ナナシ『イジらないで、長瀞さん』

 「スクールカースト」とまでは言わないけども、文化圏が違うクラスの女子、特にギャル的な女子から、相当にからかわれながらちょっかいを出されて「構われる」、つまりそのからかいは、実は自分への好意じゃないのか……?っていう話の作りかたは、ぼくの中学時代の体験を思い出させてしまう。

 

 

 って言ってもだね、この作品と同じシチュエーションがあったわけじゃないんだよ。

 この何百分の一くらいの、カケラみたいな個人的経験。

 全然日頃接触のないヤンキーの先輩女子にからかわれながら学校から帰ったことがたった1回だけあった。

 そもそもそれまでの人生の中で女子にそんなに「いじられる」=関与された体験もなかったし、体をベタベタと触られたこともなかったし、「かわいいね」とか言われたこともなかったので、ものすごい鮮烈なインパクがあったんだよね。

 別にその先輩を好きになったわけじゃないんだが、こう、身悶えしてしまうみたいな。何百回でも反芻するとか。性的な妄想を膨らませるとか。

 『長瀞さん』はその核になっている微量の記憶にすごくよく似ている。

 よく似たマンガに『からかい上手の高木さん』があるけど、あれと決定的に違うのは、オタク男子から見て「異なる文化圏からきている、アクティブな女子の関与」ということ。『高木さん』の高木さんと西片は同じ文化圏だと思うけど、長瀞さんとセンパイは本来別の棲息域にいたはずなのだ。

 

イジらないで、長瀞さん(2) (講談社コミックス)

イジらないで、長瀞さん(2) (講談社コミックス)

 

 

 性的に見て主体性の乏しい自分が、都合よく関与される妄想のコアにあるのがこういう「イジられ」系の話だと思う。性的な主体性の乏しさは80年代以降に様々な、そして豊かな変奏を生み出してきた。

 『長瀞さん』は、『高木さん』的なものに比べて、個人的な体験からいえば、ギャルというキャラ設定は関与してくる力が相当に強く感じられる。だから、ぼく個人でいうと『高木さん』より強く訴求してくる。『長瀞さん』がいいか、『高木さん』がいいか、そこらへんは個人体験に基づく好き・嫌いの度合いでしかないと思う。

 

イジらないで、長瀞さん(3) (講談社コミックス)

イジらないで、長瀞さん(3) (講談社コミックス)

 

 

 

 50近い、いい大人がこれ読んで甘酸っぱくなっているのである。

 ぼくの場合、上記のような経験があったんだけども、それ1回きりのことだけが記憶のコアにあるんじゃなくて、他にも、文化圏が同じような感じの女子であってもなぜか知らないけど自分に関与してくれる(ちょっかいを出してくれる)女子というものが中学・高校時代にいて、そういう女子を強く意識してしまったり、好きになってしまったりすることがよくあった(そして大抵リアルでは「えー、紙屋君のこと別にそんなふうに思ったことないし」的な手痛いしっぺ返しを食らう)。

 そういう複数の経験がごた混ぜになって、『長瀞さん』を読むときの身悶えするような記憶を形作っている。

 くそっ。ひ、ひ、人を童貞だと思いやがって。

 

 

 

中原淳+パーソナル総合研究所『残業学 明日からどう働くか、どう働いてもらうのか?』

 残業の削減を「データとエビデンスに基づく分析」(本書p.7)によって「具体的な解決策を提案」(同前)ことを売りとする。

 

残業学 明日からどう働くか、どう働いてもらうのか? (光文社新書)

残業学 明日からどう働くか、どう働いてもらうのか? (光文社新書)

 

 

 

 ただ、ぼくが本書で面白いなと思った部分は、実はこの「データやエビデンス」部分ではなく、日本社会では歴史的どのあたりで残業が発生し、なぜ常態化したのかという解説部分であった。

  • 女工哀史』の頃は労働時間概念そのものがない。
  • 1911年の工場法で初めて女性と子ども限定で労働時間規制が持ち込まれた。
  • 1930年ごろから「残業」という考えが定着。
  • 1947年の労働基準法がエポックメイキング。36協定による「規制」(事実上の青天井)。

 90年代以降の労働時間の「短縮」はパートタイム化・非正規化によって起きていたことは知っていたが、「日本以外のほとんどの先進国は、様々な規制や施策によって労働時間を減らしてきました」(p.68)という断言は新鮮であった。日本と同じような仕組みかと思っていたからである。

 ヨーロッパとの比較でいえば、

  1. 労働時間の法規制のゆるさ
  2. 仕事がジョブ型でなく仕事の区分が明確でない

という2つが大きな問題となってきた。後者についてはヨーロッパが仕事の内容が明瞭に契約に書かれるのに対して、日本でははっきりしないとされ、

その結果、「必要な仕事に人がつく」のではなく、「職場に人がつき、それを皆でこなす」形になるため、「仕事の相互依存度」も高くなります。自分に与えられた仕事が終わっても、「職場のみんなが終わっていなければ終わりにくい」ところがあり、他の人の仕事を手伝う、若手のフォローアップを行う、といったプラスアルファが求められます。(p.70)

