「人権=思いやり」という洪水のような「教育」

 人権は道徳ではない、っていう、あの話だけどね。

fairs-fair.org

  特にこの記事のこの部分。

谷口さんは「人権は道徳ではありません」と話す。

「人権啓発として『みんなで仲良くしましょう』というキャンペーンをよく見ます。これは裏返すと『仲良くできないのは市民の責任だぞ』と、政府は責任転嫁をしていると言えます。政府には人権を守る責務があり、そのための大前提として差別を禁止し、差別を受けたら救済をして、差別を未然に防止することが必要です」

  マジでそう思うわ

 つうか、学校と自治体の人権教育が「人権=道徳=みんなで仲良くしましょう」で覆い尽くされていて本当にヤバいと思う。その量・規模たるや洪水のようだ。

 小学校の「人権学習参観」に行ってみればこれがベースでガンガン教えられているし、子どもたちに書かせる「人権標語」で最優秀に選ばれる作品はこのトーンばかりである。「広げよう えがお・やさしさ・おもいやり」「ありがとう 言われて 心に花がさく」。

広島市 - 過去の人権標語入賞作品(平成16年度~平成20年度)

鳥取市公式ウェブサイト:人権標語・ポスター入選作品の紹介(平成26年度)

 福岡市では町内会*1を動員して「人権=思いやり」という思想の標語が街中に貼られている。

 これは深刻な思想「教育」だと思う。日本では国家規模で予算をつぎ込み、草の根の人員を動員して、こうした「人権=思いやり」という「教育」がされている。

 だいたい政府の「人権教育・啓発に関する基本計画」の「人権教育」の最初の柱の、しかも「第一」が「心に響く道徳教育を推進」だからな。

http://www.moj.go.jp/content/000073061.pdf

 

「人権=思いやり」というパターナリズム(温情主義)

 人権教育を専攻としている阿久澤麻理子は次のように述べる。

 学校教育――とりわけ初等中等教育――の現場では「子どもに権利を教えると、自分勝手な主張が増えて、学校がまとまらなくなる」という意識はいまだ根強く、人権教育が既存の生徒と教師の関係を変えてしまうのではないかという危惧が存在する。それゆえ学校における人権教育は、表面的な憲法学習や「思いやり・やさしさ・いたわり」と行った道徳的価値の学習に読み替えられやすい。(阿久澤麻理子「人権教育再考 権利を学ぶこと・共同性を回復すること」/石埼学・遠藤比呂通『沈黙する人権』法律文化社所収p.35)

 

沈黙する人権

沈黙する人権

 

 

 

 ここで「表面的な憲法学習」が取り上げられている。これについてもついでに一言。

 これはぼく自身が受けてきた学校教育がそうだった。

 例えば社会科で習う「表現の自由」とは「自分とは関係のない」わいせつ表現を自由にするかどうかという話であり*2、それが自分が制服や指定バッグを強制されるかどうか、丸刈りを強制されるかどうかという問題と密接に関わっており、自分がその権利をもとに「声を上げる主体」であることを意識的に注意深く眠りこまされていた。

 「教育を受ける権利」「教育の機会均等」は、高学費によって政策的に踏みにじられている日本の現実には決して認識が届かず、「日本は義務教育や奨学金によってこの権利は保障されている。発展途上国はかわいそうね」のような認識へ導かれる。「学費を下げろ!」「給付制の奨学金を!」という運動には絶対に結びつけてはならないというわけだ。

 同じく「表現の自由」を根拠にして校則を変えたり、子どもの権利条約を根拠にして生徒にも意見表明をさせろと主張したりすることは、とんでもないことだとされるのである。

 憲法に定められた人権は、徹底して自分とは関係のない縁遠い権利であり、間違っても学校で行使してはならないことを繰り返し叩き込まれる。*3

 

 権利より価値を強調するのは、学校だけにとどまらない。日本では国や自治体が実施している人権啓発事業にも共通した傾向がある。しかし「思いやり」を強調する啓発は、「弱者に対する配慮」や「温かな人間関係」による問題解決を理想として描き出す一方で、「弱者とされる側」が権利を主張したり、その実現を求めて立ち上がるような「争議性」のある解決を回避し、そうした運動のシーンを啓発の中でとりあげようとはしない。「弱者への配慮」を強調する啓発は、ときにそれが「強者」と「弱者」の非対称的な力関係にあることに無自覚で、結局のところ、人権ではなくパターナリズムを教えることに陥っている。(阿久澤前掲p.35-36)

 このような「人権=思いやり」という議論は何を招いてしまうのか、阿久澤麻理子は次のようにのべる。

 さらに「思いやり・やさしさ・いたわり」型アプローチの問題は、人権に関わる問題を市民相互の私的な人間関係のなかで、「心のもちよう」によって解決するよう促す点にある。ここには「国家」と「市民」の関係は介在せず、人権を実現する公的機関の責務や、法・制度の確立による解決の道筋がみえない。このことは、国の役割が縮少し自己責任、自己救済の風潮が強化されるネオリベラルな社会に、きわめて高い親和性をもつ。人権問題を民主主義のメカニズムを通じ、諸制度を構築しながら解決しようとするよりも、私的世界に問題を差し戻すことになるからである。(阿久澤前掲p.36)

 

人権は思いやりによって生じるものではない

  「人権=思いやり」は二つの根拠らしいものを持っている。

 一つは、「憲法にも『すべて国民は、個人として尊重される』ってあるでしょう? 尊重するというのは、大切にするということだから、思いやりの気持ちをもって大切にするってことでいいじゃないの?」という考えだ。つまり「人としての尊厳の尊重=思いやり」という見方だ。

 もう一つは、「人権って、お互いに主張しあったら衝突するから権利調整するんでしょ? なら『思いやり』って言ってもいいだろ?」という考え方。

 共通しているのは、人権が市民間(私人間)の配慮によって初めて生じるかのように見えることだ。個人の尊厳が、他人との関係(「義務を果たしたからいただけるもの」だとか「他人が配慮してくれるからスペースが生じるもの」)ではなく個人の中に最初から無条件にそなわっているものだという原則が消えてしまう。だから、個人がその権利の主体であり、その実現のために争えるということは抑圧される。前者の主張は特にそう見える。

 後者について言えば、極言すれば「思いやり」など1グラムもなくても人権は主張してよいし、主張すべきものである。紛争して勝ち取って何らさしつかえないものである。ある人の人権の主張が誰かの人権を脅かすというのであれば、その「誰か」は人権が脅かされていることを主張し、争い、決着をつけるべきものである。*4 

 

いじめ問題を本当に人権教育として扱うとすれば?

