ぼくは高校のとき模試で第一志望の国立大学についてE判定をもらったことがある。自分でも「うわー」と思ったが、なぜかそのままあきらめずに受験し、合格した。まあ、その大学のその文科系学部にはなぜかその年だけ受験科目に数学がたまたまなかったというめちゃくちゃ特殊な事情が幸いしたことは否定できないが。
娘もそろそろ大学受験だが、第一志望にE判定を食らっている。
食らっているが、あまり気にする様子もない。
そのままうまくいくのか、失敗するのか、果てまたは志望校を変えるのか、それはよくわからないのだが。
本書『なぜ地方女子は東大を目指さないのか』にはこの種の話が出てくる。
本書ではタイトルの『なぜ地方女子は東大を目指さないのか』を探求しているのだが、その一つとして「安全志向」を考えている。地方女子と地方男子についてデータを取り、それを比較して、次のような考察をする。
つまりどちらも自分の「実力」の範疇の大学を選ぼうとは思っているものの、模試でD判定が出た時に、地方の女子学生には「自分の実力では受からないので、この大学は諦めよう」と考える人が多く、男子学生は「まだ狙える圏内だろう」と考える人が多いということです。(p.119/216)
ここから見えてきたのは、地方女子学生の著しい安全志向です。例えば、先述のように模試でD判定が出た時、地方の女子学生は「今から努力しても合格できる可能性は低い」=「自分には無理だ」と判断してしまうのも早く、さらに「無理かもしれないけれど、偏差値の高さにもう少しこだわりたい」とはならず、それが直接的な理由で志望校を下げる決断を下しやすい、ということです。(121/216)
著者の一人である江森は、この問題について本書の中で「『合格可能性30%』とは何か」というコラムを書いている。江森は東大に入った女性なわけだが、DやEを取って「絶望」することがあったというのである。
その時に江森はどう感じたか、精神的にどう対処したかを書いているのである。
加えてそこに、「D判定は合格可能性30%を表します」などと書かれていた日には、自分がその大学を受験するのは10回受けて3回受かるくらいの博打なのだなと思っても無理はありません。しかし、誤解の多いこの30%という数字ですが、そういう「個人が受かる確率」を表しているわけではありません。判定を見て一喜一憂する前に、指標の意味を理解しましょう。(114/216)
例えば、高2の夏に受けた模試の結果が、偏差値60で東京大学の判定がDだったとします。それは大まかにいえば、過去、高2の夏にその模試を受験し、偏差値が60であった学生のうち、30%が最終的に東京大学に合格した、ということなのです。つまり、今の学力で周りと比較してどうこうという話ではなく、その後の取り組み方次第で最終的に30人に入るか、残りの70人に入るかが決まるのです。「可能性」という言葉に惑わされると、今の自分が受かるかどうかという話に帰着してしまいがちですが、Aを取ったところで努力を怠れば落ちるし、Eを取っても地道に努力し続ければ受かります。こんな数字は指標に過ぎません。こんな指標のせいで、志望校を下げるか上げるか悩む方が無駄なのです。(114/216)
なんというか、勇気が出てくるではないか。
ぼくなどはただのアホだったので、まあなんとかなるだろ、とよく考えず、ただ無謀に受けていただけだったのに。
娘にもこの箇所を読ませたいと思ったものだが、別に娘は自分の志望校のひどい判定について何も気にしていないようなので、そんな必要はまるでないなと思い直した。
とまあ、本書は、決して表題についての無味乾燥なデータとその解析の本ではない。地方から女性として東大に進学し、わずか2割しかいないという現実の理不尽さを体験として味わい、その中で様々にもがき、苦しんだ痕跡をたどる記録でもある。
「地方女子が東大を目指さない」という前提自体が「ドグマチック」ではないか、そんな課題自身そもそもあんのかよ、と男子学生から投げつけられる、その理不尽さに憤ったりもする。東大に女子が少ないというのは(しかも地方出身の)、男女平等な今の世の中において、結果としてあらわれた、なんの障害も障壁もない現実に過ぎないのではないかというわけである。
その分析自体は本書を読んでもらうほかないのだが、冒頭の話に加えてもう一つ、ぼくが著者たちの生きた現実を感じたのは、“地方女子には進路選択上のロールモデルがいない・圧倒的に少ないせいではないか”という仮説の検証である。
数字的な検証とは別に、著者の友人の言葉が、「手前味噌のような話で恐縮ですが」と断りながら次のように紹介されている。