ということになる。そして、「内部労働市場」であるがゆえに、雇用を抱えたまま残業をしたりしなかったりして、調整をする。

 

 ぼくは、ここまでを読んですでに結論が出てしまったのではないか? とさえ思った。

  • 労働時間の規制をきつくする。
  • ジョブ型に近いものに変えていく。

ということが解決策になるんじゃないの? というふうに思ったからだ。前者は政治の仕事である。後者は経済(職場・労組)の仕事である。

 

 著者(中原淳+パーソナル総合研究所)は「時間当たりの成果」がこれからの成果指標になると言っているのだが、

である以上、いくら「時間当たりの成果」すなわち労働生産性をあげても、経営者はどうしても付加価値全体を高めようとするので、労働者数を変えなければ、労働時間に規制がなければ労働時間を上げようとするに違いない。

 著者の前提、つまり「時間当たりの成果」をこれからの成果指標にするためには、労働時間をかたく上限規制する以外にない

 著者は国会での「働き方改革」法案の審議について、「何十時間まではOKで何十時間まではNG」というような議論を「条件闘争」だと言って批判しているのであるが(p.34)、仮に「残業は例外業種を除いて月45時間。それ以上は違法」と決めていたら、社会は劇的に変わったはずである。「条件闘争」などという軽いものではないだろう。

 もしもこのような規制が、重いペナルティと十分な監督体制とともに決定されていたら、おそらくブラック企業は生き残れまい。ひょっとしたら中小企業のある部分は潰れる可能性すらある。逆にいえばブラック企業の淘汰と労働生産性の飛躍が起きたかもしれないのだ。

 

 そして、著者が鋭く指摘しているように、「残業=残業代がないと生活できない」という問題をどう解決するか、という点では、これも本来政治が乗り出す必要がある。

 ぼくが前から言っているように、とりあえずは教育費と住宅費を社会保障に移転していくようにすべきなのだ。教育の無償化、公的住宅の増設(または公的借上げ)、公的住宅手当などである。

 

 まあ、以上はぼくの本書に対する「批判」とも言える部分なのだが、こうした反論を引き起こすというだけでも本書は刺激的である。十分にこの部分についても読むに値する。

 

労働時間規制が事実上ないもとでの本書の意義

 そして、こういう形でぼくは本書を批判をしてきたものの、大事なことは、現在安倍政権のもとでまともな労働時間規制が実際には行われていないという事実から出発することだ。*1

 その事実を踏まえた場合、本書の後半部分は、「労働時間規制がまともにないもとでの職場での残業削減=働き方改革の指南」ということになり、実は本書の意義はまさにここにあるのではないかと思う。

 そう。

 いろいろ言ったって、残業時間規制が事実上ないようなもんなんだから。「ない」という社会でぼくらは残業を減らすことを考えないといけないのだ。

 この部分こそが「データとエビデンス」に基づく残業分析であり、残業削減の具体的改革策なのである。

 そこはいちいち紹介することを避ける。本書を読んで味わってほしいが、ぼくにとって役に立ったごく一部を紹介しておく。

 一つは、残業時間の「見える化」をするということで、「サービス残業」もふくめ、「平均」でとらえず、特定の個人・部署に集中している状況を明らかにすること。

 二つ目は、男は時間ができても(放っておけば)家事・育児などしないということ。

 三つ目は、会議にとって事前予習・準備はさほど効果的でないというデータが出ており、むしろ終わらせる時間や司会の力量にかかっているということ。

 四つ目は、「残業武勇伝」的な残業賞賛文化を、いろんな場で破壊する学習機会を設けるということ。

 

 残業時間規制がゆるゆるの現状ではあるのだが、若い人は長時間労働を嫌う傾向にある。いいことだ。結局短期で業績が出ても、長い目で見ればそういう企業体に若い人は寄り付かなくなる。条件のよい企業へ移っていくだろうから、最終的には長時間労働を前提としているところは淘汰されていくだろう。割と早いスピードで。法的規制とは別の方向から、各企業にはお尻に火がついている。だからこそ、著者の主張するような社内改革も現状でも一定の効果が期待できるように思われる。

*1:2019年4月から施行される安倍政権の「働き方改革」法によって残業は「原則」月45時間、年360時間と「上限」は決められたが「臨時的な特別の事情」があれば過労死レベルである月100時間未満、年720時間まで延長できる。休日労働を含めれば月80時間残業を12ヶ月続けることができ、年960時間の残業も可能だ。

石黒正数『天国大魔境』1・2

 石黒正数『天国大魔境』は何か大きなカタストロフがあった後の日本を描いている。これから解かれるべき謎(の一つ?)が2巻でようやく設定されたが、まだ設定全体さえ見えてこない。

 だから評価もしようがないが、かと言って物語の切片、絵、セリフが楽しめないわけではない。むしろノリノリで読んでいる。

 

 

(以下少しネタバレあり)

 

 1巻のラストで出てきて2巻の冒頭で展開される、主人公・キルコの「中身は男、外見は美少女」というのは、性同一性障害的なテーマじゃなくて、

 

