藤村靖之『月3万円のビジネス』


月3万円ビジネス もう10年くらい前になるけど、東京にいたころよく勉強会をいっしょにやっていた環境団体の活動家が、「NPOとか市民団体の社会モデルって、ビジネスとして成り立たないことが多いんだよな」と愚痴っていたのを思い出す。
 昨今はやりのソーシャルビジネス(社会問題の解決をビジネスの手法でははかる企業や事業)にもそういう評価はつきまとう。
 この藤村靖之の『月3万円のビジネス』(晶文社)は、こうしたソーシャルビジネスの低収益性を逆手にとる。だからいいんじゃねえか、グローバル企業のマネしてどうすんだ、ということだ。


「月3万円のビジネス」というのは、月に3万円しか稼げないビジネスのことです。いいことしかテーマにしません。このビジネスはたくさん有ります。なにしろ月3万円しか稼げないので、脂ぎったオジサンは見向きもしません。つまり、競争から、外れたところにあるビジネスです。だから、たくさん有るのです。(藤村前掲書p.7)

「月3万円ビジネス」は暇な時に空いた場所でやります。なにしろ「月3万円」ですから暇だらけです。上手に組み合わせればいくつものビジネスを併行できます。「副業」ならぬ「複業」というわけです。(同p.7-8)


 ここでいう3万円は、売上ではなく、売上から経費を引いた、いわゆる粗利である。「もうけ」だ。月に3万円のもうけしかなかったら、生活できないんだけど、それを複数やる。そして支出を極力おさえる。支出をおさえることもビジネスに数えてもいい。月10万円で生活できるような方策があれば、その方策は価値をうみだしているとみなせるから。


 逆手にとっているので、普通のビジネスならつきまとう弱点や不安が、率直・アッケラカンと認められてしまい、逆に強みとしてアピールされている
 「結局エコ派とかこだわり派のすげー『いい人』しか買わないよね。ビジネスとして小さすぎてダメだよね」という悪口雑言があるとしたら、「そうですね。そのとおりです。誰でもやって、誰でも買えるような競争ビジネスではあっという間に安売り競争ですから、そういうことは積極的にやらないんですよ。使ってみて、とか、話をきいて『それいいね』と思ってくれるごく少数の、顔が見える人だけにちょこっと売れるだけのビジネスなんです」「しかも品質は多少おおらかに考えてくれて、さらに、いっしょに作ったりして楽しんでもらえることが前提なんで、ホントにそれをわかってくれる人でいいんです」とたぶん藤村なら言うだろう。裏返されてしまうのだ。


 他にも、「無借金でつくる」「営業経費をかけない」「ネットでは売らない」「卸売をせず直接消費者と結びついたり、消費者が参加してつくる」などの原則をこの本は披露する。


 今挙げた「営業経費をかけない」は「価格を適切に設定する」とセットだ。
 競争ビジネスの商品は、原価や経費が先にあって、価格がだいたい決まる。商品の価値はそれを上回っていると「思い込ませる」ために、必死の営業努力をするので、営業経費はどんどんふくらんでいく……と本書は主張する。そうではなくて、先に価値を定める。マルクス経済学でいうところの「使用価値」、つまり効用である。商品の買い手がそれをどれくらい強く求めているかということだ。その後で、その人にとってどれくらいでそれをつくってほしいのかを聞いて、その範囲内で価格(マルクス経済学でいうところの「交換価値」「価値」)をおさえる工夫をする。使用価値を忘却する資本主義システムとは対抗的な商品生産だというわけである。

