「ご飯論法」は安倍政権に共通する感覚では


 上西充子・法政大学キャリアデザイン学部教授*1高度プロフェッショナル制度(いわゆる「高プロ」「残業代ゼロ法案」)をめぐる加藤厚労大臣の答弁の不誠実さを「ご飯論法」として批判し、辞任を求めている。

高プロの「異次元の危険性」を指摘した小池晃議員に、「#ご飯論法」で否定してみせた加藤大臣は、辞任を(上西充子) - 個人 - Yahoo!ニュース


 記事の中でぼくのことも触れてくれていますけど、上西先生、本当に律儀な人ですね…。*2

 「ご飯論法」とは上西が特徴づけた言い逃れ答弁の論法で、「朝ごはんを食べましたか?」という質問に「(朝、パンは食べたけど、ごはん=米飯は)食べていない」と答えるようなやり方である。


 共産党小池晃参院議員が“この制度が通ったら4日間休ませれば、あとはずっと働かせることが、104日間を除けばずうっと働かせることができることになる。そういうことを法律上排除するしくみがあるか”と聞いたのに、加藤大臣は「働かせるということ自体がこの制度にはなじまない」とか「そういう仕組みになっていないんです。法の趣旨もそうでないんです」「今委員おっしゃったようなことにはならないだろう」などとくりかえす。
 ふつうに聞けば、「小池が無知杉。返り討ちワロタ」とか「ブサヨは印象操作もたいがいにせえや……」とか思うところだが、小池はしつこく食い下がり「ご飯論法」を暴いてしまう。
 ついに加藤は認めるのだ。「それ自体を規制するという規定はありません」。

佐川答弁で見た「ご飯論法

 それで、この「ご飯論法」については、前にぼくが森友疑惑での佐川前財務省理財局長の証人喚問でのやりとりで似たものを聞いて、愕然としたことがある。(それを上西記事を読んで思い出し、ツイッターで「ご飯論法」だとつぶやいたのである。)
 今年(2018年)3月27日の衆院予算委員会での証人喚問、共産党宮本岳志議員の質問と佐川の答弁だ。


 森友疑惑が起きて、面会等の記録があるかどうか2017年2月の国会で問題になった。17年2月に佐川は“破棄を確認した”という趣旨のことを国会で言っている。だとすると文書は破棄してなかったんだからこれは虚偽答弁になるよね、と宮本が追及するのである。追及するのだが、佐川の証人喚問での答弁はこうだった。

 宮本 日本共産党宮本岳志です。この森友問題、昨年2月15日の私の当院財務金融委員会の質問から始まりました。そこで聞くんですが、あなたは昨年2月24日の衆院予算委員会で面会等の記録は平成28年(2016年)6月20日の売買契約締結をもって破棄していると、こういう答弁を私に初めてしました。この答弁は虚偽答弁でしたか。


 佐川 委員おっしゃる通り、2月半ばから委員のご質問で始まったことでございまして、いまのお話の6月20日をもって廃棄をしたという私の答弁は、財務省の文書管理記録(規則)の取り扱いをもって答弁したということでございまして、そういう意味で本当に丁寧さを欠いたということでございます。申し訳ありませんでした。

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik17/2018-03-28/2018032804_01_0.html

 佐川のいう「文書廃棄を確認した」というのは「文書を捨てたことをシュレッダーで現認した」という意味ではもちろんないし、「文書は捨てたよなということを実際に文書を調べて確認した」という意味でもなかった。
 ふつうはそんなふう(個別文書の廃棄の個別的確認)にとらえる。
 ところが、佐川は“文書廃棄を個別に確認したわけじゃねーよ、何年たったら捨てるっていうルールがあるのを確認したって意味だよ。そういうルールがあるから捨てたんだろうね、ってコト”と答弁していたんだと言い逃れたのである。