モロ好みの女性を描いた!っていう感じですかね。

https://natalie.mu/comic/pp/tengokudaimakyo/page/2

 

っていう石黒の証言もある通り、「中身はオタク男子、外見は美少女」的なモチーフを物語用にシリアスにしたんだろうと思った。

 1巻p.106にあるように、キルコが自分の全裸を鏡で眺めながらナルシスよろしく陶酔する場面。2巻にある、

好きな女の身体を手に入れた薄暗い悦び

 という独白。あたり、な。

 拙著『マンガの「超」リアリズム』の「その美少女の中身はおっさん、もしくはオタク男子である」の章で論じた「欲望の対象と欲望の主体が合体」というテーマだ。

 石黒が入れ込んだ造形だけあって、ぼくもキルコがアップになるシーンを舐めるように、いやらしく見ている。

 

(ネタバレっぽいもの終わり)

 

 さて、ぼくがこの物語でときどきボーッと考えてしまうのは、サバイバルについてである。

 例えばキルコたちが「八巣旅館」というところに泊まった時に、電池をお礼に差し出すシーンがある。旅館の主人はその電池を

こんな状態のいい電池がねえ…

ある所にはあるんだね〜

 と、しげしげ眺めるのだ。何の変哲も無い単三電池であり(下図)、それが包装されていて新品同様だというほどの意味であろう。

f:id:kamiyakenkyujo:20190324011957j:plain*1

 つまりこの世界では、工業製品が一切生産されていないんだろうなと想像する。大崩壊のあった時点でストックされていた工業製品の残りを見つけては消費しているだけの世界なのだ。

 単にそこからぼくの想像が脇にそれた、というだけの話だけども、こういう世界になったら、まず何を確保すべきだろうかという気持ちになった。

 当然水と食料だろうけども、例えば食料は畑を作ったりすれば調達していける見通しができる。もちろん収穫までしのぐために例えば缶詰や保存食のようなものを確保してかねばならない。

 水は、浄化されたものが手に入らなくなるが、煮沸や濾過でけっこういけるんじゃないかと考える。

 糞尿はどう始末するのかといえば、川や海にするのがいいと思うのだが、人口がどれくらい残っているのかもにもよる。

 

天国大魔境(2) (アフタヌーンKC)

天国大魔境(2) (アフタヌーンKC)

 

 

 

 すぐに頭に浮かんだのは医薬品のことだった。

 『漂流教室』でも子どもが手術してたし……。

 あれは病院や薬局から当面かき集めるにしても、あるコミュニティが存続するほどの分量が残っているかというとそうでもない。だから心もとない。

 そこから、一足飛びに、「やっぱり人を集めて、工業・文明を再開するための自治政府ができるんじゃないのかなー」と思わざるを得なかった。本作に出てくる「草壁農園」というのはそういうものの走りなんだろうなと思ったりする。

 

 今のぼくら日本人のメンタリティや震災後の実績からいえば、中央政府が崩壊しても、わりと短期間に自治的なコミュニティができあがり、それが政府のようなものを作り出していくに違いないと思った。

*1:石黒正数『天国大魔境』1巻、講談社、p.103

太田垣章子『家賃滞納という貧困』

 司法書士として家賃滞納の処理にあたってきた筆者が、18のケースを紹介している。

 

家賃滞納という貧困 (ポプラ新書)

家賃滞納という貧困 (ポプラ新書)

 

 

 230ページの本なのに200ページまで事例紹介が食い込んでくるのは、いくらなんでも多すぎないか……? とは思ったけど、個別事例の中にわかりやすく普遍性を見出そうという手法なのだろう。滞納の中にあるドラマのようなものを読み取ってしまった。

 

 忘れられないのは、大阪の生野区にある部屋の家賃を滞納し続けた20歳の男性のケースです。本人とまったく連絡が取れなくなったため、四国に住む親御さんに連絡すると、「2、3年連絡を取り合っていないが、便りがないのは良い知らせ」だと言い切り、まったく関わろうとしないのです。

 しかしその若者は、部屋の中で餓死していました。

 慣れない土地で思うような生活ができず、友達もおらず、そして親にも助けを求められずに力尽きた、そんな残酷な結果だったかもしれません。

 その後警察から連絡を受けた父親は、「金がないから大阪になんて行けない。好きに処理してくれ」と、息子の亡骸を引き取りに行くことすら渋っていました。さすがに最後は説得されて、夜行バスでなんとか来てはくれましたが、息子の亡骸を前にしてもなお、お金がかかってしまうことを最後まで愚痴っていました。(本書p.123-124)

 

 唖然というか慄然とするケースである。

 まず餓死をどう解釈すべきか。

 筆者・太田垣は「慣れない土地で思うような生活ができず、友達もおらず、そして親にも助けを求められずに力尽きた」と推測する。

 ぼくなどは「いやー、それでも餓死するかね」とちょっとだけ思ってしまう。

 大学時代、ぼくの先輩が家の中で病に倒れて動けなくなり、一週間近くして訪問して間一髪のところで発見されたことがあったが、そういう病気じゃないのか…と一瞬思ったりした。

