不倫マンガあと5つ紹介


 「週刊プレイボーイ」(2018年6月18日号)で「不倫マンガ」を紹介したことは、Twitterでお知らせしたけど、そのときに他に5つほど作品を紹介したんだが、のらなかった。つうか、他の人とカブった(そして編集部の「不倫」の定義にも合わないものがあった)。
 そこであと5つほど不倫マンガをぼく流で紹介しておきたい。



 不倫マンガの楽しみ方はおおざっぱにいえば、ふた通り。
 一つ目は、「やったらダメ」っていうタブーを乗り越えて、それでもしちゃうという背徳感いっぱいのエロさを味わえる。同じタブーでも、近親相姦タブーとかよりはずっと身近でずっとリアル。黙っとけばわからないし。そのシチュエーションのリアルなエロさを楽しむ。
 二つ目は、それはあくまで妄想であって、実際にやっちゃったら、そしてバレちゃったら、夫婦が壊れ、家族が壊れ、人生が壊れたりするから、そういうホラーとして楽しむ。

こやまゆかり・草壁エリザ『ホリデイラブ 〜夫婦間恋愛』

ホリデイラブ 〜夫婦間恋愛〜 (1) いまあげた二つ目の方、「不倫の怖さ」の代表格は、こやまゆかり原作・草壁エリザ作画『ホリデイラブ 〜夫婦間恋愛』(講談社)
 ゼネコンに勤めている夫・純平(32歳)が、そこの派遣社員・里奈と不倫しちゃうという筋で、発覚してから派遣社員の女性のダンナ・井筒に純平が怒鳴り上げられ、罵られるシーンがもうね(下図)。心がささくれ立つっつうか。

*1


 「この腐りきった汚い男が!!」
というちょっと生真面目な、ストレートすぎる、いやもうちょっとひねろうよ……みたいな不自然なまっすぐさが井筒の酷薄さをよく表現している。


 不倫したら、その怒りの主要な部分がどこに向くか。パートナーに向くか、不倫相手に向くかっていうことだけど、井筒が印象的なのは、不倫相手の純平に向けられるからなんだよね。マンガではけっこう珍しい。
 不倫で壊れる家族のリアルにまで立ち入った、不倫マンガの巨峰・『スイート10』を描いた、こやまゆかりの原作だけあって、不倫がもたらす代償、家族がどう壊れていくかをえぐるように描いていくんだよね。
 えっ? そんなもの見たくない?
 うん。そういう人、少なくないと思うんだけど、他方でそのリアルさが見たいっていう人も多いんだよねえ。例えば「ホラーなんて見たくない」って常識的には思うけど、ああいうものを見たがるのと同じなわけ。

黒沢R『金魚妻』

金魚妻 (ヤングジャンプコミックスDIGITAL) 一つ目の方、不倫のエロさの代表格は、黒沢R『金魚妻』(集英社)だ。
 不倫は、そこで壊れる家庭や夫婦のことを考えなくて、刹那に楽しむことだけできればこんなドキドキするシチュエーションはない。そこだけを短編として見事に切り取る。
 1巻の中にある短編「見舞妻」で、息子の担任教師を車ではねちゃった元ヤン妻が、見舞いに通っているうちに、近くにきて欲しいとか、おっぱいを見せて欲しいとか、小さな要求を「どこまで許されるか?」みたいなゲームをやっているような感覚でお互いにやっているうちにセックスに至ってしまう、っていうだらしなさが、たまらんわ。
 そして何よりもこの作品はグラフィックの美しさ、エロさに魅了される。
 同じく1巻に載っている「弁当妻」は、自分の妻を後輩とセックスさせることで興奮するという、いわゆる「寝取られ(NTR)もの」だけど、この話の肝は何と言っても寝取られる方の妻のショートカットの「健全さ」だと思う。背徳感がいやます。

米代添『あげくの果てのカノン

あげくの果てのカノン 1 (ビッグコミックス) ちょっと珍しい不倫マンガといえば、SFと不倫の設定をからめた、米代添『あげくの果てのカノン』(小学館)だろう。
 クラゲに似たエイリアンとたたかう特殊部隊の一員・境宗介は、妻帯者であるにもかかわらず、高校時代からストーカー気味に境を偏愛している主人公・高月かのんと密会するようになる。
 境はエイリアンと戦うたびに身体をひどく損傷するが、“修繕”と呼ばれる再生技術によって元に戻る。しかし“修繕”で身体が変化するたびに嗜好、つまり心も少しずつ変わっていってしまう。
 境の妻・初穂は、境に対して、“修繕”で心変わりが進むのは仕方ないよねと言いながら、「……だけどね、勘違いしないで? そんな一時の感情より、『結婚』の方がね、ずうっと重いの。わかってるわよね…?」と諭し、不倫の連絡道具である境のスマホを静かに味噌汁に浸けるのだった。
 境は、初穂のいうことを「正しい」としつつ、自分の気持ちを「誠実に」初穂に伝える。
「だけどもう…違うんだ。勝手なことを言っているのはわかってる。これがおかしいことも…君を傷つけることも……だから君の正しさにはこたえられない。」
 初穂はそれを聴きながら、「宗介の好きだったところ… 誠実に、真摯に考え、言葉を紡いで、真っすぐにそれを、語りかけてくれるところ…その彼が今、目の前にいる。」と絶望する。
 自分が好きだったはずの「誠実さ」という境の美点が、不倫を正当化する道具になっちゃっているのである。
 結婚とは「変わらない」ことであり、不倫とは「変化する」ことである。だが、「変わらない」ことがこの場合は「正しい」かもしれないが、「変わらない」ものなどない。だから、「変化する」ということ、つまり不倫こそが「自然」で「誠実」なものだ――あれ……? なんかおかしくねえか?
 おーい。初穂ー。もしもーし。「キミも好きだけど、あの娘を好きな気持ちもホンモノなんだよ!」って、よくある不倫の陳腐な言い訳だから! それ「誠実」でも「真摯」でもなんでもないから! 

NON『ハレ婚。』

ハレ婚。(1) (ヤングマガジンコミックス) 不倫の話は、バレてしまうスリルや裏切りの背徳のような暗さが必ずつきまとうんだけど、「本妻も愛人もみんなハッピー!」みたいな男の都合良さ全開の作品はないかな……と思っていたら、そうだ、あるじゃん、NON『ハレ婚。』(集英社)。
 とある自治体で一夫多妻のハーレムを認める条例ができたという設定で、一夫三妻のとんでもねー家族を描く。
 主人公の小春ははじめ夫の龍之介が嫌いなのに、お金のために結婚してしまい、本当に好きな感情が湧いてくるまでの数巻は話がちょっとドタバタしている。しかし、小春がいったん龍之介を好きになってからは、なんかすごく幸せな、いい家族みたいな話になってるんですけど!?
 描かれているのは小春と龍之介のセックスなんだけど、一夫多妻の下で全ての男女が最終的には嫉妬や排除をせずに、愛と理解のある関係の中で営まれているから、同じセックスを眺めていても、全然違う風景に見える。もうただのセックスじゃない。そこにあるのは、男の身勝手な欲望も全面肯定なのである。
 そしてやっぱり絵柄がきれいでいやらしい。
 いろいろ都合が良すぎるけど、エロいので許す。

