加藤聖文「日本にとって満洲支配とは何だったのか」

 「前衛」2021年10月号に載った加藤聖文へのインタビュー「日本にとって満洲*1支配とは何だったのか」が実に分かりやすかった。

 

 

 ぼくは、満洲に日本から次々移民が送り出されたことは知っていたが、その理由は、「国内の農民が貧しく、それを反動的に打開するために満洲へ送り出し、開拓はもとより現地人の土地を奪った」ほどの理解であった。そして、「満洲日本帝国主義による朝鮮支配の後の、中国侵略のための第一歩である」というくらいの解像度の認識であった。

 

満洲支配が持っていた矛盾

 加藤は、満洲支配がもともと持っていた矛盾を、おおむね次のように説明している。

――そもそも日本人が昔からいた土地でもなく、縁も薄いのに、日露戦争でさまざまな利権をロシアから奪い取ってしまい、経済活動が始まった。

日本にとって、必然性のないところを取ってしまったわけですから、そもそも日本にとって満洲は本当に必要だったのか。歴史的にどうしても必要なところだという議論はありません。(加藤聖文「日本にとって満洲支配とは何だったのか」/「前衛」2021年10月号p.165)

 

――しかし、もともとそこは中国なのだから、「返せ」と言われる。日本は「大変な犠牲を払ってロシアから手に入れたのに、なんで中国がクレームを入れるのか」となり、噛み合わない。初めは無視していた。しかし声が大きくなってくる。モヤモヤした状態。

――このモヤモヤした状態をスッキリさせる解決策が、満洲全土を占領して日本のものにしてしまうということだった。政党政治に不信が募る中で、こういうズバッと明快な解決策を関東軍が出して実行したのが「満洲事変」で、国民は「すごい」と支持をした。

 

 この「満洲全体を切り離す」という発想の「革命性」は、日本人の当時の意識は南満洲にしかなく、権益も満鉄をはじめ、南に集中していたことを考えればわかる。石橋湛山の「満洲放棄論」も“満鉄経営やってもあんまりもうからないから、満洲の企業に投資する方向に切り替えれば?”的な合理論であったが、これも満鉄=南満洲に意識が集中していたことを示している。そこに満洲全体の占領。このプランの立役者が関東軍の参謀だった石原莞爾だ。石原は日米決戦をみこして資源のある満洲の必要性を説く。

 

――しかし、満洲は日本領とならずに、いろんな経過で傀儡国家となった。

 

 それが次の矛盾となる。

 

――3000万人がいる満洲で日本人は1%しかない。もっと日本人を増やさないと支配できない。日本から経済活動にやってくるサラリーマンや技術者、あるいは役人のような人ではなく(すぐ帰ってしまうので)、何世代にもわたって土着する人が必要。それは農民。

――そこで20年後の満洲が5000万人として1割の500万人(100万世帯)を移住させる計画を立てる。

――日本政府は、満洲は中国の中でもフロンティアで土地はたくさん空いているからいくらでも入り込む余地がある、とふんで入植を進める。

 

 この時点では、日本政府はおおざっぱに問題を捉えていたが、現地人から無理やり土地を大量に奪うということは考えていなかった。しかし、それは「机上のプラン」にすぎなかった。

 

もともとの政策自体が、現地の実情をきちんと把握しないまま進められていたのです。そのため、実際にすすめていくと想定外のトラブルが起きます。(p.169)

 

――南部のいい土地はすでに誰かが耕している。北部も作物が作れそうなところは、すでに誰かが耕している。開墾さえできないような、つかいものにならない土地だけが持ち主がいない。

 

 これは当たり前の話だろう。「人口密度が低くて莫大な土地が余っている」というのは、「現地の人間がボサーッとして気づかない、怠けている」ということではなくて、どうやっても農作物なんかできっこない土地なので、そこにはいかないだけで、したがってまかなえる人口もそれにふさわしい規模でしか増えないから、土地の広さに比して人口が少なくなるのである。

 

――しかし入植はさせないといけない。そこで土地を買収をするが、満洲の土地制度が複雑で、権利関係が非常に入り組んでいる。地主と思った人の上にまた地主がいる、その地主は全然別の都会にいる、という構造が何層にも重なっていたりする。話がまとまらない。

――手続きをとって土地を買っても、そうなると現地で土地を耕していた人は突然職を失ってしまう。説明もない。セーフティネットもない。

 

日本側から見れば正当な手続きで契約を交わして、お金を払って買ったのだから、行政的には瑕疵がない。しかし、実際の現地の人たちの生活や心の問題は切り離されて考えられていて、日本に対する反発が生まれてしまったのです。(p.170)

 

――100万戸移住計画はほとんど修正されなかった。そのために、入植地が実際にはかなり限られているのに、無理やり計画通りに入植をするので、誰かが住んでいるところに結局強権を発動して計画を目標通り実行してしまう。

――無理に数字を合わせる。改ざんする。書類をいいかげんなものにする。不正が横行する。

 

そこから植民地というものの本質が出てくるのです。権力を持っている側が強権を発動してい、そこに住んでいる人たちを「いないこと」にしてしまう。強制立ち退きで、無理に入植地を広げていくことが頻発するようになってくる。(p.171)

 

