前田正子『無子高齢化 出生数ゼロの恐怖』

 少子化は社会を維持できなくなる大変な問題だ、という前提さえ共有するなら、あとはどう対策(解決策)を考えるか、という話になる。

 本書・前田正子『無子高齢化 出生数ゼロの恐怖』(岩波書店)にはタイトルの通り現状を告発する部分がかなりあるが、では解決策をどうするかという問題にしぼって評してみる。

 

無子高齢化 出生数ゼロの恐怖

無子高齢化 出生数ゼロの恐怖

 

 

 

 「少子化対策」と聞いてまず「保育所整備」が頭に浮かぶ人も多かろう。

 そうした政策認識について著者(前田正子)は次のように批判する。

 

〔2000年前後の政策は――引用者注〕どれも保育整備に重点が置かれ、そのほかは各省の既存政策を並べたもので、包括的な子育て支援策が整合的・戦略的に講じられることはなかった。(本書p.73)

 

 もちろん、保育所整備は少子化対策の一環ではあるが、前田はそれを包括的政策の部分化でしかないとして批判するわけだ。

 例えば、左翼陣営で言えば友寄英隆は、労働を変えることが「『少子化』対策のカギ」とのべる。

少子化」対策のカギは、労働法制のあり方を根本的に見直して、人間的な労働と生活のあり方をめざすことです。長時間労働を是正し、最低賃金を大幅に引き上げ、安定した暮らしができる賃金を保障することです。非正規労働の労働条件を抜本的に改善することによって同じ労働をしている正規の労働者との格差をなくし、男女の賃金格差をなくすことです。(友寄『「人口減少社会」とは何か』学習の友社、p.141)

 あえて問題軸を立てる。少子化対策の中心は、保育の問題か、労働の問題か。

 前田の本書を読むと、生涯にわたって結婚しない男女が増えているという。それなのに、保育所を整備してもそれだけでは解決しないではないか、と。

 では前田は労働改革だと言うのかと思えば、必ずしもそうではない。

 前田の提言は本書第5章のタイトルにあるが「若者への就労支援と貧困対策こそ少子化対策である」ということになる。5つの提言をしているが、要は人生前半=若者への支援を強化しろということなのだ。その中で、経済的支援としての若者の貧困対策と、ロスジェネ世代への支援を強調している。

 

そもそも収入が低く、雇用が安定しない人は男女ともに結婚しにくい。(本書p.142)

 

要するに、何よりも男女ともに安定した仕事を得ること、結婚して二人で働けば出産・子育てのできる経済力、それこそが少子化対策に必要なのである。(本書p.143)

 

 友寄の解決方向に似ている部分もあるが、若者の経済支援(貧困対策)・就労支援に特化している点が違う。

 前田は「貧困対策」として何をイメージしているのだろうか。もう少し見てみる。

 

適切な職業訓練や生活支援で一人ひとりの職業能力を高めるとともに、最低賃金の引き上げなど、フルタイムで働けば自立して働けるだけの所得を保障する。(本書p.160)

 

 ぼくは(保育所整備も含めてだけど)こうした提言を間違っているとは思わない。

 だけど、あえてどこに政策重点を置くべきか、という問題で言えば、ここではないんじゃないかなと思う。「ここ」とは「職業訓練」「職業能力を高める」「フルタイムで働けば自立して働けるだけの所得」という就労支援の部分だ。

 

 この改革は最低賃金引上げは別として、いろいろな難しさがある。「職業訓練」「職業能力を高める」ことは果たして多くの若者に将来見通しを持たせるだろうか、という疑問が残るのだ。

 また、「フルタイムで働けば自立して働けるだけの所得」という点では、フルタイムが地獄のサービス残業とセットになったり、「自立して働けるだけの所得」を払わない企業がいたりする。つまり、企業サイド(あるいは労使関係)における改革を待たねばならない。労組加入率の現状からいえば、かなり時間のかかる課題ではなかろうか。

 

 巻末に常見陽平と前田の対談が載っており、そこで常見から赤木智弘の発言が紹介されている。

 

作家の赤木智弘さんと院内集会をしたときに、彼が言ったのですが、いまや仕事は「資源」なのだと。人間らしい仕事、真面目に働けば結婚でき、子どもも持てて、大学にもやれる、そういう仕事を掘り起こし、配っていくことが重要だと思います。(本書p.202)

 

 確かにそういう仕事にしていくように闘争しなければならないのだが、それは現場の労使関係にかなり依存するのではないか。だとすれば、変わるのにかなり時間がかかる。

 

 ではどうすればいいのか。

 ぼくの提案は、最低賃金を時給1500円以上に引き上げた上で、住宅費と教育費を社会保障に移転することだ(この延長線上にはベーシックインカムもある)。

 なんども書いていることだけど、正社員で年功序列の賃金体系では、年齢が上がるに従ってこの2つの費用を補填するために賃金も上がっていく。逆にいえば、非正規労働者の場合、この2つの重石が結婚して子どもをもつ展望を失わせる。

 パートやアルバイトという短時間労働者であることが「悲劇」なのは、人間らしい生活を送れる賃金を得られないからであって、この二つが社会保障に移転してしまえば、短時間労働者でも「健康で文化的な最低限度の生活」に手が届く可能性がある。そうなれば、時短も一気に手に入れられるのだ。*1

 

 かなり歪んだものであるとはいえ、教育は無償化の大きな動きが始まっている。

 しかし、住宅費についてはようやく「セーフティネット」という形で部分的に始まったばかりである。公営住宅の整備(または民間住宅の借上げ)か、家賃補助(住宅手当)という形でこの動きを加速させたい。

 