板倉梓『間くんは選べない』

間くんは選べない : 1 (アクションコミックス) 不倫は基本的に既婚者でのことだけど、独身の人たちでのいわゆる「二股」も広い意味で不倫と言える。
 既婚者の不倫の「もう飽きてしまった配偶者vs新鮮な愛人」ではなく、独身者の二股は、「どちらを選んだらいいかわからないくらい迷っちゃう!」というジレンマの物語になる。板倉梓『間くんは選べない』(双葉社)はその典型。
 取引先の女性か、女子高生か。
 そんなもん選べって言われても…。二股をやってれば絶対に破局が訪れることはわかっている。だから選ばなくちゃ! って主人公の間くんはいつも思うのに選べない。選べないようにホントにうまく書いている。「うわー、こんなに自分を好いてくれる健気な女子高生、捨てられんやろ…」とか「いや、だからと言ってこんなにキレイな女と別れるわけにはいかん」とか読んでいるぼくらが迷いまくりになる。選べないのだ。
 そして、二股を正当化する主人公の理屈のすごさ。そのコと会ってる時は全力に、誠実に愛しているって…お前…いやいやこれこそ不倫・二股の代表的な言い訳。そのダメさがすごいと思う。

*1:こやまゆかり原作・草壁エリザ作画『ホリデイラブ 〜夫婦間恋愛』(講談社1巻、kindle版87/195)

「ロープウェイ」か「ロープウエー」か


 福岡市の高島市長が博多駅からロープウエーを港までつくるのが「私の夢」と語った件。
 ところでぼくはこれを「ロープウェイ」と最初書いたんだけど、マスコミはどれも「ロープウエー」だった。


新訂 公用文の書き表し方の基準(資料集) どういう基準なんだと思っていたら、『公用文の書き表し方の基準(資料集)』という本があり、その中に「外来語の表記」という内閣告示があった。
http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/nc/k19910628002/k19910628002.html

 この告示ではくどいほど、“これが正しいとかそういうんじゃないからねっ!”とことわっている。

 ま、そういう前提の上でだけども、国語化している外来語の表記は、「第1表」にまとめていて、

  • 「シェ」「ジェ」(例:シェード ジェット)
  • 「チェ」(例:チェーン)
  • 「ツァ」「ツェ」「ツォ」(例:コンツェルン
  • 「ティ」「ディ」(例:ボランティア)
  • 「ファ」「フィ」「フェ」「フォ」(例:ファイル)
  • 「デュ」(例:プロデューサー)

になっている。つまりまあ簡単にいえば、このあたり(第1表に示したもの)まではそのまま表記していいんじゃね? という基準なのだ。
 これに対して「第2表」では、まあそう書くけども、やっぱり「第1表」の範囲にしといてよね、というのをつけている。「イェ」とか「ヴァ」「ヴィ」とかだ。


 この「第2表」の中に「ウェ」が入っている。


 そしてそこには「注」がついている。

注1 一般的には,「ウイ」「ウエ」「ウオ」と書くことができる。
〔例〕 ウイスキー ウイット ウエディングケーキ ウエハース ストップウオッチ

 この原則で「ロープウェイ」ではなく「ロープウエー」になっているのだ。
 そして同じように「ウェイ」ではなく「ウエー」になっているのも、ここに

3 長音は,原則として長音符号「ー」を用いて書く。

とあるからだ。



 ちなみにそのロープウエーが通る地域は福岡市の公式文書では「ウーターフロント」なのだが、ぼくは「ウーターフロント」と書いていた。
 これも上記の原則から来ている。


 もちろんこれは「一般の社会生活において現代の国語を書き表すための『外来語の表記」のよりどころ』」(前掲内閣告示)であって、国民に強要するものでもないし、さっきも言った通り「これが正しい」って話でもない。



 NHKはもろにこのロープウエー問題でトピックを公式サイトで書いている。
https://www.nhk.or.jp/bunken/research/kotoba/20150601_4.html

Q
「ロープウエー」「ロープウェー」「ロープウエイ」「ロープウェイ」いろいろな書き方を見ることがあります。放送で使う場合は、どれがよいのでしょう。
A
放送で、一般名詞として使う場合は「ロープウエー」と発音・表記します。ただし、固有名詞の場合は、それぞれの会社名や施設の表記に合わせて、発音・表記します。

 その根拠となっている放送用語委員会の記述をみると『NHK日本語発音アクセント辞典』(2012、40刷)を参照しており、そこでは「ウエー」と「ウエイ」と「ウェー」があるとしている。(例:ロープウエー、ウエイター、ノルウェー


 これは内閣告示を直接の根拠とせず、自分たちで考えて使っている、ということだろう。
 ここまで自分の頭で考えられりゃあ立派だろう。


 この『公用文の書き表し方の基準(資料集)』には「用字・用語の表記例」も示されていて、これだと面白いことに、例えば「満州からのヒキアゲ」という場合、「引揚げ」と表記する。
 しかし、「ヒキアゲシャ」は「引揚者」で、「ヒキアゲル」は「引き揚げる」なのだ。

 例えば、

引揚者は多数いて、満州からの引揚げは過酷をきわめ、大陸から引き揚げることは、まさに命がけの仕事だった。

みたいな表記になる。

 「国民健康保険料の引き上げ反対」とよく書いていたのだが、この基準によれば「引上げ反対」となる。

 こういうものの用字・用語は迷ってしまう。
 別にどれが正しいというわけでもないからだ。
 したがって、ついつい、こういう「基準」に頼ってしまうことになる。

チェ・ギュソク『沸点 ソウル・オン・ザ・ストリート』

高校時代を思い出した

 韓国で軍事独裁から民主政権が初めて誕生したのは1988年の盧泰愚のときであった。そのころぼくは高校生で、すでに左翼運動にかかわっていた。だからテレビから流れてくるデモの映像とそれによって政権が変わったという話を聞いて、「うらやましいなあ〜 日本ではなんでそんなことにならないのかな〜」と身悶えしていた。同じ気持ちから60年代末の学園紛争の時代が「今(80年代末)」でないことを嘆く気持ちが強かった。もちろん、今はそんな単純なことは思わない。
 その当時の気持ちに、もそっと立ち入ってみると、民主化デモで沸騰する韓国、あるいは「多数の」学生がデモに立ち上がっている60年代末の日本と、目の前にいる「政治的無関心」にとりつかれているとしか見えない日本の高校生たちに途方もない断絶を覚えているということでもある。


 こういう気持ちの流れは、別にそのころに特有のものではない。
 今でも世の中(日本社会)には広くある感情であって、“こんなに民主主義破壊の話がじゃんじゃん出てきているのに、安倍政権が崩壊しないのはおかしい、それは日本の民主主義が成熟していないからだ、それに比べて韓国は「キャンドル革命」をやって政権を変える力を発揮した。日本は遅れている”みたいな。*1