一番身近にいた同級生が、真剣に東京大学を目指して勉強していたから、勉強をがんばるのがあたりまえになったし、自分も東京大学を目指してみようと思えた。最終的には、東京工業大学に進路変更したけど、一年生の頃から東京大学を見据えて共にコツコツ勉強してきたからこそ、合格できたと思う。東京に出たいという気持ちは元々あったけれど、近くにそういう存在がいなかったら、志望大学が東京大学や東京工業大学などの難関大学であったという自信はない。(105/216)
著者たちは、こうした経験を通して、「実際に東京大学を志望し合格した女子学生」を身近に知ってもらうために高校の定期的な訪問のプロジェクトを手がけている。1回きりでなく、継続的に「知っている人(先輩)」になってもらい「ああ、こういう人が東大に行くんだ、こういう感じなら東大に行けるんだ」と体感してもらうためであるという。
ぼくの知っている高校には近くの九州大学の学生が定期的にやってくる授業メニューがあって、たぶん似たような効果を目指しているんだろうなと思う。
東大を目指す地方女子を増やすという点では、クォータ制などの導入などがしばしば言われるけども、著者たちが提案しているこうした方向は、自分の体験や現実のヒダに入り込んだ丁寧なものだという印象を受けた。
著者たちは東大を冠した本が溢れていることや、テレビのクイズ番組などの影響もあって、「東大に行くのはものすごい人orめちゃくちゃ変な人」というイメージができてしまっていると考えている。そこで実際にそうではないことを身近な東大生(しかも女子)を見てもらうことで、わかってもらおうとしている。
私たち自身、東大に入ったらそういう大天才や、一見風変わりな人が多いのかな、と思っていたものです。しかし、実際に東大に来てみるとそんなことはなく、ごく一般的な学生ばかりです。/メディアは「東大には変人ばかりだ」ということを誇大に伝えがちです。…クイズ番組で連戦連勝の東大生たちを見て、「これほど博識でないと東大生にはなれないのではないか」と誤解しはしないでしょうか。(101/216)
ちなみにぼくは逆であった。自分の行く大学は「変な大学」であってほしかった。
『青春の門』に出てくる大学には行かなかったが、「似たような大学」だと思ったところに行った。高校の担任がその大学を訪れてかわされていた会話とか雰囲気が、『青春の門』のように思えたのである。
主人公はほとんど講義にも出ず、学生運動、労働(アルバイト)、恋愛に明け暮れ、ついに劇団を手伝ってドサ回りなどしてしまう。やがて中退…というもので、先輩の家に行くとメイエルホリドの本などが無造作においてあって「スタニスラフスキー・システムはだな…」と熱く夜通しで語るようなそんな生活を想像していた。今から考えれば一種の無頼気取りであるが、だいたいそのような生活を送った。最後はキャンパスにもおらず、大学を6年かかって卒業した。『青春の門』の主人公は、学生運動で凄惨な「査問」まで受けるのだが、そちらの方の体験は幸い学生時代には出遭わずに済んだ(ただ、卒業して30年経ってから見舞われるハメになろうとは思いもよらなかったが)。
要するに「変な大学」なのである。「変」=ユニークであることが「個性」であるのだと思っていたし、そういう時代であった。
江森・川崎は逆に「変な大学」であることを必死で否定していて、まるで逆だと読みながら思ったものである。
なお、「そもそも東大や難関校に行くことが是なのか」という問題については、本書の冒頭で説明をしており、ある種の留保をつけてこの問題に取り組んでいることはあらかじめ知っておいてほしい。
なお類書に、東大教授である谷口祐人の『なぜ東大は男だらけなのか』もあり、こちらも読んだ。
こちらは、東大をはじめとする日本の大学が男だらけであった歴史を振り返っているのと、アメリカの男女共学化が東大よりもはるかに遅れて始まりながらなぜすでに男女同数を達成しているかについて、プリンストン大学の改革を例に考察している。
社会の指導的な地位につく女性の割合の低さは、指導的な地位に人材を輩出する大学における女性の割合の低さに一つは起因しているとは言える。
「大学だけでは解決しないよ」という意見がありうるが、それはそう言って何もしないことになってしまうので、社会のいろんな方面から女性の進出を後押しすることが必要だろうと思う。
そう考えた時、『なぜ東大は男だらけなのか』の提起する入学の際のクォータ制も検討されるべき課題だろうし、『なぜ地方女子は東大を目指さないのか』で出されている地道な提案もまた取り入れられるべきプロジェクトだろうと思う。
要は、いろいろやってみてようやく変わるということだ。