もうすぐ雑煮の季節だ。
雑煮といえば、モチがどういう状態なのかが気になる。
というのも、ぼくは雑煮に入っているモチがグダグダに煮崩れてもうスープと一体化しているかどうかというくらいのやつが大好きなのだ。
そんなぼくが永田カビの本書『これはゆがんだ食レポです』を読む。
その中に
麺が極限に汁を吸い切って ぶよぶよにふくらみ ふやけ 汁がほぼ無くなった状態こそ 私のカップ麺におけるベストな状態である(もちろん冷めている)
他にも基本的に水分を吸った炭水化物が好きだ
などという記述があり、「サンドイッチのレタスやトマトの汁を吸ってぶよぶよになった食パン」への愛などが語られている。
これは職場に昔いた人で、カップ麺を食べていて電話の応対をして戻ってきたら麺が器からはみ出すほどに膨張していて「汁、誰か飲んだー!?」と騒いだという「伝説」が残されているのだが、もちろんそれはめちゃくちゃな振る舞いとしての話なのであって、決して「自分の好み」の話ではなかった。ところが、永田にあっては、この「ぶよぶよの炭水化物」が彼女の食品愛なのである。
ただ全く理解できないかといえば、冒頭のようなモチの嗜好がぼくにもあるので、決してわからないわけではない。煮溶けてしまったもの、境界がわからなくなりつつあるものの美味しさというものは確かに存在する。
本書は実は、過食嘔吐をする永田の「ゆがんだ食レポ」である。しかし、過食嘔吐の具体的記述は最初にはほとんどない。
初めは、アルコール依存になった時の食生活の様子が書かれているのだが、食事と一体にひたすらハイボールを飲み続ける有様は、はっきり言って「あ、美味しそう」と思ってしまう描写なのである。
特に朝起きて「磯丸水産」に行き、まずハイボールと赤海老の串焼きを注文している様子などは、あ、ちょっとやってみたいと思える。
ぼくはハイボールはあまり飲まないのだが、永田はひらすらハイボールで、それが青さ入り卵焼きのようなものと一緒に飲んでいるので、とにかくぼくには美味しそうに見えた。
次のぶよぶよの炭水化物は上述の通りであるが、これは自分の「煮溶けた雑煮」のことを思い出して、たぶん似たような話なんだろうなと想像する。
そして、その次は「弁当用冷食1パック一気食い」。
いつも娘の弁当に入れているのでお世話になっている。春巻きなどはうまそうなんだが、それ以外は、もちろん美味しいとは思うが、「一気食いしたい」というような衝動に駆られたことはない。いや、普通のつまみでええやん…としか思えないので、このあたりから、永田と読者たるぼくの間に次第に距離ができ始める。
そして、無限に実家のカレーと実家のスパゲティを食べ続ける話。
ここからももう理解不能な領域に入る。
だんだん薄気味悪くなってくる。
そして最後の方は、過食嘔吐しやすい食べ物&料理の探索。もうここは本当に「みてはいけないものをみる」というホラー的な興味で読む。
前にも書いたかもしれないけど、「嘔吐」という行為は、ぼくによって本当に気力も体力も奪われるもので、下痢などと比べると格段に嫌悪感のハードルが上がる(汚い話ですいません)。
そんなものをするために目を輝かせながら食事を描くこと。なんという歪みだろうと思わざるを得ない。
こんな作品を世に出してはいけないのではないか、という読後感をもって終わろうとした最後の章で、永田の心情が吐露される。
ズバリ 食べ物をおしいく食べられていて
そして吐けていればそれでOK!!
と思っている
ちなみにこれは昔お世話になった摂食障害専門のカウンセラーさんも同じようなことをおっしゃっていた
「苦しまずに吐けていればそれで良いんですよ」
つまり症状自体の苦しさだけでなく、自分を責める苦しみ、他からの理解の得られにくさを抱える病気なので、幸福感が得られない。しかし、どんな状況であれともかく「食べ物が美味しい」と思えるのであればそれは一歩前進なのではないかという理解なのだ。ハームリダクション的なものだろうか。
もちろん、「摂食障害専門のカウンセラー」の意見として書かれているからと言って、これは摂食障害への付き合いとして普遍的に正解かどうかはわからない。一応本書にはエクスキューズが入れてあるのだが、それがあればいいんだろうか、とも思ってしまう。
要は「だって永田カビの本に書いてあったもん!」ということで言い訳にしないでほしい、自己責任でこの本を読んでほしい、ということなのだろう。
そういうわけで非常に危険な本であるが、そういう危険な本として「魅力」を感じずにはいられないものであった。
(本書は双葉社様からご恵投いただきました)