沸点 ソウル・オン・ザ・ストリート 本書チェ・ギュソク『沸点 ソウル・オン・ザ・ストリート』(加藤直樹訳、ころから)は、80年の光州事件を起点にして88年の民主化にいたるまでの韓国の学生運動を、一つの家族の物語に焦点をあてて描いたマンガである。
 このマンガは高校生のころのぼくの感情、「うらやましいなあ〜 日本ではなんでそんなことにならないのかな〜」を思い出させた。
 そして、「韓国は1980年代末でこんな日本の戦前みたいな状況だったのか、遅れているな」という感想と、「やっぱり『民主主義を戦い取った国』は違うな。日本よりも進んでいる。だから『キャンドル革命』みたいなこともできるんだ」という感想と、両極端の感想が頭をよぎった(それらは自分の感想のような気もするが、すぐ「どちらもぼくはそう思わないな」とも感じた)。

家族の変化が社会の変化

 『沸点』は光州事件全斗煥による反政権運動の弾圧)をきっかけに、反政府的な学生運動にかかわると売国奴であり国賊であり一族の恥であるという意識を受け付けられ「反共少年」として育ったクォン・ヨンホとその家族が主人公となる。
 この物語のキモは、大学で学生運動にふれて進歩的な転換を起こすヨンホもさることながら、ヨンホを恥としたり、憤ったり、複雑な感情を抱いていたりした家族が次第に変わっていくということである。
 ヨンホは学生運動というラディカルな部分を代表しているが、韓国のもっとも保守的で幅広くベースになっている部分を、その家族が代表している。ヨンホの家族がどう変わっていくかを描くことは、そのまま、韓国世論が学生たちの先鋭的な運動をどう取り込んで変容したのかを示すものになっている。

ヨンホの母の変化

 特に焦点が当てられているのは、ヨンホの母(チャン・オクプン)である。
 ヨンホの母は、とにかくヨンホに「アカ*2」だけにはなってくれるなと愚直にいうしかない、「田舎のおばさん」である。ヨンホが学生運動にかかわりだしたときの恐れように既視感がある。ぼくの家族(祖父母や父母)が、ぼくが左翼運動に加わっていった時のあの恐れの顔に似ている。ヨンホの母にぼくはぼくの家族をみる。


 しかし、ヨンホの母が「家族がアカとしてあつかわれるおそろしさ」をしみこませているのには、歴史がある。ヨンホの母の母は、朝鮮戦争のとき一般市民であったにもかかわらず、「アカ」とされて連行され、帰ってこなかった。そのあと、ヨンホの母自身が「アカの子」としていじめられるのである。
 この歴史とヨンホの母の意識は、韓国民の典型的形象として描かれている。


新・韓国現代史 (岩波新書) 朝鮮戦争直前に起きた済州島事件(四・三事件)は米軍政による単独選挙反対の反乱が大々的な反共的虐殺を引き起こした事件であった。

四・三事件済州島民の昔ながらの気風を徹底的に打ちのめし、彼らの政治や社会に向き合う姿勢を大きく変えた。四・三事件がもたらした島民の心理的な屈折の問題は、しばしば「レッド・コンプレックス」と言い表されてきた。四・三事件以後の済州島では、「誰も“アカ”の悪霊から自由では」なく、「誰かが私を罠にかけてアカにしようとしている」とか、「アカが捕まえにくる」というのが、五〇〜六〇年代における精神科の患者の最も多い訴えであった(黄サンイク「医学史的側面から見た四・三」)、という。両親が罪もなく犠牲になった被害者でもそれが討伐隊の手で殺害された場合は、「暴徒」の家族として子や孫に至るまで韓国社会では日陰者扱いされた。連座制が陰に陽に幅をきかせるなかで、反共団体に身を投じたり、権力への過剰忠誠を通して「アカ呼ばわり」から逃れようとする被害者の親族も少なくなかった。(文京洙『韓国現代史』岩波新書、p.70)

 そして、済州島民が負わされたコンプレックスとそれへの負荷は、韓国民全体にのしかかる反共意識の原型となった。

民主化以前の韓国では、反共を国是とする一糸乱れぬ「国民」化こそが至上命題であった。(同前)

朝鮮戦争は、四・三事件済州島民が負った心の傷(レッド・コンプレックス)を韓国人全体にあまねく押し広げることになった。李承晩政権のみならず、韓国の歴代の権威主義体制を支えた最大のものの一つに、戦争を通じて人びとの心に根づいた冷戦的な情緒や価値観があった。朝鮮戦争中の未曾有の虐殺・テロは、消しがたいトラウマや憎悪を南北双方の住民の心に刻みこんだのである。朝鮮戦争後の韓国社会では、反共は、たんなるお仕着せのイデオロギーではなく、一種の社会倫理規範として定着し、人びとの行動様式を内側から規定する呪縛となった。それは「北の脅威」という安全保障上の言説が、人権や民主主義を含むあらゆる社会的価値の上位に置かれる社会であった。(同p.83-84)

 
 ヨンホの母(チャン・オクプン)の母が連行されて殺されたのは彼女が「保導連盟」のリストに名前があったからである。

戦争は、多くの非戦闘員を巻き込み、済州島での虐殺が朝鮮半島全域で再現される形となった。戦争が始まるやいなや犠牲となったのは、政治犯や、左派の経歴のある予備検束者、そして左派の懐柔や統制を目的につくられていた国民保導連盟のメンバーたちであった。韓国ぐんは敗走しながらも、保導連盟員を韓国のほぼ全域で虐殺した。保導連盟員として、虐殺された住民の正確な数字は明らかでないが、忠清北道だけでも連盟員一万人余りのうち三〇〇〇が殺害されている。全国で連盟員として登録されていたのは三三万人であった(韓知希「一九四九〜五〇年、国民保導連盟結成の政治的性格)。(同p.76-77)

 ぼくの家族の顔がヨンホの家族にかぶる、という旨のことを今書いたばかりだが、日本の中の反共風土とは違う、「社会倫理規範として定着し、人びとの行動様式を内側から規定する呪縛」となるほどの強烈なものが韓国の反共意識であったと言える。
 にも関わらず、民主化をへて現在のような南北の融和ムードに社会が覆われるという変化に驚かざるを得ない。


 最初の問い――韓国は市民革命によって民主化を戦い取った国であり、日本よりも進んでいるのか?――については、本書(『沸点』)から何か判断することができるだろうか。


 確かに、87-88年の民主化は先鋭的なデモに続く形で、根強かった反共意識を一つひとつ崩し始めるきっかけとなっていったという根底的な社会変化をもたらしていったという点では、目を見張るものがある。
 例えば日本の60年安保闘争とそれを比べてみる。確かに闘争直後には安保条約への批判意識を高め、岸内閣を退陣に追い込んだ。しかし、それは反安保の政権交代をもたらすことはなかった。
 しかし、「政権は交代しなかったが政権を打倒した」ということは、それほど「遅れた」事象なのだろうか。
 あるいは、韓国の軍事独裁ほどの強圧で臨まなかったぶん、日本の保守政権は柔軟に世論に対応して内閣を退陣させたとみることもできる。


 70年安保、つまり60年代末の学園紛争との比較ではどうか。
 学園紛争によっては政権は退陣すらしなかった。
 学生運動はその後壊滅していったではないか、と。
 しかし、これはぼくが以前に書いたように、いわゆる「全共闘新左翼」の動きに目を奪われすぎな評価である。
 60年代末の大学民主化闘争で鍛えられた流れは、やがて70年代の「革新高揚期」を準備し、日本中を「革新自治体」の中に巻き込んでいく力強い潮流を形成した。社会のところでの奥深い変化を準備した。

