アパートの家賃値上げに応じないと立ち退きか

 アパートの家賃値上げに応じないと立ち退きか――こういうタイトルの電話相談と回答が今日(2018年10月10日)付の「しんぶん赤旗」に出ていた。

 

 前、この話は聞いたことがある気がする。

 だけど、忘れていた。

 実は、今借りている家の老朽部分をまとめて改善を要求しようと思っているんだが、もし「じゃあ家賃を値上げする。嫌なら出ていけ」みたいに言われたらどうするんだっけ? と疑問に思って調べた記憶があるのだが、忘れてしまった。

 あと、1年前に契約の更新があって、その時も「家賃を上げたい」と言われたらどうするのかと思って調べたような気がした。でも忘れてしまった。

 今日の電話相談は、忘備録的に大事だと思うので、書いておく。

 アパートに35年すみ、大家からの書状には次の更新時に20%引き上げると書いてある。パートで暮らしていて払えないのでどうすればいいかという相談だ。

 回答しているのは平井哲史弁護士。

居住用に建物を貸している場合、建物の賃貸借契約の更新を拒絶することは、正当な事由がなければできないのです。(裁判例や旧借家法1条の2、現在の借地借家法28条)……借り手側に家賃の滞納などがなければ更新は認められます。

 相談者は「次の更新のときはどうすればいいか」と尋ねる。

 従来の契約条件で更新したいと要求できます。増額後の家賃を示されても「納得できないので払わない」と言ってください。

 もし家賃を上げないなら契約更新をしないと言われても、法定更新といって当然更新するので、これまで通り家賃は納めてください。……家賃の受け取りを拒まれた場合は法務局に家賃を供託する必要があります。必ず供託してください。 

 

 ただ、更新時でない場合の「正当な事由」というものがどうなるのかは議論があるでしょう。そこもこの相談は回答していますが、要するに、大家側から「近隣の相場と比べて低すぎる」などの証拠を示して裁判所などに調停を申し立て、協議しないといけないようなのだ。

 つまり家賃値上げは一方的なものではないのである。

MAAM、サンドロビッチ・ヤバ子『ダンベル何キロ持てる?』


 昨年の10月に筋トレを始めて、約1年になる。
 この記事を書いてから10ヶ月だ。
http://d.hatena.ne.jp/kamiyakenkyujo/20171218/1513606602


 インフルエンザの時以外、週に1日だけ休みをおいて、ほとんど毎日欠かさずやっている。もちろん、その時書いたように、毎日トレーニングする部位を変えている。内容は色々工夫して筋肉が慣れてしまわないようにした。NHKの例の動画も参考にしてな!
 そして、トレーニングの後に、プロテインを飲むようにした。
 自分の実感としては見た目に筋肉がついた。変化がわかるのは自分だけだが……。つれあいや家族は「……そう……?」みたいなうっすい反応


 この前保育園の卒園した同じクラスの人たちと旅行に行ったときに、一部のパパたちと筋トレ話でむちゃむちゃ盛り上がり、彼らの「いやー紙屋さん、体つきが違ってたと思いましたよ、ホント」という、こちらの押し売り質問に対する「お……おう」的な当惑返答にも最大限に気をよくして、日夜トレーニングを続けている。


 「自重筋トレはすごくいいですよね」とホメてもらいつつも、「週に一度ジムに行くとさらにいいですよ」ともっとホメて伸ばすかのごとくの他のパパたちの反応。


 筋トレにハマる人がいるというのもわかる気がした。
 確かに「筋肉は裏切らない」ように思えてくる。鍛えただけ体が対応力を高めたり、見た目に筋肉がついたりすると、嬉しくなるのだ。



 さて、そこで本作である。
 筋トレをする女子高生の話で、「筋トレについての知識披露を、女子高生のビジュアルでやったらいいんだろ?」というエロ目線で発想されたようにも思うのだが、個人的にはそこには全然反応しない。
 ガチに筋トレの知識を得るつもりで読んでいる。
 例えば、2巻に出てくるレッグカール。
 脚の太ももの裏側の筋肉をどうしたら鍛えられるかと思っていて、前の記事の比嘉一雄の本では「スティッフド・デッドリフト」を勧めていてそれをずっとやっているのだが、プッシュアップをやった後のようなじんじんくる感じや「追い込まれた感じ」がないので、いまひとつここが鍛えられている実感が弱いのである。
 そこにレッグカールである。ハムストリングスを鍛えるにはこれがいいと書かれている。

 「き……きっつ…! 見た目より全然きついわ…」という登場人物の一人(立花里美)のキツそうな描写に、逆に「おお、これは効きそうじゃん」という垂涎を覚えてしまう。


 3巻で出てくる「猫背」も気になっていた。
 結局猫背を治す特効薬的なもの(どこかの筋肉を鍛えれば自然に治る……的な)はなく、

猫背を解決するには、日常から胸、肩甲骨のストレッチを行い、筋肉を動かすように心がけましょう。単純ですが、生活習慣を改善することが猫背解消の近道です。

とあり、逆にこれに大いに納得した。というのも、結局胸を張ったり、肩甲骨を寄せたりするしかないのかなと思っていたからである。


 4巻の「わき腹」を鍛えるサイドベントは、器具がなくてもできる上に、これまで鍛えていたのとは違う部位の筋肉だし、買い物袋とかを負荷にしてできそうなので、参考になる。
 ここでも登場人物の一人、愛菜るみかが、

こ、これ…! 見た目より全然キツいかも…!