 いじめ問題は子どもにとってきわめて身近で切実な人権問題である。

 しかし、それだけに「思いやり」問題として語られやすく「人権=思いやり」という考えに容易に導かれやすい。周りの配慮の問題としていじめが語られる。

 いじめが人権問題であるということを教える場合、確かにいじめが人間の尊厳を犯す行為=人権侵害だということを認識させるのは出発点になるだろう。

 しかし、切実なのは、いじめの多くが犯罪を構成する人権侵害であるがゆえに、いじめを停止させ、犯罪者を処分・処罰・隔離する責任が学校や公的機関には生じること、また防止する責任がそうした機関にはあること、そうした停止・防止をさせるために権利主体としての子どもにはどんなツールがあるのかを教えること、実際にそうしたツールを使えるように訓練し、使いやすいように改善すること――こうしたことが本当の意味でのいじめ問題における人権教育となるはずだ。つまり権利の主体であること、人権保障についての公的なものの責任について教えるのだ。

 根本的には、学校や公的機関が行ういじめの防止策や停止措置が実効的なものかどうか、どう改善すべきかについて意見表明をする権利さえ子どもにはある。(このことはいじめ問題を「道徳問題」として扱うことと矛盾するものではない。それはそれでやればいい。)

 

 冒頭の記事で扱ったLGBT問題も同じである。

 例えば福岡市はパートナーシップ制度を行政として取り入れたことだけが「先進的」であるかのように扱われているが、日常的には就職・就学・生活の場での様々な差別が行われている実態とそれを禁止し防止・救済する市としての手立てについてはほとんど無頓著だ。共産党市議が性的マイノリティへの差別禁止を含めた条例の制定を求めたのに対し、市長は応じていない。福岡市が行なっているのは行政として差別的な取り扱いをしないことと、市民に対する啓発・相談のみである(下記動画の37〜41分)。

www.youtube.com

 

 

人権が道徳の土台となる可能性について

 最後に「人権=道徳ではない」という言葉について。

 「人権=思いやり」という世に跋扈する危険なすり替えへの批判はすでに上記までで行ったから、以下は読みたい人だけ読んでくれればいいと思う。

 ぼくはこの記事における「人権=道徳ではない」を「人権=思いやりではない」と微妙に言い換えた。

 というのは、人権は道徳そのものではないが、人権を学ぶことを道徳の出発点とすることはありうるからである。

 道徳とは、社会と切り離された、個人の心の中にある「徳目」ではない。

 教育学者の佐貫浩は道徳性について、

道徳性は、社会的矛盾の根源に向かうことを断念して、その矛盾を心の有り様で対処しようとする心の技術、あるいは心を操作する技術であってはならない。(佐貫『道徳性の教育をどう進めるか』p.51)

と前提しつつ、

道徳性とは、何が自分の取るべき態度(正義)であるのかを、他者との根源的共同性の実現――共に生きるということ――という土台の上で、反省的に吟味し続ける力量であるということができる。(佐貫同前)

 と述べている。また、「市民的道徳」として「本質からいえば、この人間の尊厳を基本として他者と交わることにほかならない」「非人間化とも呼ぶべき現実社会への批判と変革の視点を欠いては、人間の尊厳は維持できない」(佐貫前掲p.59-60)とも述べている。

 つまり、個人の尊厳が守られるような人との関わり方を、たえず考え(反省し)、たえず組み替えていく力が道徳なのであり、その「組み替え」には社会のあり方やルールを無前提にせずにそれを批判し組み替えることも含まれているというのだ

 

 具体的に考えてみる。

 今日(2019年5月6日付)の「しんぶん赤旗」には、同志社大学大学院教授の内藤正典の外国人との共生についてのインタビューが載っている。

 外国人との共生問題は、いかにも「心」の問題、受け入れる側の個人の態度に終始しそうな話である。事実、記者はこの記事の中で「外国人と共に生きていくにはどのような心構えが必要ですか」と聞いている。

 内藤はまず同化を求めるやり方を批判する。

 これはわかりやすいだろう。

 しかし次に、「多文化主義」の限界をも批判する。

 

多文化主義は異文化の人たちにも同じ権利を認めますが、互いをよく知ろうという相互理解を前提にしていません。相手のことを何も知らない場合、何かのきっかけで異文化への恐怖や憎悪を抱くと、一挙に溝が広がってしまいます。

 同化もだめ、多文化主義も限界がある。では、どうすればいいのか。内藤は、

どこまでは自分たちの価値観に従えといえるのか、どこから先は彼らの自由にまかせるのか、外国人の声を聴き、私たちの意見を述べたうえで、約束をつくることが必要です。

と提案する。これは対話によって「個人の尊厳が守られるような人との関わり方を、たえず考え(反省し)、たえず組み替えていく」態度そのものである。

 そしてこの記事は、外国人労働者について新制度そのものの問題点を内藤に語らせている。外国人を単なる「労働力」とみなす政策への批判と組み替えが前提となっているのだ。

 今の社会・政治を無前提に受け入れて心のありようのみを問題にするのではなく、社会制度の批判と組み替えを十分に意識したうえで、他者との関わりを対話によって開かれた形で組み替えたり反省したりして模索しようという態度こそ、本当の意味での道徳(市民的道徳)である。

 先ほど紹介した阿久澤も、人権教育のあるべき姿として、ぼくらがまず人権という権利の主体であることを出発点にすえることを説いている。

自らの権利を学び、権利の主体であること〔を〕実感することは、自分が社会の一員であり、パブリックな領域で問題解決の主体となれる――社会の中に「居場所」をもつと実感する――ことである。そうであるなら、人権問題の解決が私的領域に追いやられることは、数多くの他者との対話や協働の機会からの排除を意味する。人権教育が「権利を学ぶ」ことからスタートするのは、学習者のエンパワメントに寄与すると同時に、他者との広くて豊かなつながりを担保するためである。(阿久澤前掲p.52-53)

 このような意味においてのみ、人権が他者との関わりの土台となるという、道徳の領域の話になる。

*1:人権尊重推進協議会(人尊協)。

*2:しかしわいせつをめぐる表現の問題は、実は大人になってマンガをこよなく愛する自分にとって切実な問題だと気づくのであるが。

*3:ぼくの出身地の愛知県の三河地方では一部の「同和教育」の流れを汲んで差別を私人間の心の持ちようにだけ押し込める「人権=思いやり」論はほとんどなく、憲法学習を「表面的」にするパターンが多かった。

*4:もちろん、私人が誰かの人権を「尊重」する意識を持つのは大事なことだし、積極的に権利調整の意識を持つことも決してマイナスではない。

永井義男『江戸の糞尿学』

 なぜか連休中に、自分の娘の参加する少年団のキャンプで、江戸時代について話すことになった。

 子どもたちが観た劇に江戸時代の屑屋が出てくるので、江戸時代がどんな時代で、どんなリサイクル社会だったかを子どもたちに伝えたいというのが団の意向なのである。ぼくは専門家でも何でもないのだが、「何かモノを書いている人間」ということが選挙に出てまわりに知られたために、こうしたやや無茶振りの小さな注文も増えた。個人的には、できる範囲のものであれば楽しんで受けている。

 で、そのような話は実は劇団の人が劇のプレ企画のような時間ですでに話してしまった。ただ、そこで「江戸はリサイクル社会」ということが過剰に強調されていたように思うので、少し修正し、そこに理屈を入れたいと思っている。

 江戸時代がリサイクル社会であった、というのは半分当たっているが、半分は怪しい議論でもある。例えば永井義男は『本当はブラックな江戸時代』(辰巳出版)という本で「江戸はエコなリサイクル都市ではなかった」という議論をしている。

 

本当はブラックな江戸時代

本当はブラックな江戸時代

 

 

 まあ、これは程度問題だろうと思う。

 “なんでもリサイクル・リユースをするからゴミひとつない清潔な都市だった”的なところまで行けばやはり行き過ぎの議論である。永井が同書で紹介しているように、最終的にどうにも再利用できないものはゴミになって川などに平気で捨てられていた。

 しかし、利用できるエネルギーが少ない社会では、モノをつくるコストが高く、それに対して人件費が異様に安いから、しぜんにリサイクルをしたがるというのはその通りなのである。

 たしかに現代にくらべると江戸の人々は物を大事にし、リサイクルも盛んだったが、べつに環境意識が高かったからではない。

 現代、人件費は高く、物の値段は安い。江戸時代は正反対で、人件費は安く、物の値段は高かった。

 いまでは電機製品が故障したときは修理するより、新しく買ったほうがはるかに安くつく。修理代はけっきょくは人件費である。いっぽう、新製品は高機能になり、しかも値段が安くなっている。

