沢田健太『大学キャリアセンターのぶっちゃけ話』

誰のために書かれた本か

大学キャリアセンターのぶっちゃけ話 知的現場主義の就職活動 (ソフトバンク新書) この本は一体だれに向けて書かれているのか。言い換えれば、誰を読者として想定しているのか。
 就活本というのは山のようにあるけども、多くは学生の側の自己啓発を促す「対策本」だ。そうでないものは、採用側=企業のホンネを書いたものだろう。


 大学のキャリアセンター――昔風にいえば「就職課」――はその中間に位置する。会社側も学生側もどちらの立場も俯瞰できるといえば聞こえはいいが、「どっちつかず」ともいえる。中途半端なのだ。
 大学教育問題、すなわち労働力養成上の困難や課題を書いたもののようにも思えるが、そうでもない。もちろんその要素がないとは言わないが、書いたのは民間企業からキャリアセンターに転職した人間であり、労働力商品の「売り込み・営業サポート」の方に力は発揮できても、労働力商品の「開発」(養成)にはそれほど明るくない。もちろん「営業」からみた「開発」のことは一つの視点が得られるだろうが、どう労働力商品をうまく開発するかは、やはり大学教員の話の方が面白いだろう。


 「大学キャリアセンターのぶっちゃけ話」と題されているので、キャリアセンター関連の職員がターゲットのような気もする。そこにはある程度売れるんだろうと思うけど、マーケットとしては狭すぎる。まあ、実際にはその狭すぎるところにきちんと売れればいいのかもしれないけど(実際、ぼくの知りあいの大学教員はむさぼるように読んでいた)。
 といっても、暴露系の生々しい話はそれほどない。
 キャリアセンターの職員が読めば、よく知っているような、むしろ共感をさそうような話が多いのではないか。


 この本は、第4章で「保護者は隠れた戦力である」という章を設けているが、実は就活をしている学生の親に読んでほしい、そこに向けて書かれているという本ではないだろうか。
 今の学生の親というのは、バブル前に就職活動をしたような人たちで、人事部にでもいなければ90年代以降のウェブ化、エントリーシート、SPIといった現実をほとんど実感を持っては知らないだろう。ぼくも知らないけどね。
 そういう人たちへむけて、本書は就職活動の現状をざっと概観する。そのうえで「学生をサポートする」ということについてあれこれ書かれている本だと思ってくれればよい。
 この「サポート」という立ち位置は、実は「子どもの就活がうまくいっていなさそうなことにやきもきして何かしてやりたい」という親の立ち位置と通じるものがある。そんなとき、何をすればいいのか、ということなのだ。


 就活で悩んでいる学生がこの本に流れ着くというのは、なかなか難しいだろう。あまたの就活本のなかでこの本だけを選んだとすれば情報収集力がどこかおかしいと思わざるをえないし、逆にいろいろ読んでいてその中の一つとしてこの本を選んだような学生はすでに一定の水準にあるといえるから、本書でおこなうようなアドバイスはすでにクリアしているだろう。


 本書を手にしない就活学生の代わりに親が読んでやって、いくつかアドバイスをする。そんなふうに活用されるべき本なのではないかと思った。



当たり前の「定石」をやることでずいぶん差がつく

 ぼくがその立ち位置で読んでみて一番ポイントになると思った点は、「就活がウェブ化している」ということだ。本書の96ページには「ナビサイトが就活・採活を膨張させた!」という節がある。
 ウェブでの就活は「とりあえずエントリ」という人を激増させるので、バブル時代には「受けないだろう」と思われていたようなが大学の学生が人気企業をどんどん受けるようになる。1社何万件というようなエントリがザラになる。


たいした志望動機がなくても、とりあえずエントリーする。とりあえずすることによって、学生は就職活動をしている気分になり、受かるはずもない企業へのエントリー数を増やし、どこかには受かるだろうと甘い幻想を抱く。(沢田p.98)


 「とりあえずすることによって、学生は就職活動をしている気分になり」とあるが、「就活ナビサイトがらみで行わなければならない作業が膨大」(p.97)とあるように、作業量自体は手間暇がかかるので、そういう気分が醸成されやすい。


 そうなると、どうなるか。

会社選びの参考に業界研究本を読むとか、知人やキャリアセンター経由でOB・OG訪問をして志望先の社風を知るとか、ふらりと本社まで出向いてアクセスを確かめ社員の雰囲気をつかんでくるとか、そういった「ナビサイト外」の動きを一切しないで就職活動を終える学生の方が圧倒的に多い。(p.97)


 これらは古い世代からすると、いわば就活の「定石」である。しかしその定石をやらない、というわけだ。


みんながやらない活動をこなせば頭ひとつ出ることができるかもしれない(当たり!)
(同前、カッコ内は原文より)