と汗ぐっしょりに言うのが、たまらない。あー、効きそう、とか思ってしまう。



 てな具合に、日常に実際に筋トレで使う知識として本書を読んでいる。

筋トレを続けるコツ

 まだ1年しか経っていないのに、「筋トレを続けるコツ」などとドヤ顔で言うのもアレだが、言う。言わせてもらう(ドヤ顔)。
 「疲れた時はプッシュアップ1回でもいい」。
 これだね。
 これはスティーヴン・ガイズ『小さな習慣』(ダイヤモンド社)に学んだものである。つうかパクリである。

 ガイズが言うには、習慣にしてしまうには、モチベーションに頼っていてはダメで、とにかくやり始めてしまうことが大事だということ。小さな習慣にしてしまえば、少しはやるようになるからである。「プッシュアップ1回だけ」でもいいのであれば疲れ切ったときでもプッシュアップしようと思う。そしてやり始めしまったら「……まあ、1セット(15回)やっとくか」と思い、1セットやってしまえば3セット行ってしまうのである。
 でも、あくまでそれは副産物であって、決して欲張ってはいけない。
 「1回でもいいんだ」ということを自分に言い聞かせて習慣化させるのである。

ロバート・ライト『なぜ今、仏教なのか 科学の知見で解く精神世界』


 仏教は、湧き上がる不安や欲望――つまり「煩悩」をどうコントロールするのかという無神論の精神管理技術じゃねーのか、ということをブログでもくり返し書いてきたんだけど、
http://d.hatena.ne.jp/kamiyakenkyujo/20151025/1445776901
http://d.hatena.ne.jp/kamiyakenkyujo/20180224/1519454846
http://d.hatena.ne.jp/kamiyakenkyujo/20180403/1522728098

それは別にぼくオリジナルの大発見とかいうわけではなく、すでに初期仏教の核心だけを取り出して現代化した「西洋仏教」ではフツーの解釈(無神論であり瞑想を中心とした宗教)なのだとこの本を読んで今さらに知った。


なぜ今、仏教なのか――瞑想・マインドフルネス・悟りの科学 本書(熊谷淳子訳、早川書房)はこの立場をさらに徹底している。
 ダーウィンの自然選択とか、心理学上の成果をちりばめながら、欲望や不安を解釈し、その管理技術として、仏教の世界観と瞑想技術はまあ役に立つよ、ということを書いている。
 しかも本人は「俺は悟りを開いたぜ」「瞑想の天才だよ」的なドヤ顔トークがまるでなく、むしろダメ瞑想参加者、悟りとは程遠い人間として語っていて、逆にぼくのような「無宗教現代人」が読んだ時に宗教書としての説得力は格段に大きくなっている

日経の書評を読んで読もうと思った

 もともとこの本を読もうと思ったきっかけは日経(2018年9月1日付)の書評だった。本書の核心部分がとても短い言葉ですぐれた要約がなされているので紹介する。

 私たちの心はいくつもの「モジュール」でできており、それらが常時主導権を奪い合っている。また何かを知覚するときに善しあしの価値判断を抜きにすることはできない。人間の心はそういう挙動をするようにできたシステムであり、それを制御する方法が瞑想だという。

https://www.nikkei.com/article/DGKKZO34832190R30C18A8MY7000/

 もう少し詳し目の要約は本書の巻末につけられた「仏教の真実一覧」とした12のテーゼでわかる。


 著者ロバート・ライトによれば、認知科学や心理学の成果では、ぼくらが思っているような「自分」を統御する単一の主体(ライトのふざけた言葉でいえば「CEO自己」)というものはない。心の中にある「モジュール」(構成単位、部品)の争いでしかない、という。
 この発想が仏教の「無我」に違いことはすぐわかるだろう。


 人間が今のような文明社会を築くはるか前に、自然選択によって生まれたもので、例えば砂糖がけのドーナツを物欲しそうに次々求めてしまうような甘いもの好きはそうした方がカロリーを集め生きるために有利だったからで、しかも「あま〜い、おいし〜」という満足感の報酬が長く続かないのは、いつまでも満足してもらっていては生存戦略上困るからだという。「ああ、もっと甘いものはないかな」といつも不満足に甘いものを求めていないと生き延びられない。
 しかし、現代の文明社会ではこれは余計なものになってしまっている。
 過剰なカロリーを取り、健康を損ねるからだ。
 だから、人は何か欲望したこと、理想としていたことが満ち足り続きはしないという。いつも不満であり、飽き足りないと。


 では、こういう欲望を「自己」が統御できるかというと、そんなことはないとライトはいう。モジュール同士の争いであり、闘争して勝利して報酬をえたモジュールは力をつけるので、次もまた勝ちやすい。
 瞑想の一つのタイプは、このモジュールの動きを否定しようとするのではなく、モジュールが動き出す様をじっくりと眺めてみてはどうかというのである。自分の中で欲望が駆動してくるのを、あたかも他人のように眺め続けるのだ。
 自分では制御できないモジュールがあって、それは自分じゃねーんだよ、ということを受け入れて眺め続けるしかない。
 しかしそうやってまるで他人事のように自分の中の衝動を眺め続けた結果、ひょっとしたら、その衝動を自分ではない他人のように眺められることもある……かもしれない……とライトは気弱にいう。自分の小さな成功体験をそこで控えめにいう程度なのだ。いつも成功するわけではない。