 〔小熊英二『1968』は〕早い話が全共闘運動に目が行き過ぎなのである。本書〔小熊『1968』〕で全共闘運動以外に同時代のものとして特別にとりあげられ、小熊の肯定的評価がにじみにでているのはベ平連くらいなものだ(リブの運動はポスト全共闘=「1970年パラダイム」として、そして連合赤軍全共闘運動の延長にあるものとして扱われている)。新左翼運動や各種党派は予備知識的に上巻で扱われているのみである。なぜ各党派に「近代的不幸」を感じて参加したかは、各党派の正史などからもっと学んでもよいはずである。

 社会全体の流れで見ると、1967年に美濃部都政ができるのを嚆矢にして全国に革新自治体が広がり、人口の過半数を制するにいたるようになる。自民党は1970年代に「与野党伯仲」=過半数割れの危機を起こし始め、共産党は40議席になり、70年代に一つの絶頂期を迎える。

 左翼運動の破産どころか、左派系の政権交代が最も現実味をおびたのが70年代の空気であった。

 革新自治体は社会福祉・反公害など、高度成長のひずみを是正することを掲げた。大学紛争も、進学率の上昇のなかでそれに対応しない大学の状況が批判されるなかでおきたものだとみなすのが妥当だとぼくは思う。だから、大学解体や自己否定のようなスローガンをかかげる全共闘が孤立し、小熊があげた各種のプレ大学紛争や東大闘争が「大学民主化」の枠組みで勝利するのはあまりに当然のことである。

http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/1968.html


 結論から言えば、韓国の運動の歴史を「80年代にこんな野蛮な運動やってたんだ。遅れてるなあ」と不当に低く評価する必要もないし、「日本は社会運動で政治を変えたことはない。韓国はすごい」などと自国の運動を卑下して韓国を高く評価しすぎる必要もない
 現在の運動についてだってそうだ。
 文在寅政権が「キャンドル革命」によって誕生したことは間違いないだろうが、その政策が合理的な道筋を持った左派政権がどうかまだわからないし、ひるがえって日本の、例えば「市民と野党の共闘」が実を結ぶかどうかはこれからにかかっている。

補足(2020年11月)

 光州事件を描いた映画「タクシー運転手」を見る。直截に軍部独裁の非道を描く。これも見応えのある映画である。
www.youtube.com

*1:関係ないけど、ぼくが前に「『安倍を支持する3割』についての想像」 という記事を書いた時、コメント欄とかブコメでまるでぼくがこの種の愚民観に陥っている前提で、ドヤ顔コメントしてきた人がチラホラいたんだよね。ぼくは記事中でもなんども念押ししたように、「政権支持を変えない層はどういう層か」を純粋に疑問として書いただけなのにね。

*2:韓国語では「パルゲンイ」。

渡辺雅之「日本教科書の危なさが突出し、全体が巧妙化する」ほか

 共産党の理論誌「前衛」2018年7月号は、中学校の道徳教科書の特集だった。夏には各自治体で採択がされる。


 3本の論文が載っていてどれも面白かった。
 日本教科書の道徳教科書を批判するという論点が3本とも共通している(ところで「日本教科書」って教科書会社名とはじめわからなくて、「学校でもし日本教科書の道徳教科書を使ったら」という論文タイトルが意味不明であった)。


 扶桑社の流れをくむ育鵬社の道徳教材をふんだんに使っているのが「日本教科書」という会社で、3人の論者はいずれも警戒を呼びかけている。


 佐藤広美東京家政学院大学)の論文の中で興味を引いたのは、日本が戦前植民地支配をしていた台湾での物語、土木技師・八田與一の教材についてである。
 佐藤は、胎中千鶴の『植民地台湾を語るということ 八田與一の「物語」を読み解く』から次の部分を引用している。

彼〔八田――引用者注〕を「真の国際人」として位置づけることよりも先に、まず、民族差別を嫌ったであろう八田が、それにもかかわらず植民地主義のシステムのなかで生きざるを得なかったこと自体にまなざしを向けるべきだ

 「植民地でいいことをやったんだから」というだけではすまない問題を端的にえぐっている。


 次の平井美津子(子どもと教科書大阪ネット21事務局長)の論文は、日本教科書の道徳教科書の教材を次々と斬っていく論法で、最初は「ちょっと乱暴じゃないのか」と面食らったのだが、読了してみると、日本教科書の道徳教科書の問題点が大ざっぱに俯瞰できるものになっていた。


 最後の渡辺雅之(大東文化大学)。
 今回ぼくが一番興味を持ったのはこの論文だった。
 ここには、日本教科書や他の道徳教科書の問題点なども書いてあるんだけど、「道徳教育はどう進めればいいのか」がコンパクトに書かれている。「道徳教育なんて必要ない」と機械的に否定するのではなく、権力の側からでなく国民の立場でどう進めるべきかを示しているのだ。
 もちろん、「(権力の側ではなく国民の立場では)道徳教育はどう進めればいいのか」という論点は、前々から教職員組合運動やそこに近い学者からも長年提起されてきたものであるが、コンパクトに改めて示されていることが大事だと思った。

全面主義

 一つは、全面主義。

その前提として、まず道徳教育は、基本的に全面主義を柱にすること――つまり学校の全教育活動の中で道徳教育を推進するという視点を持つことです。そして教科書の中身を杓子定規に全部やらないことが大事だと思います。(「前衛」前掲、p.138、強調は引用者=以下同じ)

 全面主義というのは、学校生活のあらゆる機会をとらえて臨機応変にやるのが本来の道徳教育であって、机の前にすわってテキストから徳目を教え込む、というやり方ではダメだということだ。
 例えば「ルールを守りましょう」ということは一見すると否定しがたい徳目である。
 渡辺が紹介している有名な「星野くんの二塁打」という教材などはまさにそれだろう(バントをしろという監督の指示に対してそれに従うというルールを破って星野くんはヒットをしてしまう。試合は勝ったが、ルールを破ったことを咎められる)。この教材を教科書で読んで「ルールを守ろう」という徳目を教え込まれる、ということは、

  1. 「はいはい、ルールを守ればいいんでしょ」という空虚なタテマエを生徒に植え付ける。
  2. ルールを絶対視するという態度を育んでしまう。

という2点において危惧がある。
 
 これを「チャイムがなったらすぐ席についてじっと待ちましょう」という教室に実際にあるルールを守れなかった場面をとらえて指導する、という局面が考えられる。学校生活の中で道徳を具体的に考えるのだ。
 このルールを守れないことを一方的に批判されるべきだろうか。
 「チャイムがなったらすぐ席につくことは果たして合理的であるか」という疑問がそこには含まれていなければならない。生徒が「チャイムがなってから数秒も許さずに着席を要求されるのは不合理だ。2〜3分くらい余裕があったほうがいい」とルールを批判し、その組み替えの要求し、実際に組み替えに参加する権利を持つことだってあるだろう。


 渡辺は、「教科書を教えるのではなく、教科書で教える」という言葉を引き合いに出して「そうした理念は文科省も否定していません」として、教材を取捨選択し、あるいは教材そのものを批判的に読むことを授業でやるべきだと勧める。

現場の教員が多忙化の中でそれをできるのかと問われることがあります。でも私はやはりそれはやらなければいけないと思うのです。そうでなければ、徳目押しつけの道徳教育になってしまうからです。やらされる道徳科から、子どもたちのリアルな生活実態をもとに、そして社会に開かれた道徳科に“転換できるチャンスがある”というのは言い過ぎでしょうか。(p.138-139)

適当に!

