磯谷友紀『本屋の森のあかり』

 書店労働(という言い方があるのかどうか知らないけど)というもののイメージを鮮明にし、ある意味で塗り替えたのが、久世番子暴れん坊本屋さん』(新書館)だった。
 書店とは実にマッチョで苛酷な労働である(という一面がある)ということを世に知らしめた。「はてな匿名ダイアリー」における、

〈試用期間が終わったら素直にやめて本が大好きなので地元の本屋でバイトしながらフリーター、なんて妄想を今日帰りの電車で延々としていました。本屋もPC作業ないし肉体労働あるんですけどね…。本屋勤務って昔から憧れてたので週4くらいでのんびり暮らす妄想。〉

新社会人の憂鬱
http://anond.hatelabo.jp/20090403013528

 

というタイプのつぶやきがソーシャルブックマークのコメントで書店労働の現実を知らぬ戯れ言とさんざんに叩かれたものだが(この匿名ダイアリーを書いた人は一応「肉体労働もある」と断っているし、後で素直に謝っている)、しかしそうはいっても書店労働には本好きが憧れるような「本に囲まれる暮らし(仕事)」としてのロマンチックな側面がある。いまぼくが「マッチョ」だと言った『暴れん坊本屋さん』でさえ、そのマッチョさに乗せながら書店労働というもののロマンチシズムを描いている。たとえば、朝一番で自分独りだけが本に囲まれているという時間の幸福、というような描写だ。

 つまり、書店労働には、それにあこがれるような「本好きのロマンチシズム」を満たす側面と、実際には日常の労働の大半を占めるような苛酷な重労働という二つの側面があるといってよい。

 本好きの人間にとっては、前者の側面は書店勤務でなければ味わえぬものではなく、たとえば家が埋もれるほどに本に囲まれているような生活だとか、学校や市町村の図書館に入り浸る生活とか、そういうところでももちろん味わえる。
 

 図書館という場所は静謐な場所である。
 ぼくも中高生時代は市や学校の図書館にいて本を読んでいることが好きな人間だった。とくに市の図書館はうす暗く、静かで、日曜日にそこで好きな本をみつけて棚の前で読みふけっていると、あっというまに夕方になってしまった記憶がある。
 喧噪の外界から隔絶され、まるで本の世界そのもののような異世界として図書館という空間はある。それが「本好きのロマンチシズム」の一つの記憶の源泉ではないだろうか。

 『本屋の森のあかり』は、須王堂という全国展開をしている書店で働く女性・高野(こうの)あかりが主人公である。愛知県の岡崎の支店から東京の本店に異動になったところから話が始まっている。ぼくの地元と同じなので何となく親近感を覚える。

 

 先にあげた書店労働の2側面のうち、本作は明らかに「本好きのロマンチシズム」の側面を描いている。1話ごとのタイトルが「マザーグース」「いばら姫」「ロビンソン・クルーソー」「デイヴィッド・コパフィールド」…とあるように、有名な本にひっかけたエピソードが展開されている。

 たとえば4巻の冒頭に「不思議の国のアリス」「鏡の国のアリス」というエピソードがある。
 小学6年生のまいこは、いつもあかりのいる児童書のコーナーにいる少女だが、立ち読みをしている友だちに本のオチを教えたり、「それはつまんないよ」みたいなこまっしゃくれた評価を加えたり、ときには「読書感想文の代行」を依頼しないかと言ってみたりする。児童書にたいして軽侮の態度をとっているのだ。
 他の子どもに迷惑であるだけでなく、まいこの、児童書にたいするその斜に構えた姿勢を、書店員たちは不快に、あるいは心配しながら見ている。
 あかりが声をかけるが、逆に自分の好きな本をあててみろとクイズを出され、あかりは見当もつかず、やりこめられてしまう。
 副店長でもあり、あかりの片思いの人である副店長・寺山杜三は、それを難なく解いたうえに、ある日、まいこに探し物をあてるクイズを出す。
 寺山は、まいこの一番好きな本が『アリス』だと見抜いていた。寺山はそのうえで、「アリス」や作者のルイス・キャロルにかかわる大人向けの本の山をかきわけさせて、「大人の本としてのアリス」に触れさせようとしたのである。
 まいこは見事にその術中にハマる。
 『ルイス・キャロル 遊びの宇宙』『ルイス・キャロル解読 不思議の国の数学ばなし』『ふしぎの国の空想動物』『赤の女王と進化』などといったタイトルの本をひっくり返し、その中にある豊富で楽しい図版を眺めていくうちに、まいこは「アリス」の世界にトリップしてしまい、時間を忘れてしまうのだ。そうして最後に手にとったのはやはり大人むけのコーナーにあった、しかし子どもに贈るために書かれた『地下の国のアリス』だった。