 そして、その原資は、大企業や富裕層から移転させろ、というのが左翼たるぼくの意見である(この点では前田は、高齢者福祉からの移転や「一人ひとり」への負担増という形で提案しており、明確にぼくと意見が違う)。

 

 要は、労使関係に委ねられた雇用という形ではなく、政治ができる政策の形で少子化対策を急いでしなければ時間的に間に合わないのである。

 

 労働時間規制については労働基準法通り「1日8時間」を厳格に守る体制ができればかなり有効な策にはなると思う。しかし8時間で暮らせる賃金を得るためには、やはり住宅費と教育費の社会保障移転は必須だろう。

 

本としての面白さ

 さて、以上は本書の提言部分に関する評であるが、他方で、本書を書籍として眺めた場合、いろいろ情報として得るものも少なくなかった。そういう意味では読んでおいて損はない本である。

 例えば、1992年の旧労働省職業安定局による『外国人労働者受入れの現状と社会的費用』という検討文書を知らなかった。

五〇万人の外国人労働者を受け入れた場合、単身では「入り」の方が多いが、配偶者が来た場合はコストが便益の倍になる。さらに学齢期の子どもが二人いると、教育費や住居対策費が必要になり、扶養家族が増えるにつれ税収も下がるため、1年でメリットの四・七倍に当たる約一兆四〇〇〇億円ものコストが発生するという。(本書p.169)

 外国人労働者を単なる「労働力」ではなく「人間」として扱えば相応のコストがかかるということだ。当たり前であるが。

*1:解雇されやすい、つまり職が続きにくいという問題は解決されないが。

『NANA』は「多様性ある家族像を根底から否定する前近代的な家族観」か?

 「しんぶん赤旗」で中川裕美が「少女マンガとジェンダー」という連載をしている。毎回楽しみにしている。

 2月15日付は、第7回。ゼロ年代のマンガとして矢沢あいNANA』が取り上げられている。

 すでにツイッターで簡単な感想を書いた。

 

 中川の評では、主に『NANA』に関連してジェンダー上の2つの問題が指摘されている。

 一つは、「貞操主義」。

 もう一つは、「母性神話」。

 

貞操主義?

 まず前者の「貞操主義」。これは『NANA』が貞操主義だというわけではなく、むしろ『NANA』の主人公の一人である奈々がヒロインであるにも関わらず、貞操主義を打破している、もしくは貞操主義的な類型ではない、とされている。「何人もの男性と恋をし、時には性行為もする」(中川)からだ。

 

 

 貞操主義について、中川は「一人の少女(女性)は一人の少年(男性)としか恋愛をしない」という簡単な規定を与えている。

 ぼくは、この記事を読んで、果たして中川がこの貞操主義にどのような評価を持っているのかを直接読み取ることができなかった。

 ただ、「貞操主義の打破」という題名の語感(これは著者の意向とは別に編集部がつけている可能性がある)、そしてこの貞操主義の話題の後で「その一方で」として批判的な叙述が始まるので、おそらく「貞操主義の打破」はその反対物、つまり肯定的な評価を持たれているのではないか、と思った。確言はできない。ただのニュートラルな指摘だという可能性もある。

 

 その上で、いくつかの違和感について書いてみる。

 第一は、「貞操主義」の定義の不安定さだ。

 一人の恋愛対象に熱中し、やがて破綻し、そして次に新しく恋愛し、また……こういう繰り返しを「反貞操主義」といえるだろうか。その期間を見れば一人の人と誠実に向き合っている可能性もあるわけで、それを「反貞操主義」「貞操主義の打破」と果たして呼べるのか、ぼくには疑問が残る。

 

 第二に、「貞操主義」という規定がジェンダー上どのように評価されるのかがよくわからないことだ。

 「一人の少女(女性)は一人の少年(男性)としか恋愛をしない」ということを「貞操」という言葉でまとめられるであろうか。中川のいう「貞操主義」、つまり一人の対象に熱中し、そこから心を動かさないことは、なんら問題がないように思える。ぼくはこうした態度がジェンダー上どのような問題を引き起こすのかあまりよく理解できない。

 あえて言えば、一人の対象に熱中し、そこから心を動かさないことを「美徳」とする固定的な考えが生じた場合、その熱中から冷めてしまうことを「不誠実」と詰る空気が生じるかもしれない。「もう乗り換えるなんてサイテーじゃないか?」みたいな。別の言い方をすれば「一人の人を一途に思うのが良い恋愛である」という刷り込みをしてしまう恐れがあるということだ。

 いや、しかしだよ。

 どんなマンガだって、何かしら作者の価値観を読者に押し付けるものだから、何かの価値の刷り込みにはなると思うのだが。

 反対のことを考えてみればいい。「貞操主義の打破」は果たして無条件に良いことになるのか。多数の人と「不倫」をする場合は明らかに「貞操主義の打破」といえるけど、それはジェンダー上望ましいこととは必ずしも言えないような気がする。そういう行為を称揚する価値観がマンガに描かれ、それに刷り込みを受けて多数と「不倫」をする現実の行動は、その人を不幸にしかねないのではないか。

 

 第三に、作品における、奈々の「移ろいやすさ」は「貞操主義の打破」という意思的な行動としてまとめられるものではないということだ。

 「空っぽのあたしは 性懲りもなく恋をする事でしか 自分を満たせずにいた」という奈々の独白は、貞操主義の打破ではなく、ゼロ年代に猖獗を極めた「自分探し」の裏返しである。ミュージシャンを目指すもう一人の主人公・ナナとの対比で自分が「空っぽ」であることへの焦燥として恋愛に走っていることが描かれているのだから、貞操主義の裏返し、一人の恋愛対象と安定した関係が築けない「問題行動」として描かれているのではないのか。

 

「父母が揃った家庭」を「唯一無二の理想」としている?