 江戸では物が高価だったし、回収や修理にかかわる人件費は安かったので、リサイクルは充分に採算が取れたのである。(永井『本当はブラックな江戸時代』p.143)

  江戸時代は、今からどれくらい前の時代か。わが娘をダシにして、おじいちゃんの時代か、そのまたおじいちゃんの時代か……とさかのぼろうと思う。

 ぼくは昨年の夏に自分の系図づくりをした。だからさかのぼれるのだが、ぼくの娘から見て「おじいちゃんのおじいちゃん」が生まれた時はまだ明治時代(明治11年1878年)である。「おじいちゃんのおじいちゃんのお父さん」が生まれた時にようやく除籍簿に「嘉永5年(1852年)」が登場する。この人は人生の一部を少しでも江戸時代として生きた人である。さらに「おじいちゃんのおじいちゃんのおばあちゃん」は「文化13年(1816年)」に生まれ「明治元年(1867年)」に死んでいる。故にこの人は完全に江戸時代の人である。

 そして、時代ごとにエネルギー利用が低くなっていることを知ってもらおうと思う(ネットがない、テレビがない、クーラーがない、自動車がない、など)。

 この違いは何か。

 江戸時代というのは現代に比べエネルギー利用が圧倒的に小さい社会だった。特に電気*1とエンジンというものが使えないことが大きい。大昔は食べ物を食べることで自分一人分のエネルギーしか使えなかったが、現代では科学・技術がすすんで1人あたりのエネルギー利用がその100倍になっている。つまり100人の召使いを持っているのと同じである。

f:id:kamiyakenkyujo:20170801130738j:plain

(↑ https://www.ene100.jp/zumen_cat/chap1 より。)


 もともと紙くずのリサイクル=屑屋の話を観た子どもたちなので、和紙をつくる大変さと現代の製紙工場を簡単な映像で見てもらい、エネルギーを縦横に利用できる社会ではいかに大量にモノがつくれるかを実感してもらう。

 

 さて、その上で、江戸におけるリサイクルの典型として糞尿を取り上げようと思っている。これについては江戸時代を持ち上げすぎる風潮に批判的な永井も「江戸でもっとも有名なリサイクル」「見事な資源のリサイクルといえよう。循環型経済のモデルといえるのではなかろうか」(同前p.147)と述べている。もっとも、「弊害は大きかった」という留保を忘れていないが。

 

 関連する本をいくつか読んだが、子ども向けの藤田千枝『大小便のはなし』『下水のはなし』(さ・え・ら書房)は端的で参考になった。

 

 

下水のはなし (人間の知恵 (13))

下水のはなし (人間の知恵 (13))

 

 

大小便のはなし (人間の知恵 30)

大小便のはなし (人間の知恵 30)

 

 

 この中に、万葉集の巻16にある歌(の大意)が紹介されている。

からたちと  茨(うばら)刈り除(そ)け   倉建てむ  屎(くそ)遠くまれ  櫛造る刀自(とじ)

(枳  蕀原苅除曽氣  倉将立  屎遠麻礼  櫛造刀自)

 

 歌の大意は「この辺りのいばらを刈り取ってコメの倉庫を建てようと思ってんだけど、あのー、そこで髪の毛を櫛でときながら野グソしている奥さん、もっと遠くでウンコしてもらえませんかねえ?」で、万葉集らしい大らさがあり可笑しかった。

 ちなみに「まる」は「放る」で、ウンコをするという意味だ。「おまる」の語源である。愛知(三河地方)の実家では父母以上の世代は「まる」という言葉をよく使っていた。

 

 ただ、詳しさと面白さという点ではやはり永井の『江戸の糞尿学』(作品社)が圧倒的だった。

江戸の糞尿学

江戸の糞尿学

 

 

 解説としても至れり尽くせりで初めに「基礎知識」がある。

 排泄したばかりのものは有害でむしろ植物を枯らせてしまうこと、発酵させる必要があることなどが示される。2つの肥桶を天秤棒で担ぐスタイルは、中身と桶と合わせて60キロに及ぶ。しかも江戸時代のそれはフタがない(明治に入ってからフタがついた)。

 ぼくは実際に農家から天秤棒を借りてきたので、天秤を担いでもらおうと思っている。しかし60キロはさすがに重いな……。

 次に江戸時代以前の糞尿処理事情(第1章)。

 万葉集の時代には野糞でよかった。それはなぜかを考えてもらう。永井が野山の動物の糞が気にならないのは動物が少ないからだと書いているように、人口が少なかったからだ。

 これが一変するのが都市の成立だ。平安京では側溝に捨てていたし、道でも平気でしていた。貴族はおまるにして、やはりドブに捨てていた。

 永井によれば下肥の利用は昔から農村であったはずだが、都市の住民の糞尿を利用して農村で食料を生産し、それを都市に納めるシステムは、鎌倉時代から戦国時代に成立したのではないかと述べている。ぼくも農学者に意見を今回聞いてみたが、似たようなことを述べていた。

 永井はルイス・フロイスの『ヨーロッパ文化と日本文化』を引用しているが、すでに安土・桃山時代にはヨーロッパ人によって日本の下肥利用システム(金を払って糞尿を買うこと)への驚きが語られている。

 

 第3章が「江戸での都市生活と便所」。長屋ではどうか、江戸城ではどうか、遊里ではどうかなど江戸時代の様々な大小便事情が紹介されていて、まあこの部分が本書の面白さの中核である。

 遊里の糞尿が需要が大きく価格が高かった理由が興味深かった。

 

 当時、人々の栄養水準は低く、とくに動物性たんぱく質の摂取が極端に少なかった。

 ところが、芝居町や遊里では宴席が設けられることが多く、豪華な仕出し料理も利用された。そのため、こうした場所では人々が普段は滅多に口にしない卵や鶏肉、魚介類を使った料理がふんだんに賞味された。

 その結果、排泄物は質がよくなり、下肥の効果が高かったのである。農民が経験から発見した肥料の効果といえよう。芝居町や遊里の糞尿は農民がほしがり、いきおい値段も高くなった。(永井同書p.92)

 

 この章に「下肥利用の弊害」が書かれていて、寄生虫問題に一定のページが割かれている。「癪」(腹や胸の激痛)は寄生虫によるものが少なくなかったことや、回虫などを口から吐くことは昭和時代までよく見られた光景であることが記されている。

 ぼくは不思議に思ったのは、人糞は腐熟(発酵)によって発熱し、寄生虫の卵を殺すということがさまざまなものに書かれているのに、なぜ寄生虫が蔓延したのだろうということだった。また、鶏糞や牛糞は大丈夫なのだろうかと思った。

 ただ、よく考えてみれば、別に腐熟を適正に管理する法律があるわけでもなく、十分に処理もされない下肥、寄生虫の卵がついたままの器具がどこにでもあった時代なら、そりゃあまあ蔓延するわなと思い至った。

 逆に言えば、人糞は適正に処理するなら現代でも肥料にはできるはずのものだと思った。藤田千枝『大小便のはなし』は1980年代に書かれた本だが、宇宙での大便の利用方法として大便でクロレラを育てて食料にするという話が出てくる。調べてみると今は宇宙では尿は再利用して飲んでいるが、大便はまとめておいて大気圏突入の熱で燃やしているらしいのだが……。

 

 第4章の「下肥の循環システム経済」は認識を新たにした章だった。

 というのは、肥料が売れるというのは「小遣い稼ぎ」程度の話かと思っていたのだが、その認識はとんでもないことであって、農業という当時の経済、特に江戸近郊の農業の太い必需品だった。