 そして、もう一つ、渡辺は道徳科への向き合い方で、教師に対して大事なことを示す。

最後に少し矛盾した言い方になりますが、もう一つあるのは、「『教科』ではないのだから適当に」という考え方です。本気になって、道徳科をやろうと思ったら、かなりの労力がいります。実際には道徳は教科と言っても、「特別な教科」であり、ちゃんとした「教科」ではない。裏づけとなる学問的な蓄積を背景としていない。だから、「そんなに本気にならなくていい、教材を読んで感想を交流するくらい」の授業があってもいいのかもしれません。批判的に扱ったり、発展させたりするのは王道ですが、王道だけで歩めるわけではありません。年間三五時間あるなかで、「今日はこの教材を批判的に扱ってみよう」「子どもたちの調べの学習につなげて発展させよう」というのが、年に三回、四回くらいあればいいというくらいのゆったりした構えも必要です。(「前衛」前掲p.144)

 年に3回くらい本気のものがあれば、いいんじゃね? と鷹揚に構える。「働き方改革」の実現が程遠い教員の実践としてリアルだし、役に立つ励ましだ。
 そして「あー、こんな愛国心ガチガチのもの教えなきゃいけないのかよ…はあ……ユウウツ……」みたいに悩む必要もない。
 批判的に扱えばいいのである。
 渡辺は前川喜平(前文部事務次官)の雑誌インタビューの次の部分を引用している。

「『国を愛する心』は教科書にも学習指導要領にも出てきますが、だったらそれを授業では批判的に扱えばいいわけです。『国を愛するという時の「国」ってなんだ?』とか『そもそも「愛する」ってどういうことだろうとか……それを自分で考え、みんなで議論することは決して悪いことじゃない。だって、『これからの道徳は考え、議論する道徳でなければならない』と、文科省が作ったマニュアル(学習指導要領)にちゃんと書いてあるんですから(笑)」(前衛」前掲p.144)

 こういう疑問↓を持つ向きにもちょうどいいわけですよ!

愛国心て結局なんなの


 愛国心は単純な郷土愛ではなく、ナショナリズムとともに生まれたものであり、「自由・平等・同胞愛(愛国心)」は一体のスローガンだった。下図は、『ゆげ塾の構造がわかる世界史』の一部であるが、そのことが簡潔に記されている。


*1

 このように問題を深めることで、愛国心はその歴史性を問われる。
 そうすることで「その教科の内容をまず第一に科学が決定するという他の教科で働く仕組みが機能しない」「道徳科では、まさに、国家がストレートに、第一義的にその内容を決定する」(佐貫浩)という問題点を組み替えることができる。


 自由・平等・同胞愛(愛国心)はフィクションだったけども、自由と平等を約束された中産階級の出現が民主主義の出発点だったとすれば、「おっしゃ、じゃあそんないい国だから、ぜひ守るぜ!」というファイトも湧いてくる。そこにはリアルな現実もある。『ゆげ塾の構造がわかる世界史』ではなぜナポレオンの軍隊が初めは強かったか、についてこのような説明をしている。
 しかし、格差と貧困がはびこる希望レスの国であれば守りたくもないし、関心もなくなるだろう。いまの政権のやり方を厳しく批判し、別の国のあり方を示すことが、まさに「愛国」の別の形だというバリエーションがいくつも生まれる。
 本当はそんな愛国心教育が必要なはずだ。
 日の丸や君が代を無理に歌わせて「さあ愛しなさい」という「愛国心教育」の狭さにクラクラする。

道徳性とは何か、めざすべき道徳教育とは

 渡辺は、道徳性とは何かを次のように規定する。

私は、そもそも道徳性とは、異なる他者と共に生きる術、であり、異なる他者と共に生きることを阻む力とたたかうこと――ととらえています。(前衛」前掲p.140)

 これは教育学者の佐貫浩が「道徳性とは、何が自分の取るべき態度(正義)であるのかを、他者との根源的共同性の実現――共に生きるということ――という土台の上で、反省的に吟味し続ける力量であるということができる」*2をよりいっそうわかりやすく、端的にしたものであり、特に「異なる他者」としていることによって、問題が明瞭になっている(一般的な「共同性」では、例えばいじめられっ子をみんなで排除して成り立つ「共同性」もありうるからだ)。


 そして、そのような「異なる他者と共に生きる術」を考える場合、文科省流の道徳性は「ベクトルが個人の心にのみ向けられています」(p.140)ということを批判する。

本来、道徳性は社会の不正義や不合理に対しても向けられるべきなのです。(同前)

 先ほどのチャイム着席などはその一例だし、例えば「職場でノルマを達成せずにみんなの和を乱す会社員」という問題は、ノルマという任務・責任を果たさない会社員個人の心ではなく、「無茶なノルマをふっかけて、法定労働時間も守ろうとせずに押し付ける会社と社会に問題がある」というふうに組み替えられる可能性がある。

 渡辺はいう。

道徳性のベクトルは、「全ての人々が、人種、宗教、障害、性的嗜好に関係なく生まれた時から約束されている(バーニー・サンダース演説)」人権の実現に向けられるものであり、社会の公正・公平を毀損するものとたたかうことがその中には含まれている。それは社会(国家)の従属物として「わたし」ではなく、権利主体としての「わたし」が世界に登場することでもある。(前衛」前掲p.141)

 自分と違う人と生きていくために、個人の心遣いで実現できることもある。
 しかし、会社とか学校とかのルールを変えることや、社会のあり方を組み替えることも必要になるのは当然だ。
 ブラックな会社に入った時、そこでモノをいう術を身につけること、あるいは共同して変える術を見いだすこと(または、誰かに助けを求めてそこから抜け出す術を身につけること)――それが本当の、切実な道徳教育ではないか。

*1:ゆげ塾『ゆげ塾の構造がわかる世界史』飛鳥新社、p.108-109。こうした愛国心ナショナリズム論に対する批判があることもわかるが、オーソドックスな理解として出発点にはなる。

*2:佐貫浩『道徳性の教育をどう進めるか』、新日本出版社、2015年、p.51

土山しげる追悼


 土山しげるが亡くなった。68歳だそうである。

土山しげるが68歳で死去「喰いしん坊!」「極道めし」などで活躍 - コミックナタリー


FRIDAY DYNAMITE (フライデーダイナマイト) 2013年 3/14号 [雑誌] 土山しげるについては以前「FRIDAY Dynamaite」誌(講談社)の2013年3月14日増刊号でその魅力を語らせてもらったことがある。
 下記は、その雑誌記事にあわせて書いたブログのエントリだ。

土山しげるを語る - 紙屋研究所

 上記のブログ記事では書き漏らしたことを以下に少し書いておく。

飯粒・ご飯粒の散らし具合が最高

 雑誌の記事の方では、ぼくはまず土山作品について魅力を解説する難しさを語っている。内容が奇抜すぎるものが多いからだ。「『おいしいメニューを追求する料理人の話』なんて単純なモノはひとつもない」(同誌記事)。
 設定が狂気じみている上に、さらにその中での一筋縄ではないマンガとしての魅力を取り出そうとすると、

