「頭がいい」とはどういうことか──貧困、学歴、無料塾

 ネット上で生活保護をめぐる話から親と子の関係の話に話題がとび、さらに「頭のよさ」についての話題にもなっているので、ぼくもちょっと書いてみる。

DQNの教育問題について、またはわたしもDQNであるということ - はてなの鴨澤 DQNの教育問題について、またはわたしもDQNであるということ - はてなの鴨澤

環境という足枷 - G.A.W. 環境という足枷 - G.A.W.


 「頭がいい」とはどういうことか。
 これはちまたで「勉強できるやつが頭がいいとは限らない」という言葉で、「勉強ができる≠ 頭がいい」というふうに認識されている。ぼくもよく言われたよ。「あんた大学出てるのに、そんなこともできないの(知らないの)」。
 じゃあ「頭がいい」って一体なんなんだ、ということになる。

二つの「頭のよさ」──(1)「学者的に頭がいい」

 「頭がいい」には二つある。
 一つは「学者的に頭がいい」ということ。
 もう一つは「うちのオヤジ的に頭がいい」ということ。
 結論から先にいえば、前者は概念を体系化できる能力であり、後者は目的を実現できる能力である。


 パワーショベルを使って盛土をする工事をやることを例に考えてみる。
 まず、「学者的に頭がいい」というのはどういうことか。
 パワーショベルの説明書を読んでパワーショベルを動かせる、というのは、そこに書いてある面倒な説明を読みこなせるということ。抽象化された概念(といってもそんなにすごい抽象度のものではなく、ここで例にあげているのは低い次元の抽象化概念だけど)を操作できるということだ。*1


 さらに「学者的に頭がいい」という人は、そこにとどまらない。
 パワーショベルがどういう原理で動いて盛土をするのかということを、油圧とか電気系統とかそういう体系で説明できる。だから、いまやっている操作が、その体系のどこに位置するかを説明することができるし、故障をすればそれが体系のどこを傷つけているかを判断して直すことができる(または「直せませんね」と判断できる)のである。


 究極的には「学者的に頭がいい」とは、抽象的な概念操作を体系化できるということだ。単なる「物知り」とかいうのは、「学者的に頭がいい」ことの第一歩にすぎず、こういう人たちというのは抽象的な概念はいっぱい知っているけども、それを体系化できていない。相互に連関させて示すことができない。バラバラなのである。
 たとえば哲学のような膨大な抽象概念の操作に埋もれている分野をとりあげてみると、生半可な大学院生というのは、いっぱい「概念」は知っているし、その操作にも馴れている。しかし、哲学者と彼らを分つのは、それを独自に体系化することができないということだ。
 東浩紀のような文系学者は、思いもかけないいろんな概念を相互に結び付けて体系化できるので面白がられる。グーグルとルソーとか。まあ、それが現実を正しく体系化しているかどうかは別として面白いのである。

 こうしたことは、下記のエントリで基本的に言及されている。
環境という足枷 - G.A.W. 環境という足枷 - G.A.W.

二つの「頭のよさ」──(2)「うちのオヤジ的に頭がいい」

 次に、「うちのオヤジ的に頭がいい」というのはどういうことか。
 さっきのパワーショベルで盛土をやる例を考えてみると、説明書なんか見ない。人に聞いたり、自分でボタンをおしたりレバーをいじっているうちに、動かし方のコツをおぼえて、動かしてしまい、盛土をやっちゃう。経験で目的を達成してしまう人。
 さらにいえば、パワーショベルの操作なんかやっているのはまどろっこしいから、知り合い数十人に頼んで、1時間で盛土をやっちゃう。あるいは、別の格安の業者を知っているのでそいつに盛土をやらせちゃう。
 そういう具合に、あらゆる資源を動員して目的を達成してしまう人のことを「うちのオヤジ的に頭がいい」と定義する。
 もちろん、抽象概念操作がうまく、それを体系化できる人で目的実現能力の高い人もたくさんいる。「学者的な頭のよさ」と「うちのオヤジ的な頭のよさ」を兼ね備えているわけだ。両者は二者択一や二律背反ではない。ここでは、「学者的な頭のよさ」を持っていないのに、「頭がいい」と思われている人は何がすぐれているのかを考えているのである。