 しかし、である。

 この若者の親の対応を見ると驚くほど淡白だ。冷たいといってもいい。また、遺体引き取りの旅費を渋ったように「親世帯も経済的に困窮」(p.124)していたようである。

 

 親に助けを求めてもどうしようもない。無駄である。という前提がそもそも「親に助けを求める」という発想にさえ至らないのかもしれない、と思ってみる。

 そして、まったく知らない土地でまわりに知り合いが誰もいなければ、言い出せずにゆっくりと衰弱していくのだろうか。ゆっくりと衰弱していくうちに、動けなくなる。そしてやがて餓死する……というようなプロセスだろうか。

 太田垣は次のようにまとめている。

 

人が頑張れる原動力は、誰かから「愛されている、必要とされている」という揺るぎない基盤ではないでしょうか。そこが欠けていると、前を向く力を生み出せないこともあるように感じてしまいます。もしかしたらなくなったこの若者には、その基盤が欠落していたのかもしれません。(p.124)

 

 「基盤」という言葉を使っているように、この若者の主観の問題ではなく、若者が客観的におかれている現実が「助けを呼ぶ行動」を奪ったと太田垣は見ているのだろう。

 こうしたケースは、短い定型的な原因分析に落とし込みにくい。「なんで助けを求めなかったの?」という具合に、「自己責任」も混ざっているので理解もされにくい。

 それでも、このケースは、ぼくたちが北九州の「おにぎり食べたい」と書いて餓死した事件や、湯浅誠の「溜め」論などを経験しているから、これらが金銭不足と人間関係の希薄さという貧困の絡み合いによって起きたことなのだとまだ理解はできる。

 

 別のケースでは、夫と離婚し子どものいる妻が「突然」100万円、10カ月分の家賃滞納を督促され、追い出しをくらった事例。

 大家は(元)夫と連絡を取り続けたが、のらりくらりとはぐらかされた上に「子どもがいる」という事実から温情的に強い態度に出られなかった。しかも妻は養育費として家賃が払われる約束になっていたためにまったく滞納に気づかなかった。「狼狽ぶりから察するに、本当に今まで滞納のことを知らなかったのは、間違いなさそうです」(p.163-164)。そして夫とは連絡が取れなくなり、強制執行となる。

 

勝手に女つくって、別れたいって言ってきたんです。私は専業主婦で、家事をして子育てもしてきました。……45歳を過ぎた私が、いきなり仕事なんてできると思いますか? 20年以上専業主婦をやってきてパソコンさえ使えないのに、親子3人で生活していけるだけの収入を得られるはずないじゃないですか! ……私は妻の役目をちゃんと果たしていましたよ。だけど浮気されたんです。じゃあ、どうすればよかったんですか。(p.166-167)

 

 そうだなと思う半面で、そのリスク(ある日突然放り出される恐れ)を背負っていたことに気づかなかったのは自分だろ、という批判も聞こえてきそうだ。離婚に際して、養育費の公正証書もつくっていない(まあそもそも連絡が取れないわけだが)。つまりここでも「自己責任」が入り込む。

 

 太田垣が紹介するケースには、このように、どこかに「自己責任」が入り込んでいる。「お前のそこにスキがあったんだろ」と言えてしまうケースがほとんどなのだ。

 だからこそ、ドラマなのである。

 そして、だからこそ、「普通の人」のケースなのである。

 メディアに登場するような被害者はそういうツッコミを入れられないように、できるだけ「きれいな被害者」が登場する。そいつが悪いんだろ、と言えない・言いにくい人を探すのである。まあそれは仕方がないとは思う。

 しかし、世の中のほとんどはどこかしらにツッコミどころがあるケースばかりなのだ。自分のこともふくめて。「自己責任」が混じらない方がおかしい。

 

 札幌餓死事件のときに私が非常に疑問に思ったことは、「お母さんがこんなにがんばっているのに、こんなにいい人なのに、ケースワーカーが申請を断った」という運動の風潮でした。
 おかしいと思ったんです。たとえそのお母さんが悪い人だって、がんばらない人だって構わないじゃないかと思いました。そんな運動のキャンペーンっていたら、絶対足元すくわれるよって思っていたら、案の定すくわれましたよね。週刊誌が母親の問題点を書いたら、いっぺんに運動がトーンダウンしました。大した問題ではなかったのですが、運動の側も「聖人君子」を求め精神主義です。(都留民子『失業しても幸せでいられる国 フランスが教えてくれること』p.68)

https://kamiyakenkyujo.hatenablog.com/entry/20171112/1510422731

 

 どんなにそいつが「悪い」人でも、あるいはそいつに多少の「自己責任」があっても、そこに社会の反映を見てその歪みを正すというのが、第三者のできることではないのか。

 この本が紹介する18の事例を読んでそう思う。それはまとめてみればやはり「貧困」ということになるのだろう。だからこそこのタイトル「家賃滞納という貧困」なのだ。

 

 もちろん本書は事例ばかりではなく、構造的な問題を論じ、提言を述べている部分が間に挿入されている。

 家賃は収入の3分の1と言われるが、それでは危ない、理想は4分の1以下だとのべる。18万円の収入なら4万5000円の家賃ということになる。しかしそういう物件は見当たらない。