 もう一人の論点、母性神話についてはどうか。

 中川は、『NANA』という作品について

「父母が揃った家族」を唯一無二の「理想的な家族像」として描き、そこに育たなかった者を「普通ではない」とする

 との規定をしている。「理想的な家族像」とされるのは奈々の両親・実家であり、それは両親が「揃って」おり、母親は母性神話に満ちた描かれ方をしているのだという。結果として『NANA』について、

多様性のある家庭像を根底から否定する前近代的な家族観

 だと断じる。『NANA』を読んだことのあるものにとっては非常に違和感のある規定だが、ジェンダー・バイアスが隠されたものであるかもしれぬので、ぼくらの素朴な「読みの実感」からのみ出発するのは公平ではないだろう。

 中川は『NANA』においては「家庭が不和」だったキャラクターは「性格的な欠落」を抱えているとするが、別に奈々(ハチ)だって前述の通り「性格的な欠落」を抱えている。奈々は「満たされたいい子」ではないはずだ。

 そして、家庭不和の環境は、必ずしも「両親が揃っていない」ということではない。ナナは「両親が揃っていない」といえるかもしれないが、他の「親の愛を受けずに育っている」キャラクターは「家庭不和」ではあっても「両親が揃っていない」わけではないのだ。

 

むしろ多様な家族の走りではないか

 『NANA』は家庭や家族に問題を求めすぎるきらいがあるとは思うのだが、それはおいておくとしても、むしろ血縁ではない新しい絆の共同体をつくろうとするのが『NANA』の特徴であり、矢沢あい作品にしばしば見えるテーマである。

 むしろこの血縁ではない新しい絆の共同体をつくろうという作品は、「家族」の新しいあり方を示しているとさえ思う。シェアルームで始まった奈々とナナ、そして仲間たちの関係は、現代的にみれば「シェアハウス」のような友達共同体や、それこそLGBTの家族などの嚆矢のようにさえ思えるのである。

 ぼくは、とてもここから「多様性のある家庭像を根底から否定する前近代的な家族観」を見て取ることはできなかった。

 

 前の回の『星の瞳のシルエット』評でも、お嫁さん=専業主婦になるのが夢というのはジェンダー上の問題があるとする指摘を中川はしていたが、専業主婦になるという結論が作品の結論上非常に大きな反動性(ジェンダー上の問題)を引き起こす場合もあるし、全くなんの問題にもならない場合もある。それはまさしく作品によるのである。

 

星の瞳のシルエット(1)

星の瞳のシルエット(1)

 

 

 

 中川の評は、作品のコンテクストを離れて個々の要素の「刷り込みの危険」だけを過度に強調してはいまいか、という危惧を持ってぼくは読んでいる。

 

 うん、まあ、こう書くとなんかものすごくトゥリビャルな連載のように思えるが、そういうことも含めて自分があれこれ考え、議論をしたくなるので、この連載を楽しみにしているのである。もちろん、純粋に知らないことも多いので、それを学ぶこともある。

 

ファミマが子ども食堂をやることにどうも「もにょる」のはなぜか

 ファミマが子ども食堂をやるというニュースリリースをした。

www.family.co.jp

 

www.asahi.com

 

 どうも、もにょる。

 子ども食堂とは何か、をまず考えてみる。

 子ども食堂は、全国の草の根で広がっているものだから定義めいて言うことはできない。だけど、そもそもの出発点を考えたら次の二つの(どちらかの)意義は本来あるはずだ。

 

子ども食堂とは何か

 第一に、子どもの貧困に対する事業。一番狭い考えとしては、貧困のために満足な食事ができない子どもに食を提供することだ。

 しかし、本当に食事ができないような子どもだけがそこに来る確率はそれほど高くはあるまい。地域の子どもが無差別に誰でも気軽に来られる中で、ひょっとしてその一人としてそういう子どもが紛れ込んでいる場合もあるだろう。例えば毎回50食提供して、それを100回やったとして、その中に「貧困で満足な食の提供がない子ども」への提供ができたのは2回か3回だけもかしれない。2/(50×100)=0.04%である。

 ゼロかもしれない。ぼくは子ども食堂、あるいはそれに類する場所に何度か行ったことがあるが、知り合いの子どもばかりだった。毎回ではないにせよ。近所の知り合いの子どもたちと親が集まってワイワイと食事をしている。それだけである。

 だけどそれでいいではないか。

 なぜか。

 それは、親や地域住民がそうやって貧困の子どもたちのためにと思って食堂の準備をすること自体が、「貧困を考える場所」になっているからである。料理を作る合間に、あるいは、食事をしている最中に、あるいは買い物に行くとに、「そういえば〇〇さんのところの××ちゃんは、最近見ないけどどうしたのかな」「△△くんは乱暴だけど、あれはひょっとして…」と思いを馳せることがあるかもしれないし、おしゃべりの話題になるかもしれないのである。

 ただのくだらない噂話で終わるかもしれない。いや、くだらない噂話、世間話が99.79%くらいだろう。しかし、あとの0.21%の中に、貧困の発見につながるかもしれない情報が入っていたり、もしくは行政に施策を求めるアクションの源になるかもしれないのだ。膨大なムダの中に、ひとかけらのいい情報・行動の萌芽がある。

 

 そういう意味では、子ども食堂は、直接の貧困の対策ではない。「食の提供」というなら、困窮家庭を行政が指定して食を届けた方がよほどいい。あくまで地域で貧困を考えるきっかけづくりなのである。

 

 第二は、そこから広がって「地域の居場所づくり」としての意義である。

 地域住民が、地域の困っている家庭や子どもたちのために何かをすることを目的として集まり、おしゃべりや共同作業をする場所を作る。そこに子どもや高齢者がいる、というわけである。