3万円ビジネスの具体例

 「いいから具体例はよ」とせっかちなお前らのために、本書で紹介されているビジネスをあげてみる。
 車のバッテリーをリフレッシュするビジネス。バッテリーがダメになると1万円かけて新しいものと交換するけども、これはリフレッシュできる。でもその機械はふつう500万円する。その機械を5万円でつくってしまう。そうして、5000円でひきうける。でもこの機械はすぐにはリフレッシュできない。1日がかりだ。そういう客を1カ月に6人とる。
 「そんな機械すぐに手に入らねーよ」とお前らはまた泣き言を言う。
 藤村が作ってるらしいんだけど、俺も詳細は知らない。
 じゃあ、買い物代行ビジネスはどうか。
 藤村は1回800円とか設定している。たけーよ。まあ、便利屋がそれくらいの価格設定らしい。でもセブンイレブンは今どき500円以上なら無料、それ未満でも120円で配達してくれるぞ。
http://matome.naver.jp/odai/2133638879714898101
 まあ、これも価格や条件設定次第だろ。月3万円にはならないな。月3000円くらいから始めるべきだろう。


 「なんだ、結局月3000円かよ」とあざけるお前らは、競争ビジネスの思考がしみついている、と藤村は言うかもしれない。しかし、藤村の本書における一貫した姿勢は、無理をしないことだ。そして、みんなで仲間をつくって楽しくやることなのだ。楽しくないと続かない。たとえば、買い物代行だって、最初は楽しいし役立っていることがわかるかもしれないけど、面倒くさくなったり、飽きてきたりするかもしれない。そういうときに、仲間といっしょにやったり、他のものと組み合わせたりして楽しめというのである。


 本書第3章では「地方で仕事を創るセオリー」が紹介されているが、なんと43もセオリーがあって、とても紹介しきれるものではない。一部を紹介する。

  • 生産者と販売者と消費者を有機化する
  • 小さく始める
  • 材料で稼ぐ
  • 売るよりも教える
  • 愉しさが主題


 売るよりも教える、というのはたとえばワークショップ自体がビジネスになる。材料をもちよって楽しくみんなでつくって、そのさいにちょっとだけ稼ぐ。ノウハウが広がるのは大いにけっこう。みたいなことである。

「結局競争ビジネスが稼いだ富のおこぼれの範囲内では?」

 こういうものって、結局、たとえば自動車産業が輸出で稼いだ富が前提にあって、それを小さくそのオコボレをもらってるだけじゃないのか、という批判がありうると思う。そして、地域通貨のようにお互いに財やサービスを交換しあっているだけ。本書を読んでぼくが感じたこともそれなのだ。

 
 藤村は別にそのことを答えてはいないけど、きっと藤村なら「そうかもしれんなあ」とあっさり認めるのではないか。メインストリーム(競争ビジネス)とは違うことを強調しているけども、それと闘争したり、競争したりすることはしない。むしろ大きな利権があるところには逆らわない。小さくすみっこの方で楽しく続けることを提唱する。
 原資はたしかに輸出大企業が稼いできた富なのかもしれない。それが都心に集まっている。そのオコボレが税金の再分配や工場移転などで地方に回ってくる。月3万円ビジネスはそれをつまむのである。つまんだうえで、財とサービスを地域内で交換しあう、つまり循環させる。支出をおさえて、非市場部分をふくらませているので、この循環が成り立ちうるように見える。

 ただ、藤村はくり返し言っているように、これを新しい社会モデルのような壮大な話にするつもりは毛頭ないようだ。そういう大言壮語は「オジサン」の仕事であって、小さいことでできるところだけを楽しんでやる、というスタンスからみれば、どうでもいいことなのだろう。

「生活の百姓」としての「複業」

原発に頼らない社会へ こうすれば電力問題も温暖化も解決できる 「月3万円ビジネス」は、社会モデルとしては、それが大きく育つかどうかはわからない。
 しかし、ラフスタイルは明らかに違う。
 社会活動家の田中優がとなえる、「生活の百姓」という考え方は、この藤村の「複業」の考え方と通じるものがある。