 クイズを終えて寺山のところにもどってきたまいこは、久しぶりに自分でこの本を買って読みたいと感じる。

 寺山はあかりに、まいこに大人の本を探させた理由を、児童書についている「対象年齢 小学5・6年〜」というラベルを指摘しながら次のように説明する。

〈彼女の精神年齢が大人の示す「小学5・6年生〜」という本の世界からずれてるんじゃないかと思ったからです〉

 あかりが返す。

〈確かに——こういうのって売り手側とか親側にとっては親切だけど 子どもからしてみると なんとも押しつけがましいのかも〉
〈そうなんです お母さんが年相応の本を読むようにと言ったことは 純粋に『面白い本』を探そうとするまいこさんの足枷になってしまったんですね〉
〈じゃあ「つまんない」って毒吐きながらも毎日ここへ来てたのは—— 昔みたいに面白いと思える本を見つけたかったからなのか…… でも児童書売り場では見つけられなくて——……〉
〈——なので 今日はちょっと専門書売り場などにも行ってもらいました〉

 ぼくは小さい頃、児童書をほとんど読んでいない。読んでいない身の上なので本当はまいこのような偉そうなことは言えないはずなのだが、学校の図書館においてあった「対象年齢〜」というタイプの物語系の本をいくつか手にとってみたものの、面白いとほとんど思えなかった記憶がある。

 児童向けの歴史書(『太平記』とか『平家物語』『太閤記』『信長記』のようなもの)と落語の本を一通り読んでしまうと、大人の歴史解説書などに手を出したものの、歯が立たなかった。だからそのあたりで相当ウロウロしていた。
 課題図書とか推薦図書といったようなものがいかに自分にはつまらなそうなものにしか思えなかったか、という気持ちが「読書感想文を一律に課すのをやめよ」という一文を書かせたのかもしれない。

 ところが今、親になってみると娘の絵本を選ぼうとしてついこの「対象年齢」に頼ってしまうのだ。

 この『本屋の森のあかり』のエピソードは、本好きにとってそんな狭間で揺れていたこと、そこから脱却するときの本に出会えたときの大いなる喜び——ぼくの場合は星新一筒井康隆だった——が実によく描けている。ここでは喧噪に満ちているはずの書店という空間はいつの間にか、本の世界に浸る静謐な時空に変換されている。
 本に浸る時間というのはこういう空気なんだという感覚が作品から溢れているのである。

 「本好きのロマンチシズム」ということを描く漫画は他にもある。だが、この漫画についていうと、こうした空気が、書店労働の後者の部分——マッチョな日常的書店実務を描くさいにも影響を与えている。これは本作に独特のものである。

 さっきぼくは、この作品が「本好きのロマンチシズム」の側面を強く描いているとのべたが、扱われているテーマの分類だけからいうと実はそうでもない。フェアの売上をどうのばすか、新しい支店の企画をどう成功させるか、シフトの穴をどう埋めるか、といった書店実務がけっこう描かれているのだ。

 だけど、それを「マッチョ」に描くということになれば、断然久世番子のような絵柄がふさわしい。明確な線で、柔軟かつ弾力に富んだ久世のキャラクターたちには「動き」がある。
 『暴れん坊本屋さん』に出てくる書店員たちはいつも忙しそうに動き回っているし、動いていなければ死んでしまうかのようだ。マグロかよ。忙殺され疲労困憊する書店労働を描くのにこれほど適した描線はない。

 

 

 対する『本屋の森のあかり』の、たよりなさそうな、はかなげな線はどうだろう。弱々しげな線、円環に結ばれない口、繰り返し差し挟まれる絵本のような背景、動きの乏しい体躯の描写——それらがいくら書店実務というリアルなモチーフを扱おうとしてもそこから日常的なリアリズムの空気を次々に剥奪していく。
 そして、そのことがこの作品に不思議な雰囲気を生み出しているのだ。本好きが本の世界に浸るかのような、一種の非現実的な空気のなかで、書店労働を眺め、書店労働のなかに潜んでいるさまざまな気持ちの機微をじっくりととらえることができるようになっている。これは「明るく騒々しい」感じで労働現場や労働の「やりがい」を描くようなタイプの女性漫画にはできないことである。

 

図1:磯谷『本屋の森のあかり講談社1巻p.4

図2:同前3巻p.17

同前3巻p.71

図4:同前3巻p.17

 

図5:雁須磨子『どいつもこいつも』2巻、白泉社ワイド版p.222

図6:雁須磨子『連続恋愛劇場』松文館p.146


 もともと作者・磯谷は、3巻の巻末の読み切り短編「まりさんと魔法の靴」のような絵柄だった。OLむけの女性漫画などでよく見るような絵柄(図1参照)で、こういう絵柄でOLの労働を描くことはよくいえば普遍的、悪くいえばありがちな感じであった(ちなみに「まりさんと魔法の靴」は出来の悪い短編ではなく、靴職人の草食系メガネ男子に足を揉まれ主人公が恍惚となるシーンがエロくて好きである)。
 本作『本屋の森のあかり』でも1巻のころはこの絵柄で、最初に読んだときは、「あー、書店での書店員がんばってますモノ+メガネ男子との恋愛ね」みたいな「ありがち感」をぼくはどうしても否定できなかった。
 ところが、2巻になって絵柄が徐々に変化し、2巻末くらいにはすっかりトーンを変わってしまったのだ(図2)。