 そこにはすでに「子どもの貧困対策」という名目がなくなっているケースもある。だとしても、みんなが集まってワイワイする場所があるといいね、というのは、コミュニティづくりにとってはプラスのものだろう。

 本来これは町内会が簡単な、できれば楽しげな共同作業をすれば事足りることだとは思う。夏祭りの準備で、あるいは団地の草むしりで、みんなが集まって、終わってお茶でも飲む、一杯やる、ということで果たせるはずである。

 まあ、それが「子ども食堂」であっても構わないはずだ。

 

 こうした二つの意義については、すでに専門家からも似たような指摘がある。

gendai.ismedia.jp

 

 特にここであげた大西は、子ども食堂自体は「対処療法」に過ぎないとして、それを貧困そのものをなくしていく「処方箋」へのアクションの気づきに結び付けられるかどうかが、カギだという趣旨の主張をしている。全く賛成である。

 

本当に困っている子どもたちの居場所にするには

 さらに、「居場所」という場合に、「大人の居場所」ではなく「子どもたちの居場所」というふうに考えみると、相当な工夫がいる。

 以前ぼくは鈴木大介『最貧困女子』を読んだ感想を書いたことがあるが、そのときに、鈴木の主張として、本当に助けを必要としている子どもたちにとって、例えば学童保育のような場所がいかに「うざい」場所かという話を書いている。

 結局「フーゾク」にしか「居場所」や「稼ぎ口」がなくなってしまうような子どもたちのために考えられるべき「居場所」は、相当にルーズであることを意識的に設計される必要があるのだ。

kamiyakenkyujo.hatenablog.com

 

なぜウザいのかを聞けばごもっともで、学童で出欠確認や連絡帳の提出があったり、放課後に行くはずになっていた学童に行かないと何をしていたのか詰問されるのが嫌だったのだという。あと「ゲームがない」。高学年にもなれば、本の読み聞かせなど、「ガキっぽいことに付き合ってらんない」という気持ちもあるし、同級生たちと遊びたくても常に低学年の子が邪魔をしてくるし、同級生も塾に通う余裕のある家庭の子は学童から遠のく。結局馬鹿馬鹿しくなって行かなくなってしまったと、この少女は言うのだ。(『最貧困女子』p.180)

 

 つまり、夜中に来ても何も言わない。ゲームをやれる。マンガばかり読んでいても、寝ていても文句を言われない。泊まれる。

 そんな「だらしのない居場所」づくり。

 それこそが必要だというのである。

 なるほどと思う。本当に貧困で苦しんでいる階層の子どもたちはそういう場所でしか発見できない可能性がある。

 子どもの医療費無料化を推進する団体と懇談した時に、貧困で口腔崩壊する子どもがいるという話になって医者が「だけど本当に支援が必要な貧困の子どもはなかなか病院にも来ない。見つけるのが大変」といっていた。

 

「ファミマ子ども食堂」に感じる「ナマあたたかさ」

 さて、ここまで来て、ようやくファミマの「子ども食堂」に戻れる。

「ファミマこども食堂」では、地域のこどもと保護者を対象に、参加者みんなで一緒に楽しく食事をするほか、ファミリーマート店舗のバックヤード探検やレジ打ちなどの体験イベントを通じて、ファミリーマートに関するご理解を深めていただく取り組みもあわせて実施します

http://www.family.co.jp/company/news_releases/2019/20190201_99.html

 

 これが「子ども食堂」かなあ…と微妙な気持ちになる。

 そして、

 

参加料金:こども(小学生以下)100円、 保護者(中学生以上)400円
プログラム:オリエンテーション/みんなとお食事(約40分)

 

 

 ファミマの客単価は640円ほどだそうだから、まあ、保護者2人と子ども1人くれば余計な在庫商品を出すことで、十分埋め合わせられる。仮に母親と子ども1人でも500円だ。ファミマの宣伝にもなるし、帰りに何か買って言ってくれれば御の字である。

biz-journal.jp

 いや……たとえ動機が「儲け」であっても、そういう利潤の刺激も生かして社会貢献する動機になるなら、それこそがソーシャルビジネスではないか。あまり目くじらをたてるのではなく、こういう取り組みをむしろ褒めて伸ばすべきではないか?

 しかし、40分で食事して、それでファミマのレジ打ちやバックヤード探検をしてどうなるんだ、ただのファミマのバイト予備軍を作るだけじゃん……

 

などと頭の中でいろいろな思いが交錯する。

 そういう意味でこの記事は「もにょる」のである。「ナマあたたかい」というか。

 

 

本当の貧困対策につなげるために

 しかし、やはりこういう取り組みも含めて、社会の機運醸成には役立っている。まあ、「がんばれ」とは言っておこう。というわけでファミマよ、がんばってほしい。そしてここで終わらず、改善していってほしい

 問題は、大西の言うように、それを本当の貧困対策につなげられるかどうかだ。

 福岡市の高島市政は典型的であるが、市独自の「子どもの貧困対策」といえばこうした子ども食堂支援か、学習支援が柱である。後者は「勉強してそこから脱出しろ」と言うことであるが、学習支援による貧困対策は常々専門家から、疑問が寄せられている。

 

子どもの貧困対策法も、子どもの貧困対策に関する大綱も、学校や教育が中心です。……やはり経済困窮にある子どもたちに支援をといっても、教育の問題、たとえば多くの子どもが進学準備のために塾に言っているもとで、塾に行けない子がいるといったことが矛盾の中心という議論がなされていることが多いと思います。それはとても大事な議論ではあるのですが、一歩間違えると危険でもあるのです。……この議論は、いわゆる子どもの自己責任論に陥りかねない危険性があるのです。……教育はある意味見返りを求める。つまり、その子が何かの成果を出さなければいけないからです。実際に、おこなっている人にはそんなつもりがなくても、たとえば、学習塾の代わりに無料塾に行くと、とりあえず高校入試に合格することを成果として出す、そのことによって来年もまた支援を続けましょうとなるようなことがあるのです。(山野良一・名寄市立大学教授、「教育偏重の子どもの貧困対策でいいのか」/「前衛」2017年8月号)