 ぼくは仏教を精神のコントロールだと言ってきたが、むしろ仏教は、感覚や意識のありようがコントロールできない部分があることを受け入れることから始めると言える。

ブッダが言っていたのは、基本的に「いいかい、あなたのなかに自分の思いどおりにならない部分があって、それがあなたを苦しめるのなら、悪いことはいわないから、それを自分と同一化するのをやめなさい」ということだ。(p.94)

自己がコントロールをにぎっていないこと、そしてある意味で自己が存在しないかもしれないことを受け入れれば、自己(あるいは自己のようなもの)にコントロールをにぎらせることができるかもしれないという矛盾だ。(p.118)

 自分の感覚に固執しない、つまり感覚が絶対固定のものだと見なさないこと自体が、感覚を「空」(くう)だととらえることになる。
 しかもそれだけではない。
 対象となっている客観物でさえ、ぼくらは固定した本質を持っていると思いがちだが、そもそも客観物自体(そしてそれを眺めてている「ぼく」=自我さえも)が相互に依存するものから成り立っているのであり、決して不変固定なものではない。
 だとすれば、客観物や「私」に備わっていると考えていたものに執着したり、固執したりすることもおかしなことではないのか――これが仏教でいう「縁起」(相互依存)であり「無色」(弁証法的運動)である。まさにヘーゲル

怒りや欲望をなくすのではなく明晰に見えるようになる

 では、瞑想によって、欲望、渇望、不安、怒りなどに打ち勝って、平安無事な境地――涅槃(ニルヴァーナ)にいけるのか?
 ライトは、いやそんなことはないなあ、少なくとも自分はね、とまたしても控えめにいう。

私は悟りを求めてはいるけれど、悟りを境地ととらえるかわりに、過程ととらえている。……ゲームの目的は、少し遠い未来に真の解放や真の悟りにいたることではなく、それほど遠くない未来に少しだけ解放され、少しだけ悟ることだ。(p.304)

 悟りは境地ではなくプロセスだという。
 欲望や渇望、不安を否定せず、明晰に見る。
 見えるようになることでその付き合い方が生まれるということだ。それは感情がなくなるというのではない。
 このことは、ライトの次の文章でぼくには腑に落ちた。

一つ例をあげると、私は過去二〇年間のアメリカによる軍事介入のほとんどがあやまちであり、脅威に対する過剰反応とそれによる深刻化の実例だと考えているし、軍事介入を強く支持してきた人たちには腹が立ってしかたがない。そして、ある程度はこのまま腹を立てていたいと思う。瞑想の道を突き進んでニルヴァーナに近づきすぎ、闘争心がなくなってしまうのはごめんだ。完全な悟りにいたることが、どんな種類の価値判断をするのもやめ、改革を要求するのもやめることなら、私を抜きにしてもらいたい。しかしそのような地点までたどりつく危険性は、少なくとも私にとっては間近に差し迫ったことではない。とにかく、設問は、そうした人たちとのイデオロギー闘争を賢明かつ誠実に展開できる地点まで私がたどりつけるかどうかだ。それはつまり、私の自然な傾向より客観的に、ある意味でより寛大にその人たちを見ることができるかどうかだ。(p.310-311)

 これは本当にすばらしい態度だ。
 理想と言ってもいい。


 仏教がもしも欲望や煩悩を「なくして」しまうものであるなら、そう、まさに政治の世界の闘争心を奪ってしまうものなら、ぼくもご遠慮こうむりたい。しかしそうではない、とライトはここで明確に述べている。
 相手への怒りで前が見えなくなる、公正な判断ができなくなるほどの曇りようをするのではなく、明晰にそれを見ること、その感情と受け入れること、そして逆に自分に不利な材料への不安を受け入れることでもある、とライトはいう。
 ネットでそれぞれの陣営が怒りのままに我を忘れて相手を罵り合うという問題への処方箋そのものである。なんという現代性。
 もちろん、それだけでなく、例えば子どもを失った悲しみとか、激しい性欲とか、そういう問題にも応用が可能なものだろう。

 本書の特徴をまとめた日経の次の部分にも圧倒的に賛同する。

神秘的な仏教の概念を、普通の人に理解できる言葉で説明したところが本書の手柄だろう。/認知科学や心理学の知見に基づく記述とユーモアあふれる語り口が、本書を一味違った仏教の入門書にしている。

https://www.nikkei.com/article/DGKKZO34832190R30C18A8MY7000/

ぼくの田舎で信仰されている世俗仏教との差

 さてここまで仏教の現代性を見てきた上で、いまぼくの田舎の実家で進行しているような「仏教」のありようとの差について最後に考えて見る。


 もともと、仏教は(自分あるいは肉親の)「死」の恐ろしさ、悲しみ、苦しみとどう向き合うかということから生まれたものであり、葬式・法事は肉親の死への悲しみに対する一つの向き合い方だった。直後の悲しみに付き合いながら、次第に忘れていくような儀式装置だ。
 実家の父親や母親たち(そして多くの仏教の世俗信仰者)は、それを素朴な祖先信仰と結びつけている。死者はあの世に行って、お盆に帰ってくる。そのような連綿と続く「家(イエ)」の一員として、「イエ」を受け継いでいくこと、歴史のリレーをすることに自分が生きる存在意義を感じている。だからこそ、ぼくの父母にとって墓や仏壇や、それらを管理する寺は重要なものなのである。