 概念操作や体系化なんかできなくても、知り合いとか経験とかお金とか、使える資源を総動員して目的をバンバン実現しちゃう人っているでしょ。辣腕の営業とかデキる中小企業の親父とか。こういう人は世間的によく「デキる」というふうに形容される人たちと形容される。
 学歴なんかなくても、デキる。
 「学校は出てないけど、頭がいいよね」っていわれることもしばしば。
 うちの親父は、高卒である。農業をしていたが、やがて園芸ものを扱う中小企業の社長になり、一山あてた人間だ。いわゆる「学のない人間」だが、「頭はいい」と目されている。


 ぼくの職場には高卒者が多いけども、目的実現能力はすごい。
 そして、そのうちの一人(高卒)は、大卒のぼくよりもはるかに法律や数字に強く、「学者的な頭のよさ」をもちかけているわけだけども、やはりそれを「体系」にするには弱さがある。その人なりの世界観としての体系はあるんだけども、他人に説明したりするさいには雑だし、細部は俗なもので埋められていたり、各分野はバラバラで相互に連関していない。
 まあ、だからといって、体系化できないことは、仕事には関係ない。
 押しが強いとか、人脈を利用できるとか、カネを集めることが得意とか、そういうことが上手いので、ぼくなどよりもはるかに目的実現・遂行能力は高いのである。

「学者的な頭のよさ」が求められてしまう

 「だったらどっちでもいいじゃない」というふうに思えるだろう。
 じっさい、これまではどっちでもよかったし、今でもどっちでもいいっていうところはある。
 概念操作や体系化はできるけど、資源動員できず目的を実現できない人というのは、けっこういる。パワーショベルで盛土の例をあげれば、ばっちり説明はできるけど、パワーショベルが思うように動かず、盛土がうまくできないような人のことだ。
 だからとにかく売上さえのばしてくれればいい、いいものさえ作ってくれればいい、というような場合は、後者の頭のよさが求められる。個人事業主とか、職人とか。


 しかし、会社組織のような場合は、上役になったとき、商品の説明とか組織調整とか人のコーチとかで前者の「学者的な頭のよさ」がほしい場合が多い(もっとも、それを後者の「うちのオヤジ的な頭のよさ」で乗り切っちゃう人も少なくないのだが)。
 さらに、最近は知識集約型の産業が多く、商品やサービスを抽象概念操作や体系説明できないと難しくなっている。

商店街はなぜ滅びるのか 社会・政治・経済史から探る再生の道 (光文社新書) 新雅史『商店街はなぜ滅びるのか』にあるように、かつては学歴社会→雇用者の道から漏れた人たちは、商店や個人事業主として旗揚げでき、そうした「お山の大将」たちがさらに低学歴の人たちを「おまえらしょうがねえなあ。俺が面倒みてやるよ」などといいながら吸収し、戦後社会の安定を日本的雇用とともに支えていた「両翼」の一つになっていた。それが機能しにくくなり、崩壊しているのである。
 だからこそ、学歴がある/ないが就職の指標に使われ(合理性があるかどうかは別の問題として)、その分岐が生涯賃金にとっては死活問題になったりすることがあるのだ。


現代の貧困―ワーキングプア/ホームレス/生活保護 (ちくま新書) 岩田正美は『現代の貧困』のなかで、中流層が一律に貧困化するのではなく、ある特定の「不利な人々」が貧困にとじこめられてしまうことが現代の貧困にとって考えねばならない問題なのだと説く。そして貧困から脱出できない要因の第一に「低学歴」をあげる。


 岩田は、ポスト工業社会だからこそ、労働者は高度な知識や技術を駆使する金融・情報などのサービス労働と、マクドナルド・プロレタリアートという熟練不要のサービス労働に二極化するという問題をあげた。これに終身雇用制や多様な技能を必要とした中小企業群の崩壊をくわえ、低学歴であることが、現代では貧困脱出において致命的な問題をひきおこすことを指摘する。


