岡本健太郎『山賊ダイアリー』

山賊ダイアリー(1) (イブニングKC) 週刊プレイボーイの2012年1月23日号に岡村健太郎山賊ダイアリー』の書評を書いたのでみんなで読むこと。……って、あいかわらず、連絡が遅くてすいません。



 石原慎太郎がカラス対策としてカラスのミートパイを食べていたのをテレビで見たことがある。
http://www.sensenfukoku.net/policy/karasu/index.html


 カラスの被害が大きくなったので、殺して肉を大々的に売ったらいいんじゃないの、という石原の発想から出たもので、「唐揚げ」「黒コショウ炒め」「ミートパイ」の3種のカラス料理をテレビカメラの前で食べていた。


 しかし、たいていの人はカラスやハトといった身近な鳥を食べようなどとは思ったこともないだろう。
 岡村健太郎山賊ダイアリー』は東京を離れ、岡山の山奥に戻ってきた作者が銃の許可や狩猟の許可をもらって猟師生活を始める話で、最初に仕留めた獲物がハトなのである。また、近所の農家に頼まれて畑を荒らすカラスを撃つ。


 都会の感覚だとカラスだのハトだのアホみたいに撃てるように思うが、田舎の鳥獣は警戒心が強く40m先の雑木林に身を隠していた作者はカラスに見つけられ逃げられてしまうのだ。ようやく撃っても「半矢」といって弾に当たっているのに逃げられる。
 長い時間試行錯誤を繰り返すうちにやっと仕留めた一羽。頭を射抜いたのに、落ちた後も羽がバタバタ動いていたのは反射作用に他ならなかった。
 そこから作者は解体、料理までをどれも丹念に描く。たとえばハトの羽根をむしる作業はなでるだけでも落ちるほど簡単なのに、カラスの羽根むしりはひどく苦労する。やがてタレをつけて焼き上がる。ビールといっしょに食べるカラスの焼き鳥は実にウマそうにみえる。
 実際に味の方は……本作を読んでのお楽しみだ。


 魚の切り身にしろ肉のミンチにしろ、食卓でぼくらの前に出てくるころにはそれまでのプロセスはまったく目に見えない。それが、こんなふうに、生きて動いているときから料理になって出てくるまでこまかい作業の描写を重ねられると、やはり今までと違った感覚にとらわれることになる。
 とりわけ食べ物とは夢にも思わなかった身近な生き物が「食べ物」として立ち現れるとき、軽い目まいのようなものを覚えるのはぼくだけだろうか。価値観をぐらりと揺すられてしまうからだろう。その船酔いにも似た感覚こそがこの作品の心地よさでもある。この感覚はマンガエッセイストの川原和子も、本作を語りながら、

1巻の最後に、作者が禁猟期に近所の川で、天然うなぎを釣って料理して食べる話がある。脂っぽい養殖ものとはまったく違う魚本来の味わい、という天然ウナギはすごく美味しそうなのだが、でもよくよく考えてみれば、私自身の「ウナギはOK」でも「ヘビは食べられない、食べたくない」という「感覚」には、実は合理的な説明はないのかもしれない、と思い至った(ヘビとうなぎ、見た目は似てるし)。
 つまりそれは「幻想」というか、自分が生きてきた範囲で目にした文化の中での「これは食べられる」「これは食べられない」という刷り込みであって、根拠は実はあんまり明確ではないのかもしれない、と思ったのだ。
 そう考えてくると、ふと、自分の中の「これは食べられる」ラインがゆらいできそうな気になってくる。

http://www.nttpub.co.jp/webnttpub/contents/comic/088.html


という形で書いている。
 ここにこの作品の妙味の一つがあることは間違いない。
 ただ、ぼくは、この作品の面白味を別のところに求めているので、そのあたりが気になる人は「プレイボーイ」掲載誌を読んでみてほしいが、この時期に1月23日号を手に入れることは絶望的であることはここでハッキリと述べておこうではないか。


狩猟とはスポーツか?

 ところで、猟師、というか猟というものは、ただの娯楽、あるいは射撃のようなスポーツなのだろうか。
 酪農学園大学(北海道)の西興部村フィールドワークで使われている教科書には、「狩猟者の責務」として、次のような一文が書き込まれている。