 このような日本の世俗の「仏教」と、ライトが描いた、そして西洋で興隆する瞑想を中心とした精神管理技術としての仏教とは、共通点もあるが、かなり隔たりがある。
 「イエ」を軸にした従来の日本の世俗の「仏教」は少なくともシステム(特に寺を軸にした檀家制度)としては維持できまい。
 ただ、そのシステムのうち、葬式と先祖供養というか、死の悲しみの受容、それの一定期間での回顧、そして自分のルーツに関わる部分を管理したり偲んだりする部分はこれからも必要とされる。
 西洋仏教的な精神コントロールとしての現代性を軸に若い人を獲得しながら、「死」の管理、つまり葬式・法事・先祖供養を思い切って合理化・統合することに成功すれば、世俗仏教(の界隈の産業)は生き延びられるのではないかと思う。ただしそれは相当なリストラ、スリム化が必要になるだろうけど。

田村一夫『公務員が議会対応で困ったら読む本』


公務員が議会対応で困ったら読む本 誰が読むんだこんな本…。
 といいつつ、買って読んで面白がっているのはぼくである。
 地方議会で答弁するのは、首長(知事とか市長)だけじゃないの? と思う人もいるかもしれない。「いや市長だけじゃなくて担当の役人が答弁しているのをなんか見たことあるよ」と答えた人は、地方議会を何度か傍聴したり、テレビで関心をもってみている人であろう。「本会議では部長答弁、委員会では課長答弁」と答えたあなたは、ただのマニアである。*1


 本書は東京・多摩市で副市長までつとめた著者が、こうした部長・課長クラスはもとより、その答弁準備をする部下たちのために書いた、実にニッチな本である。類書もあるのだが、実名でこの種のノウハウ本を書けるというのは珍しい。


 「ご飯論法」が少し話題になったけど、安倍政権の答弁や話法のひどさは別格として、「昔からある役人の答弁術」というレベルの話でいえば、そのレトリックはどうなっているのかを学べる奇書である。
 本書の中身を少し紹介してみよう。

答弁には議会ならではの「定型フレーズ」がある。臨機応変に使えるよう身につけておこう。

  • 「確認する」……事実を確認する。
  • 「調査する」……主に外部の情報を収集し、実態を把握する。
  • 「研究する」……実施可能性を勉強する意味で、検討よりも消極的なニュアンス。
  • 「検討する」……実施できる可能性はあるが、執行部側としての方針が未定の場合に使う。
  • 「前向きに検討する」……実施の可能性が高く、取り組むことが効果的な場合に使う。
  • 「対応する」……何かをしなければならないときに使う。
  • 「実施する」……執行部側の取組み方針が決まっている場合に使う。
  • 「いかがなものか」……同意・賛成できない場合に否定的な意味合いで使う。

(本書p.27)


 もちろん、これは著者・田村の経験での使い方であって、全国の地方公務員の間でこれに準拠するなどというマニュアルがあるものではない。自治体によって使い方が多少、あるいはまったくちがうところもある。ただ、ここにニュアンスの差があるのだ。


 他にもある。
 ぼくがよく傍聴する福岡市議会で見てみよう。
 たとえば「今後とも」。
 旧民主党系の議員の質問で「市の東と西に農業と身近に森林浴を体験できるような公園整備を検討してはどうか」というのがあった。
 これに対する住宅都市局長の答えは、「今後とも、市民に身近な公園整備を進めるとともに、市民やNPOなどと連携し、農業体験や樹林の保全活動など、自然に触れ合える取り組みを進め、生活の質の向上につながる魅力的な公園づくりに取り組んでいく」である。
 一瞬聞くと「あっ、『公園整備を進め』たり、『公園づくり』に『取り組んで』くれるのかな?」と思ってしまう。
 しかしここで曲者なのは「今後とも」である。
 「今後とも」とは、「今すでにやっているし、これからもやっていきます」という意味だ。
 つまり「もうお前の言っている趣旨のことはすでにやってるわ。新しくやる気はねえよ。バーカ」という意味でしかない。


 こんなもん、知ってどうなるのか、と思うかもしれない。
 しかし、ぼくらは何かのきっかけで署名運動をしたりするかもしれない。幼稚園の存続とか、家の前に大型の道路をつくらないでほしいとか。そういうときに、人はにわかに議会に興味をもつ。というか、もたざるを得ない。
 そんなとき、相手が言っていることに、だまされないことが大事だし、逆に過剰に失望したりしないことが大事なのだ。


 よくあることだが、公園をつくってほしいという署名運動をやっていたとして、相手が議会で「つくります」といわなかったことをもって「もうだめだ」とあっさり失望したりする。そんなことを簡単に言うわけがないのである。
 だいたい本書の150ページになんと書いてあるか。

議員の主張がもっともだと思っても、そのまま受け入れてしまうような答弁を管理職がしてはならないことを肝に銘じて欲しい。(p.155、強調は引用者、以下同じ)

 おいおい「肝に銘じ」られちゃったよ。
 というぐらい、課長クラスではやってはいけないのである。(もちろん、市長(理事者)はやってもいい。)

 「前向きに検討します」はよく日常会話では、役人の「逃げの言葉」として皮肉られるんだけども、上記にあるように議会答弁でこのフレーズが出たら、実は相当積極的に考えているシグナルだと思っていい。喜ぶべきことなのだ。
 「研究します」「検討します」だって、動きのある答弁なのである。
 運動は粘り強くないといけないのだから、ゼロかイチかで一喜一憂するようなことではいけない。そのためにもこのニュアンスの差を知っておくことは悪いことじゃない。
 もちろん、さっきも言ったようにこれはマニュアルじゃない。
 本当に言い逃れで「検討します」という時もあるだろうし、逆に与党などの顔色をうかがってはいるけども、本当は実施したい気持ちで「検討します」を言う時もあるだろう。そのあたりはまさに「文学」である。