 そりゃ宮本は怒るわな。

 宮本 そういう問題ではないんですね。あなたは、午前中の証言で個別の事案についてもきちんと確認をして答弁をしなかったという点で丁寧さを欠いたと、こういう答弁をしているんですね。しかし、2月24日の私に対するあなたの答弁は「昨年6月の売買契約に至るまでの財務局と学園側の交渉記録につきまして、委員からのご依頼を受けまして、確認しましたところ、近畿財務局と森友学園の交渉記録というのはございませんでした」と。このとき確認をして「なかった」と答弁しているので、一般的な規定を答弁しているんじゃないんです。これはどちらかがうそですね。


 佐川 大変申し訳ありません。その「確認をした」という意味ですけども、理財局に文書の取り扱いを確認したということでそういう答弁をしてしまいました。申し訳ありませんでした。


(議場騒然)


 宮本 そんなの通りませんよ。委員長、だめですよ、そんなの。答弁になってない。そんなの通らない。答弁なってないじゃないか。


 (委員長「再答弁してください。佐川証人」)


 佐川 本当に申し訳ありませんでした。文書の取扱規則の話をしてございました。すいません。


 宮本 じゃあ、この答弁については、虚偽答弁を認めますか。


 佐川 それはその、虚偽というふうに(宮本「虚偽じゃないか」)、私自身は、その虚偽という認識はそのときはございませんでした。


 宮本 「確認をして」というのはですね、規定をただただ確認しただけだって、通りませんよ、それは。そして今日やっている証言は、確認をしてなかったから丁寧さに欠けたって言ってるんですよ。これは午前中の答弁がまさに証言が偽証であるか、昨年の答弁がまさに虚偽答弁であるか二つに一つですよ。じゃあ、午前中の答弁撤回してください。


 佐川 ですから、あの、おわび申し上げますが、昨年の委員に対する答弁がそういう趣旨の答弁だったということでございます。

文書改ざんはアウトにされているが「ご飯論法」はセーフにされている

 ぼくが、ツイッターでこのことについて「足元が崩壊する感覚に襲われた」と書いた。


 そのあとのツイートでも書いたように、

もしこんな不誠実な答弁が許されるなら、野党議員はどんな答弁を聞いても安心できないし、記者は百万通りの質問をしないと回答が定まらないことになる

https://twitter.com/kamiyakousetsu/status/993514940056059905

からだ。

 「そんなの、森友でそもそも文書改ざんまでやられていたんだから今さら驚くことでもねーだろ」と思うかもしれない。
 しかし、「文書改ざん」はアウトであることはもうハッキリしている。誰がやったのかはまだ決着がついていないけど。
 だけど、この佐川・加藤の「ご飯論法」はアウトだとはされていない、「やってはいけない」ということにはなっていないのだ。セーフ判定なのである。あまりにもひどい。

官房長官も「ご飯論法

 じじつ、菅官房長官も、この「ご飯論法」を、佐川喚問の後、今年(2018年)3月28日の参院予算委員会で平気でやっている。共産党の小池とのやりとりだ。


 “決裁文書に全部記録してあって、そっちは30年も保存しているんだから、面会記録なんか捨てても大丈夫だよ”という旨を、森友疑惑が持ち上がった2017年2月に、菅は記者会見で答えている。“決裁文書を読んだけどそっちにぜんぶ書いてあるんだよ”、と菅が言ったように聞こえるのである。
 ところが今年になってから、その決裁文書は書き換えられていたとわかり、菅はあわてて「決裁文書の内容について説明されたことはない」と言い訳しだしたのだ。決裁文書の中身なんか見ていないよ、と。
 小池はここにかみついた。あんた確認したんとちゃうんか、と(以下の「太田」は財務省理財局長)。
 

 小池 会見当時、森友疑惑はすでに安倍首相の進退に関わる重大問題になっており、記録の破棄も疑惑の隠ぺいだと大問題になっていた。決裁文書の内容を確認もせずに会見したのか。


