山田ズーニー『働くためのコミュニケーション力』

理想的な風景としての「擦り合わせ」

 保育園のパパ友は、よく転職している。
 仕事が長続きしないというのではなく、ヘッドハンティングに近い状態で「辣腕営業」としてときどき会社を移っているのである。
 そのとき、転職先と労働条件をかなりすりあわせている。
 「労働条件」といえば、給料や労働時間みたいなことがすぐに頭に思い浮かぶ。そういうことはもちろんなのだが、それだけではない。仕事の内容、やってほしいこと、職場の人間関係、派閥、改革で苦労していること……そういうことまでを社長が呑みにつれていってくれて、話しあうという。


 いわば、雇う側がやってほしいことと、雇われる側がうまくマッチしているかどうかを細かくすり合わせているのである。食い違いがあればそこを埋めるか、そのあたりを覚悟のうえで雇う(雇われる)か、どちらかになる。


 地方の老舗の会社でこのままではゆっくり先細りになるだけだから、大きく変えたいのだが、古い幹部たちはなかなかそういう気持ちになってくれない。本社のある田舎まで来てくれないか。いやそれはちょっと。じゃあ、福岡でもいいから、まずは1年間こういうことをやってくれ。……


 ここには「雇われる」ということの、本来的な風景、原初の姿がある。労働契約を結ぶって本当はこういう感じのことなんだろうと思う。*1


 他方で、就職活動をしている真っ最中の学生とも話す。
 今からエントリーシートを書くんですよと青息吐息で話す3年生のFさん。


 一括式の就職活動の悲劇は、こういう「擦り合わせ」という雇い雇われる行為の本来の姿が消えてなくなり、短時間のタテマエ合戦を繰り広げているという点にある。しかもそれは、非正規雇用のまん延と正規採用枠の大幅抑制という圧力のもとで、圧倒的に企業側(大企業側)有利で展開されているのだが。

労働条件とかきちんと話さないから学生がやめていくんだろ

 「労働条件とかを面接で聞いてはいけない」という指導がある。
給料・休日 聞くな/労働局セミナー 面接指導/16府県で違法テキスト 給料・休日 聞くな/労働局セミナー 面接指導/16府県で違法テキスト

各地の労働局が民間企業に委託した就職支援セミナーでの、面接指導で「間違っても、『給料』、『残業・休日』について聞いてはならない」などと労働者の権利を侵害する記述をしたテキストが使われていたケースが、十六府県におよぶことが二十六日までにわかりました。

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2007-06-27/2007062701_01_0.html


 あえて採用側の気持ちに立ってみると「ろくすっぽ仕事のことなんか知りもせず、給料はいくらか、残業はあるのかだけ聞いてくる。こういうやつは仕事もせずに定時に帰って給料が安いとかグチるだけだ」というふうに見えるのだろう。事実、そういう学生もいるのだろう。


 ただ、他方でさっきのパパ友の話を聞いていると、彼は新人の採用にもかかわっているのだが、「すぐやめてしまうのがものすごい不安」だという。また「つらいからすぐにやめるという行為自体が、自分たちとメンタリティが違って理解できない」ともいう。要は、「会社の厳しさにふれたり、困難に会ったとき、こいつは堪えていけるんだろうか」というのが採用側の最大の不安ということになる。
 そういうときに、「なまじの才能ではなく、とにかく元気のあるやつ」というような基準で採用しがちで、一見線の細そうな人間は不幸にもはじかれてしまう。そのために、学生側がアホみたいなカラ元気を出したりするケースもある。

 
 どっちみちそういうタテマエの騙し合いはもういいんだ。


 本当は「そこで労働組合ですよ」式な話をしたいんだが、ちょっとおいとく。


 学生側に本来は求めなきゃいけないのは、労働条件、たとえば労働時間の長さなんかをある程度知ってもらったうえで、そいつはどうしたいのかを話してもらうことではないのか。
 「とにかく定時に帰ります」と杓子定規に言うのか、「臨機応変にやります」と都合のいいことを言うのか、「うーん、難しいですね。どうしましょうか」とひたすら悩むのか、「私の父もけっこう家に帰ってこない人間でした。他方で、私の先輩は早く家に帰るという子煩悩な人です。その両者を比べてみると……」みたいな話をし出すのか。