  • 「OKFF(大阪食い倒れフードファイター)の邪道食いは反則だけど一見の価値あり」
  • 「この作品はある意味で落語だね。登場人物の話芸がいいんだ」

などとなってしまい、一体どんなマンガなのかさっぱりわからなくなってしまうのである。

 
 設定が一言で言えば「トンデモ」になっているのであるが、にもかかわらずエンターテイメントに仕上げられている。そして、一番重要なことは、どんなにめちゃくちゃな展開でも、とにかくおいしそうに食べるシーンがあること。


 ぼくの場合、土山流「グルメ」マンガ=「飯漫(メシマン)」のグラフィック上の最大のツボは、飯粒・ご飯粒の散らし具合。あれは本当にうまそうで、読んでいると丼物が食べたくなることは必定である。

土山のインタビューを読む

 この雑誌の号では土山のインタビューが載っていてなかなか貴重である。
 例えば、土山流「飯漫」を描く前は他のそういうマンガは読んでいたのか、という問いに「いや、全然(笑)」と答えている。それまではアクションものやヤクザものばかり書いていた。ただ、「食べるシーンの絵に力がこもっている」と評されていた、と土山自身が語っている。
 それが「飯漫」を描くきっかけになったのは次のエピソードだった。

「じつは『喧嘩ラーメン』を描く前に、過労で倒れて3週間ぐらい入院したんですよ。病院って患者が集まる憩いのスペースがありますよね。そこで他の患者たちの会話を聞いていると、食いものの話ばっかりなんですよ。『退院したら、まずはラーメンが食いたい』とか。それで退院後に『漫画ゴラク』の編集部から何か描いてくれって話があったときに、『だったらラーメンですよ!』と。ラーメン屋にはよく『ゴラク』が置いてあるし、こりゃピッタリだなって(笑)」(「FRIDAY Dynamaite」、講談社、2013年3月14日増刊号、p.96)

 これ、『極道めし』の原型じゃん……。
極道めし コミック 全10巻完結セット (アクションコミックス)
 同インタビューでは、土山は『極道めし』が映画「網走番外地」での囚人たちの「犯罪自慢」をモデルにしたと言っているが、この「犯罪自慢」と病院体験での「語る食」を組み合わせたのが、『極道めし』ではなかろうか。
 土山流「飯漫」の走りとなった『喧嘩ラーメン』の取材は家の近所のラーメン屋1軒だけだったという。インタビュアーが「ずいぶん近場で済ませましたね」と笑っている。厨房の中などを見せてもらったらしい。


 土山が語るこだわりは擬音。「モグモグ」くらいしかなかった当時の食のシーンを変えることに挑んだ。「僕のこだわりのポイント」(土山)。

「……あと、口元を描く人もいなかったなぁ。みんな、食べ終わったあとの絵ばっかりで」(前掲p.97)

「実際に自分が食べたものしか描かないことですね。しかも、描くために取材して食べるんじゃなくて、子どものころから食べたくて食べてきたものを描く。そうでなければ読者には伝わってなかったと思いますね」(同前)

 描かれる料理が、ほぼ大衆的な料理オンリーである理由はここから生じている。

 関川夏央は『美味しんぼ』をグルメマンガの代表格として扱い次のように批判した。

感嘆符の氾濫と吃音に作者の苦心のあとがしのばれて微笑を誘うが、食べものの味と性交感覚の形容は誰が書いても同じものになるのが残念ながらことわりで、この努力もやはり報われることは少ないと思われる。(関川『知識的大衆諸君、これもマンガだ』文春文庫、p.119)

 続けて関川は嵐山光三郎の次の原則を紹介する。

  1. 人間は食べなれたものが一番うまい。
  2. 過度のご馳走は悦楽ではなく恐怖である。

 土山はこうした関川の批判を見事に乗り越えた。嵐山の第一原則に則りつつ、第二原則に真っ向から抵触するフードファイトという無謀なジャンルを使ってこれを塗り替えてしまったのである。「大飯食らい競争」などという聞いただけで気持ち悪くなるはずの絵面を使いながら、なおかつ、うまそうに感じさせるなどというのは常人のなせる境地ではない。


 68歳の死はやはり早いと惜しまれてならない。

「安倍を支持する3割」についての想像

 「安倍さんを支持する人ってどういう部分が良いと思ってるの?」というはてな匿名ダイアリーの記事があった。

安倍さんを支持する人ってどういう部分が良いと思ってるの? - はてな匿名ダイアリー


 安倍政権の支持率は、どんな不祥事が出てきても3割くらいから下がらない(まあ「7割くらいは支持していない」とも言えるが)。
 この3割ってどんな層なのだろうか。
 勝手に想像してみる。

一つは「経済」(経済政策)

 この間、福岡市で印刷会社に勤めている、娘の保育園時代のパパ友・Aさんと酒を飲む機会があったんだけど、彼の感覚では「不動産、建設がホントに景気いいですよね〜」。
 これは景気動向調査のようなデータとも一致するが、細かい数ヶ月単位の数字データというより、ざっくりとした景気の感覚。例えば年間の展望について建設は「首都圏再開発事業などで好況が続く見通し」、不動産は「首都圏を中心としたオフィスの大量供給が見込まれ、堅調な業績推移を予想」みたいなやつ。
http://www.tdb.co.jp/report/industry/kenchiku.html

 その理由は何ですかとAさんに聞くと「まあ東京オリンピックでしょうね」ということ。
 加えて福岡市の高島市政はアベノミクスの先取りをするような「アベノミクスの地方版実験場」の様相を呈している。福岡市では高島市長がやっている「天神ビッグバン」や「ウォーターフロント再整備」(要するに都心の巨大再開発)のようなものも影響しますか、と聞くと、「ああ、福岡ではそれもありますね」と答えた。


 全国の企業の声を聞くとこんな感じ。

  • やはり東京五輪パラリンピック関連の工事が増えていく(電気配線工事)
  • インバウンド関係を中心に依然として民間の投資意欲が旺盛である(土工・コンク リート工事)
  • 五輪関連で業界は最盛期にある(一般管工事)
  • インバウンドが増加しているので、2・3年は好調が続くと予想(貸家)
  • 東京五輪関連の仕事が継続する(土地賃貸)
  • 消費税増税を控えて駆け込み需要が予想される(内装工事)
  • 1年後には、リニア関連が本格的に動き出すと考えられる(一般土木建築工事)
https://www.tdb.co.jp/report/watching/press/pdf/201804_jp.pdf

 どれもこれも政策がらみである。
 「だから不動産・建設が安倍政権を支持している」というつもりはない。
 もっと大ざっぱな枠で。
 つまり、建設とか不動産に限らず、景気のいい業種はホントに景気がいいんだろ、と思う。そうなると「このまま安倍政権が続いてほしいな」と思うのはある意味でフツーの感覚ではないのか。学生などが就職の好調を理由に安倍政権(自民党)を支持するという話を聞いたこともあるが、それはある意味でわかる気がする。
 そういう人には、「文書改ざん」「ご飯論法」「日報隠蔽」という話をしてもなかなか響かない……というのは、それなりに理屈が通る。
 過熱しているビジネスに身を置いている人の感覚と、そこをまったく除外して民主主義の文脈だけで語っている人の感覚のズレが、「まだ3割も支持している」という歯ぎしりにつながっている……これがぼくの想像。