  財務省一般文書の管理規則について述べた


 小池 記者はルールを聞いたのではない。長官が決裁文書に触れれば、理財局は改ざん前の決裁文書をすぐに確認するはずだ。


  秘書官がつくったメモを確認して発言している。決裁文書の内容は知らず、ルールを紹介した。


 太田 長官はルールを伝えたと承知している。

https://www.jcp.or.jp/akahata/aik17/2018-03-29/2018032903_01_0.html

 ここでも、「確認」は個別の文書の確認ではなく、一般的なルールの確認ということになっている。
 こんなことが許されたら、言葉の意味を一つひとつ吟味しないと、とんでもない言い抜けをされていることになるではないか。よく記者が官邸の会見に食い下がって質問することを「空気読めよ」「論争の場じゃねーぞ」と非難する向きがあるが、こんな「ご飯論法」がOKなら、そりゃ食い下がるのが普通のジャーナリストってことになるわな。
 そしてそういう言抜け=「ご飯論法」はいまでも問題ないことにされているのである。

霞が関文学」一般の話ではない

 これは「霞が関文学」と言って済ませられる問題ではない。
 例えば、「しんぶん赤旗」が、アマゾンの税逃れについて公開質問をしている。

 本紙はアマゾン米国本社にも質問状を送り、アマゾンが過去も現在も日本のネット通販事業の売上高を米国に移転して日本での課税を逃れているという見解を伝え、事実でなければ否定するよう求めました。米国本社は「アマゾンは日本を含むすべての国で、要求された税金の全額を払っている」と回答。日本事業の売上高を米国に移していることは否定しませんでした。

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik18/2018-05-14/2018051401_01_1.html

 この時アマゾンの回答はわかりにくい。「アマゾンは日本を含むすべての国で、要求された税金の全額を払っている」。「霞が関文学」である。ちょっと聞くと「ああ税逃れはしてないんだな」と思ってしまう。


 しかし、「売上高を米国に移転して日本での課税を逃れているという見解を伝え、事実でなければ否定するよう求めました」とあるように、「赤旗」側が周到に質問をしているためにアマゾンはそこを否定できていない。「日本事業の売上高を米国に移していることは否定しませんでした」とある通りだ。
 つまり、“売上高を米国に移して操作しているけど、操作後はちゃーんとどの国の法律にもかなった形で税金を払っているよ”と言っている可能性があるのだ。違法な脱税はしていないけど、合法的に税金は逃れていますよ、と。


 これ自体は噴飯ものだけど、いちおう「誠実」に回答している
 よく読めば論理はたどれるからである。
 しかしご飯論法」はそれがたどれない。もしくは、いくつもの意味に取れてしまう。あるいは、本当によくよく確かめないとその論理をたどれないほど「か細い」。
 そういうことをされると、議会で質問する側は一つの答弁についてなんども意味を確認しないといけなくなってしまう。議員として見逃しをした=チェックをしなかった、という汚名を受けないために。しかし質問時間が決まっているので、そのやりとりは「空費」になってしまうのだ。


 ゆえにご飯論法」が認められるのであれば、足元が崩壊する、つまり議会論戦そのものが成り立たなくなるという感覚に襲われたのである。
 そして、佐川といい菅といい、そして加藤といい、この「ご飯論法」は安倍政権に共通する感覚・体質ではないのか、という思いを上西記事を読んで強くした。
 

*1:ツイッター上は直接のやり取りをしたので敬称をつけたけど、ここではいつものこのブログのスタイルで、以下は敬称を略させていただく。

*2:なんか、上西の記事ではぼくが「ご飯論法」の名付け親のように書いてくれていて恐縮するが、ツイッター上のやりとりでも明らかにしたように、もともと上西の記事にインスパイアされてつぶやいただけのことなのだ。命名権は事実上上西のものである。