 このために、まず農民が高いお金を払って糞尿を集める。貧しい農民はなかなか買えない。

 そして、都市では土地や長屋を所有している地主・家主にとってかなり大きな収入源となっていた。

 また、これを集めるために大規模で重層的な下請けの組織が農民側に登場する。この親玉(豪農)は汲み取りの実務には携わらず、上前だけをハネる。

 そして、「水増し」が横行する。泥水を混ぜたりする粗悪品ができるのだ。

 いわば燃料・原料的な意味合いを持った重要な商品であったので、この獲得、料金をめぐり社会紛争が起きている。「下肥をめぐる騒動」という記述がそれだ。

 

 つまり糞尿をめぐる経済は江戸時代にとって決して小さなものではなかったという認識を新たに得たのである。

 

 ここには糞尿(下肥)の価格(売上価格)が書かれている。

 3780荷で180両だとある(p.192)。ただ、これがどれくらいの量かは永井の本には書いていない。だから単価がよくわからない。

 計算してみる。

 1荷はさっきも述べたが天秤棒でかつげる重さであり、桶2つなので16貫、つまり60kg。桶の重さも入っているのではないかと思うのだが、いろんなサイトを見ても肥桶一つが38リットルで8分目で30リットル、つまり2桶で60リットル(水であれば60キロ)だとしている。

http://sinyoken.sakura.ne.jp/caffee/cayomo041.htm

http://www.asahi-net.or.jp/~jc1y-ishr/yota/Tsubozan.html

 

 60L×3780荷=22万6800L

 1両をどう計算するかだが、下記のサイトを参考にすると1両=13万円。

manabow.com

 13万円×180両=2340万円。

 2340万円÷22万6800L=103円/L。

 ウンコとおしっこ(屎尿)1リットルあたり100円である

 

 第5章は近代以降の下肥利用についてである。

 下肥利用は昭和になっても続くが、人口の増加・都市集中(供給過剰)と農業における下肥利用の低下(需要減少)によって、糞尿は農家が買い取るものではなく、都市住民がお金を払って買い取ってもらうものに変化する。それが大正時代である。また東京市屎尿処理を公営化するのもこの頃である。

 本書によって都による糞尿の海洋投棄は1997年まで続いていたことを知った。

 

 第5章の終わりに「平成」という節を永井は設けている。

 水洗化率は現在9割を超えているという。「住宅・土地統計」によるものだが、まだ9割かと逆に驚く。ただそれでも9割である。

 1988年に66%だったから、この30年で劇的に向上したことになる。便座のシャワーは77%の住宅で設置されている。

 自分の排泄物を見なくても済むのである。

 便座に腰をおろしたままで水を流せば、自分の排泄物をいっさい目にすることなく排便をすますことも可能である。さらに技術が進めば、トイレ内の臭気を完全に消し去ることもできるであろう。

 自分の糞便すら、その色や形を目で見ることなく、その匂いを鼻でかぐこともなくなる……。(永井p.230)

  この30年はウンコが消えた30年だと総括することができる。

*1:究極的には蒸気によってタービンを回す技術であることが多いが。

日高トモキチ『ダーウィンの覗き穴〔マンガ版〕―虫たちの性生活がすごいんです』

 原作はメノ・スヒルトハウゼンの同名書。*1そのマンガ版である。

 

 

ダーウィンの覗き穴:性的器官はいかに進化したか

ダーウィンの覗き穴:性的器官はいかに進化したか

 

 

 どんなマンガか試しに読んでみたい人はこちら。

https://www.hayakawabooks.com/n/nb4ed50f0c303

 

 一見するととっつきやすそうな絵柄、思わず話したくなる虫たちの極端なエピソードのオンパレードなので、気楽に読めそうに思える。

 しかし、実はしっかりしたテーマと論理があり、それをまじめに追おうとするとなかなか骨が折れる。しかも理系の研究者によくある感じの、断定をせずに、関連するエピソードを合間に入れ込んだりするので、率直に言ってわかりにくい。個々のエピソードはわかりやすいけども、問いに対する答えを追うのがとても大変だった。それはこの記事の終わりに少し書いてみる。

 

 だが、そうやって苦労しながら論理を追ってみれば、この本の冒頭にある通り、ダーウィンが提唱した「性淘汰(異性をめぐる競争を通して進化した選択のこと、もしくは雌により好まれる属性を持つ雄が選択され、進化すること)は、進化とは関係ない」という命題を批判(検証)するために書かれていることがわかる。

 しかし、こう書くと、この命題になんの興味もない人にはちっとも面白そうではない本のように思えてしまう。

 もう少し立ち入ってみる。「雄がどんな雌とでも交尾したがるのに対し、雌は受動的ではあるが相手を選択する」ということをダーウィンは広く観察された事実だとした。ベイトマンはこの「事実」の説明として「精子はコストが低く卵はコストが高いので、雌は選り好みするが、雄は相手を選ばない」というベイトマンの原理を打ち立てた。本書は、この「選り好みしようとする雌」と「それをかわそうとする雄」の競争のドラマとして読むことができる

 そして、人間から見て「極端すぎる虫たちの性生活」が、実はこのような自然の競争ドラマの共通した論理を持っており、人間もその一環であることを最終的には実感できるようになっている。つまり「極端すぎる虫たち」と「人間」の性生活はあい通じるものがあるのだと。

 

 と言っても、こうした論理を追っていくのがこの本の唯一の楽しみ方なのか、というと明らかにそうではない。

 やはり、一つは日高トモキチの絵とコマとセリフが魅力だ。キャラ名さえついていないが、スヒルトハウゼンのツッコミ役として書かれているネコミミのこの女性キャラをぼーっと見ているだけでも楽しいではないか。

 そしてもう一つは、やっぱり虫たちの「極端すぎる性生活エピソード」を羅列的に楽しむだけでも本書は十分に面白いだろう。覚えた知識を日常の会話の中で使いたくなる。

「半ゆでのイカを食べた女性が口の中で激痛を覚えたのは、イカがセメントの弾丸みたいな精子の袋を発射したからだそうで、そういう事故は時々起きてるんだってさ」

みたいな。

https://www.hayakawabooks.com/n/na2498c12b726

 

 他にも「女性がオルガスムに達しない場合は精子は膣内にあんまり残らないし、オルガスムスに達する場合はよく吸い込むんだってさ」というような知識として。……どこの日常会話で披露するんだ、そんな知識。使い方を間違えばセクハラである。まあ、会話の相手や内容が純粋にそういう自然科学バナシならね。

 

 だから、あまり構えずに、パラパラと読むだけでも本書は十分に楽しめるのではないかと思う。

 

論理を追うのが大変だった回

 さてここからは蛇足である。作者への通信のような役割しか果たさない。

 前述のとおり、論理を追うのが大変だった一例を書いておく。

 例えば第6回「秘密のクリトリス」の回だ。

 

 この回は雌たちが気に入らない雄の精子を排出する戦略以外に「さらに巧妙な戦略を用意している」と書いて、その多様な戦略を紹介していく回なのだが、なかなかその紹介が始まらない。

 「たとえば」といって「一部の齧歯類が行う二段階交尾」だというのであるが、p.64に、ウッドラット科のネズミが射精後も雄はペニスを引き抜けずに雌を引きずり回すというエピソードがすぐ書かれているけども、それは二段階交尾とは関係ない。

 その次に書いてあるシロアシマウスや他の生物が行う二段階交尾はそういう交尾があるというだけで、なぜそれが雌の戦略なのかという説明はない。

 その次にゴブリングモの二段階交尾の話が書かれるが、ここでもまだ二段階交尾が雌の戦略である理由は書かれない。それどころか、何百回・数時間も精子を出さないドライセックス(第一段階の交尾)を繰り返しているというびっくりする事実が書かれて、「なんのために?」という別の疑問がさしはさまれてしまうのである。

 ようやく次のシエラドームスパイダーの二段階交尾の説明の中で「生殖孔への刺激が最も激しく印象的だった雄のものを選んでいたのだ!」という結論らしきものが出てくる。

 しかし、そうすると、すぐに疑問が湧いてしまう。

 二段階を主体的に選択しているのは雄の方であって、雌の方じゃないのでは? 雄はさっさと射精すればいいのでは? なぜシエラドームスパイダーのようなケースが結論(「生殖孔への刺激が最も激しく印象的だった雄のものを選んでいたのだ!」)になるのか、意味不明なんだけど?