 

 ぼくも無料塾のボランティアに関わってきた身として耳の痛い話ではある。

 要するに子ども食堂にしても無料塾にしても、それは善意の第一歩ではあるが、貧困対策そのものではない、もしくは「対処療法」にとどまる。根本的に貧困をなくしていく取り組みとしては、社会保障制度充実になるが*1、とりわけ自治体の施策としては、当面の直接給付が必要である。

 例えばシングルマザーの家庭への直接の給付や、家賃補助などが有効だ。

 そういう議論に 家事 *2が切れるかどうかが大切だと思う。

 ファミマがそういう一助になってくれれば……とキレイに結びたいが、そうはならんのではないかなあとやはり「もにょる」のである。

 

 

 

 

*1:さらにぼくのような左翼から言わせてもらえば、もっともラジカルな解決は生産手段の社会化、すなわちコミュニズムの実現だけどね。

*2:ひどい誤字だった。ブコメの指摘ありがとうございます。

和田文夫・大西美穂『たのしい編集』

 編集・DTP・校正・装幀についてのエッセイ。出版や書籍の将来についても書いている。

 

たのしい編集 本づくりの基礎技術─編集、DTP、校正、装幀

たのしい編集 本づくりの基礎技術─編集、DTP、校正、装幀

 

 

 ぼくはイラストレーターというソフトでチラシを作って業者に入稿することがある。レイアウトとか使う書体とか字間とかそういうデザイン的な要素は完全にシロウト仕事である。たぶん、プロから見るとめちゃくちゃな作法でやっていると思う。だが、「早く、安く」を至上命題にしているので、やむをえない。別に製作者の署名も入らねえし。

 

 だから、本書で示されているようなプロの思いは、耳が痛い。「そこにプロは目がいくんスか…」みたいな。

 例えば「自己顕示しない書体」(p.42)。

 チラシの本文を適当な明朝体で埋めてしまうのが、シロウトというものである。ぼくなどは惰性でだいたい「ヒラギノ明朝 Pro」の「W3」あたりをアウトラインかけて入稿する始末である。

 

自己顕示しない書体こそ、求める書体といえるかもしれない。一方で、読みすすめるのがやっかいな版面もあるのだ。文字の集まりが汚いとかきれい以前に、内容がさっぱり頭に入ってこない、あるいは読みすすめるのが苦痛になる紙面にならないよう注意したい。書体、字間、行間、文字ヅメ、行ドリ、余白など、さまざまな要素でなりたつ版面。それは、紙面という風景のなかで、読み手の意識をどんどん前にすすめてゆく地平を提供しているのだ。(p.42)

 

 これは書籍の話だが、チラシはどうだろうか。

 チラシは版面全体が送り手の文化圏を表す。

 ダサい版面には、ダサい文化圏からの発信になるので、「あ、自分と違う文化だな」と思うと受け取ってくれなかったり、共感度が下がったりする。

 サヨクであるぼくは、高齢者とごいっしょに政治チラシを作ったりするのだが、高齢者左翼のみなさんがワードなどで作ってくるチラシは、「手作りミニコミ風」「絵手紙風」を究極の地位に置いているような感じがある。和気藹々と地元のほっこりニュースを入れたりして、それにふさわしい版面になる。たいてい書体は何も考えずに「MS明朝」である。

 うーん、いいんだけどね。それが味として受け取られている層は確実にある。

 だけどそのまま、若い人・子育て層向けのチラシもこれで作ろうとしたりするので、圧倒的な違和感が生じてしまう。受け取った子育て層は、「ああ、自分とは別の文化圏の人が何か言っているな」的な受け取りをしてしまうのである。

 その場合、書体は主張してくれた方がいい。若い人向けの書体ということだ。

 それに自信がない場合は、やはりここの著者(和田)の言うように「自己顕示しない書体」として存在感を「消して」もらうしかない。

 

 

 個人的に「そうだったのか」と教えられる知識もいっぱいあった。

 例えば画像をどの形式で入稿したらいいかとかいう話。TIFFなんだそうである。大昔、まだページメーカーというソフトを使っていた頃、TIFFでよく入稿していたが、今はもう全てJPEGである。「JPEGは劣化する」と昔誰かが言っていたのだが、ここでも同じこと(「JPEGは、圧縮のときはもちろん、開いて保存するたびに劣化しちゃいますからね」と和田の対談相手、尼ヶ崎和彦が述べている)が書いてあった。そうなのか。

 

  あと、誤字。本書p.184-185の表は、かなり誤用の方を使っていた。あるいは「そう言われれば」という感じですぐには気づかなかったりした。「それにも関わらず」「豪雨の恐れ」「胸踊る」「出席者に配布する」「先立つ不幸」「指を食わえる」「彼は口先三寸だ」などである。

 

 エッセイなので、縦横無尽に話が広がる。

 著者の「畏友」・渡辺順太郎と著者が山道を一緒に登った時、渡辺が「仏陀に逢ったら仏陀を殺せ、というからな」と発言していたことを本書で紹介している。

 その言葉の意味がすぐに気になった。

 そして、その真意はすぐ後に著者・和田が『臨済録』の解説書の中に次のようにあるのを紹介していた。

 

達磨の墓塔を訪れたとき、臨済は「仏も祖も倶に礼せず」と断言していた。だが、それは、「仏」や「祖」という外在的な権威を認めない、というだけのことではない。

 