 

その要因としては、建物の建替えでしょう。昭和40年代に建った木造アパートが老朽化のため建替えられ、高収益を生む建物に移行しています。空室となるのが怖い家主が、人気物件となることを目指して高スペックの建物を建築しているのです。(本書p.121)

 

 福岡市では単身世帯が世帯全体の半数を占めるようになり、年収300万円未満を市は「低額所得世帯」と定義しているが、これも半数を占めるようになっている。

 さらに、高齢者が増えているから、単身高齢者の年金暮らしとなると、持ち家がない場合はそもそも借りられないということになる。

 本書で紹介されている事例では、500万円も滞納してしかし高齢者であるということで追い出しもできず、ヘトヘトになって転居先を確保し、ようやく出て行ってもらったというケースがある。「この家主が『もう高齢者には部屋は貸したくない』と言っても、誰も責めることはできないと思います」(p.211)。

 

高齢者が滞納していようがいまいが、世帯主が70歳以上ともなると、賃貸物件を借りようと50件問い合わせても、了解してくれる家主は1件あるかないかです。(p.212)

 

 福岡市の高島市長が選挙の時に、“これからは土地も家も余る時代だからそんな時に公営住宅なんて新しく建てる必要なんて全然ないよ”とうそぶいていた。

 だけど、当の福岡市では、住宅セーフティネットの登録はゼロだ。

 なぜなら、家主が高齢者に家を貸したくないからである。

 だとすれば、単身の高齢者が増え、しかも年金暮らしの資力のない世帯はどうなってしまうのか。

 結局、公的な住宅をつくるか、民間を公が借り上げるかしなければ、単身の貧しい高齢者は住むところがなくなってしまう。*1

 本書を読みながらそういうことを考えた。

*1:当然だが、公的住宅にするにしても、借り上げて公的住宅にするにしても、保証がなく身寄りもないような単身高齢者でも入れるようにし、仮に不慮の死亡の際の「片付け」は公の責任で行うことが前提にすべきである。現在福岡市はNPOと連携してこの「後片付け」を機能させようとしているが、それでもセーフティネット登録はゼロなのだ。今のところ、公が責任を持つ以外に解決の道は見当たらない。

川村拓『事情を知らない転校生がグイグイくる。』

 小学校のクラスで「死神」とあだ名をつけられいじめられている西村さんを、「死神」なんて「クールでかっこいい」と思って「グイグイ」好意を寄せてくる転校生・高田くん。

 

 

 この話が面白いのは、高田くんがいじめを外在的に批判(「いじめは良くないよ」的な批判)するのではなく、いじめ側が使っているロジック(「死神」)をそのまま引き受けてしまって、価値の根本転倒(「死神ってかっこいい!」)をさせてしまうからだろう。しかも意図的・意識的にやるんじゃなくて、本気でそう思っている。

 

 いじめっ子たちが高田くんのそばにやってきて、西村なんかと遊ぶな、こっちに来いよと誘うと、高田くんは、君たちも面白そうだけど、ただの人間だからなあというと、いや西村だってただの人間じゃねーかといじめっ子たちは返す。

 高田くんはそれに不思議そうな顔でさらにこう言うのだ。

 

西村さんは 死神なんでしょ?

君たちがずっとそう言ってたじゃん(真顔)

 

 幼稚ないじめの言葉をわざわざ取り出して、さらけ出し、宝物のようにハシャギ回る高田くん。

 

 いじめをしている人たちだけでなく、くだらない相手を批判するときにもっとも痛快なのは、相手の内的な論理に飛び込んで、それを内側から批判するやり方だろう。ネットでも見るし、議会質問でもそういうのが優れていると思う(笑)。

 

 白い服を着てきた西村さんを、クラスの女子(笠原さん)が「白い服きてても死神」とからかうが、高田くんは、それは「かわいい(白い服)」上に「かっこいい(死神)」という最強のコンボでは? とある意味でロジカルに受け取る。自分(高田)は「かわいさ」にしか気づけなかったが、笠原は「かわいさ」と「かっこよさ」の二つの価値を発見できるなんてすごい! と無邪気に驚く。

 なんというロジカルな無邪気さ!

 高田くんは圧倒的に論理的である。その論理に我々は惚れ惚れとするのだろう。

 

 

 

 そして、西村さんの容姿。

 「死神」と言われるビジュアルだけあってなるほど多少クラくて陰がある。しかし、それは大人たるぼくの目から見れば、アホな「ガキ共同体」から一歩抜け出した知性を帯びたクールさなのだ。いや、まさに、高田くんの目線と同じように、ぼくらは西村さんに萌える。リアル小学生女子の父親(ぼく)が小学生女子キャラに萌えるなどどうかと思うが、しょうがねーだろ。

 「自分の価値を初めて見出してくれた男の子」という少女マンガ的なときめきを、男子として享受しながらぼくはこの物語を読む。「ムフっ! 君を理解しているのはぼくだけだからね!」みたいな。いや……それだと、フーゾクで嬢に「やさしい声」をかけるオヤジにむしろ近いのかも…。