 もちろん、わかるよ。これが2020年(あるいはそれ以前の消費増税や不動産バブル崩壊)までのカンフル剤に近いという不健全性は指摘できる(この「不健全性」についてはこの記事の最後に「余談」として付記しておく)ってことは。松尾匡も『そろそろ左派は〈経済〉を語ろう――レフト3.0の政治経済学』でも2020年が終わったらとんでもない破綻がやってくるんじゃないかという不安を書いていた。*1
 そして実感のない人には全くないってことも(後述)。
 だけど、安倍は2020年のオリンピックまでがんばって首相の座にしがみついて、できれば改憲を成し遂げ、「歴史的名宰相」という称号を手に入れて去ろうとしている。その後で大崩落が起きてもカンケーないのである。そこまで保てばいい。むしろ安倍が去った後に大崩落が来るほど、自分の価値は上がるんじゃないか。

二つ目は「保守色」

 むろん、こうした経済政策だけではない。
 憲法改定をはじめとする復古的・タカ派的な安倍政権の対応を、熱狂しているコアなファンもいるのだろう。
 「WILL」とか「Hanada」とか読んでる人ね。
 この前、弁護士の懲戒請求問題に絡んだ人たちの年齢が話題になっていたよね。


 ぼくが前の団地で町内会活動をいっしょにやってきた70代の男性がいる。彼なんかはiPadを購入してネットに日常的に触れる環境ができて、国際的・歴史的な問題で急速に右翼的な発言が増えていっていた。もともと歴史好きで新書などを読んでいたからその素養はあったんだけど。(ただ、左派のぼくともふつうに付き合ったし、彼は「赤旗」を勧められて読んでいたりしていて、iPad購入後もずっと続けていたようだった。)

 どの年齢層に多いってことじゃなくて、全年齢層にいる感じがするけど、中高年は、若い人以上にけっこうこじらせている人が多いなあという気はする。いずれにせよ、こういう保守色を求めて安倍政権を固く支持している層は確かにある。


 いわば「経済政策」と「保守色」という2つの理由が安倍政権支持のコアにあるのではないか。


そして「他に人がいない」という理由

 この2つの理由をコアにして、その外側にこれらをライトに支えるのが、「他に(首相となるべき)人がいない」というものだ。一般的に「他に人がいない」というのではなく、「経済」「保守色」で良いと思っているコアがあるので、「色々まずいかもしれんけどこの2つでとりあえずいい感じなので、他に人もいないし」という支持理由。
 いや、わかるよ。そういう「理由」に以下のように反論したくなるのも。
 安倍はあんなひどい民主主義破壊やっているんだから、安倍以外だったら誰でもいいじゃん、と。
 野党だけじゃなくて、自民党内の他の政治家でも。
 だけど、それが大きな流れになって見えていない。


 自民党は「経済政策」と「保守色」という2つの理由があるから、「まあ安倍でいいんじゃない」と思っているんだろう。
 野党は統一した政権の姿、オルタナティブをいまだに打ち出せていない。


 まとめる。「安倍さんを支持する人ってどういう部分が良いと思ってるの?」という答えは「経済政策」と「保守色」という2つの理由に、「他に適当な人がいない(と思っている)」というプラス1の理由だ――これがぼくの答え。
 「景気回復」を「実感している」は、日経の世論調査で18%、朝日で16%(2017年11月)、読売で20%(2018年1月)。だから、圧倒的多数は「経済がいい」とさえ思っていない。しかしまあ逆にいえば、景気回復を実感し、経済政策がいいと思っている人がだいたい2割いるってこと。保守色がいいというので5〜10%。あとは「うっすら支持」が増えたり減ったり。こんな感じじゃないですかね。


念のため

 あっ、断っておくけど、ぼくは安倍政権の経済政策がいいとは思っていないよ。
 また、「野党は統一した政権の姿、オルタナティブをいまだに打ち出せていないから安倍政権は続いたほうがよい」とも思っていない。早く退陣すべきだと思って、デモにもいっている。野党が統一した政権の姿を出した方がいいとは思うけど、出せない現時点でも安倍政権は倒れるべきだと思う。民主主義にとって危機的だからであり、条件さえあれば自民党内のグループと連携して一致して倒してもいい。
 そして、現状でも「安倍政権が倒れない」とも思っていない。つまりこの状態で安倍政権が倒れる可能性はあると思う。
 ぼくがさっき説明したのは、「3割ほどいる安倍支持層は何を支持しているのか/なぜ支持しているのか」という憶測・想像である。そこを自分なりに説明しただけだから。3割の支持が残っていても倒れるときは倒れるし、「他に人がいないから」というライトな支持層は今後剥がれる可能性はある。


 経済政策がいいから安倍政権が倒れない、というわけでもない。
 だって、さっきも言った通り「景気回復の実感なし」が7割とか8割になっているし、アベノミクスを「評価しない」というのも「評価する」より高いし。
 ここで「経済」で支持されているという推察をしたからと言って、「やっぱり左翼はアベノミクスを見習うべきだよ」というふうに単純にやっちゃいけないと思う*2慌てすぎ
 あくまで「3割いつも残る支持はどういう層なのか」という分析(想像)にすぎないのだから。
 

 念のため。

余談

 低成長経済しかできなくなった成熟資本主義は、バブルをどうしても求めてしまうものであり、その典型が不動産投資だという話。

 イタリアの歴史社会学者、ジョヴァンニ・アリギは『長い20世紀』(1994年)のなかで、現代の資本主義社会にとってバブル経済がいかに避けがたいものであるのかを論じました。
 なぜ避けがたいのかといえば、高度経済成長が終わって低成長の経済になると、投資の利益率も低下しますので、それをおぎなうために金融的な投機が拡大するからです。
 典型的なのが不動産投資です。
 低成長になってマンションやオフィスビルなどの需要が低下すれば、当然マンションやオフィスビルは売れなくなります。それをおぎなおうとすれば、「かならず値上がりするから」といって買い手を開拓するしかありません。
 このとき、もし買い手の開拓がうまくいって、多くの人が「値上がりするだろう」という見通しのもとマンションやオフィスビルを購入してくれれば、その結果、実際にそれらの需要が高まり、マンションやオフィスビルが値上がりします。
 そうして値上がりがつづけば、今度は銀行などの金融機関が融資へのハードルをさげて、より多くの人にマンションやオフィスビルの購入のためにお金を貸してくれるようになるでしょう。その場合、金融機関は、買い手が購入する不動産価格の上昇に見合った金利を受け取ることができるからです。
 そうなると、さらに多くの人が将来の値上がりを見込んでマンションやオフィスビルの購入にむかい、結果としてさらに価格も上昇します。
 こうして、実際の需要とは別にマンションやオフィスビルが売買され、価格も上昇するようになり、バブル経済が生み出されていくのです。
 資本主義経済は、より多くの利益を売るために資本を投下(つまり投資)する、という運動によってなりたっています。
 そうである以上、経済成長率が低下していくと、より高い利益率を求めて金融的な投機が拡大してしまうのは、資本主義経済にとって不可避的な傾向です。(萱野稔人『社会のしくみが手に取るようにわかる哲学入門』p.100-102)