映画「ドラえもん のび太の宝島」

 保育園時代のパパ・ママ友たちの好意で、映画「ドラえもん のび太の宝島」を親子で観た。
 シリーズでは歴代最高の動員数という。

映画ドラえもん のび太の宝島 歴代最高の428万人動員 興収48億8000万円


 人気アニメ「ドラえもん」(テレビ朝日系)の劇場版最新作「映画ドラえもん のび太の宝島」(今井一暁監督)が、3月3日の公開から37日間で動員数が428万人を突破し劇場版「ドラえもん」史上、過去最高の記録となったことが9日、分かった。4月8日までの動員は約428万2000人、興行収入は約48億8000万円を記録するなど大ヒットしている。これまでの最高は、1989年3月公開の「映画ドラえもん のび太の日本誕生」の約420万人だった。

https://mainichi.jp/articles/20180409/dyo/00m/200/015000c


 実は「ドラえもん のび太のひみつ道具博物館」(2013年)以来毎年観ているが、今年は本当にダメだった。その点はつれあいとも一致した。*1


 ネットには感想がすでにたくさん出ている。

ドラえもん のび太の宝島 酷評注意 ネタバレあり|MOJIの映画レビューhttps://ameblo.jp/moji-taro/entry-12359190883.html

『映画ドラえもん のび太の宝島』感想 動きに魅力が多い分、脚本には突っ込みどころも…… ネタバレあり - 物語る亀
http://blog.monogatarukame.net/entry/nobita-takarajima


 この2つに共通しているのは、物語のドライブになっている問題が解決されていないという指摘である。

最大の問題はやはり、敵の設定。
敵が行おうとしていて、ドラえもんたちが止めようとする「悪いこと」がまったく意味不明で、何が何だかさっぱりわからないこと。

宝島と思われたのは実は未来からやって来た海賊船で、いろんな時代の海から宝物を集めて回っているんですね。
その船長のシルバーは実は、のび太たちが出会って一緒に冒険する少年フロックと少女セーラの父親で、元科学者。奥さんも科学者で、地球からエネルギーを取り出す研究をしていたが、過労で死んでしまった。彼は奥さんの研究を完成しようとするが、地球が滅亡する未来を見てしまったため、人々を宇宙へ脱出させるために海賊船で地球のエネルギーを吸い取っている。

この設定が、あまりにも意味不明なんですよ。
地球が滅亡するから宇宙へ脱出するけど、宇宙へ脱出するためには、地球が滅亡しなければならない?
じゃあ、宇宙へ脱出するのをやめればいいんじゃないの?

https://ameblo.jp/moji-taro/entry-12359190883.html

主「いや、すっごい単純なことなんだけれどさ……結局何も解決していなんだよね、この作品って」
カエル「……え? 親子の仲は元に戻ってハッピーエンドだったじゃない?」
主「いや、だからさ……その前に地球が滅んでしまうからってことであんな大それた計画を実行したわけでしょ?
 だけれど、そっちの方面に関しては何1つとして解決していないんだよね。
 すごく無理矢理ハッピーエンド感を出しているんだけれど、でも地球は滅びることは回避していない」
カエル「う〜ん……まあ、確かにそうなのかも……」
主「それに、お話が壮大すぎてついていけないところがあるよね。
 じゃあシルバーは一体何をしようとしていたのか?
 なぜそれをしようとしていたのか?

http://blog.monogatarukame.net/entry/nobita-takarajima

 これに対して、いや解決しているよ、と指摘するブログもある。

ドラえもん映画「のび太の宝島」の感想!考察するほど秀逸さが分かる! | BLOGSTAR
https://mypace-life.com/?p=2827

・・・ここで1点おや?と思うことが。
このままじゃ、悲惨な未来は回避できないよね?ということです。シルバーとフロックとセーラ、3人でほっこりしてる場合じゃないじゃん!という声が、レビューなどでもちらほら書かれていました。
ですが、私は心配無用だと思います。
その理由は「シルバーもフロックも超一流のメカニックになったから」です。しかも家族関係が元に戻ったことによって、2人はこの先協力することができます。
悲惨な未来を回避すべき技術を、これから2人で開発していくのです。
シルバーが「未来の地球の悲惨な姿」を見た時点では、シルバーのメカニック技術は素人レベルでした。もちろん、フロックにも技術が備わってない頃です。
しかし、それがきっかけでシルバーは研究に打ち込み腕を上げていきましたし、フロックも結果的に優秀なメカニックになりました。
なので、仮に映画のラストの時点でもう一度未来の地球の姿を見たとしたら、きっと良い未来になっていると思います。未来が変わったということです。
のび太の宝島」ではこんな風に、『本当に大切なことに目を向けて行動すれば未来は変えられる』というメッセージを放っていると思います。

