26歳、中堅IT企業で事務職をする葉山かすみは「正しいこと」を欲している。
「正しいこと」……? 葉山にとって「正しいこと」とは「普通」のことであり、つまり多数の人たちが従っている枠組みである。ここでは「正しいこと」はなんと多数派の空気を読むことに置き換えられてしまっている。
葉山にとって「正しくないこと」をする瞬間、すなわちタバコを吸う時だけその「正しさ」から逃れられる。ゆえに独特の解放感を味わえるのである。
飯田ヨネ『ケムリが目にしみる』はそのような「正しさ」に苦しめられている葉山かすみの物語である。
その「正しさ」は物語の初めに出てくる話題でいえばジェンダーに関わるものが多い。
女の子の淹れたお茶の方がいいとか、子どもは苦手なのに子どもがいることに憧れるなどの話題に同調してみるとか、タバコを吸う女には引くわとか、そういうことにいちいち傷つきながら、我慢をするのである。
しかし空気を読まず、まわりに同調しない同僚の女性・牧村真帆に反発を抱きながらも憧れるようになる。牧村になんとなく服装や行動を近づけてみるが、元彼にそれを見透かされて、自分はどういうスタイルをしていたかったのかわからなくなり、また揺らいでしまうのだ。
この作品では、自分に自信がないということが「正しさ」に押しつぶされる原因、すなわち同調圧力に屈し、ジェンダーの加圧に負け、流され、やり過ごしてしまう原因として現れている。
これはちょっとユニークな回路である。
ジェンダーの問題をジェンダーそのものの問題として格闘するというより、自分に自信を持てるような根拠を築くことで自分を貫けるようにしよう(すなわち世間の圧力に屈せずに「私は私」と闘争できるベースを作る)というのだから。
総務の仕事だけでなくIT関係の資格を取ることで自らに専門性を与え、それによって開発のサポートに抜擢される。それはこの会社では、葉山の彼氏が「正直悔しかった」と思うほどに役割的に大きい部署なのである。
長時間労働のような「男性並みの働き方」をするルートではないが、総務畑の視点から新たな提案をすることで自信の根拠を得ていく。
ラスト近くで、かつて葉山の提案をジェンダー的な意味で小馬鹿にしていた男性社員が、退社にあたって葉山に「俺はそんな風に正しくなれないから」と言う。葉山が「正しい」と言われる側に回るのである。
これは、企業内の現実が変革され、かつて「正しくなかった」ものが「正しい」もの、つまり中心的な現実になったことを意味する。葉山にとって当初「正しい」ものとは自分にとって落ち着かない世間の風潮であったのだが、今度は自分にとって居心地のいいものが「正しさ」へと変わったのだった。
このように一つひとつ小さな提案をして行動を起こしていくことを、この作品では「声を上げる」と称している。
声をあげて現実を変えていくのである。
これはぼくがよく接するような社会運動において「声を上げる」ということとは違う。社会を変えていないではないか、という批判があるかもしれないのだが、ぼくは本作を読んでみて、自分の中の最も身近な現実、すなわち企業の中で現実を変えていくというある種のリアルさをとても実感を込めて描いていると思った。