 この疑問は当然だったのだろう。p.66で「さっさと射精しちゃえばいいのでは」と疑問をネコミミに語らせている。

 しかし、これに対する答えは、“雌は複雑怪奇な生殖管を持っていて、簡単に精子は入れないのだ”というもので、ぼくなどは「えー? それは気に入った雄が射精しても障害になってしまうんじゃないの?」と思ってしまう。

 ここまでまだ二段階交尾をなぜするのかという説得的な説明が行われず、その間に入る説明に対して新しい疑問が次々湧いてきてしまうのである。

 そして、その次は、ブタの人工授精の話。これは雌は気に入ったシチュエーションでは交尾を成功させる例として出されているのだと後でわかるけど、ちょっと見ただけではなんのたとえなのかわかりにくい。

 このブタの話の後に、ジュウイチホシウリハムシの話がきて、ようやく読者である僕は「あ、雌が気に入った時だけ筋肉が弛緩して、その雄の精子を受け入れられるんだなあ」ということに気づく。

 つまり、要約すれば、二段階交尾は、雄が雌の気に入るようなテストを受けている時間であって、雌が気に入れば体に変化が起こり、雄の精子を受け入れる……ということだろうか、とやっとわかるのである。

 正直イライラしながら読み進めるのだが、そうやって結論にたどり着けば読み返した時には楽しんで読めるのである。そしてこのことは人間の前戯やオルガスムスに類推できると気づく。

 

 

 

*1:邦題。英語版タイトルは「Nature's Nether Regions」。直訳は「自然の股間」。「大自然のアソコ」とか「自然における下ネタ」とかみたいな感じ? サブタイトルは「What the Sex Lives of Bugs, Birds, and Beasts Tell Us About Evolution, Biodivers ity, and Ourselves」で「虫・鳥・獣たちの性生活は進化・生活多様性・我々自身について何を物語るか」。

西口想『なぜオフィスでラブなのか』

 タイトルを問題意識にして、11の小説とマンガからそれを考えていくという手法。

 本書に興味を持ったのはタイトルからだったが、本書第5章にある綿矢りさ『手のひらの京』を題材にした記述を読んでいた時に、弁護士の牟田和恵が書いた新書『部長、その恋愛はセクハラです!』が参照されていたのを見て、「あ、そうだ。ぼくも牟田の本を読んでオフィスラブはもうできない時代になるかもしれないと思ったから本書に惹かれたんだ」と思い至った。

 

なぜオフィスでラブなのか (POSSE叢書 004)

なぜオフィスでラブなのか (POSSE叢書 004)

 

 

 

 本書の著者、西口はこう書いている。

 

福岡セクハラ訴訟の時代からこの問題の理論・実践を第一線でになってきた牟田和恵は、恋愛とセクハラの境界は曖昧であり、はじめが恋愛だったかどうかは、セクハラかどうかを判断するのに決定的な基準というわけではない、と述べる。(西口p.68)

 そして、西口は牟田から次の箇所を引用している。

 

部長、その恋愛はセクハラです! (集英社新書)

部長、その恋愛はセクハラです! (集英社新書)

 

 

 

 セクハラにおいて、男性と相手の女性は「対等」ではないのです。上司と部下、正社員と契約社員、派遣先と派遣社員、指導教授と学生。そこには力関係があります。そもそもその関係があるからこそ、女性は男性を尊敬し魅力的に思い、交際が始まったのです。

 つまり、かりに恋愛として始まった関係であれ、結果として仕事が続けられない状態になっているとすれば、それは「結果オーライ」ならぬ「結果アウト」なのです。(牟田p.136-137)

 

 実は、ぼくも牟田の本を読んだ時、ここがまさに勘所だろうと思ったのと同時に、衝撃を受けたのもこの箇所だった。

 なぜ衝撃を受けたのかといえば、職場恋愛は今後難しいだろうという時代認識を得たからである。

 職場というのは、基本的にこのような力関係が錯綜している場だ。その力関係の中で錯覚にも似た恋愛が始まることが少なくない。例えば素晴らしい指揮命令を発揮する上司が人間として魅力的に見えてしまい、恋愛感情が生じてしまう、というようなケースだ。そこまではっきりしていなくても、たとえ同僚同士であっても、オフィスで始まった恋愛にはこのような微妙な力関係が影響していないはずはないのである。

 極端にいえば恋愛感情が冷めた途端に、後には力関係だけが残り、それが客観的に見てセクハラであった、と断じられることになる可能性があるからだ。

 始まりは恋愛だった。だが熱が冷めてみると、上司と部下の立場を利用されて気の進まないまま関係を続けさせられていただけ……というようなシチュエーションである。男の上司と女の部下だった場合には、男だけが恋愛気分のままであるが、女の方は言えずに関係が続いている。それは主観はともかくとして、上司の力を使った関係維持という客観的体裁だけが残るわけだ。

 西口が「私たちがよく目にするある種のオフィスラブが根本的には『セクハラ』と同じ力学で作動する」(p.68)と言っているのはそのことだろう。

 (ぼくが例に挙げたケースの場合)男の側が「恋愛」と思いつづけ、女が自分を突然不当に告発したかのように男には見えてしまう錯覚の「根拠」がここにある。

 ぼくは牟田の本を読んで、これが職場における恋愛とセクハラの線引きなのかと愕然とした。正直な話。

 それをぼくは理不尽とは思えない。やむをえないところがあるように思う。

 しかしそうなれば、もうオフィスでラブをしない方がいいのではないか、ということになるからだ。つまり、職場で恋愛することはリスクが高いので、避けた方がいい、ということになる。

 例えば学校で教師と生徒の間には恋愛感情がありうる。あるいは17歳と30歳の恋愛感情というものもありうる。そしてそれを正当に実らせる方法もある。しかし、あまりにも危うい力関係に取り巻かれた空間であるがゆえに、学校で生徒・教師間の恋愛、大人と子どもの恋愛はしない方がいいだろう、と自戒するのと同じなのだ。

 

 西口は、本書の別の章で次のような懸念を書き付ける。

 

 では、もう一つの「対等なパートナーシップ」はどこで手にすることができるのだろう。

 この点でも、権力関係の総本山であるオフィスラブの分は非常に悪い。オフィスラブは、そもそもが異性愛中心で、ハラスメントの温床である。血縁・地縁の代わりを社縁が果たした高度経済成長期の遺物だと見なされても仕方がない。多様性と共生とを旨とする現代社会では、端的にいって時代遅れなのかもしれない。(p.158-159、強調は引用者)

 西口は、本書においてこの懸念では着地しない。

 さらに1章を設けて探求を続けていく。

 しかしながら、ぼくが本書および牟田の著作を読んで思った結論は、まさにここであった。もう(公正な)オフィスラブは無理ではないか、あるいは相当に難しくなるということだ。

 これからの社会は、性に対する規範が厳しくなるだろう。「厳しくなる」というのは、これまで虐げられてた性(特に女性)がその尊厳を回復することによって、「ゆるさ」という名の暴力が消えていくということである。