 ぼくがもし採用側なら、「そういう事態について、一通り考え抜いたふしがある」「考え抜いたことが、硬直しておらず、柔軟に話しあえる感じがする」ということがわかれば、合格点を出せる。
 同様に「希望の仕事をまずはさせてもらえない場合はどうするか」とか「いやな上司にあたったらどうするか」とかそういう、勤めるうえで常識的にぶつかるであろう困難にどれくらい考え抜いたか、その答えがどれだけ柔軟かを見るのが大事だと思う。


 いまの採用側の悩みが「とにかくやめてしまうような人は困る」という点にあるとすると、仕事や業界などへの半端な知識などどうでもよくて、むしろそのあたりをきちんと考えているかどうかじゃないのかとぼくは思う。

個別業界の知識なんかどうでもよくて普遍的な労働の問題を知るべき

 人材コンサルタント常見陽平は新聞に出る時によく「社会人と話をしよう」ということを勧めている。『親は知らない就活の鉄則』(朝日新書)でも、「ぜひ、子どもに知人の社会人を紹介しよう」「子どもは意外に『親に仕事観を語ってほしい』と思っている」などの節をもうけている。
 沢田健太『大学キャリアセンターのぶっちゃけ話』(ソフトバンク新書)でも、「もし私が就職活動生の親であったら」という節で、「子供を会社の飲み会に連れて行きます」「シラフで仕事の詳細を説明します」という提案をしている。


 こういうものは一方的なくだらない説教に終わると失敗になると思うのだが、仕事と家庭の問題とか、希望の仕事でない場合とか、仕事量が莫大なときとか、いやな上司にあたった場合どうするのか、などなど、そういう普遍的な困難をどうしてきたか、ということを知る上ではたしかにベストである。そこで聞いたナマの言葉は「考え抜いた」ことを示すうえで説得的な材料になる。


 そこまで考え抜く姿勢があれば、逆に労働条件を聞くことは、当たり前のことだともいえる。にもかかわらず、労働条件を聞いてはいかん、などというアホな指導をしていたら、「擦り合わせ」をしないんですかと。早く辞めさせたいんですかと。どんなブラック企業ですかと。


 新卒およびそれを採用する側にとって、理想的な就職・面接活動というのは、どんなものか。パパ友の転職活動とちがって、労働経験がほとんどないわけだから、「君にはこういう仕事をまかせたい」なんていうものはない。
 その業界についての最小限度のイメージが必要……みたいに思えるが、ぼくは不要だと思う。どうせそんなしょうもない予備知識はあっさり現場で塗り替えられるんだから。
 それよりは、働くことについての普遍的な問題をどう考えているかを聞く方がいい。さっき言ったように、仕事と家庭の問題とか、希望の仕事でない場合とか、仕事量が莫大なときとか、いやな上司にあたった場合どうするのか、とかそういうことだ。
 それに対して、学生の側も労働条件について、遠慮なく質問した方がいい。「ひとつの部署は何人くらいで働いているんですか?」「単身赴任とかけっこうあるんですか?」とかも。
 そういうことをタブーにしているから、入ってすぐやめるんだろ。


 そして、再度正論を書けば、こういうことは本来個人の力ではどうしようもない部分がある。そこで労働組合ですよ、と言いたいのだが、これはまた別の機会にゆずるしかない。今はこの重要な要素を織り込まないで話を進める。

「やめてしまいたくなる若者」への採用側からの意見

半年で職場の星になる! 働くためのコミュニケーション力 (ちくま文庫) んで、ようやく今回のエントリーの表題である、山田ズーニー『働くためのコミュニケーション力』(ちくま文庫)。


 この本にはサブタイトルがついていて「半年で職場の星になる!」。
 んー、「自分では優秀だと思っているけど、職場に不満があって辞めてしまいたくなっている」という人にむけて書かれている気がする。「自分では優秀だと思っているけど」というのは、たとえば「有名大学は出てプライドはあるけども」みたいに置き換えてもいいんじゃないか。
 その意味でこの本は、実は職場で採用において一番悩まれていること――若い人がすぐ辞めてしまうという問題の、採用側、すなわち会社側からの説得の言葉である。


 新人が「星」になるとまで言わないけども、職場になじんでそれなりのポジションを占めるライフハックが様々書かれている。
 その詳細はいちいち紹介しないけど、ポイントになったのは、「上司」のとらえ方だった。

 新人よ、上司を説得するな!
 上司を認めろ!