 

 

 

共助が限界、そして負担の軽い自治会という問題

 「しんぶん赤旗日曜版」(3月3日号)で東日本大震災の災害公営住宅におけるコミュニティ特集。

 見開きの特集なのだが、随所に町内会(自治会)の負担問題と共助の限界が書かれている。

高齢者見守り 共助では限界

…しかし、見守りを強めようにも、活動の担い手がいません。

 2017年12月、入居していた25世帯に尋ねると、「運動会・夏祭り・防災訓練に参加できる」と答えたのは3世帯だけでした。

 見守り活動の負担は松谷さんに集中。民生委員なども兼任する状況です。「退院直後で衰弱している人がいて、買い物などの送迎を自ら引き受けました。自助や共助のあとに公助では間に合わない。行政や福祉の支援も同時に走り出す仕組みがほしい」

 これはまさにぼくが共助批判として指摘してきた問題そのものであるが、同時に、これだけだと、行政や福祉と、共助がどのような責任関係にあるのかが明確になっていない。 

 行政は現場では、「みんなで一緒に」というのを宣伝文句にしてやってくる。福岡市で言えば「共働」とか「共創」とかいうスローガンだ。行政がコーディネート役になってしまうか、多少の実働の支援は得られても、自治会が元気に動かないところは手もあげられないという状況になるか、そのあたりが関の山である。

 ぼくは民生委員が実質上の素人ボランティアであった現状とあわせて、こういうものを統合したソーシャルワーカー的な人員に置き換える必要があると思う。

 いや、いるよ。今。コミュニティ・ソーシャルワーカーって。だけど、基本、コーディネートやアドバイザーなんだよね。現場でかかわりをもつ実働部隊じゃない(多少持つけど)。

 

 これは、ある人と話をした時に聞いたことではあるが、「いまICTの時代なんだから、むしろ役所については本庁に人は要らない。現場の支所とかに職員を配置するようにシフトしたほうがいいよ。むろん総量の人員も増やすほうにして」と言っていた。そう思う。

 

 あるいは、「石巻じちれん」会長、のぞみ野第二町内会長の増田敬(67)のコメントの一部。

高齢者や孤立しがちな単身世帯に何かあった時、すぐ気がつくのは隣近所の人たちです。負担が少なく誰でも参加しやすい町内会の体制づくりが大事です。

 まさにこれは「ミニマム町内会」のことだ。

 そして、岩手大学の船戸義和特任助教のコメント。

 

 ゼロからコミュニティー自治会をつくるためには、意識的にその機会をつくる支援が必要です。

 しかし、担い手不足や負担の集中により、自治会役員が疲弊する姿が見られます。自治会まかせの共助には限界があります。行政も一体になった共助の仕組みづくりが求められています。

 生活弱者の見守りのために自治会をつくるのではなく、日常的な人とのつながりやコミュニティーを継続する力を育てることです。それが結果として見守りにも役立ちます。(強調は引用者)

 

 これはまさにぼくが『どこまでやるか、町内会』で指摘した問題。日常的な人とのつながりをつくることを最小限に考えればいいのである。

 

(118)どこまでやるか、町内会 (ポプラ新書)
 

 

 これを引き延ばしていくと、コミュニティ・ソーシャルワーカーなどが現在とっている、「自治会の見守り体制を前提にしてそこを支援する」という考えを、本当は覆してしまうものだと思う。

 なぜなら、自治会はちょっとした人のつながりさえあればいいんだから。

 「ソーシャルワーカーが大量に配置され、それを主体となって、共助のネットワークを生かす」というようなイメージに転換しないと、それは最終的には「自治会まかせの共助」になってしまう。

 そうした「公助」を出発点にして、もし自治会の中で面白がってやってくれるような主体が育ってきたら、ソーシャルワーカーがそこにまかせていく……ような発想にしないと、自治会がつらくなるばかりだし、穴があいたままになるだろう。

 

「首都圏青年ユニオンニュースレター」で読む港湾労働者のストライキ

『花と龍』に出てくる港湾労働者

 選挙に出た時、ある推薦者の方がメールで自分の親の出身が福岡(若松)だと知らせてくれ、その中で火野葦平の小説『花と龍』を紹介していた。

 

花と龍〈上〉 (岩波現代文庫)

花と龍〈上〉 (岩波現代文庫)

 

 

 ぼくは『花と龍』は知っていたが、実際に小説を読んだことはなかったので、選挙の最中に小説を買って読んでみた。今読んでも面白い。

 主人公の玉井金五郎は、大正から昭和にかけて活躍した実在の人物(作者・火野葦平の父親)で、沖仲仕を取りまとめる下請けのリーダー(小頭)だ。荷主の積み込み・積み降ろしを、他の組と喧嘩のようにして争ってやるシーンが出てきて、それが小説の一つの「華」である。