 ただ、もう一つの可能性としては、働き方そのものが変われば、このような「錯綜した力関係」が消え、自由な人間関係で結ばれるようになる。ネガティブな書き方をすれば、資本・賃労働関係を軸にした「指揮命令」の関係が変質すれば、自由でドライな働き方の空間になる。そうなれば、オフィスラブは復活するかもしれない。

 マルクスが『資本論』で述べた「自由な人々の連合体」、あるいは「インタナショナル創立宣言」で述べた、賃労働廃止後の労働の変化だ。

賃労働は、奴隷労働と同じように、また農奴の労働とも同じように、一時的な、下級の〈社会的〉形態にすぎず、やがては、自発的な手、いそいそとした精神、喜びに満ちた心で勤労にしたがう結合的労働に席をゆずって消滅すべき運命にある。(『古典選書 インタナショナル』p.19)

 

 

 

 

 

 

本書の魅力は11の作品の紹介の面白さにある

 ただ、ぼくにとっての本書の魅力は、こうした考察にはあまりなかった。

 11あった小説・マンガの評がとてもうまい! と思ったのだ。

 そしてその評は「へえ、読んでみようかな」と思わせる方向でのうまさなのだ(「読んでみようかな」と思わせることは批評の役割そのものではないが、批評によってもたらされるものの一つであり、ある種の「文の芸」であることは間違いない)。

 引用の箇所も絶妙で、先ほどの綿矢の小説についていえば、陰湿な陰口に、満を持して反撃するシーン、「キレ芸」の迫力を披露するくだりがなんとも痛快であった。

 

「でも男でも見抜いてる人いるで。前原さんとか。ちょっと付き合って良くないと思たから、一回やって捨てたんやって」

 笑いが起きる。よし来た、このタイミングや。

「それ私に向かって言うてんの?」

 鬼の形相で素早くくるりと振り返ると、お局たちの驚愕した顔があった。京都ではいけずは黙って背中で耐えるものという暗黙のマナーがある。しかし、そんなもん、黙ってられるか。

  よっ、待ってました! と快哉を叫びたくなる。本当はこの前後がいいのだが、それは本書、および綿矢の小説を読んでのお楽しみである。

 というわけで、「小説・マンガのレビュー本」としてぼくは高く評価したい。

PTA問題に市長はどこまで首をつっこめるか

 兵庫の川西市長がPTA改革のための議論の検討会を設けるという記事を読んだ。

www.asahi.com

 

 市長選の公約だというのでみてみると、はあはあなるほど、確かに「【2019年度に】保護者の負担軽減に向け『PTAのあり方検討会』を設置します」とあるね。

koshida.net

 インタビューを読むと、この問題意識は痛いほどよくわかる。

 マニフェストを固めるために子育て世代の人と話していた時、「PTAをなんとかしてほしい」「大変だ」という声がたくさんあったんです。「役員が決まらないと帰れない」「役員になれない理由をみんなの前で発表しないといけない」など、多くの人が不満を抱え、「しんどい」「変えたい」と思いながらやっている。

 今は自営業者や専業主婦が多かった時代と異なり、少子化により保護者の数も減っています。なのに、PTAは基本的に同じことを続けている。「いらない」と思っている活動でも、「変えよう」と提案すると「自分でやれ」と言われかねない。「それなら1年間我慢しよう」となり、いつまでも変わらない。ならば、長期的に取り組める行政がなんとかする必要があると考えました。

 ただ気になることがある。PTAは任意団体なのに、なぜ政治が介入できるのか、という問題である。このあたりは越田もよくわかっているのだろう、「政治は『学校と別組織』という理由で放置してきた」と現状を批判した上で、次のように言っている。

最初は「PTAの見直し」を考えていたのですが、「PTAって任意の組織でしょ?」という突っ込みが入りました。確かに、任意の組織を市長が変えるのはおかしい。でも、あり方を見直すきっかけをつくることはできます。オープンの場で議論することが、その一つだと考えました。モデル的な活動を示し、協力してくれる学校での実践を踏まえてさらに課題を洗い出したい

 もう一つは、これは教育の問題であるのに、市長が容喙している、という問題である

 市長が教育をどうこうしたいというのは当たり前だろ? と思う人もいるかもしれまない。まあ、何しろテスト結果で教師の給料を云々するなどという市長も世の中にはいるくらいだからw

 教育は政治の道具になり子どもを戦場に送ったという戦前の反省から、戦後は教育委員会制度が設けられ、市長などからの独立性がうたわれている。

教育委員会制度の特性]
1 首長からの独立性
◎  行政委員会の一つとして、独立した機関を置き、教育行政を担当させることにより、首長への権限の集中を防止し、中立的・専門的な行政運営を担保。

http://www.mext.go.jp/a_menu/chihou/05071301.htm

 

 この2つの「限界」(任意団体への介入、教育への市長の介入)をふまえながら、政治はどうPTAに関わるのがいいのか。

 

限界その1 任意団体に介入できるのか

 第一に、任意団体への介入という問題。

 任意団体に介入するなというのは正しいとして、事実上任意団体じゃなくなっていてそれが「公立学校」という公的機関が深く関与しているというところに闇の深さがある。

 この点でPTA規約には多く「学校長」や「担任」という公的役職が初めから組み込まれている場合がある。ネットに転がっている各地のPTAの規約を見てみよう。

第7条
本会の役員は次の通りとする。
イ.会   長    1名
ロ.名誉会長    1名(学校長)
ハ.副会長      5名以内(副校長を含む)

 

第13条【役員会】
役員会は役員および学校長で構成され、任務は次の通りとする。

 

第8章  顧    問
 第22条 この会に顧問若干名を置く。 但し、校長は常に顧問となることができる。
 第23条 顧問はPTA運営に関し、会長の諮問に応じ、また総会・運営委員会に出席して意見を述べることができる。

 

第33条 運営委員会は役員・運営委員・学校長・教頭をもって構成され、この会に必要な企画立案・運営等、重要事項について協議する。

 校長というのは公職である。任意で入った先生の一人がたまたま校長先生で、その人がたまたま役員になったというのではなく、「校長」であるがゆえにその関与、特に役員会や運営委員会など高度な意思決定への関与が初めから規約にうたわれている。こうしたケースは少なくない。

 これは1948年に作られ、その後もこの形が受け継がれているPTA参考規約に拠っているからだ。ぼくの娘が通う小学校のPTA規約もこれを参照していることがわかる。だいたい「会員はすべて平等の権利と義務とを有す」(10条)としながら、日常的な意思決定を行う「実行委員会」*1には「本会の役員、各常任委員会の委員長および校長またはその代理によって構成される」(25条)として初めから校長には特権的なPTA内の地位を規約上で与えているのである。

 PTAは任意団体である以上、自発的な同意によって参加が行われるべきもので、それは教職員も、そしてその一員である校長も例外ではない。校長を充て職のようにして規約に初めから盛り込むのは、ぼくからみると任意団体としてまことに奇妙という他ない。

 さて、もしこのような規約の構造を持ったPTAであるならば、PTAは校長という「公職」が関与して成立している組織であり、それは公が関与できない任意団体とは言えない*2

 「公職」である校長は、「校長=公職」としてその団体に入っている以上、公の立場で任意団体への関与を行わねばならないはずである。例えばPTAがめちゃくちゃなことをやっているとしたら、ホントの民間の任意団体ならどんな方針を取ろうがそれは自由であるが、公職者が公職者としてそこに入っている団体であるならその公職者はその団体のめちゃくちゃを正さねばなるまい。例えば任意加入と言いながら実際は強制加入をしている、というようなめちゃくちゃを。むろんPTAの最高意思決定機関は「総会」だから、校長が決定できるわけではないが、校長は少なくとも「正そうとする」姿勢は示す必要がある。

