つまり私は、「死刑の全廃」を法制上の理想としてきた男子であって、そのような思想を抱懐してきた人間であった。私は、死刑およびその廃止に関する幾つかの法学論文または文学作品を読んだが、ドストエフスキー作『白痴』におけるムイシュキン公爵の死刑廃止談義から一番深遠な印象を受け取った。ムイシュキン公爵は、死刑執行の宣告が人間(当該死刑囚)に与える「間近い死(短時間内に殺されること)の『確実な』認識、その認識が人間(当該死刑囚)に齎す「恐ろしい(この世で最も強烈な)苦痛」について物語っていた。そこには、「殺人罪によって人を死刑にするのは、当の犯罪(殺人罪)にたいする甚だ過当な刑罰です。宣告を読み上げて人を殺すのは、強盗殺人などよりも遥かに残酷な行ないです。」という言葉も、たしかあった。その「確実な認識の甚大な苦痛」が死刑(執行)宣告の中心的な問題点(非人間性)である、と私は考えてきた。(大西巨人『神聖喜劇』光文社文庫版5巻、p.300、強調は引用者)
旧日本軍に入営し、その不条理に直面する小説『神聖喜劇』で、演習先の一般民家に干してあったスルメイカを「失敬」した兵隊が、上官・古年兵たちに木に縛りつけられ、さんざんいじめられたあげく、あたかも部隊長から死刑命令が下ったかのような演出を施され、いじめを加速させられるシーンである。
本当に死刑判決が下ったと信じたその兵隊の苦痛に、主人公の東堂は胸が潰れるような気持ちで思いを馳せ、ついに我慢できず抗議に立ちあがる。
今回の人質事件をテレビや新聞で見ていて、ぼく自身が過酷だと感じたのは、「一定時間後に殺される」という設定を何度も人質がされていることだった。オレンジ色の「死刑囚」服を着せられ、72時間とか24時間とか存命時間を区切られ、「仲間」の死を見せられている。
2月1日付の読売新聞は、「『後藤さん 過酷な環境下』 専門家ら映像分析」という記事を載せ、香山リカ(精神科医)や鈴木隆雄(鈴木法科学鑑定研究所代表)らの「分析」(つうか感想)を報じた。1回目の動画では「後藤さんの表情には、まだ精悍さが残っていた」という記者自身の見解を書いたうえで
2回目の映像の表情は、心にシャッターを下ろし、自分を保とうとしているように思えるが、3回目では、身の危険が迫り、完全に意思を失っているようだ。(香山、同記事)
とする香山の意見を紹介している。この記事では、後藤健二と仕事をしたことのある福田裕昭というテレビ東京の解説委員が「こんな生気のない後藤さんを初めて見た」と述べたことを書いている。
今回の一連の報道では確かに後藤健二が自由で健康だったころの映像が数多く流されたので、「生気を失った」後藤の表情とのコントラストがあまりにも強く心に残った。殺害されたとみられる動画の場面に引きだされて砂漠に座らされた後藤を思うと、ぼく自身が拘束されたわけでもないのに「暗澹」たる気持になった。「憤り」とか「戦慄」とかいうのではなく、「暗澹」というのがふさわしい。
フィクションや物語の中で「死」を語られるのとも違う。あるいはニュース情報で単に「5人が死亡」と伝えられるのとも違う。一人の人間が死の宣告をされて「この世で最も強烈な苦痛」を味わわされていることを想像させられ続けた。「命を弄ぶ」とはまさにこういうことを言うのだろう。
武装組織側はこのような動画を見せることで、世界の人々、日本の国民に恐怖を与えることが目的だとすれば、ぼくはまさにその効果を与えられた一人だということになる。
同時に、この地域で起きているはずの内戦や空爆による死については、こうした思いを具体的に惹起されることはなかった。日本のメディアの中でそれらがあまり具体的には報じられてこなかった中で、武装組織側のこのようなテロのプロセスだけをずっと眺め続けさせられた意味についてももちろん注意をしなくてはいけない。「数千人、数万人が殺されている中での一人の死に、おまえはフォーカスしすぎなのだ」という批判だ。一人の人物が殺される様に、過剰に思い入れることで、全体を見失うのではないか、ということである。
だがやはり、暗澹とした気持にさせられたことは、ぼくの中で大事な「事実」だった。自分が何かに印象を操作されているかもしれないという警戒をもちつつも、この感情を、テロリズムは許せないという気持ちと行動の根拠の一つにしていきたい。