 しかし、他方で、金五郎が、「組合」を結成して、現場の労働者として荷主に共同して対抗しようとする話が出てくる。

 「そうなんですよ。もう、その兆候が、出とるんです。現に、四五日前も、聯合組に来る筈じゃった三菱の玄洋丸の荷物炭が、八百トンも、共働組に持って行かれました。大体、働く立場の者が、仕事の奪いあいをして競争するなんて、まちがっていますよ。今でさえ安い賃銀を、また安うしたりして、結局、資本家をよろこばすだけのことです。わたしは、これまで、沖仲仕をして来て、どうして、こんなに、みんなが汗水たらして働いとるのに、生活(くらし)が楽にならんのかと、不思議でたまらなかったんです。それというのが、おたがいが馬鹿な競争をするからですよ。そのために、どうしても、組合をこしらえなくちゃならんと、思うようになりました。ところが、友田喜造の一派だけ、なんとしても、入りません」

 「困ったもんじゃのう」(火野葦平『花と龍 上巻』響林社文庫、p.291)

 そして、それを牽制・抑圧する動きがあることも描かれる。

 「ときに、玉井君」

 「はあ」

 「君は、小頭の組合を作る運動を、しよるちゅう話を聞いたが、ほんとな?」

 「ぜひ、作りたいと思いまして……」

 「ぜひ?……ぜひ、ということはないじゃろう。この間から、君に逢うたら、いっぺん、いおうと思うとったんじゃが、……どうも君の考えは、間違うとるようにある。この若松というところは、石炭あっての港、石炭あっての町、ちゅうぐらいのことは、君に説明するまでもないが、その石炭は、三菱とか、三井とか、貝島とか、麻生とか、そういう荷主さんのおかげで、食わせて貰うとるいうても、ええ。こうやって、一杯の酒の飲めるのも、そのおかげじゃ。……玉井君、そうじゃろうが?」

 「おっしゃるとおりです」

 「そしたら、われわれの恩人の、そのお得意さんを、大切にせんならんことも、当たりまえじゃないか。違うか?」

 「違いません」

 「そうすると、玉井君、君の組合を作る運動ちゅうのは、お得意さんに、弓を引くことになりゃせんか?」

 「いいえ、弓を引くというわけでは、決してありません。それは、荷主さんあっての私たちということは、充分、承知して居ります。けれども、現場で、下働きをしている仲仕さんたちの生活があんまりみじめで、こんなに貧乏なのは、やっぱり、どこかに、無理がある、それは……」

 「どこに、無理がある?」

 「一口に、思うようにいえませんけど、結局、賃銀が安すぎると思いますのです。荷主さんと、働く者とは、持ちつ持たれつ、なるほど荷主さんあってはじめての私たちですけれど、これを逆に申しましたら、やっぱり、働く者あっての荷主さんでありますし、荷主さんだけが肥え太って、働く者が、いつもぴいぴいで痩せとるというのは、正しいこととは思われません。それで、組合を作って……」

 「荷主さんへ、喧嘩をふっかけるというのか?」

 「そんな風に、いわれますと、困りますのですが……」

 「どんな風にいうたって、同じじゃないか。どうも、君はおかしいなあ。それは危険思想ちゅうもんじゃよ。君は、社会主義者と違うか?」

 「とんでもない。私は、ただ、仲仕の立場として、実際の問題を考えているだけです」

 「君が組合を作るちゅうのを、おれが止めるわけにもいかんが、おれの共働組だけは、そんな義理知らずの組合なんかには、絶対、入らせんから、そのつもりで居ってくれ」(火野前掲書p.309-311)

 

 

「産業別」ということ

 そんな話を読んだ直後であるこの頃のこと、首都圏青年ユニオンから「ニュースレター」214号(2019年2月24日付)が届いた。

 その中に港湾労働者のストライキの話が出てくる。

 一般のネットニュースを読んでもこのストライキの理由はよくわからない。

 防衛省や依頼を受けた港運業者が沖縄港運協会に事前協議の申請をしないまま、2日に中城湾港で自衛隊車両約200台の積み込みや積み降ろしをしたとして、沖縄地区港湾労働組合協議会は4日から無期限の抗議ストライキに入ることを明らかにした。「事前協議制度の崩壊を招く事態。港湾運送秩序の維持ができなくなる」と話している。

https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/380589

  しかし、「ニュースレター」の記事では、「事前協議」とはどういうことか、「産業別」に交渉するとはどういうことかがちゃんと書かれている。

 まず「産業別」についてだが、企業ごとに運動するのではなく、業界団体全体(沖縄港運協会)と、労働者全体の代表である港湾労働組合が交渉を行うのである。

 

なぜこのような手順を踏むのでしょうか? それは、もし業者の自由選定が横行すれば、荷物の輸送を依頼する荷主たちは自分勝手に輸送料金の安い業者を選び、業界は輸送料金の引き下げ競争に巻き込まれるからです。そして何より事業者の価格競争の負の影響を受けるのは港の労働者です。より低い賃金で、より少ない人数で、より長い時間、より危ない荷物を運んでいく。そんな光景が事実1960年代まで港湾産業では日常になっていました。(同レターp.9)

 

 まさに『花と龍』の世界である。そして、それは今日の運送業界全体、あるいは労働者全体の世界の縮図でもある。

 