 高島市政が「天神ビッグバン」という看板で福岡都心部でのビル30棟建て替えをさせる目標を立て、容積率の緩和などのメニューや目玉拠点施設をつくって誘導しようとしているのは、まさに短期的なバブルを引き起こしたいためだろう。
 インバウンドを当て込んで「ウォーターフロント」を再整備して、IR(カジノがついていると言われる統合型リゾート*3)だの巨大回遊型ペデストリアンデッキだのホテルだのを建設し、博多駅から港まで都市型ロープウエーをつくるのだと息巻いている。これも同じことだ。


 高島市政のこうした政策は、インバウンドを増やし開発をして地価を引き上げトータルの経済成長を生み出しているという点では「うまくっている」。バブルの熱狂を引き出しているのだ。(ただし、市内の雇用者報酬や家計可処分所得が下がっているので、市民にはこうした政策は還元されておらず、それどころか、市内の渋滞、バス運転手不足、学校・保育園の圧倒的不足、民泊でのトラブル・犯罪などのコストを市民は支払わされているのであるが。)

*1:『そろそろ左派は〈経済〉を語ろう』のp.285-289。「僕はオリンピックの後に大きな問題が出てくるんじゃないかなと思います」(松尾)「一番怖いのは東京オリンピックのあとだ」(ブレイディ)「このままでは五輪後地獄だぞ」(北田)。

*2:ただ、個々の経済政策をじっくり分析すること自体は必要で、例えば金融緩和についてはもう少しぼくも慎重に調べてみたい。すぐに飛びつくなよ、という程度の話。

*3:高島市政はカジノが付属することは現時点では確言していない。

「へえ〜」と言うだけかな


5歳男児『女の子が鉄棒で回った時パンツが見えてエッチだった(笑)』この発言に親としては何と声をかけるべきなのか?→様々な意見が集まる - Togetter


 この人(はなびら葵、@hollyhockpetal)は

  1. 性暴力・性支配的なコードについて注意を促す
  2. 性欲や性についての自由でポジティブな感情に抑圧をかけたくない

という2つの命題の間で苦しんでいる。
 これはまっとうな悩みようである。
 「はなびら葵」の悩みかたの範囲であれば、まさに状況による。この範囲なら悩んだ上で、その子にとって最善のものだと親が判断したことを与えればいい。


 こちらも似た感じ。
5歳男児から「鉄棒のとき女の子のパンツが見えてエッチだった(恥笑)」と言われたらどう対応するか - 斗比主閲子の姑日記

まずは否定しないけれど、「へー、パンツ見えちゃったんだ。でもその子には言わないであげたんだよね。偉いね。パンツもおちんちんと同じで人が勝手に見ていいものじゃないもんね」と伝えると思います。

http://topisyu.hatenablog.com/entry/2018/05/27/174329

 そして、斗比主閲子は次のように続ける。

子どもが思うこと自体は他人がどうのこうのできるもんじゃないですが、パンツを見られた女の子がどう思うかとか、その女の子じゃなく自分自身の性器や下着が見られたときに、それは防御される対象になること自体を学ぶのは、未就学児の性教育としては基本だと思います。

http://topisyu.hatenablog.com/entry/2018/05/27/174329

 もちろん斗比主閲子の対応は「あり」だ。
 否定的に言っていない分だけ、さらにいい対応だと思う。

ぼくの場合は

 どちらの対応もアリだとは思う。
 その上で、ぼくならどうするか。
 ぼくには娘がいるが、息子はいない。
 自分はかつて「元・男児」であったが、男の子を育てた経験はない。なので想像するしかないのだが、就学前の子どもとして学ぶべき性的倫理は、「自分のプライベートゾーンは大切にする。他人のプライベートゾーンは暴いたりもてあそんではいけない」ということだろう。いや、もちろんそれ以外のことも学びうる。だけど、親から子どもに注意として呼びかけるものは、これくらいのことなのではないか。


 この倫理を確立するために、言葉で教えてもいいし、前にぼくが挙げたように絵本を使ってもいい。

おかあさんとみる性の本 全3巻

 例えばもし男の子が女の子のパンツを下げて中身をみようとしていたら、緊急にそれを停止させてそれがなぜダメなのかを教える必要がある。


 だが、それ以外の点ではどうだろうか。「性欲や性についての自由でポジティブな感情に抑圧をかけたくない」し、親子の間でのこうした問題に関する自由な議論・感情が失われることは、ぼくはマイナスとしてヨリ大きいと思う。


 この「はなびら葵」の息子=5歳の幼稚園男子は、羞恥をもって親に「パンツが見えたこと」を伝えているのであれば、「自分のプライベートゾーンは大切にする。他人のプライベートゾーンは暴いたりもてあそんではいけない」という倫理はすでに身につけていると考えられる。
 そして、ひょっとしたら自分の性欲が喚起されてしまったのかもしれないし、あるいは性欲は惹き起こされなかったかもしれないが社会的にそれが「エッチ」であるという振る舞いを知っていて恥ずかしそうにしただけかもしれない。
 そのどちらであるにしても、そこに立ち入って注意をするのは就学前の子どもには荷が重いのではないか。逆に言えば、就学前の子どもであれば「自分のプライベートゾーンは大切にする。他人のプライベートゾーンは暴いたりもてあそんではいけない」という倫理があるなら、とりあえずそれでよしとする。
 ゆえに「性欲や性についての自由でポジティブな感情に抑圧をかけてしまう」「親子の間でのこうした問題に関する自由な議論・感情が失われる」恐れの方をぼくは重視する。だからぼくであれば、おそらくその部分(命題1.)はスルーする。
 「へえ〜」とか言って終わり。
 あくまで「就学前」の話ね。


 いちいち性暴力・性支配的な考えが子どもの言動の中に顔を覗かせたときに、親はそれを細かく叩くことはできない(許されない大きなものは別にして)。
 それよりも、小学校に上がってから以降で、

  • 性教育に役立ちそうで面白そうなマンガや本を渡すこと。
  • 親子でテレビを見たり同じマンガを読んだり雑談をしたりする中で自然に親の考えを述べること。

などをやった方がいいんじゃないかと思う。そうすることでワクチンをつくるっつうか、ヒドゥン・カリキュラムを叩くというか。
 鉄棒でパンツが見えたこと以外にも子どもは世の中の性的支配コードを様々に学んでいる。それをいちいち容喙するかどうかにあまり悩まず、太いところで親としてできることを考えた方がいいんじゃなかろうか。


 ただ、注意しても「性欲や性についての自由でポジティブな感情に抑圧をかけてしまう」ことがない場合も十分ありうるし、仮に「親はうるさいやつだな」と思ってもそこから学ぶこともあるかもしれない。また、本に書いてあることではなく実地で問いかけられる瞬間に注意したり議論したりすることの方が効果的ではある。
 だから、「はなびら葵」や斗比主閲子の対応も、書いてある範囲であれば全然アリだとは思う。子どもや状況次第だし、あくまでぼくは命題1.よりも命題2.を重視する、というほどのもの。