 

 このとき公職者(校長)が取るべき選択肢は2つある。

 一つは、こうした規約を利用して、今述べたようにPTA内部のめちゃくちゃを正す行動を起こすことだ。例えば任意加入を徹底したり、非会員の子どもへの差別をやめさせたりするなどである。

 もう一つは、こうした規約を変えて、「公職」としての関与を一切やめることだ。ぼくはこちらをお勧めする。公職としてできる最後で唯一の関与は、公職としての関与を今後やめるように規約改正を提起するわけである。

 教職員も事実上の強制加入に追い込まれている現状があるが、

news.yahoo.co.jp

校長・教職員も含めて、完全な任意団体に変えてしまうということだ。校長についても教員についても、やりたい人がやればいい。

 完全に任意の団体、例えば保護者がやっている読書サークルとか、そんなものと同じになるのだ。もともとPTAは社会教育=成人教育=大人を教育する団体であり、父母と先生の勉強会に過ぎない。それがこれをアメリカから持ち込んだ時の理念だったはずである。

www.mext.go.jp

 そんな完全な任意団体にしたら、学校はまったく関与できなくなるではないか……という不安があるかもしれない。

 その通りである。それでいいのだ。

 学校としての管理上の責任は、任意団体に対して外から発揮されるべきもので、例えば場合によっては学校を貸さないとか、PTAに懇談を申し込むとか、そういうことで発揮されるものである。

 

 

限界その2 教育への市長の介入はできるのか

 次に、もう一つの「限界」、つまり教育への市長の介入はどうだろうか。

 校長が公職としてPTAに関わっているとしても、市長の言うことに教育者がただちに従うべき必要はない。先ほど述べたとおり、教育委員会には独立性があるから、市長は予算などの形で教育条件の整備には責任を持つが、教育内容に首を突っ込んであれこれ振り回すのはルール違反である。

 ただ、市長というものは、まったく教育について意見を述べられないわけではない*3きわめて抑制的な形であれば、言うことは可能であろう。

 地教行法地方教育行政の組織及び運営に関する法律)第1条には「総合教育会議」という、教育長と市長が協議できる場の設置がうたわれている。ここであくまで抑制的に市長が問題提起し、教育長との間で協議することは可能であろう。*4

 

 ただ、たとえここで教育委員会と市長との間で協議が整ったとしても、もう一つ問題がある。

 それは校長は必ずしも教育委員会の方針に従う必要はない、ということだ。

 学校ごとに自主的に方針を決めるということはもっといっぱいあっていい。子どもの成長・発達をすべてに優先させるという立場に立つなら、画一的な教育行政に従うべきではない。特にPTAへの関与のあり方などという問題は、地域の実情に応じる部分が多分にある。教育委員会がこうだと決めたからといってそれに従わせるのは、逆に良くない。

 ぼくの考えでは、ぼくが娘を通わせている小学校のようなケースであれば、教育委員会はゆるやかな呼びかけにとどめればいいと思う。どうするかは個別の学校が考えることだ。どうしてもイヤな家庭は個別に脱退すればいいのである。

 そうではなくて、非会員の子どもが差別されるような緊急のケース(通学の班から外す、卒業式の記念品から外すなどして、その上で救済のための措置がないような場合)は、個々の人権にかかわる問題として教育委員会が是正の勧告をおこなうか、必要な保護の手立てをとるなど、強めの関与をすべきだと思う。

 

 というわけで、タイトル「PTA問題に市長はどこまで首をつっこめるか」という問いへの答えは「手順を踏めばいろいろできる」ということになる。川西市長の試みは、ていねいに進めてもらうことを望む。*5

*1:現在の「運営委員会」にあたる。事実上、保護者でほとんど構成する「役員会」と学校側との調整決定機関。

*2:もちろん、任意団体は結社の自由があるので、どんなぶっ飛んだ規約だって作ることは可能だ。俳句サークルが「本会の会長はアメリカ合衆国大統領とする」という規約を設けることもできるだろう。ただその場合、アメリカ合衆国大統領がその規約を改めるよう求める権利はあるし、その範囲で任意団体に口出することには正当性がある。

*3:「政治が教育内容について何も言ってはならない、ということはありません。…教育の自主性を重視するあまり、教育内容について政治は意見を述べたり批判してはいけない、となったらどうでしょうか。批判されることのない世界は、独善におちいりがちです。……専門家の自治だけでは十分ではないということなのです。それは、体罰や暴力的な言葉などで子どもが教員から心身を傷つけられる場合があることが社会問題化するなかで、いっそう自覚的にとらえられるようになったと思います」(藤森毅教育委員会改革の展望』p.175-177)。この視点から言えば、PTA強制加入問題が人権問題であるならむしろ政治が意見を述べることは正当性がある。

*4:「この法律でいう協議とは、自由な意見交換という意味です。さらに付け加えれば協議とは、極端に言えば会議があっという間に打ち切られようが、とにかく一度両者が話し合いのテーブルについたら、法的には協議したということになるものです」(藤森前掲書p.62)。このような「協議」程度の話し合いとして持ち出すべきであろう。

*5:全然この話題と関係ないけど、この話を調べる過程で川西市で越田と市長を争った自民党推薦の大森という候補の略歴や、大森の市議時代の市議会での質問に奇妙な関心を持ってしまった。

学研の模擬試験に拙著が

 拙著『“町内会"は義務ですか? —コミュニティーと自由の実践 』(小学館新書)の一部が学研の模擬試験(地域の小論文)に使用されました。

 「次の文章を読み、地域のコミュニティー意識を持つために必要なことについて、あなたの意見を書きなさい」的な設問でした。

蓑輪明子「保育士の処遇の現状をどう変えていくのか――愛知保育労働実態調査を手がかりに」

 統一地方選挙が始まっている。

 当然そこに「保育園に入れない子どもをなくす」という公約も入ってくるだろうけど、肝心の保育士がいないという問題に多くの自治体が直面している。

 

「保育士は確保されている」というトンデモ認識の福岡市

 すでにいろんな街で起きていることだと思うけど、福岡市でも、保育士が確保できず入所する子どもの定員を割ってしまう事態が市内各地で生まれている。

 2月議会での福岡市議会のやり取りを聞いていたけど、びっくりした(2月15日本会議)。

 

綿貫(共産) この(市の)保育士人材確保事業で、本市の保育士不足は解消しているのか、答弁を求めます。

こども未来局長 福岡市では就職準備金等の貸付、就職斡旋、就職支援研修会などの開催、正規保育士への家賃補助など保育士の人材確保に努めており、保育に必要な保育士は確保されております。

 

 目が点だわ……。

 このご時世に、“自分たち市当局の保育士処遇は万全だ、保育士は足りてる”という答弁なのだ。「必要な保育士が確保されている」という認識なのに、なんで新年度に「奨学金返済補助金」なんか始めたのか。この理屈で言えば「税金の無駄遣い」ってことになるだろ。

www.asahi.com

 福岡市は議会での追及を恐れるあまり、自分たちの現在の保育士処遇策を「正当化」するのに汲々としていて、そこに課題があることさえ認めようとしない感じだった。話にならない。

 

蓑輪論文の5つの刺激的なポイント

 さて、そういう福岡市のようなトンデモ認識はあるものの、ふつうの自治体では保育士の確保に頭を悩ませている。

 よく「保育士の月給は全産業の平均給料に比べて月10万円低いから、給料をアップさせることが必要だ」という意見を聞く。これはその通りなのだが、さらにそこから具体的な認識を得たいと思っていた。

 その点で、蓑輪明子(名城大学准教授)の論文「保育士の処遇の現状をどう変えていくのか――愛知保育労働実態調査を手がかりに」(「前衛」2019年3月号)が非常に参考になった。