日本的組織論としての「誰も止められない」問題

 現地や現場をよく調べもしないままの計画をつくり、始まってみると無理があるが、計画は無理にすすめられていく。しかしもしこれが国内であれば、反発が生じて政治はそれに対応しようとする。それが計画の修正やセーフティネットの用意などの形で、現れる。あるいは無理なやり方は取らないかもしれない。

 しかし植民地であるがゆえに、強権を発動して、無理が通ってしまう。

 民主的プロセスがなく、強引に押し切ってしまえるということは恐ろしいことである。

 そして、誰も止められなくなる。

こうして国の政策は一回歯車が動き出してしまったら、あとは誰も止められなくなっていきました。いくら政策を最初に立案した人であっても、それがスタートしてしまったら、機械が動き始めるのと同じで、誰もストップをかけられなくなってしまったのです。(p.172)

 ここは、植民地の問題というより、「日本の政治構造の問題点」(p.172)だと言えよう。

「私がやっているのはこの部分しかやっていませんから」「これはあの人の担当だ」と責任のなすりつけ合いになり、誰が責任者なのかわからないことになっていき、最後は誰もストップボタンを押す人が出てこなくなる。日本の場合、政策の柔軟性がもともとないので、一つの目標を目指す時は、ある部分強みを発揮するのですが、それが「ちょっとおかしいぞ」といったときに、軌道修正ができなくなる。(p.172)

 加藤はここで日本的組織論を問題にしている。

 そしてその問題の仕方は、「部分と全体の責任」という切り口である。これは組織論としてよくある話ではあるが、満洲問題の分析をここに持ってきているところに、加藤の議論のユニークさがある。

大きな話になっていくほどますます誰も部分的にしか関与しなくなり、挙げ句の果てに破綻するまでいってしまったのです。破綻してしまったあとも最初の人たちは「あなたが言ったからだ」と批判されても、「いや、私は最初はこういう意図だった。自分の意図とは違う方向に行ったのだ」「途中からこれはまずいと思ったのだが、言うことを聞いてもらえなかった」と責任のなすりつけ合いになる傾向が強い。日本の戦争そのものが、誰が何の目的で始めたのか曖昧になって、誰もが当事者意識がない、むしろ被害者意識を抱いています。みんな不本意な被害者意識で、責任の所在が曖昧になってしまっています。(p.172)

 

 この記述はまことに身にしみた。

 もちろんこれは今の日本の政治でもあれもそうだ、これもそうだと思い当たることばかりなのだが、それだけでなく、ぼく自身が関与しているものについても本当にこういう事態になっていると身震いしたのである。

 ちょっと脱線したふしがあるが、まあこれは「組織論」としてのぼくの感想。

 

 話を戻そう。

 満洲という問題にどのような矛盾が積み重なっていったのか、ということを概略的な論理の流れで見る、という本稿はぼくにとって新鮮だった。満洲という歴史問題について、個々の細々した歴史記述をした本はそれこそ山のようにある。しかし、そこにどんな太い歴史=論理の筋が通っていて、その論理=歴史の矛盾がどのように爆発したのかを加藤インタビューでは示している。

 日本人として満洲とはどういう場所であり、またどういう歴史問題であったかを、大きな枠で捉え、人に説明する上では、この加藤のような説明はとても貴重なものである。

 

被害者意識が中心という問題

 加藤は最後に「満洲引揚が問いかけていること」として、満洲問題は、満洲引揚問題として語られ、どうしても被害者としての意識・側面が中心になる点を批判的に指摘する。

 

そこで欠落している〔の?]が、よくよく考えてみるとなぜ彼らはそこにいたのか、どういう経緯でそこに渡っていたのかという問いです。(p.174)

戦後の社会でも、満洲からの引揚のインパクトが強すぎてしまい、どうしても被害者としての側面でしか語られてきませんでした。……たとえば、引揚者は、いろいろな回想録や手記を出していますが、そのほとんどは、ソ連が攻めてきてからの話です。それ以前に何をやっていたかはあまり書かれていなくて、いかに自分は大変な目に遭ったかが一人歩きしてしまっています。(p.175)

 かなり踏み込んだもののいいようである。

 「引揚が悲惨だった」「引揚で残された日本人はかわいそうだった」という事実を学ぶことはとても大切なことだが、これだけが切り離された体験というのはある意味で恐ろしいのではないかとぼくは思う。

 この意識は「だから戦争は二度と起こさないようにしよう」になることもあれば、「だから武装しよう」「だから〇〇人はひどいことをする奴らだと言える」というふうに転がることも十分にあるからだ。

 「なぜ彼らはそこにいたのか」という日本の侵略と膨張史という歴史文脈を学ぶ中で、初めて全体を理解した、批判的な歴史体験の継承が可能になる。

 

 今福岡市で、平和資料館を公設する運動が広がり、先日3万筆に近い署名が市議会に提出された。福岡市は実は日本最大の引揚港=博多がある都市で、引揚は立場の違いを超えた広い市民にとって重要な歴史問題である。

 ぼくらが引揚を学ぶ際には、加藤が提起しているような広い歴史文脈で引揚を捉えるようにしたい。

 

 

*1:加藤の文章では表記は全て「満州」でなく「満洲」になっており、ぼくも合わせる