「これ以上伸びない『成熟学歴社会』に突入したからこそ、大学卒業と非大学卒業の学歴識別が、あたかも男女の区別のような社会的地位の格差を示す境界になってきており、この大卒/非大卒の境界線こそが社会の二極化を進めている」(岩田p.142〜143)


と計量社会学者・吉川徹の説を肯定的に紹介している。

http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/yamikin-ushijimakun.html

 もちろん、商店主や個人事業主で一旗あげるというのはいまでもあるわけだけど、古いタイプの商店や個人事業はいよいよ成功の余地が少なくなり、かわってIT起業とか、せいぜい「まとめサイトでもうける」みたいな「学者的な頭のよさ」、知識集約的なものが増えているので、低学歴・低学力にはますますキツい。


ドキュメント高校中退―いま、貧困がうまれる場所 (ちくま新書 809) だからぼくはこれまで下記のような書評も書いたりした。

青砥恭『ドキュメント高校中退』 青砥恭『ドキュメント高校中退』

小学校の低学年頃まではなんとか勉強できた。ところが四年生ぐらいになるとわからなくなった。小学校の教師たちがよく口にする「九、一〇歳の壁」という言葉がある。この言葉は、算数だと子どもが指を使ったり、おはじきの玉を使って、具体的に数えて「数」を現象的に認識する段階から、九、一〇歳になると、数や量が抽象的になり、概念的な思考が必要になる。学習を続けていくうえで、そこが大きな壁になるのである。(青砥恭『ドキュメント高校中退』p.80)

 それを簡単に乗り越える子どもとなかなかできない子どもがいる。家族に教えてくれる大人がいれば、まだ可能性があるが、そんなことを教えたりする環境がまったくない子どもだと、その壁は越えられない。ここに家庭資源の差が大きな格差として表出するのである。
 小・中学校で不登校になる子どもや高校を中退する生徒の中には、この「九、一〇歳の壁」を越えられないまま、小学校を「卒業」し、中学を「卒業」し、高校に入学する生徒が非常に多い。(同前)

 家庭資源の乏しさは、格差というものを絶対的に放逐できない以上、仕方がないといえば仕方がない。しかし、どの家庭に生まれるかでその資源を利用できないということは、生まれてくる子どもの責任ではない。
 しかもそれが人生を送るうえで決定的な問題であるなら、それを本人の問題、個別家庭の問題といって涼しい顔をしていることは決してできないだろう。家庭資源の差によって貧困に陥り、抜けだせないのであれば、それは畢竟社会の問題なのである。

http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/koukouchutai.html

 左翼運動としては低学力を脱するためのとりくみ──「無料塾」みたいなとりくみが大事さを増すと思う。

 かつて学生のなかにはセツルメント運動があったのだが、現在この流れがあるのかどうなのかぼくにはわからない。少なくとも見えない。ぼくがかかわっている左翼系学生たちは、ほとんどそうした運動をしていない。
 ぼくが育休をとっていたとき、左翼運動をしている同世代の子育て層の女性から、「宿題サークルみたいなものをつくりたいんですが、先生役をやってもらえませんか?」と提案されたことがある。
 ぼくは自分の意欲もあったのでぜひ引き受けようと思ったのだが、そのあとほどなく育休が終わり、その女性も忙しくなってしまったので、話は立ち消えになってしまった。
 しかし、このような子どもたちの「勉強を教える無償の組織」ということは学生などの力を借りてできるのではないかと思う。とくに「九・一〇歳の壁」対策を念頭においてやることは意義が大きいのではないだろうか。

http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/koukouchutai.html

主張/「無料塾」/「学び」と「成長」の場広げよう 主張/「無料塾」/「学び」と「成長」の場広げよう

*1:あらゆる概念はそもそも経験を抽象したものであるから「抽象的な概念」というのは本当はヘンなのだが、ここではわかりやすく言っておく。