多くの現代人にとって、狩猟はアウトドアースポーツのひとつ、究極の趣味といえる。それは、私たちが太古の記憶を思い出すための行為なのかもしれない。獲物の肉や皮を有効に利用することは、山菜採りや釣りと同様、現代人が生態系の一員として、自然の恵みを頂く素晴らしい文化なのである。(強調は引用者)

http://www.hokkaido-biosphere.jp/wp-content/uploads/2010/01/sekimu.pdf


 本作について、川原が次のようにのべていることは、この側面を言い当てている。

たしかに、「獲物を捕る」ところから「料理して食べる」までのサイクルを体験することは、「命をいただく」ことをリアルに体感することに他ならない体験だと思う。……猟師である作者は、自分の手で殺した獲物は回収する義務がある、と、池に浮かぶしとめたカモを、11月の気温3度のなか、裸で池に入って(読んでるだけで凍えそうなくらい寒そうだ)もちかえる。食べるための肉といえばスーパーか精肉店か、とにかく「店で買ってくる」都市生活者にとっては、つい薄れがちな「命をいただく」感覚。逆接的だが、動物を直接狩る猟師の作者は、それを強烈に感じ、大切にしているように思える。(強調は引用者)

http://www.nttpub.co.jp/webnttpub/contents/comic/088.html


 しかし、スポーツ・文化としての狩猟というのは、意地の悪い見方をすれば、「個人の楽しみのために動物を殺す」存在というふうにも見える。本書冒頭で、岡本は自分が猟師になりたいという希望を明かした時に、彼女から「最悪」「野蛮」と罵られ、「山賊」と吐き捨てられているが、この側面を大げさにとらえたら、そういうことになるだろう。

狩猟の社会的責務

 だが、実は、現代の狩猟が第一に掲げるものは、こうしたスポーツの側面ではない。大日本猟友会のテキストである『狩猟読本』には次のように掲げられている。

狩猟は、決して自然環境の保全に反する行為ではない。むしろ、自然資源の管理と持続的な利用を図るといった意味では、林業や漁業などと同じように、自然環境を保護管理するための行為そのものであるということができる。そして、野生鳥獣の保護管理の担い手の一員である狩猟者は、単なる野生鳥獣の捕獲者ではなく、いわゆる「森の番人」的な存在であることを自他ともに再認識する必要がある。(強調は引用者)

http://www.moriniikou.jp/index.php?itemid=80&catid=34&blogid=17


 東京猟友会の事業計画を読んでも、

狩猟者が果たすべき社会的責務は、単なる鳥獣の捕獲者ではなく、鳥獣の保護管理の担い手、いわゆる「森の番人」であることを自覚し、行動する必要があり、それに相応しい社会的責務を果たしてこそ、狩猟に対する国民の理解を深め、人と鳥獣との共生を推進させる鍵となることを認識する必要がある。

http://www.h2.dion.ne.jp/~toryo/jigyoukeikaku.pdf


と、やはりこの『狩猟読本』と同趣旨のことがのべられたうえで、

近年全国各地において、鹿・猪など野生鳥獣による農林業被害が拡大しており、農業被害では全国的には申請ベースで200億円と公表されているが、実際には300億円とも400億円ともいわれている。

http://www.h2.dion.ne.jp/~toryo/jigyoukeikaku.pdf

とど野生鳥獣による農林業被害に話が及んでいる。

鳥獣被害防止における狩猟者の果たす役割は、ますます重要となっており、有害鳥獣に強い捕獲圧力をかけ、個体調整の担い手とならなければならない。農林業の人たちが、安心して生活する状況を作るためにも「特定鳥獣保護管理計画」に基く猟友会の個体調整活動は、大きな社会的貢献となる。(強調は引用者)

http://www.h2.dion.ne.jp/~toryo/jigyoukeikaku.pdf

 つまり、猟師たちは自らの社会的意義・責務を鳥獣被害防止=自然と農林業の保護だと大きく掲げているのである。9兆円の農業生産額のうち、毎年200億円くらいが鳥獣被害を受け、横ばいで推移してきたのだが、最近急増しているのである。

 『山賊ダイアリー』で作者・岡本が銃で撃つ対象も、こうした農作物を荒らす鳥獣に関係していることがほとんどである。


 かわったところでいえば、ヌートリアだろう。
 南米原産の大型のネズミで、軍隊用の毛皮を作る目的で大量に飼育されたのだが、終戦で需要がなくなり、野に放たれ、野生化してふえてしまったものだ。とくに岡山県ヌートリアの「本場」(?)らしく、岡本によれば身近な動物で、岡山県民でない人はヌートリアをみると騒ぐのだが、岡山県民は「どうということない」顔をするらしい。


 2012年2月17日付の日本農業新聞は「甘くみるなヌートリア 生育域・被害広がる」と題した1面記事を載せている。「繁殖力が強く、専門家は『全国に生息が広がるのは時間の問題』と指摘。捕獲対策に本腰を入れなければ被害が爆発的に増えることが懸念されるとして警鐘を鳴らす」とある。この記事によると、情報量やデータが少ないことと、定着初期はヌートリアと認識されにくいので、対策が遅れる、自治体も甘く見ている、ということらしい。


 生命現象の生々しさを肌で感じられるスポーツであることと、個体調整によって自然や農作物を守るという社会的意義を狩猟は持っているわけだが、このマンガ『山賊ダイアリー』にはこの二つの側面がからみ合いながら見事に登場する。現代狩猟の本質的な部分が描かれているということになる。