 ……今の生活では、多くの人が「会社にぶら下がって」生きている。これはイメージとは違って、とてもセキュリティーが低い暮らしだ。会社をクビになってしまったら、収入が途絶えるのだから自殺するしかなくなるからだ。それを逆にして、自分を中心に置いてみよう……。会社にも勤めていて収入を得ているけれど、同時に地域の農家のお手伝いをしていて、野菜がもらえる。これも資産だ。NPOに関わっていておカネが儲かるわけではないけれど、労力分は収入が得られる。それも資産だ。それ以上に、自分自身の能力を伸ばすことでそこから収入を得られるようにする。そのトータルで生活できるなら、どれか1つが失われても自殺に追い込まれることはない。
 これが望ましい暮らし方ではないだろうか。たとえば「自分はビデオが撮れる、写真が撮れる、漫画が描ける、イラストが描ける、文章が書ける、講演ができる、落語が話せる、語学ができる、スポーツの指導ができる、料理ができる」、なんでもいい。自分自身の能力を伸ばして、そこから得られる収入で生活ができるようになれば、それが最もセキュリティーが高い暮らしになる。ぼくはこれを「生活の百姓」と呼びたい。「百姓」というのは「百の仕事」という意味で、百姓はどれか1つが不作だったとしても、それ以外の産物で暮らせる仕組みだ。だからその生活はセキュリティーがきわめて高い。それと同じように、たくさんの収入源を持って、その中で生きて行けるようになれば、その人の生活はずっと安定するようになる。その「生活の百姓」をめざすのがいい。(田中優原発に頼らない社会へ 〜こうすれば電力問題も温暖化も解決できる〜』武田ランダムハウスジャパンp.155-156)

 ここにも書いてあるように、田中は、ぼくらがこれまで「資産」だと思ってきたものは、実はそれに縛られてその支払いに追われるだけの「負債」であったとして、車、別荘、ヨットなどをあげる。
 本当の資産とはそこから価値を生み出すものだから、人とのつながりなどをあげる。それが上述の引用のような指摘になる。さらに、「資産には収入を得られるもの以外に、『支出を減らせるもの』があるのだ」とする。例にあげるのは、太陽光発電を入れることで、電気料金を払わずに済むとか、長く使える住宅、という話である。


 田中は、こうしたことをまとめて次のようにのべる。


こうして自分の役割を見いだすことができたなら、人々は安心して暮らせるようになる。私たちに必要だったのは、自分の「役割」だ。人から必要とされ、人を必要とするとき、私たちは安心してそこにいることができる。おカネを払わなければ、安心してそこにいられない社会は不幸だ。誰もが「ここにいてほしい」と思われる社会、それが安心できる暮らしではないのか。(田中前掲書p.156-157)

 だけど、藤村は、これさえもおそらく大上段にかまえた物言いだというかもしれない。

僕たちの世代は過激でした。安保闘争、公害紛争、大学紛争……と、若い頃はデモの先頭で畑を振ってばかりいたような気がします。レーニン毛沢東の本を読んで、解ったような気分になって「正義」を振りかざしていました。どうやら自分に酔っていたようです。だから自分をヨレヨレになるまで追い込みます。大きなことばかり叫びます。……30年もこんな人生を送ってきて得られた教訓はたった一つ。「人は正しいことが好きなのではなくて、愉しいことが好きなのだ」ということでした。……主題は正しさではなくて愉しさ──この方が気が利いているような気がします。いいことを愉しくやる。誰でも参加できます。「大きいことを言うだけ」はオジサンに任せて、いいこと、小さいことをみんなで愉しくやる。小さければ小さいほどいい。その方が直ぐに取り掛かれるし、誰も反対しない。結果もでやすい。結果が出ると、広く伝わって多くの人が同調して社会の変容がもたらされるかもしれません(藤村前掲書p.187)


 ぼくは左翼として、全面同意するわけにはいかないけど、かなりの部分はあたっていると思わざるをえない。
 仲間と愉しくやれて、経済的にもそこに何がしかのものが発生する、というモデルこそ、持続可能であり、そうでない活動は、長い目でみて維持できないだろう。