  ぼくはすぐ「外在的な権威を認めない」という意味なのかなと思ったので、それ「だけ」のことではない、という箇所にさらに惹かれた。こう続く。

もし、それを敷衍して、自らの内なる仏祖を信ぜよ、などと説いたならば、臨済から直ちに一喝されること必定である。外のみならず、自らの内にもそうした聖なる価値を定立しない。それが臨済の立場だからである――

  この2箇所の引用はいずれも小川隆臨済録――禅の語録のことばと思想』岩波書店、2010年、p.147、21からである。

 和田はここで編集者と著作者との関係について話を移していくのだが、ぼくはこのくだりを、仏教(とりわけ臨済)というものの無神論ぶりに驚く材料として読んだ。何事にも固執しない自由な精神によって妄執から逃れるのであるとすれば、それを自分の中の「神」や「仏」を定立させることに頼らずに、精神のコントロールによって実現しようとしているように思えたからである。これはすごいことではなかろうか。

 ゆえに「仏陀に逢ったら仏陀を殺せ」ということを仏教のことばとして考えると凄みあると思ったのである。

 

 こういう自在なところも、随想としての本書の面目躍如だろう。

石原俊『硫黄島 国策に翻弄された130年』

 ぼくが選挙に出た際に自分の戸籍を眺めていたら自分の出生場所に違和感(というほど大げさなものではなく「あれ?」程度のものだが)があったので、親に尋ねたら、高須克弥が現理事長を務める病院で自分が生まれたことを知った。

 その高須克弥であるが、ぼくは「スペリオール」を毎号読んでいて、西原理恵子「ダーリン」シリーズには必ず目を通す。

 同誌2019年1月25日号での西原「ダーリンは74歳」は、高須・西原カップルが硫黄島を訪ねる回だった。

 この回もいつものサイバラ節で、どのコマでも大はしゃぎするカップルが描かれるが、摺鉢山で合掌する「かつや」は、他のコマとトーンがちがって神妙に描かれている(下図、前掲誌p.377)。そこにこの作品の感情の特別性が現れている。

 

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 そしてそこを管理支配している自衛隊への感謝と賛美が繰り返されている。

 つまり高須克弥において硫黄島とは「地上戦」であり「自衛隊なのである。

……と高須克弥を笑って(?)いられないのがぼくである。

 

ぼくの硫黄島認識

 ぼくはそもそも硫黄島を「いおうとう」と読むことさえ知らなかった。「北硫黄島」「硫黄島」「南硫黄島」などからなる硫黄列島であることも知らなかった。政府の宣伝を信じていたのかもしれないが、「人も住めない島」というイメージがあり、漠然と「火山活動や硫黄などで生活が長くできない」ように思っていた。なんの根拠もないが。

 硫黄島のイメージはまさにアジア・太平洋戦争末期に「米軍の島嶼占領を許さぬために日本軍が立てこもって強固な抵抗をし、凄惨な地上戦が行われた島」ということだけだった。よくある「アジア・太平洋戦争の経過を振り返る映像」の中でその一コマとして眺める程度だった。

 

 石原俊による本書『硫黄島』はぼくのようなイメージをひっくり返すために書かれた本である。

 

硫黄島-国策に翻弄された130年 (中公新書)

硫黄島-国策に翻弄された130年 (中公新書)

 

 

 

本書の目的は第一に、硫黄島をめぐるイメージを、長らく日本社会で支配的であった「地上戦」言説一辺倒から解放することにあった。(p.199)

 

 

 硫黄島にどのようにして人がすみ、どんな社会が形成されたか、といういわば「地上戦」の「前史」(本書を読めばわかるが、それは「前史」ではあり得ない。)を知ることで、「『地上戦』言説一辺倒」、ましてや硫黄島が「不毛の地」であったかのような印象が打ち砕かれる。

 特にぼくがその点でインパクトを受けたのは第2章「2 硫黄島の生活の記憶」「3 北硫黄島の生活の記憶」だ。

 

筆者が強制疎開前の生活経験の記憶をもつ二〇人以上の島民にインタビューしたかぎりでは、基本的な衣食住に困窮するケースは少なかったようだ。(p.49)

 

須藤*1さんは地上戦前の硫黄島を、「暮らしはいい所だった」と強調する。(p.55)

 

家畜の「豊かさ」が妙に印象に残る

 その中でも、家畜類の育ち方について妙にあれこれ想像してしまった。

 

家畜家禽類では、牛・豚・鶏の飼育がおこなわれていた。牛には島内に自然に生えている青草が、豚にはパパイヤやタコノキの実が、鶏には島内いたるところに生息するカニやバッタが餌となるため、飼育にはほとんどコストがかからなかった。……小作人層にとって最も日常的なタンパク源は、鶏の卵であった。鶏に関しては放し飼いが主流で鶏舎はなかったので、卵を適宜回収して食べていたという。また、必要に応じて鶏を絞めて肉を消費していた。(p.50-51)

 

 へー、鶏が餌の心配なしに「飼える」んだー。自分がもし硫黄島で生きていくとしたら…と想像してしまう。

 『この世界の片隅に』の監督である片渕須直が、戦前写真に写った本土女性たちの肉付きの状況を見て“コメばかり食べている”という趣旨のことを言っていて、それは逆に言えば本土の人たちというのはタンパク質があまり摂取できないんだろうなと想像した。だから、タンパク源にあまり不自由しない硫黄島の生活ということが、ある種の「ぜいたくさ」としてぼくにはイメージされた

 これらの島民の生活の「豊かさ」が生き生きと書かれた部分が本書の中でも硫黄島の戦前イメージとしては重要だと感じた。もちろん、これは硫黄島が楽園だという意味ではない。会社の支配や小作としての過酷さが基本にある。あくまで食料という点だけにしぼった一断面である。詳しくは直接本書を読んでその魅力を体感してほしい。