 細長い、卵形で明瞭な口と唇をもった主人公あかりのキャラクターは、「ドジだけど明るくてポジティブ」というところから出発していた。それで黒ベタの髪と白で表現された髪の2名の美形男子に囲まれるという構図を持ち出されたら、少女漫画をそのまま繰り上げたようなよくある「がんばり屋OL漫画」なのであった。

 しかし、前述の「弱々しげな線、円環に結ばれない口、繰り返し差し挟まれる絵本のような背景、動きの乏しい体躯の描写」という要素が前面に出た絵柄に変わっていく中で、そもそもあかりの顔は丸顔に近い感じになり(図2)、彼女のキャラクターも、ひどくおっとりして、ぼんやりした、静かなキャラクターに変わってきたのだ。
 非常にとぼけた、スローな空気が醸し出されるようになってきた。
 加えて、フキダシの欄外に書かれる手書きのセリフが、その味をいっそう濃くしている(図3)。

 こういう比較をされて本人は本意が不本意か知らねーが、雁須磨子によく似ている。細くあいまいな線、手書きセリフを多用するその手法によって、雁の繰り出すとぼけた味わいによく似たものが生み出されているのだ。分断され、テンポのおそいセリフや、口を「v」字にしながらたたずんでいる姿なども雁にそっくりだ(図4〜6参照)。

 『本屋の森のあかり』3巻に出てくる、ゆうひ出版の大山さんは、雁の『どいつもこいつも』に出てくる保険員のおばちゃん(初音みのり)を彷彿とさせる(図4・5参照)。

 むろんパクリだとか、こんなの他の漫画でもよくあるとか、そういう話じゃなくて、ぼくの中で単に雁須磨子が思い出されたにすぎない。そしてそうであるがゆえに、この本はたとえ書店の苛酷な日常実務を描いている場面であったとしても、どこかしら非現実的なのんびりしたムードがぬぐえない。だが、それがイイのである。

 最初の頃の絵柄のような「がんばり・はりきり・ドジOLモノ」を描くのにもってこいといったようなものではなく、仕事のなかにある気持ちのこまごまとした機微を描こうとするなら、絵柄はこれくらい落ち着いた方がいいのだ。

 たとえば4巻の「トカトントン」というエピソード。出版社から研修としてきている「真面目」な男性が、「真面目」という評価をされるたびに、心の中に淋しい風がふいて、気持ちがくじけてしまうという話だ。
 「トカトントン」は漫画評論家である伊藤剛のブログのタイトルにも使われているが、太宰治の作品で、ある作家が郵便局員から手紙をもらい、何かをやろうとするとどこからともなく「トカトントン」という音が聞こえてきて何もかもやる気が失せてしまうという相談をうける小説が題材になっている。

 研修に来ている男性が一つひとつの言葉にゆっくりと傷つく様子や、読者から見て好感のもてるような真面目さを描くには、本作のようなスローテンポがどうしても必要だと思えてくる。

 
 描かれる恋愛も、最初の頃は「頑張りドジッ子女子店員が、本にしか興味のない美形メガネ男子副店長の心を徐々に解きほぐすっていうアレ」みたいな感じだった。
 しかし、あかりの形象がひどくのんびりした、そしてやはりドジではあるが、どことなく知的な感じのするキャラクターに変わっていった時、ぼくはなぜかあかりという女性キャラクターに自分と同じ、しかし自分を美化した部分をもつ印象をうけ、同化してしまったのである。

 (そして以下ちょっとネタバレするが)

 副店長の寺山に告白して「フラれる」ときも、まったくその心を溶かすことができないという展開に萌えた。あかりに自分を同化させて読んでいたぼくは、フラれたあかりの淋しさが胸に迫ってきた。そのエピソードのラストで何となく泣いているのではないかと思わせるコマ以外は、あかりは少しうつろな笑顔を終始みせている。気持ちがくじけて軽く虚脱しているあかりの表情を描くのに、この雁須磨子的なぼんやりさは実に適している。
 そのうつろさが、ありがちでない物語をぼくらに与えてくれている。

 ただ、「いま面白い漫画がありますか?」と聞かれた時にこの作品をあげるかどうかは自分でもよくわからない。ぼくは明らかにこの本を読んでいる間居心地がよかったのだけれども、それが他人も同じかどうかわからないからだ。甚だしく読者を選ぶのではないか。そもそもこの本を紹介するときに、「えーっと本屋で働いている主人公が有名な本のテーマとからめて恋愛や労働をする話で…」と言ってもちっとも面白くなさそうに聞こえてしまう。

 むしろこういう場で一定の分量をとって感想を伝えるのにふさわしい作品だと思った。