 他にも、この本は、そうだな、議員などが読むといいと思う。
 というのは、役人(執行部側)がどんな(ヘンな)努力をしているかを知れるからだ。
 たとえば、議員からの資料要求に「どこまで応えるべきか」というQ&Aがある。

提出資料については、基本的に大まかな内容のものにとどめておくほうがよい。できれば事業概要や決算資料で使ったデータ程度で済ませることが望ましい。あまり細かな内容のデータを渡すと、後で突っ込まれる恐れもある。(p.77)

 事業概要や決算資料が来たら、バカにされているということなのだ。(とはいえ、その程度のデータさえも知らない議員が多いので、それだけでも大喜びしてしまう議員は多数実在する。)

野党的な立場の議員に対しては、必要最低限の情報を提供する。つまり、聞かれたことだけに答えることに徹し、議会で相手の思惑に使われてしまいそうな心配がある情報についてはできるだけ出さないように工夫しよう。(p.76)

 あけすけである。
 公然と言う、言わないは別にして、役人はこう思っているだろう。
 だから、資料の取り方を工夫しないとまずいのである。
 「朝ごはんについて資料を求める」という質問に「食べた」と一言書いたペーパーをもっていくのが役人的にはベストなのだ。朝ごはんの種類や量、経年での推移などをよくわかるようにと「サービス」して持っていっては絶対にいけないのである。(安倍政権で横行する「ご飯論法」はこの領域を超えている。「朝ごはんを食べたか」との問いに「食べておりません(心の中のつぶやき:ご飯でなくパンは食べたけどね)」と答えるのだから。事実上のウソである。)

 ゆえに、資料の取り方を議員(とくに野党議員)は工夫しなければならない。
 相手が出さざるを得ないような、うまい取り方を。


 「施策の明らかな欠陥を指摘されてしまった」というQ&Aもある(p.116)。
 ここでもやはり、

担当課長も部長のその場で結論を出すことは避けなければならないし、審議途中での方針修正はしてはならないと考えるべきである。(p.116-117)

というぐらいかたくなである。
 議会の場では基本、執行部側はまちがいを認めない。
 それでも、絶体絶命に陥る瞬間がある。

そのような事態になったときには、議会事務局(→議長)に申し出て一度審議を中断してもらい、理事者や関係所管により対応を速やかに協議しなければならない。/対応策について一定の結論に至った場合、あるいは対応策がまとまらなくとも、何らかの修正が必要だと判断した場合には、議会を再開してもらい、再開後に「議員の指摘はもっともな点もあるので、早急に調査検討を行い、改善すべき点は改善する」などと答弁することになるが、これは理事者の役割と考える。(p.117)

 つまり、いったん審議が中断して答弁が変われば、「まいりました。ごめんなさい」といわなくても、追及側のポイントなのである。
 ぼくはつい最近、これを福岡市議会でみた
 公共事業の残土を不法に捨てているのではないかという共産党側の追及で何回も同じ答弁をくりかえしていた局長に、後ろから何回もメモが回ってきて、最後は「業者に確認して県に伝える」と答弁を変えたのである。


 「野党的な立場の議員の質問に肯定的に答弁しなければならない」というQ&Aもある。
 市側が内部検討をはじめていた問題を、野党議員に先に質問されてしまった場合、「やりまーす」「あっ、それやるつもりでした!」などと能天気に答えてはいけないというのである。

ストレートに肯定的な答弁をすると、今度は与党的な立場の会派の議員がへそを曲げてしまう危険性もある。(p.157)

 だから、「理解できる」といいいつ「一方では………という課題もあり…」と難しいニュアンスに変えてしまったりする。
 さらに

そのようなことがあらかじめ予測されるような場合には、日頃から執行部に協力的ないわゆる与党的な立場の議員に先に質問してもらい、方向性を示しておけば問題ない。(同前)

 
 典型的な「やらせ質問」だ。
 野党議員が質問準備で取材や資料とりが始まると、市側が感づいてこういうことをやるのである。


 本書は、このように地方議員、市民運動をやっている・やるかもしれない市民が読むとただちに面白いと思うけども、何よりも役人というもののメンタリティーや生態を垣間見る上では実に興味深い一冊である。

 

*1:政令市である福岡市では、本会議では市長クラスか局長、委員会では基本は課長、たまに部長。

大久保ニュー『15歳、プロ彼女 元アイドルが暴露する芸能界の闇』


 大久保ニューのマンガを久しぶりに読む。というか、待っていた。2000年代初頭に『薔薇色のみっちゃん』や『ニュー・ワールド』を読んで「もっと読みたい!」と思いながら、店頭でなかなか出会えず、正直なところ、次第に忘れて行ってしまったのだ。


15歳、プロ彼女〜元アイドルが暴露する芸能界の闇〜 1巻 (女の子のヒミツ) 本作は、元ネタがあってそれをマンガ化したもの。
 「プロ彼女」というのは、本作第1話によれば、「財力と権力を持った男性だけを狙う」女性集団のメンバーのことで、「狙う」とは「結婚する」という意味である。主人公・メイの述懐の体裁をとっていて、メイは15歳の売れないアイドルだった。
 展望の見えない下っ端アイドルグループの行く末に絶望を感じていたメイが同じグループのコにTVプロデューサーや芸能人が参加する「ヤリコン」(乱行パーティー)に誘われたこと、そして、ふとしたことで女優が主催する「金持ちと結婚する会」(のようなもの)に参加したことをきっかけにして、有名俳優、スポーツ選手、政治家、コンサル、医者などとのセックス体験、それをめぐりカネと仕事がどう動いたかを「実話」形式で描いている。