 このような本書の叙述が、「地上戦」一辺倒の言説だった硫黄島への見方からぼくらを解放してくれるのである。

 

 そして、このような生活がそこにあり、その上で、103人の島民が徴用され、生き残ったのは10人しかいなかった。つまり住民が動員され、戦闘に巻き込まれ、犠牲になった。

 そこから、著者・石原は「唯一の地上戦が戦われた沖縄」という言説が支配的であったことを批判する。

 これも全くぼくの不明であるが、「唯一の地上戦が戦われた沖縄」であると思っていた。左翼業界でも普通に使われてきたし、今も使われている。本書はその認識を更新させるであろう。

 

 

帰島を望む島民の存在

 本書のもう一つの目的は、「硫黄列島の視点から、日本とアジア太平洋世界の近現代史を捉えていく作業であった」(p.200)。

 日本帝国の「南洋」における植民地開発モデル、本土防衛の軍事的最前線、米軍による秘密核基地化、郷里に帰れないままの島民を置き去りにした日米共同の基地化という歴史が本書でわかる。(そしてここで行われている訓練(FCLP)の馬毛島への移転をめぐりまさに今ホットな話題になっている。)

 

 特にこの点では、戦後も硫黄列島に帰りたいという島民が存在し、社会運動として闘われてきたということをぼくは初めて知った。

 硫黄島自衛隊が訓練をしてきたことは知っていたが、その島にもともと住民がいて、帰りたいと願っているということであれば、その島についての認識はずいぶん違ったものになる。

 ぼくのような左翼としては硫黄島での軍事訓練を見る目は、単に「対米従属的な軍事訓練をやめよ」というほどのものであったが、住民の生活の場だったものが奪われているという認識はもっと根源的な問題を突きつける。

 石原が書いているように、

 

硫黄列島民は二〇一八年末時点で、すでに約七五年も故郷喪失状態に置かれている。現在の日本政府の不作為的態度は、硫黄列島民の一世が全員この世からいなくなるのを待つ方針、言い換えると硫黄島の生活の記憶が消滅するのを待つ方針であるといっても、不適切ではないだろう。(p.185)

 

ということになるからだ。

 硫黄島は「地上戦」ナショナリズム(というか高須克弥的なショービニズム)の場であることをやめ、むしろ沖縄的な色彩、「住民を巻き込んだ地上戦」「棄民」「秘密基地化」というイメージをまとって現れてくる(このような規定自体を石原がしているわけではないと思うし、こうした安易に似せた比喩にすることを石原は是としないかもしれないが)。

 

 そういうわけで、ぼくはまんまと石原の企図した通り、硫黄島について「地上戦」一辺倒の言説からも解放されたし、それをぼくなりに、というかぼくのなかにある紙屋流近現代日本史の中にその位置を据え直すことができた一冊となった。ひとの歴史認識を更新させるという意味において(単なる知識の増量だけでなく)、コンパクトながら破壊力のある本だ。

 

 なお、本書にある通り、硫黄島は人が生活するには適しない島のように政府側(正確には「小笠原諸島振興審議会」とそれにもとづく閣議決定)が判断して帰島を許さないわけだが、島民は必ずしも納得していない。「基地として最適な島」を手放したくないという政権の意向がまずあって、そこから忖度された結論のようにぼくには思われた。

 そのような前提を外して、全く自由に議論すべきだ。

 まず島民が納得できるまで徹底して議論し、もし帰島できるという結論が出ればそこはもともと住居地なのだから自衛隊は利用を制約されるか、撤退するべきであろう。

*1:章。著者・石原がインタビューした島民の一人。

たみふる『付き合ってあげてもいいかな』1

 大学の軽音サークルに入った「みわ」と「冴子」という女性2人がつきあう話である。

 

付き合ってあげてもいいかな(1) (裏サンデー女子部)

付き合ってあげてもいいかな(1) (裏サンデー女子部)

 

 

 同性同士であることの困難や社会的な摩擦は、ぼくからするとわりと「あっさり」乗り越えられていくので、ぼくがこの作品を「性的マイノリティの物語」として読むことはまずない。

 読者であるぼくは「みわ」と「冴子」のどちらかの視点にスイッチしながら読むという、完全にぼくにとっての「百合」の読み方になっている。もっと言えば、時には「みわ」を恋人として、別の時には「冴子」を恋人として(性的に)見るわけである(まあ、どちらかと言えば「冴子」目線なんだけど…)。ぼくにとっての同性である男性が排除された空間なのである。

 

 相手の体に触れたいとか、キスをしたいとかいう、恋愛初期の一番高揚した衝動をじっくりと描き込みながら、それを一方的なものでなくて、相手との合意によるコミュニケーションに落とし込もうとするのが、オトナな感じがして好感が持てる。こういう恋愛がしたいではないか、と思わせるのだ。

 

 2人はサークルの仲間や周囲から心配されたり、応援されている。そのあたたかい感覚も、読んでいて心地いい。

 今の多くの少女マンガを読んでいる時に、主人公周辺の女友達の共同体とは距離を感じる。いくらそこで主人公たちが支え合おうが慰め合おうが、自分と地続きのリアリティを感じることはあまりない。

 だが、本作を読んでいると、自分の大学時代のサークルのことも思い出しながら、それを裏返して理想化したような人間関係に思えてくる。こういう人たちに囲まれていたらさぞ幸せだったろうな、と。

