのだが、それはたまたま同じ姓の人と結婚したのに、既婚であることをわざわざ知らせるためにカッコでくくったのだという。

「かっこでくくられた旧姓の数がわたしをせっついてくる
おいてゆく、おいてゆくぞと警鐘をたたきながら」

 主人公は結婚をあおられ、あせらされる。
 そして、母親がもってきたお見合いの話の相手が、主人公いわく「白ブタ」「あの人にも性生活があるなど想像もできないタイプね」。

 しかし、主人公は、毛を刈り込んで、メガネをかえ、ひげをはやさせ、メンズビギを着せたら、なんとかなるのではと「前向き」に考えはじめる。
 主人公は、大学時代にとろけるような恋愛をしたが、卒業とともにそれが消えたことを思い出としてしまいこんでいる。
「おかあさんて、とろけるほど人を好きになったことないんじゃないかな?
それを思うとね、あたしは幸せ者だわ。
人生の宝物を味わったから、
もう……
もう、いいわ。
別に美人でもないし、格別の才能もないし、
あたしなんか……
白ブタとときめきのない結婚でもいいかなと思っちゃう」
とあきらめの言葉を吐く。
 聞いていた義姉も、
「あたしも恋を途中で置いてきたみたい。
結婚生活て恋の緩慢な死なのよね」
とつぶやく。

 ぼくは、ここまで息苦しい生き方を当時の女性が考えていたことに、ちょっとした衝撃をおぼえる。
 社会に出ていく道を閉ざされ、結婚にしか道がないという時代は、ここまで重苦しいものなのか、と思う。
 初期の柴門ふみは、そういう女性たちのペーソスを、自虐や自嘲をこめながら描くのがとてもうまかった。いまの女性の漫画家には、こういう自嘲や自虐がなかなかない。槙村さとるのような、説教/自己啓発セミナーに堕してしまう。

 しかし、柴門は『女ともだち』の終焉とともに、二度とこうした作風へは立ち戻らなくなった。
 この短編集の晩期の作品、『カミングアラウンドアゲイン』がその転機になった。
 あとがきで柴門は、こうのべている。

 「仕事で行き詰まっている上に、耳元でうるさく騒ぐ子供に私は益々パニック状態に落ち込んでいきました。
 その一番苦しかった頃の作品が『とまどい』と『カミングアラウンドアゲイン』の二つの長篇です。短編連作に行き詰まりを感じ、ストーリーの大きな流れで動く複数の人間ドラマ、という方法論を展開させ、コミックの持つおもしろさをもう一度確認しようとしたのです。
 ですから、それまでの主人公の女性の独り言のような短編とは、それを機に作品が大いに変化しました。そしてそれがのちのち、よかったのだと、今改めて思っています」

 ぼくもまた、『女ともだち』は面白くないと思う時代がくるんだろうか。