 率直なところ、これが本当の話かどうか、あるいは芸能界のすべてではないにせよその一端の真実を表しているかどうか、ぼくには判断する材料がない。もちろん自分に経験のない、あらゆる「ノンフィクション」はそういうものだろうが、せめて関連する本を少しでも読んでいれば多少の嗅ぎ分けはできるだろう。でもこの分野はまったくぼくは知らないのである。


 それでもこの本に惹きつけられたのは、二つ理由がある。
 一つは、自分の容姿(カラダを含む)を武器にして「安定」「カネ」「名声」を獲得しようとする、男権社会下での、ある種の女性の気分をむき出しに、そしてクールに描いているからである。
 同じアイドルグループのコたちからは「枕(有力者とセックスして仕事をもらう「枕営業」のこと)」「枕ちゃん」などと陰口(というか公然とした攻撃)を言われたり、体を露出させてテレビに出るメイを軽蔑するような、興味があるような矛盾する目で追う一般クラスメートの視線を感じたりする。
 そのたびに、メイは自分の中で対抗する論理をつぶやく。
 あるいは、メイのまわりの女性たちが公然と反撃する。
 例えば、「金持ちと結婚する会(仮)」の男性たちとの食事会でメイが物事を知らないふりをして注目を集める手口をとることに、同席の女性たちから不満が出る。しかし、主宰者である女優(冬月麻美)はメイを擁護する。

私達は仲間だけれど 仲良しグループじゃないのよ?
私だって15歳の隣りに座るのは怖いわ
でもその分エステの回数を増やすことにした
キレイでいるための刺激にしているの
メイちゃんは悪くない
だって彼女がしていることは 正しいことだもの
男を喜ばせて男からむしり取る
それが私達の目指す姿でしょ?
「ビッチなお姫様」
メイちゃんは完璧よ
妬むヒマがあったらメイちゃんから勉強することね

 ぼくの知り合いで、インテリゲンチャ(大学の研究者)の女性がいるが、ある種の女性が容姿を武器にすることを軽蔑している。
 彼女の考えはこうである――「容姿」と「仕事的才能」という二つに分けられる人生の武器があるとして、どういう天賦の武器があるにせよ、結局「仕事的才能」を持たぬ者の末路は悲惨だ。
 両方あればそれに越したことはない。
 「仕事的才能」だけならそれを武器に世渡りできる。
 しかし「容姿」だけに頼ることは、早めに「いい男」を「捕まえて」それに依存=寄生する生き方であり、危険極まりない、と。
 この人生観は別にそう珍しいものではない。
 この種の人生観をじっと眺めてみると、とにかく「仕事的才能」さえあれば生きていけるということに尽きる。「容姿」を人生の武器にする、ということが一体どういうことなのかを戦略的に突き詰めて考えた様子はない。
 エンゲルスは階級社会の一夫一婦制について、「一方の性による他方の性の隷属化として、それまで先史時代全体をつうじて知られていなかった両性間の抗争の宣言」であり、財産の相続を動機とした「打算婚」であり、売春と姦通(不倫)によって補足された制度だと指摘した。
 つまり、基本的には男の支配であり、女はそれと抗争をせざるを得ず、そしてお金の打算として結婚があり、お金のためのセックスがあり、「正規」の婚姻以外のところでのセックスがあることを特徴づけたのだが、メイの行動と論理はこの指摘を先鋭化させたものであることがわかる。
 有名芸能人の家で輪姦されるエピソードも出てくる。
 その自分を冷徹に観察し、どう対処するか計算するメイが描かれる。その苛酷さは、支配と抗争と打算の縮図である。
 ただ、大久保がそのシーンを描くトーンは、必ずしも「悲劇」ではない。起きていることは苛酷なのであるが、むしろそれに抗おうとするメイの「したたかさ」のようなものが読む者に伝わってくる。
 そう、全体として、メイは「強い」存在として、ぼくらに迫ってくるのだ。


 本作に惹きつけられたもう一つの理由は、有名人や有力者とのセックスをやはり冷静に、そして理屈っぽく観察しているからである。
 メイは「15歳のセックス好き」という設定だから、ぼく自身の中にこの作品をポルノ的に消費しているところがあるのかなと思った。もちろん多少はあると思うのだが、大久保ニューの絵柄はポルノとしての物語を駆動させる形では働いていないように感じられた。
 むしろ、メイがセックスする相手を観察し、それを言語化するクールさを興味深く読んでいる自分がいた。
 例えば、ある有名俳優は、いとも簡単に旅館の備品を盗む。平気で灰皿を車外に捨てる。「育ちが悪い」のだとメイは観察する。
 あるいは、概して政治家は、年齢がいっているのに、セックスのテクニックが全く未熟。
 逆に、相撲取りは「低学歴で頭が良くない」というイメージだったのに、そうではなかった……などである。
 別にメイのこうした人間観察の結論を肯定するつもりないし、その材料もぼくは持ち合わせていない。
 しかし、客観的に自分のセックス相手を眺め、それを言葉にしていく作業は、「容姿」を戦略的武器に使おうとする女性の中心問題の一つなのだろう。カネや権力で女を抱こうとする人間の品性が一つひとつていねいに観察され、暴かれていく様をみるのは、痛快だ。