 

前衛 2019年 03 月号 [雑誌]

前衛 2019年 03 月号 [雑誌]

 

 

 「非常に参考になった」点のポイントを先に示しておくと、

  1. 賃金だけでなく長時間・過密労働の解消が重要であり、その基礎をつくるためにも、どこからどこまで時間外労働として認めるべきかというルール(ガイドライン)の確立と徹底が現場レベルで必要。
  2. 次善の策だが残業代を明確に支払わせることで賃金が上がるし、それをちゃんとさせることが長時間労働の解消の基礎にもなる。
  3. 休憩が取れないという実態が、経営側のデータではなく労働者の実態調査から証拠づけられ、そのために「人を増やさないと労基法が守れない」ことが浮かび上がり、現状の国・自治体の配置基準が適正なものではないことが明らかになる。
  4. そもそも経営側が労働時間の管理をしていない。
  5. 自治体全体(ここでは愛知県全体)を網にかけるような保育士の実態調査をするために学者の力を借りることの大事さ。

などである。

 

実態調査が市レベルでほしい

 蓑輪の論文は、前半は、官製の統計である「賃金構造基本統計調査」をもとにしている。これでもいろんなことがわかるんだなと思ったのだが、残念ながら、都道府県レベルのものしか公表されておらず、政令指定都市という括りでは見当たらない。

 例えば福岡市という単位で保育士の実態を明らかにしようと思うと、依拠できるデータがないのだ。「福岡市の保育士の平均給与は?」ということさえ簡単にはわからない。*1

 

 また、労働組合などだけだと、加盟していない保育園の労働者には本当に手が届きにくくなる。実態調査でさえ、園側が堅くガードして保育士たちにアプローチさせないようにすることも少なくない。

 それゆえに「大学の先生」たちが研究目的で労働者に実施したこのアンケートは、経営側の協力も得られて、約1万646人から調査が得られており、とても貴重なのである。

https://aichi-hoiku.tumblr.com

 

 処遇の改善として通常イメージされている「給料のアップ」についても詳しく書かれているが、そのあたりは実際にこの論文を読んでほしい。

 

労働時間が管理されていない保育の現場

 ぼくが認識を深めたのは、長時間・過密労働についての保育の現場の様子だ。

 そのポイントとなるのは、経営側が「そもそも労働時間の管理をしていない」(p.193)という点。「申請できない雰囲気がある」というよくある「残業ハラスメント」ではなく、

「そもそも残業申請をする習慣がない」と答えた人が最多で、四一・五%にものぼったのです。(p.193)

 

「残業パワハラ」は、一応労働時間管理をしていて、申請の仕組みもあって初めて出現する社会現象です。ところが保育の現場は、そもそも労働時間の管理をしていない施設が多く、「残業パワハラ」すら起きない状況が広がっている。労働時間管理すら行われていない状況になっていることが、浮き彫りになったのです。(p.194)

 

 しかも経営側がこのような姿勢であるために、労働者側も「何が労働時間にあたるのかが、そもそもわからなくなっている状態があります」(p.199)。例えば調査では、勤務時間前の時間外労働には7割以上の人が、超過勤務手当が「まったくついていない」と答えている。

 時間外の対応として「保育の準備、たまっているジム、保育室等の環境整備、おたより帳、保育記録、会議、行事準備」などが挙げられている。

 

 蓑輪は「何が労働時間にあたるのかが、そもそもわからなくなっている状態」を是正するために、何が時間外労働に当たるのかを一つ一つ明確にしていく作業が大切だと述べる。

 

そうした状況を是正するため、愛知県内の自治体で、公立施設に対し、未払いになりやすい業務を一つ一つ列挙し、未払いが発生しないよう通知を出しているところがあります。勤務時間前だとこんな仕事が、休憩中だとおたより帳が、持ち帰りではこういう準備が、時間外にあたると、仕事の内容を一つ一つ列挙して、「こういうものを時間外労働として認めないのはダメ」「若いからと認めないのはダメ」との但し書きをつけ、各施設に出しているのです。時間外労働のガイドラインのようなものです。私たちの労働実態調査をうけてこうしたガイドラインを出した自治体もあります。……私は、こうした積み重ねのなかでこそ、国の配置基準の拡充が可能になってくるのではないかと思います。(p.199)

 

 「こうした積み重ねのなかでこそ、国の配置基準の拡充が可能になってくる」。

 ここ非常に大事な。

 中原淳+パーソル総合研究所『残業学』という新書でも時間外労働の可視化作業を職場全体で共有することが、まずは出発点だと言っていたが、

kamiyakenkyujo.hatenablog.com

どこで残業が発生していて、どれくらい人が足りていないのかをはっきりとした数字で表す必要があると思うんだよね。

 

第一にやるべきは、(残業削減の)施策をたてることではありません。まずは、残業時間をきちんと「見える」化していきましょう。(『残業学』p.234)

 

 保育の場合、人員の配置基準が国と自治体でつくられているんだけども、実はその通りやっていたら、昼休みにおたより帳を書くとか、保育の準備をする時間が含まれていないことになってしまう。だから休憩を削ったり、家に持ち帰ったりすることになる。

 国や自治体の配置基準通りやっていたら、休憩が取れない。保育士の公定単価を割り込んでしまう――そういうことが労働時間把握と残業認定によって明確になるのだ。

 保育士の配置基準をもっとよくしてほしい、と市にお願いするのだが、市は「国の基準通りだ」という形式的な答弁しか返ってこない。

 その時には「保育士は大変なんだ」ということでは説得力が弱い。「現場のことがわかっている人たち以外に、保育労働の大変さは伝わりにくかったように思います」(p.190)という蓑輪の指摘はまさに当を得ている。

 それをもとに単に「保育士は大変だ」というレベルを超えて、「人を増やさないと労基法が守れない」という行政を追い詰めるロジックが成立しうるのである。

時間外手当を払っていないことをうやむやにしたままで「人を増やせ」というのでは、世論に対して、なかなか説得力を持たないのではないでしょうか。(p.195)

 

 残業代を支払わせる意義

 2.に関して。

 保育士の低賃金についてこの実態調査では「仕事に見合った賃金ではないから」と言うのが72.7%なのだが、次に「他産業・他業種に比べて低いから」が37.3%となっている。

 そして蓑輪が「なるほどと思った」のが、「残業代などが支払われていないから」が34.3%もいて「他産業・他業種に比べて低いから」に匹敵する数字があるということだった。

 つまり未払いへの不満が一定数あるというのだ。

 逆に言えば、この未払いの解消によって賃金が上がる(もしくは長時間労働が解消される)ことになる。

 それはあくまで次善の策なんだろうけど、それによって賃金への不満を緩和することができると蓑輪はいう。

 そして、先に述べたように、未払い労働を支払わせることで、何が時間外労働であるかも明確になり、長時間労働を解消していく基礎になる。

 

 このように、示唆深いことが多い論文である。

 ぼくはまず保育労働者に実態調査を市がやるように働きかけ、それを完全に公表するようにすべきだと思う。それが処遇改善の第一歩になる。

 

 

 

 

*1:福岡市は例えば「福岡市保育所運営補助のあり方検討委員会」の報告書の中の資料で様々なデータを出しているが、「保育園職員名簿」とか「実地監査結果」とか、非公表のものばっかりで、しかも経営側の帳面を根拠にしている。これでは労働者の本当の実態はわからないばかりでなく、市側につまみ食い的に資料を出されてしまう。 http://www.city.fukuoka.lg.jp/data/open/cnt/3/49571/1/hoiku_houkoku.pdf?20170308183103