 そこで本書で学生にすすめる活動として第一にあげられているのは、企業研究をすることである。

自己分析に励んでいる暇があったら企業研究をしなさい。(p.193)


 そう書いて、どんな本を読んだらいいかというアドバイスをしている。『就職四季報』とか業界研究本とか新聞記事とかである。常識的だ。常識的だが、「みんながやらない活動をこなせば頭ひとつ出る」ということなのだろう、と本書を読んで思ったことである。


 旧帝大系の学生の就職活動について聞く機会があったが、商社を受けたある学生が研究室に戻ってくるなり、「予想外の面接質問でどう答えていいかわからなかった」と困惑した顔でつぶやいた。どういう質問か尋ねると「日本経済のこれからについて思うところを述べてほしいって言われて…」。
 商社の面接でそれを「予想外」と言うのはどうなんだ。
 案の定、その学生は、その商社に落ちてしまった。まあ、他が決まったようなので今では「笑い話」の一つだが。


 つまりこの学生は新聞くらい読んでおけばよかったのである。
 当たり前のことをしておくべきだった、ということだ。


 親としてできるサポートは、新聞を購読してやったり、本を渡してやったり、それでも読まないような学生には、関心をもっていそうな業界の本を読んで親が雑談のなかでその話をしてやったり……とまあそんなことではないだろうか。


 実際第4章に入っている「もし私が就職活動生の親であったら」という項には、

  1. 子供を会社の飲み会に連れて行きます
  2. エントリーシートを読みあげます

というアドバイスが出てくる。
 前者については後で語るが、後者についていえば、膨大に送られてくるエントリーシート機械的なふるい落としをするために、企業側は誤字脱字や文章能力のなさをチェックする、と沢田は述べる。そのチェックくらいならどんな親にもできるだろう、というやさしいアドバイスである。
 「定石や常識的なことをまずはやってくださいね」というススメだ。
 あと、親の身からすれば、子どもが就活でどんな不安にさらされているのかをよく知っておかないと、とんちんかんなことになるから、本書p.180では、時期ごとの学生がかかえそうなプレッシャーや不安が表にまとめてある。こういうものをみると、まさにこの本は「就活学生の親のために書かれているんじゃないかなあ」という思いを強くするのだ。



「子供を会社の飲み会に連れて行」く2つの効能

 さて、先ほどの沢田のアドバイス

子供を会社の飲み会に連れて行きます

というのをもう少し考えてみる。
 沢田はこのアドバイスの理由を次のように書いている。

輪になった飲み会となると、複数人から意見が出る。会社に対して、仕事に対して、我が子に対して、いろんなことを言ってくる。結果的に、一人の意見や一事例にに左右されにくくなるメリットがある。意外な話の切り口を仕入れることもできる。誰かの話をネタにわいわい議論になる社会人の姿を見ること自体、大変貴重な勉強になる。大学のどんなキャリア教育でも、OB・OG訪問でも体感できない集団の力学を学べるのだ。(p.239-240)

 このアドバイスは良い。しかしそれは、労働観や企業観の育成というような一般的効能を求めてではない。

 第一。企業というものは、当然企業ごとにやっていることは全然別のことなんだけども、共通することもある。というか、「営業」「開発」「総務」のような切り分けはどこの会社にでもあり、そこで働いている人たちが求めている「いっしょに働きたい人」のイメージ、つまり採用側のニーズなんていうのは、そんなに違うものでもない。それがつかめるかもしれないのだ。
 第二。「営業」とか「開発」とか「総務」とか、企業に共通するいろんな部署(を渡り歩いた経験)を具体的なエピソードや人間イメージをもとにして、知ることができる。それによって、自分が望んでいない仕事(部署)に回されたときの、イヤなこと、面白そうなことを、取材して、自分の持ちネタとして仕込んでおく場にするといいのだ。
 だから参加した学生はボンヤリと話を聞くのではなく、面接のときの小ネタを取材するつもりで聞いておくとよい。

どんな人と働きたいか

 まず、第一の点について。
 沢田が、

自己分析に励んでいる暇があったら企業研究をしなさい。

と述べているのをさっき紹介したが、勘違いすべきでないのは、自己分析にしても企業研究にしても、「自分に合う適職」を見つけるためのものではない、ということだ。
 では、何のためにそれらを行うのか。
 自分という「労働力商品」を売り込むためである
 就職活動とは、自分という「労働力商品」を売り込む営業活動なのであって、企業研究は「売り込むべき相手」が何を望んでいるかを知るためであるし、自己分析は自分という「労働力商品」が、その相手の望みにどう役に立つかを売り込むために行うものである。売り込むべき相手によって、売り込みのポイントが変わるのは当たり前である。

 「『四季報』だけ読んでも相手の望むことなんかわからないよ」。そりゃそうだろう。だから、

会社選びの参考に業界研究本を読むとか、知人やキャリアセンター経由でOB・OG訪問をして志望先の社風を知るとか、ふらりと本社まで出向いてアクセスを確かめ社員の雰囲気をつかんでくるとか