 さっき、ぼくの知り合いの女性が「容姿を武器にする女性は危うく、もろい」という類の印象を持っていることを述べたが、全体としてメイの印象は逆である。したたかであり、痛快なのだ。だが、それでも知り合いの女性は、おそらく「本人の主観、生き方はそうであっても、さらにその人生をメタに眺めればやはり危うく、もろい」と言い張るであろうが。

今野晴貴『会社員のための「使える」労働法』

ブラック企業から身を守る! 会社員のための「使える」労働法 類書はたくさんある。
 だから、正直「今さらまたこのタイプの本か」というような気持ちで手にとった。
 だが、つい終わりまで読んでしまった。そして読み終わると思いを新たにしたことがある。

知らなかった知識もある

 一つは、そうは言ってもやっぱり知らなかったこと。
 基本的なことだけど、傷病手当と、労災と認めてもらってもらう休業補償給付の違い。その違いに着目してググればそう難しい違いではないのだが、そもそもその違いに頭を向かせること自体が、あまりない。


頼ってはいけないもの

 二つ目は、頼ってはいけないものを教えていること。

自分で弁護士を探しても、多くの弁護士がハズレだ。(p.28)

手頃なのが、会社にある労働組合。企業ごとに作られている労働組合である。/でも、これはぜんぜん使えない場合が少なくない。(p.87)

社会保険労務士産業医たちは基本的に「経営者側」なので、労働者が相談をするとひどい目にあうことが多い。(p.29)

 厚労省の出先である地方労働局の「総合労働相談コーナー」でどういう人が相談者として雇われているかを聞いたことがある。職員は「例えば社会保険労務士の方ですとか……」と答えた。本書にも労基署の「総合相談窓口」の職員は「社労士や労務関係者のアルバイトが対応する」(p.45)とある。
 まあ、そういうことだ。


 労基署については駆け込むことを本書では推奨しているが、「労働基準監督署は、確実に解決しそうなケースしか動こうとしない」(p.43)と述べ、証拠固めなど3つのポイントを示し、それをやった上での相談(正確には「申告」)を勧めている。


「自分がどうすべきか」という視点

 三つ目は、「ルールの解説」というより、「自分がどうすべきか」という視点。そして最終的には一人ひとりが主張することでルールや道徳が決まるという、市民社会というアリーナでの生き方を考えるもの。
 これが本書を読む一番大事な意義ではないかと思う。

 国家が決める最低限の法律はある。しかしその権利は使わないとどんどん薄められ、改悪されてしまう。「どんどん労働法が改正されて、解雇しやすくなってきたのは、争う人が少なくなってきたというのも理由の一つなんだ」(p.165)。


 法律の基準自体が動く。
 あるいは法律を超えてどこまでが「守られるべき労働条件のレベル」なのか?
 それは、自分たちがたたかって決めるしかない、と本書は言う。
 8時間働いたら帰ることは正しいのか? 正しくないのか? 法律には8時間までと書いてある。でもそんなものを守っている職場は本当に少ない。

 本来、「これが正しい」なんてものは、この世の中には存在しない。
 だけど、一人ひとりが交渉したり、主張したりしていくことによって、世の中の道徳やルールが決まってくる。これが市民社会なんだ。
 そういう意味で、労働法というのは、まさに、市民社会のアリーナなんだ。
 だから、話し合ってみる、争ってみる。それによって、いろんな可能性が出てきて、よりよい道徳が生まれてきたりするわけだ。
 個人のレベルだったら裁判、もっと社会的なレベルだったら、労働組合
 それらによって、ルールを作り変えていこう、ということだ。(p.166)

 「アリーナ」はもともと階段状の客席に囲まれた闘技場・劇場を意味する言葉だけど、参加者が意見を戦わせながら合意形成をしていく場所というようなイメージで使われている。


 大勢に逆らう意見を言うことは、ネガティブにいえば、「もめごとを起こす」ことである。
 「当事者たちの努力」という範囲を超えてその環境や条件を問い直す。そうした意見をいうことは、まさに職場や集団にとっては「もめごと」である。
 別に職場でなくてもいい。
 PTAだっていい。
 一人ひとりに強制しないで、任意を前提でやって見てはどうでしょう?
 言わないと始まらない。あれこれ意見が出て変わっていく――というふうにならないのだ。

自治体のブラック企業規制条例

 前も今野晴貴の著書を論じたところで書いたが、もしブラック企業規制条例を自治体でつくるとなると、このような中身になるのではないか。
http://d.hatena.ne.jp/kamiyakenkyujo/20151020/1445281623


 どこかの市だけ労働法の規制を強めるのではなく(そもそも労働法は全国一律が望ましい)、市民の中に無数に相談が受けられる場を作り、また市民の中に「ブラック企業対抗ワクチン」とも言うべき労働法の知識、権利を使いこなす感覚を育て、できれば労働組合をあちこちにつくらせていく、つまり市をあげて市民の中に「ブラック企業への対抗力」を育てる――このようなことに資する行政をつくることこそ、自治体が定めるべき「ブラック企業規制・根絶条例」になるのではなかろうか。

山本直樹『分校の人たち』 「ユリイカ」での『レッド』論にも触れて


ユリイカ 2018年9月臨時増刊号 総特集◎山本直樹 ―『BLUE』『ありがとう』『ビリーバーズ』『レッド』から『分校の人たち』まで― 「ユリイカ」2018年9月臨時増刊号「総特集=山本直樹」で「猟奇からエロを経て人間的なものへ――『レッド』小論」を書いた。


 連合赤軍事件は、事件そのものとしてサブカル的な「面白さ」を持っている。
 だから『レッド』論ではなく連合赤軍事件論になってしまわないように、山本直樹の『レッド』という作品を評するように心がけた。


