神田英雄「幼児期の文字と数」


 5歳の娘を通わせている保育園では、英語とかはもちろん、「あいうえお」などは教えていない。しかし、生活発表会でしりとりをしたりする。このあたりのところをどう考えたらいいのか、よくわからなかった。


 この保育園に来ている父母のかなりの部分は、早期教育(早教育ともいう)に非常に批判的な印象をもっている。だから、わざわざこの園に来ている、という人もいる。ぼくらも、自分たちの娘だから、ほっといても漫画や本にはなじむだろうけど、側転とかあやとりとかそういうことはやらんだろうから、やってくれる保育園がいいな、というくらいの思いで入れた。
 ただ、早期教育をなぜイカンとしているのか、あまり考えたことはなかったのである。


 当たり前だけど、文字や数字が読めれば、世界が広がる。
 楽しんで覚えるなら、そういうものに出会ってもいいではないか、という当然の思いがある。


 保育士の話を断片的に聞いていたときは、この園では「そういうものは、小学生になって授業でふれて、それから楽しむための時間は無限にあるではないか。文字や数字のような抽象概念の世界に入る前に、具体の経験世界の十分に味わってほしい。そうすることで抽象的な概念操作もしっかりできるようになる」みたいなことを考えているのかな、とぼんやりと思っていた。確認したことはなかったけど。


 んで、ついこの前、保護者懇談会があって、保育雑誌「ちいさいなかま」2008年9月号の神田英雄の小論「幼児期の文字と数」を読み合わせることになり、その中身が短いながら、腑に落ちるものだった。ぼく自身のなかにあった混乱をよく整理してくれていると思った。
http://www.hoiku-zenhoren.org/publishing/data1/080728-144314.html


 本質的には、「教科教育と領域別保育の違い」を理解するということなのだろうと思った。引用しよう。


 小学校以上の学校教育は、「教科教育」を中心として成り立っています。時間割を作って、特定の時間には特定の教育内容を教えるという教育です。そして、どのような内容を、どのような順序で、どういう教え方で教えるのか、子どもはどこでどのような勘違いをしがちなのか、こういう教師の側の研究が積み重ねられています。
 他方、保育園や幼稚園は、「領域」による総合的保育が原則です。特定の時間に特定の教育内容を教えるのではなく、遊びや生活を通して子どもたちがさまざまな経験をし、そのなかで人間関係や環境などの「領域」について関心や知識が自然に身についていくように、というのが保育の原則です。ですから、生活環境のなかに文字がちりばめられていたとしても、どのような文字といつ出あうのかは偶然的な要素に左右されます。(同p.35〜36、強調は引用者)


 この違いをふまえていないと、どのような混乱が起きるのかを、神田は端的に次のように記している。


 このような教育方法の違いを理解していないと、小学校段階で教えるべき文字や数を幼稚園や保育園におろしてくればよい、という単純な考え方に陥ります。教育の系統性を無視して幼児期におろした場合、子どもたちは混乱したり理解できないだけではなく、苦手意識をもってしまうという落とし穴が待ちかまえています。(同p.36、強調は引用者、以下同じ)


 神田は、苦手意識をもってしまうつらさを、自分が出された「おやゆびひめ」の宿題にかかわるトラウマで例示し、大人からみるとどうということはないはずの概念のなかに、いかに混乱や理解困難が潜んでいるかを、数字におけるケタや「を・お」「つ・っ」などを例に説明する。
 つまり地雷だらけ。地雷原である。ふむたびにバーンと炸裂して苦手意識をつくりだしてしまう危険がある。ということだろう。


 しかし、一歩さがって(いや、ふみこんで?)考えてみると、教科教育はなぜ幼児では難しいのか、という問題になる。
 神田は、その理由として、「子どもの学習方法の発達的特徴」をあげる。
 小学生は自分の能力を自覚的にコントロールできるけど、幼児はできない子が多い、(できる子もいるけど)ということなのだ。
 どういうことかというと、たとえば父親の会社の電話番号を3215だと覚えさせるとき、小学生は何度も唱えたり、クセをつくったりするなど意識的な努力をする。ところが、幼児はそれに欠けるのだ。


 自分の能力を自覚的にコントロールしようとする力は早い子では四歳ころから出現しますが、個人差が大きく、しかもすべての場面でできるわけではありません。自分の能力をコントロールするためには自分の行為を認識の対象にしなければなりませんが、それが十分ではないわけです。(同p.37)