するわけである。こうした活動は何のためにするかといえば「労働力商品」の売り込みのためなのである。


 ぼくの職場には、営業で何かを売りにやってくる人がやってくる。すでにその商品は間に合っているのだが、新しくウチの商品を使ってほしいという営業の人もいる。
 そういうとき、ぼくの業界の話をする営業の人もいるわけだが、ムダに詳しい人もいる。だけど、業界にいくら詳しくてもそれはただ詳しいだけにすぎない。話ははずむけど、商談・契約の成立にはつながらない。
 ぼくの職場はとてもやりくりが厳しいから、売り込まれている商品のクオリティは二の次。低価格であることが第一。次に納期。そのあたりの気持ちを知っている人であれば、たとえば「低価格」で太刀打ちできなくても「ずば抜けて早い納期」を実現できるならこちらの気持ちは動く。
 ぼくの職場の人間と話をしていれば、クオリティはほとんど求めておらず、価格や納期を気にしていることがすぐわかるだろう。
 商品の売り込みをしたいのであれば、そういう、相手が望んでいることを社員の話から仕入れてこい、ということなのだ。


 労働力商品の場合は、「コイツといっしょに仕事をしたい」と思ってもらえるかどうかである。高島宗一郎・福岡市長が、就活学生を前にした講演会で「採用面接というのは結局『あなたといっしょに仕事をしたい』と思ってもらえるかどうかだ」と話していたのを聞いたことがあるが、この件に限っては高島の言う通りである。
 そのための業界研究本であるし、OB・OG訪問であるが、身構えた「公式の顔」で出てくる情報ではなかなかそれはつかみづらい。ならばいっそのこと、利害関係のない、親の職場の人たちの飲み会にもぐりこんで、働いている人がどういう人間を求めているのかを小ネタエピソードとともに、いろいろ仕入れてきた方がいいとぼくは思う。さっきも言った通り、企業に共通する空気やニーズというものはあるんだから。
 だからこそ、この沢田の

子供を会社の飲み会に連れて行きます


は悪くないアドバイスだと思うのだ。


イヤなことをしなければならないときにどうするか

 このアドバイスがいいと思った理由として、ぼくがあげた第二の点についても述べておく。

 第二に、「営業」とか「開発」とか「総務」とか、企業に共通するいろんな部署(を渡り歩いた経験)を具体的なエピソードや人間イメージをもとにして、知ることができる。それによって、自分が望んでいない仕事(部署)に回されたときの、イヤなこと、面白そうなことを、取材して、自分の持ちネタとして仕込んでおく場にするといいのだ。


 学生は「御社を志望した理由」としてその企業のやっていることに強く照準をあわせた回答をつくりだす。たとえば雑誌社なら雑誌の編集とかそういうことだ。もちろん企業が主力で売っている商品やサービスに強い思い入れをして「こう働きたい!」と思ってくれるのは結構だし、それが普通だろうけど、では雑誌の編集をするつもりで、人事や営業に回されたらその学生はどうなってしまうのだろうか。
 いや、雑誌編集でも、文学をやるつもりで、フーゾク紹介に回されたらどうなるんだろうか。
 やりたくない部署に回される。そして、多くの新卒者にとっては、それが現実だ。そのときに、「こんなはずじゃなかった」とクジけられても困るのである。



宮台教授の就活原論 宮台真司が『宮台教授の就活原論』(太田出版)のなかで、グローバル化=資本移動の自由化ゆえに激しく流動する市場環境や経営環境を念頭において、次のように述べている。


企業も企業文化も、企業存続のために変わるかもしれない。だから「適応」ではなく「適応力」を求めざるを得ないのです。
 言い換えれば、変わらない社風に「適応」することではなく、提供する製品やサービスに伴って変化し続けるかもしれない社風についてきてくれる「適応力」を求めざるを得ないのです。ここで大切なのは、「適応」と「適応力」が全く異なるものであることです。
 進化生物学の命題としてよく知られるように、「適応」しすぎると「適応力」が落ちます。このことは「進化の袋小路」という概念として知られます。「適応」が過ぎた結果、環境が変化した場合、特殊な環境に特化した器官をどうにもできなくなる事態です。
 市場環境や環境環境が刻々変化する中、「自分はこれしかできません」あるいは「自分のウリは(ピンポイントで)然々を作ることです」などと言う人を採用したら、どうなるでしょう。当然、雇用リスクが上昇します。制度的に解雇しにくい場合はとりわけそうです。
 昨今の企業は、短時間で多様な環境に適応してパフォーマンスを示せる人材を求めます。(宮台p.29)


