民医連新聞で『MASTERキートン』の書評を書きました


 民医連新聞の2011年7月4日付に「マンガ評論家紙屋さんの『この一冊を読んでみた』」第4回に浦沢直樹(作画)・勝鹿北星(原案)『MASTERキートン』の書評を書きました。


 このコーナーは、「新旧」の漫画を紹介していいことになっているので、『MASTERキートン』を書庫から引っ張り出して久々に読んでいるうちに書評が書きたくなった、というのが最初の動機です。ところが書いてからいろいろ調べてみると、長らく手に入らない状態だったのに8月に完全版が出るということになっていて、Twitterでも入稿したちょうどその日にその話題がつぶやかれていてちょっとびっくりしました。



 読み返してみて、改めていい作品だと思います。一話完結方式なので、本来短い分量で「人生」を語らせたりすると説教臭くなるものですが、そうならないところがすごい。


 学生運動にハマっていた主人公が、学生結婚をしたのち、男の子を男手一人で育てるようになる話があります。主人公は「とり返しのつかない人生なんてない」と自分の子に教えたことがあるのですが、女子高に勤め、パッとしない日常に馴れていくうちに、主人公は日常に流された退嬰的な人間にかわっていきます。


 主人公は、学校をさぼって美しい光景をみていたわが子を呼びつけ、その「怠慢」を叱りつけます。そのとき「人生にはとり返しのつかないことがある」と叱るのです。


 その父親たる主人公の変化には、父親が現実に屈服するようになった変節が背景にあることを、息子は無意識に感じ取っていたのでしょう。かつて父親からもらった水晶を粉々に割ってしまいます。


 つれあいにこの話をしたとき「えーっ人生には『とり返しのつかない過ち』って絶対あるよーっ」と身も蓋もない現実主義的感覚を即答で返してきやがったことがありますが、多くの人がそう説教したくなるところをあえて乗り越える回答を示しています。それが痛快だし、深い。


 「とり返しのつかない人生なんてない」なんて、あなた、いえますか? いや、失敗した人を前に「気休め」で言う、というようなことはあるのかもしれませんが、本当に人生の信念として言えるのかどうかってことです。たとえば、殺人を犯してもなお、「とり返しのつかない人生なんてない」という言葉があるのかどうか。
 それでもなおかつ、その言葉が口にできるのなら、そこには悪しき現実主義を越えようとする覚悟を感じることができます。ぼくのようなマルクス主義もどきが口にするような理想主義とは違った、人生の態度としての現実主義批判の圧倒的な深みがそこにあることになります。



 この時期の浦沢作品は本当にいい。こういう形で「再刊」されるのはまことに歓迎。