 この認識の不十分さの例として、しりとりをやるときに、最後の文字をひろっていくというルールに自覚がないと、「りんご」といっても「ごりら」とはならず、「り」のつく言葉をさがしてしまうケースなどを紹介している。


 他方、幼児期は楽しい活動のなかに学習課題がちりばめられていたときには、能力をフルに発揮します。オニごっこで「つかまえられたときは『3215』とおまじないを言えば逃げられるんだよ」というルールで遊んだとき、幼児はすばらしい記憶力を発揮します。
 学齢期以降は自覚的に自分の能力を使いこなす力が育ち、その発達に依拠して教科教育が成立しますが、幼児期は楽しいときに自分の能力最大限に発揮できるので、遊びのなかでの教育が適切なのだ、ということになります。(同p.38)

 以上の違いをふまえることが、この小論の本質的部分だろう。
 神田はそこから論をすすめて、じゃあ、保育園で文字や数にふれさせていはいかんのか、と問いをたて、んなわけねーよ、という。


文字や数は、今日の日本では子どもを取り巻く環境の重要な一部を成しており、しかも、きわめて魅力的な環境刺激です。子どもの興味や関心に依拠した幼児教育を行おうとするならば、文字や数を無視することは、逆に不自然でもあります。(同p.39〜40)

 しかし、さっき言った「違い」はふまえなければならない。そこに矛盾が生じる。

しかし、読み書きについての系統的な教育方法は幼児教育にはありませんし、先に述べた学習様式の違いも幼児期と学童期との間には横たわっています。(同p.40)


 このアポリアを解くために、神田は、子どもがもつ文字や数へのあこがれをふくらませたらどうだろうか、という課題設定をする。
 うーん、このあたりは、集団保育としてはたしかに難しいところではあるわな。神田はその具体的実践として3つの保育園での実践例を評価するのであるが、ちょっとよくわからない。


 いや、いまいったとおり、いろんな発達の特徴をもった子どもがいて教科教育の成立が難しい集団保育であるからこそ、「小学校入学前に文字や数に統一してふれることは難しい」という困難が生じるのであって、個人ではそうではないだろう。


 さっきの結論を裏返すと、個人の発達度合いによって、能力コントロールができそうなら、教科教育をおろしてもさしつかえない、という結論になるはずである。
 そういうふうに言うと難しく聞こえるけども、その子が楽しんで覚えそうなのであれば、「あいうえお かきくけこ…」とやっても一向にかまわないということだ。それでひらがなやカタカナを覚えてしまい、さらにそれを日常でも使うなら、何の問題もない。そして、苦痛になりそうなら、すぐにやめてしまっていい、ということである。


 たとえば、うちの娘は、前にもいったとおり、ひらがなとカタカナは覚えてしまった。だから、読みがなのついているマンガは読めてしまう。マンガのせいで、簡単な漢字も覚えてしまった。
 そのさいに、フロ場で「あいうえお」の表とか買ってきて貼った。覚えさせたりしたことはないけど、それをみて娘はクイズをしたがったし、ぼくも問題を出したりした(例「み」はどこにある? 「う」のつくものは?)。
 しかし、書き文字は、まだまだである。『よつばと!』のよつばをマネして字を書いているけども、鏡文字がいくつも混入しているし、書き順はものすごい。下から上へ書いていく。それ鏡文字だよ、といったら、泣いて怒ったことがあるので、ああ、うるさいと思うんだなとこっちが得心して、「これであってる?」と聞かれなければ鏡文字については何も言わないことにした。学校に行ったら正しく書くってことになるよ、今は好きに書きな、とだけ伝えてある。


 他方で、数はかなりあやしい。数えろといったら100まで言えるが、「13」を「さんじゅういち」と読むこともある。神田論文で指摘された、桁の概念がよくわかっていないのだろうと思う。3+2とか8−4とか、一桁内での加減はスッとできるが、桁が入ると混乱するのはその証拠だ。それはある日突然わかる日がくるか、小学校で先生が教えてくれるだろうと思い、特にどうもしてない。
 新聞を毎朝とってきたら1円やるよ、30円たまったら好きな本(つうかマンガ)を何でも買っていいわい、としているので、当面それをやるくらいだ。