武器としての決断思考 (星海社新書) これは、瀧本哲史が『武器としての決断思考』(星新社新書)でのべている、「専門バカは生き残れない」(瀧本p.35)「『変化に対応できないこと』が最大のリスク」(同p.40)ということ、

エキスパートではなく、プロフェッショナルを目指そう。(瀧本p.44)

ということと同じである。

 とはいっても、会社の採用人事でそんなことを考えている人はまだ少ないかもしれない。
 しかし、旧来の会社システムの中で考えても、たとえば会社の中には「営業」「開発」「総務」といった多様な部署があるわけで、何かの労働に強いイメージを持ちすぎて「自分はこれしかできません」というのは困ってしまうのである。
 ある労働者の部署が変わるというのは、会社全体でみれば何も変わらないスタティックな事態であるが、労働者一人ひとりにしてみればものすごい労働環境の激変である。とりわけ新卒者にとっては、人事から開発に行くなどというのはジェットコースター並みの上下左右の振動を感じることだろう。
 「やりたくない仕事を回されたとき、コイツはどうなるか」は一つの採用側の関心事だ。大事なことは、実際に耐え得るかどうかではなくて(そんなことは誰にもわからない)、「そういうことも拙いなりに、考え抜いてみましたよ」という姿勢を示すことなのだ。こういう圧迫面接をうけて「どんな部署でもがんばります!」みたいないかにもその場しのぎのアピールをしたのでは、採用する側が危惧を抱く。


 そうして、これらに共通するのは、やはり自分という「労働力商品」を売り込むという視点である。『面接の達人』シリーズの中谷彰宏は、「弊社の志望動機をおっしゃってください」「我が社を選んだ理由をおっしゃってください」という問いに対する答を考えている。

志望動機で通る人 志望動機で落ちる人。 志望動機で言うべきこと 言っては絶対いけないこと|面接の達人|ダイヤモンド・オンライン 志望動機で通る人 志望動機で落ちる人。 志望動機で言うべきこと 言っては絶対いけないこと|面接の達人|ダイヤモンド・オンライン

 ここで中谷は、

志望動機は、会社のオベンチャラを言うことではない。

http://diamond.jp/articles/-/15434


として、会社について語ることを批判する。中谷としての正解は、

志望動機とは、一言で言って何なのか。
「これから、その会社に入って何をやりたいか」
「これから何をやりたいか」ということなのだ。

http://diamond.jp/articles/-/15434?page=3


というものだ。

「どんな雑誌をやりたいですか」と聞かれたら、
「自分だったら、あの雑誌のここのところをこんなふうにしてみたい。こんな特集をつくってみたい」と言うのである。

「自分は、この会社に入ってこういうことをやりたい。それは、会社に、多大な利益をもたらすであろう。だから、あなたは、私を採らないと損ですよ」という売り込みなのだ。

http://diamond.jp/articles/-/15434?page=3


 結局、これは面接の場で問われていることは、質問の意味通りに「その会社についての自分のコメントを披露する」ということではなく、「労働力商品としての自分の売り込み」ということなのだ、という意味である。
 その視点で質問を変換しろ、と述べているのである。


 自分で労働力商品アピールとしての、持ちネタを10くらい用意しておく。そして、どういう質問が来ても、それを脳内で変換して、アピールに変えていく、というのがよい。


 なんか、読む人によっては「賃金奴隷入門」みたいなことを書いたように思うかもしれないが、ほとんど人がプロレタリアにならざるをえない資本主義下において、食うために「採用される」ということについて、考えてみた次第である。

統計問題

 沢田の『大学キャリアセンターのぶっちゃけ話』において、重要な「ぶっちゃけ」は、就職率のカラクリだろう。分母と分子がさまざまなワザでいじれるので、実感・実態とかけはなれたものすごい数字がつくられる。

 だいたい9割くらいの数字がはじき出される。

ちなみに、全大学ならして実際の就職決定率は約六割、というのが大学キャリアセンターの中の人々の共通認識である。(p.86)


 本書には書いてないが、この差は文科省調査と厚労省調査の差となってあらわれる。

【61.6%】どこにも存在しない、就職率の正しい定義:中村昭典の、気ままな数値解析:ITmedia オルタナティブ・ブログ 【61.6%】どこにも存在しない、就職率の正しい定義:中村昭典の、気ままな数値解析:ITmedia オルタナティブ・ブログ

 端的に言えば「就職希望者」と「卒業者」どちらを分母にするか、という問題で、父母から見れば断然後者を分母にしてほしいところだ。さらにいえば、うち「正規」での採用はどれくらいか、ということも気になるだろう。もちろん本書で「非正規雇用のキャリア教育」というコラムがあるように、非正規雇用となることも前提としなければならないのだろうが、親としては気になるところだ。


 「就職希望者」統計は、年度ごとの数値の相対的な上下をのぞけば、ほとんど意味がないといってもいい。