 なぜなら、そこは「社会」とつながっている。〔……〕まだ一度も働いたことのない人間が、ダイレクトに自分と社会をつなぎ、利益を生み続けて生きていくなど至難のわざだ。そこで、利益を生み続けるという至難のわざを、チームでやっていこうという方法がある。会社はすでに、社会とヘソの緒をつなぎ、大海原を自由に航海している船だ。この船に、乗組員として手をあげることで、あなたは間接的に社会に出て行くことができる。〔……〕厳密に言えば、あなたは社会とつながっていない。船はすでにしっかりと社会とヘソの緒を結んでいる。だが、あなたは船と、まだヘソの緒を結んでいない。乗組員として信頼され、船とヘソの緒を結ぶことで、はじめてあなたは社会とつんがる。どんなに理不尽に見える上司だろうが、どんなに会社の方針に不満があろうが、本当の意味で社会に出る道はひとつ、「上司から信頼を得る」。ここからはじめるしかない。〔……〕「そんなことなら自分は組織に向かない。個人での社会デビューを目指せばよかった」という人もいるとおもう。〔……〕フリーランスからはじめた同級生〔……〕は、事務所を探したり、人材を募集したり、そえれこそ、仕事場の机ひとつ、椅子ひとつ買うところから、それらの資金をつくるところからスタートしている。〔……〕あなたはその作業をショートカットした。個人には個人の、組織人には組織人の、よさとつらさがあり、どちらがいいというものではないが、「上司との間に信頼の橋を架ける」、これは組織を選んだ新人にとって、個人で会社をつくろうとした人が「資金を調達する」と同様に避けて通れない通過点だ。(山田p.38-41)

「就職」ではなく、「就社」を選んだ以上、自分と社会はダイレクトにつながっていない。「会社という船」を経由して、はじめて自分と社会はつながっていく。まずは、船を目的地にいかせることだ。その支援のあり方に、自分の個性も創造性も求められている。これは、「上司という人間を支援する」ということではない。ましてや、上司という人間にこびる・へつらうということでは決してないのだ。〔……〕上司の気に入るようにやるとか、言われたことを言われたようにやることしかできない。それ以上が期待されている。あくまで、支援するのは、上司ではなく、「上司の目指すゴール」だ。(山田p.183-184)

 上司が社会につながる狭い、しかし唯一の窓であるという把握。
 その窓を活かせというわけである。
 一見すると「上司に隷従しろ」的な「ブラック企業のすすめ」にみえるが、そうではない。
 ある業界に入るさいに、自分なりの社会貢献の意義を見出すかもしれないが、それは具体的には目の前の上司、上司のやろうとしている任務の支援として存在しているし、組織人としての任務も自由も、そして創造性もこの理解によって生じるということを述べている。


 山田は「新人は値踏みされている」という。だから、いくら会社を変えたい、上司を変えたいといって不平を言っても通らないのだとという。
 では何をすればよいかといえば、まずは半年間、上司の目指すゴールを、よりよく実現するために、黙って働くべきだ、と提案するのである。


 これは採用側からのそれなりの真実が含まれている。とぼくは思う。学生側はこういうものを読んでおいて一通り考え抜いておくべきではないか。上司を回路にしながら、自己実現と労働を一体にする現実的な道が述べられているからだ。


とはいえここにはやはり労働条件の問題は一言もないよな

 しかし、かといって労働時間が長過ぎて体をこわしたり、給料が安すぎるという問題などは、「だまって」いられるものではない。「だまって」おれば死ぬか辞めるかせざるをえなくなるだろう。


 そこで本来的には、くどいようだが、労働組合しかない。
 もし話が通じる職場であれば、個人的に「擦り合わせ」を、就職してからも続けていく必要がある。しかし、それはやっぱり限界がある。ある、企業文化で残業や安月給、育休ナシを続けている場合、個人の力でそれをひっくり返すには相当な力が要るからだ。


 若い人はなぜすぐ辞めてしまうのか、という問いには「大企業をのぞけばたいていの会社には労働組合がないからだ」「ある職場でも、まともに機能していないケースが少なくないからだ」というシンプルな答がなぜ返ってこないのか。不思議な気がする。

*1:もちろんマルクス的にいえば「雇用とはそんな牧歌的なもんじゃないだろ」という批判がありうる。「本来的」というのは、多くの人が思い描く意味で「本来的」ということ。