 とはいえ、『レッド』は当事者の記録に山本なりに忠実に描いた、いわゆるノンフィクションであるから、その「面白さ」は、連合赤軍事件そのものがもっている現実の豊かさに根拠がある。だから連合赤軍事件そのものが持っているサブカル的な興味としての「面白さ」を排除することはできず、むしろある部面ではそこを積極的に論じる必要があった。
 しかし、やはり『レッド』の中でのその「面白さ」の表現は、山本がこの事件のどこを切り取ってセレクトし、どのようにグラフィックにしたかということに依存している。
 だから作品としての「面白さ」と事件としての「面白さ」が、切り分け難く、糾える縄のごとく現れる。
 そのあたりを苦労しながら、しかし自分なりに描き出してみたつもりでいる。無理に『レッド』論にもしないし、かといって無理に連合赤軍論にもしない。作品を読んだ時に感じる『レッド』の「面白さ」、そのような「自分の感想」という特殊性・個別性の中にある普遍性を浮かび上がらせる作業をした。
 機会があればお読みいただきたい。


 「ユリイカ」で永山薫らが書いているが、森山塔として登場した山本の鮮烈さの記憶・位置付けは、ぼくの中にはまったくない。時代がもっと後だからである。ぼくが最初に山本直樹を読んだのは、「スピリッツ」で連載されていた「あさってDANCE」だった。そして『YOUNG&FINE』である。
山本直樹『YOUNG&FINE』 - 紙屋研究所

 永山たちの世代やエロマンガをこれでもかと読んでいる人たちとは別に、なぜぼく自身が山本の作品をエロいと思っていたのか、あるいは山本のエロさ(例えば『ビリーバーズ』や『フラグメンツ』のいくつかのシーンなど)をいつまでも記憶しているのかは、自分の中での謎であった。上記の『YOUNG&FINE』についての感想はそれを自分なりに解き明かそうとする一つの試みであった。


 最近描かれた『分校の人たち』はフラットに他のエロマンガと比べても、(少なくともぼくにとって)相当にエロいな、と思う。
 中学生と思しき(明示されていない)男女3人(女ドバシ、男ヨシダ、転校生の女コバヤシ)が、好奇心で裸で抱き合ったり性器を触りあっているうちに、ペッティングやセックスに及んでいき、やがてのべつまくなしセックスをしているという身もふたもない話だ。
 東京都の青少年健全育成条例の規制に挑戦するかのように、未成年(と思しき男女)の性行為の描写が、そして「汁」=体液のほとばしりが、ページの割合分量も気にせずえんえんと描かれている。あるいは、『レッド』でほとんど封じたエロ(山本によれば『レッド』はエロからの「出向」でありエロを禁じられた「下獄」である)を解き放つかのように念入りに描写している。
 反権力的で挑発的だからエロい、と感じたのでは全然ない(それはそれで別の立派さではある)。
 純粋にエロい。オカズとしてエロいのである。
 「ユリイカ」で多くの論者が述べているように、山本直樹が当事者に没入しない距離を保ち、クールに、突き放したように眺める視線が、『分校の人たち』でも十二分に生かされている。
 『YOUNG&FINE』でも『BLUE』でも『ビリーバーズ』でもエロの描写は物語の中のごく一部である。しかし『分校の人たち』では、服を脱がして、性器や乳首に触り快楽を得るまでの描写が細々と分解されて本当にずっと続く。
 ドバシは興味のないふりをしながら、あるいは小さく怒りながら、溺れこんでいく。コバヤシは積極的に性に関心を向けてまるで自然の観察でもするかのようにハマっていく。二人の少女の視線がまさに「クールに、突き放したよう」であるくせに、少女自身は恋愛的な感情を一切持たず、快楽のためだけにそこに没入していく。作者・山本はそれをもう一段外から「クールに、突き放したように」眺めている。
 ヨシダには恋愛的な感情が見られない。どちらかといえば性欲に突き動かされている少年である。そして、一見主体性ありげに二人の少女の体を求めるけども、それはどちらにも拒絶されないという十分に安心な環境のもとで見せる能動性にすぎない。80年代的な、男性主体である。

森山塔は情熱的ではない。少なくとも情熱をむき出しに迫るようなことは描かない。森山塔のセックス描写は即物的で、まるで生物学者が、とある生物の生殖行為を冷静に観察しているようにすら見える。(永山薫「身も蓋もなくエロス」/「ユリイカ」前掲p.38)

山本直樹の『分校の人たち』を読んだ時、「ああ、森山塔が帰ってきた」と感じた。……そこにあるのは性器というより泌尿器であり、即物的に反応する敏感な粘膜である。(永山前掲p.40-41)


 「少年と少女が遊んだりふざけあっているうちに、性を知り、そこにハマってしまう」というのはエロの中でもよくあるシチュだし、ぼくも好きな設定である。
 このシチュエーションが最大限に生かされるように、山本の淡々とした、突き放した視線が少女二人のキャラ設定を生み、没主体的な男性主体を生み、そして生物観察のような細かく長いエロ描写を生み出した。
 「よくある設定」だけど、それが山本の視線によって徹底的に・最大限に強化されているのである。
 他のエロマンガが、(今回の「ユリイカ」の特集でも言及されているが)性交時の擬音のうるさいほどの記述や、ページの制約で(比較的)あっさり絶頂に至ってしまうのに比べてなんという贅沢なつくりであろうか。
 「そうそう、こういうものを読みたかった」と読みながら思った。