事前協議」とは何か

 そして「事前協議」。

 これについて、マスコミの記事を読んでもよくわからないし、SNS上ではいろんなことを呟く人がいる。

togetter.com

 

 知らないのだから、こう言ってしまうのも仕方のないことかもしれない。

 そこで、この記事ですよ。

 

まずこの聞きなれない事前協議とは何でしょうか? これは、港湾産業(港で積み下ろしを担う輸送業)に置いて産業別の労働協約で締結された労使交渉の仕組みです。そこでは「輸送体制並びに荷役手段の形態変化に伴い、港湾労働者の雇用と就労に影響を及ぼす事項については、あらかじめ協議する」ことが約束されています。今回の問題でいえば、防衛相が依頼した荷物は通常の定期便とは別に“臨時的”に大分県中津港から沖縄県中城港に輸送が計画されたものです。加えて荷物は装甲車やジープなどの軍事車両という特殊なものでした事前協議では、こうした臨時も含めて新規に貨物輸送の航路が計画された場合に、荷物を積み下ろす業者を港湾の労使で事前に選定し、特殊な荷物であれば輸送の安全性について事前に話し合いをした上で輸送が実行されます。(同前レター)

 

 レターの記事(「コラム すっちーの部屋」)が「今回のストライキ行動は、輸送を担う労働者に目を向ければ業者間の競争防止と安全管理という働く人にとって深刻な問題を提起していると思います」と末尾で書いていることはまことに当を得ている。

 すべての産業・分野でできるとは思わないけど、やはりこういう産業別の交渉ができれば働く人たちはかなりラクになるんじゃなかろうか。

 

 

 

 前にも同労組の「ニュースレター」は面白いと繰り返し書いてきたが、今号は特にどのページもよかった。いいところをちょっと紹介。

 

ブラック美容室エマージュ(p.2)

 ほぼすべての美容師を「業務委託」で働かせているという事実。実際には厳しい時間拘束・シフト管理があるというのに。そして、契約期間に契約解除しておきながら、契約期間中に働かなかったという理由で100万円以上の損害賠償請求。あきれるわ。

 

美容師・理容師ユニオンと技能形成(p.3)

 美容師はアシスタントを経て一人前=スタイリストになるが、この下積みともいうべきアシスタントの養成をコストとして回避しようとする店が増えているとのこと。エマージュは他の美容室でのスタイリストの技能を獲得した美容師を雇うのだという。

 ここでも業界全体をただす産業別の交渉が必要になる。

 

小田原電鉄団体交渉(p.4)

 学生アルバイトのユニオンによる交渉。制服を着替える準備時間に賃金を払えという要求に対して「制服は家で着替えてくれば良いもので、制服を現場で着ることを強要したことはない」という、のけぞる回答。

 

【争議紹介】大塚ウェルネスベンディング事件(p.5)

 大塚製薬の完全子会社。パワハラの危険を感じたBさんに対し録音機の所持を禁止と通告。こんなことをやられたらパワハラは証明できん。しかし、今後こういう会社増えてくるんじゃないかなあ。

 あと「業務指導改善書」というBさんへの些細なミスへの注意(事実と異なることや注意対象とも思えないことも含む)を何度も交付していること。解雇する根拠を積み上げているだけではないのか。

 

【争議報告】ヤマト運輸(p.6)

 告発した労働者を翌日に「雇止め」。一見、雇止めできる契約の人ならしょうがないのかなと思ってしまうけど、「翌日」というのがひどい。「そもそも休憩が取れないほど人手不足であるため『今後人員を補充していく』と団体交渉で言いながら、Hさんを雇止めにするというのは不可解です。明らかに、Hさんが団体交渉を行ったことを理由とした雇止めです」というのは全くその通りである。

 

すべての少女に衣食住と関係性を【前編】(p.7)

 家庭や学校に居場所がない10代少女たちが、買春や性風俗産業、性暴力にさらされかねないという問題。前に『最貧困女子』の書評でも書いたことだけど、警察の補導では少女たちの気持ちに寄り添えない話が出てくる。

 「何も干渉されない、しかし安全な居場所」というものがNPOのような形で運営できるといいんだが……。

 

馬塲亮治(ばばりょうじ)社労士事件(p.8)

 ある団体交渉の席でのユニオンの態度に対して会社側の社労士が訴訟を起こした事件。社労士側が、訴えのもとになった団交を第1回ではなく第2回目の団交だったと修正をかけたり、いまだに何をもって名誉毀損になったのか、士業へのどういう支障をきたしたのか明確にできなかったりと、興味深い。裁判長から社労士側が苦言を呈される場面もあったという。

 

ユニオンナビ(p.10)

 首都圏青年ユニオンに寄せられるのは「法律の基準以下で働き(働かされ)『被害にあった』という深刻な相談が多い」。2017年度は25件の案件を解決し、そのうち団体交渉で24件解決している。裁判に至らないのである。

 労働組合というツールを使うことがいかに役にたつかがわかる。

 もうすぐ統一地方選挙だけど、ブラック企業根絶条例というものを作るとすればぼくはその中身は現行法の完全遵守ということになるんじゃないかと思う。法律通りやらせるだけで生活はずいぶん違う。