 例えば2人の友人として登場する「リカ」が、高校時代の女同士の共同体にいることの「つらさ」から、大学に入って解放され、「うっしー」に出会うシーン。うっしーは、「声めっちゃキレイだよね!?」と手放しで「リカ」を褒めながら飲み会でバンド組もうよと接近してきた。「リカ」は高校時代の人間関係と違った、直截な関係があるのだという新鮮な衝撃を受け、つるみはじめる。

 高校的なものの批判者として大学が登場する。

 この感覚、久々に思い出した。

 

 この作品は、ぼくにとって居心地のいい人間関係に取り巻かれた空間としてあるのだ。

増本康平『老いと記憶 加齢で得るもの、失うもの』

 ぼくのような一般人には「歳をとる→記憶が衰える→物忘れが激しくなる→頭を使わなくなる→認知症になる」というような図式と不安がある。

 それにこうするために脳トレだ、という風潮もある。

 本書はそのような図式に対する批判であり、一般人への啓蒙だといっても良い。

 

老いと記憶-加齢で得るもの、失うもの (中公新書)

老いと記憶-加齢で得るもの、失うもの (中公新書)

 

 

 本書の前半を読んで、ぼくの拙い理解はこうだ。

 歳をとっても衰える記憶の機能と衰えない機能がある。

 記憶の保存の機能というのは、あんまり衰えない。

 脳のワーキングメモリ、つまり作業台は小さくなるようなので、若い頃はマルチタスクでやれていたような処理ができなくなり、そのために例えばメガネをふと置いた場所などを意識づけて覚えられなくなってしまう。保存の力はあるけど、入力の際に効率の良いタグ付けができないので検索しにくくなる。

 そういう状況に対して、脳トレをやってもあまり効き目がない。

 例えば、覚えることそのものをやめたほうがいい。メガネをいつも定位置に置くとか、補助ツール(スマホとかメモ帳)を使うとかする。

 ただ、若い人が物忘れをしないかというとそうでもない。年寄りはワーキングメモリが小さくなるけども、他のもので代替する。覚えるべきことの重要性を若い人より認識していたり、補助ツールを使うことを知っていたり、定位置に置くという工夫ができる。つまり代替する「知恵」が経験によって豊かになる。

 門外漢なので、正確にたどれていないのだけど、前半(の一部分)にはこういうことが書かれている。ここにあるのは一つは老いに対して脳トレをすることに批判的な著者の思いだ。もう一つは、老いによる記憶の低下というのはそんなに単純な話じゃないということ。最後に、老いてくれば代替になるものがあるので、必要以上に絶望することはないよ、ネガティブにとらえること自体が記憶の機能を悪くするよ、という励ましと警告だ。

 

 この本にはグーグル・エフェクトの話が書いてあるけど、ぼくも「自分が覚えている」ということに頼って用件を締め切りまでに処理することは怖くてできない。パソコンや携帯で自動的に締め切りを知らせてくれるようにしている。そして、終わったことはでかい手帳を買ってそこに日誌のようにつけていって頭からデリートしている。まあ、本来それはスマホやパソコンで一括してできるものなんだろうけど、日誌に絵を描いたり感想をメモったりするので、依然そこはアナログなのである。

 つまり補助ツールはすでに使っているし、自分の記憶にとっても主要なものになりつつある。

 老いても人は代替する知恵を発達させるのだから、「記憶が衰える」ということをそんなに恐れなくてもいいのだな、というポジティブな気持ちになった。

 

 そして、こうした加齢によるある種の記憶機能の低下(または維持)の問題とは全く別に認知症の問題がある。本書の後半の一部はこれに当てられている。

 過剰な期待をしてはいけないとしつつ、認知症*1の予防について書かれている。

 簡単に言えば、偏食をしないこと、運動すること、社会交流をすることなどである。特に社会交流の効果は大きい。

 テレビ見てぼーっと過ごしているのが最悪のようだ。

 なーんだ、町内会の活動やったり、社会運動やったりしてりゃいいんじゃん、と思った。それも楽しく。

 まあ、前も言ったけど、左翼活動って、組織で会議したり、人をオルグしたり、ビラ配りに階段を駆け登ったり、お食事会したり、認知症予防にバッチリだと思うけどなあ。「認知症予防に、あなたもコミュニストになりませんか?」ってオルグしてえ。

 

 本の最後は、高齢期の発達課題――人生の統合と絶望のバランスについて描いている。死や人生の後悔のようなものとどう折り合い、自分の人生をどうとらえるか、という感情のコントロールのことだ。

私たちは例外なく身体や認知の機能が年齢とともに衰え、健康状態も悪くなり、最終的には死を迎えます。この時期をどのように過ごすかが人生の評価には重要であり、これまでの人生が素晴らしいものであっても、最後の数年間の経験がつらいものであれば、人生はつらいものとして再構成される可能性があるのです。(p.165)

 よく「死ぬときに人は幸せなら人生は幸せ」みたいな教訓として言われるんだけど、本書を読んできてこのテーゼをもう一度噛み締めると全く別の「恐ろしさ」を感じた。がんで苦しむとか、パートナーに先立たれ孤独になる、ということをあれこれ考えてしまった。

 これは仏教が本来テーマにしてきたことだろう。

 これは本書を読んで考えてみてほしい。

 

 はじめにあげた「歳をとる→記憶が衰える→物忘れが激しくなる→頭を使わなくなる→認知症になる」という図式に対して本書でえられる批判としてはその図式の「記憶が衰える」というところが単層すぎること、そして「記憶が衰える→物忘れが激しくなる」という因果はないこと、そして「→認知症になる」というのは全く違うことがわかる。

 まあ、とにかく脳トレは意味がないのですよ(笑)。

 そんなことをやっている時間に、代替機能として「知恵」を拡大するための時間、認知症予防のための社会交流に時間を割いたほうがよっぽどいい。

 

*1:ここではアルツハイマー病のこと。