https://mypace-life.com/?p=2827


 解決したか・していないかは議論の余地があるかもしれない。
 しかし、「地球を滅亡から救う」という物語の推進動機がしっかり作られておらずに、とってつけた感じが否めないのである。性急な説明で終わってしまっているのだ。
 性急な説明で終わってしまっているというのは、地球の滅亡とこの家族(シルバー一家)の物語を絡めてしまっているから。盛りすぎなのである。


 地球が滅亡する、というのを例えば昨今の環境問題への意識と関連させて子どもたちへの道徳的なメッセージにしたいという欲望。それと家族や親子への愛情、そして子どもが未来への進路を選ぶ際の清い動機にさせたいという欲望。そういうものが不純に絡まり合って、( ;∀;) イイハナシダナーにしようという欲望が透けて見えるのである。


 こういう感想が出てくるのはむべなるかな、と言わざるを得ない。
 「地球の滅亡」って……こう……もっと……ドタバタであるべきじゃないのか?
 それこそ藤子・F・不二雄モジャ公』には「地球最後の日」が出てくる。オットーという宇宙人がインチキ予言師になりすまし、はじめはバカにしていた人たちが次第に信じ、世界中が大恐慌に見舞われていく。
 逃げようとする人の群れが自動車事故を起こし、エッフェル塔から自殺者が雨のように降り、争っていた南北ベトナムが逃げるロケットをよこせと米軍に共同デモをかけたり。
 ここには「未来は変えられる」だの「親子の情愛」だの「地球を救おう」だの、説教くさいメッセージはない。
 子どもの心に原初的な不安を与え、最後は痛快な救済劇を用意していたのが『モジャ公』だった。


 今述べたことに含まれるけど、親子の愛情みたいな話もそうである。
 いや、別に親子の愛情の話が出てきてもいい。
 だが、無理に入れ込むな、と言いたい。
 つれあいは、映画の最初にのび太とパパがケンカするシーンがあり(夏休みに宝島探検に行きたいというのび太の要求をママが反対し、パパも一旦同意しかけるが「宿題が終わってから」という現実的な条件をつけてしまい、ケンカをする)、そのエピソードになんの深みも、共感もできないということを言っていた。ゆえに、ラストでのび太たちが出会うシルバー親子の相克と、のび太のび太パパとのケンカをタブらせようとしても、あまりダブらない。

メインとなるべきストーリーがこれほどグダグダなのに、それを収拾しようとせずに、終盤はやたらと感動させようとする方向ばかりに向かいます。それが正直、ウザかった。
お母さんの死の回想や、父と子の確執や涙の和解をこれでもかと強調する。
のび太たちも、「地球が大変なことになる! それはさておき、親と子がいがみ合うなんてダメだよ!」終始こんな調子。
なんていうか、ストーリーの辻褄なんてどうでもいいと思ってることが透けて見えるんですよね。そんなことより、泣ければいいんだろ、と。

https://ameblo.jp/moji-taro/entry-12359190883.html

 そもそもシルバーが人が変わったように家族を顧みない「仕事人間」になったのは、地球滅亡という妻の遺したテーマを解決するためであって、それで家族のことがおろそかになったならしょうがねえだろ、とぼくなどは思ってしまうクチである。例えば犯罪とか富とかそういうもののために心変わりしたというなら話は別だけど。
 地球滅亡と家族との時間を天秤にかけたら、そりゃあ「多少の犠牲」もやむを得んわな。
 いや……もしポリティカル・コレクトネスを貫き通すとすれば、子どもが放置されていいはずないので、そこは「働き方改革」をして、シルバーが全部背負い込むんじゃなくて、仕事ふれよ。チームでやって定時に帰れよ。

 
 映画が始まった時、確かに、のび太ジャイアンたちの体がよく伸びる、伸縮自在に動き回るね、とは思った。そこをこのアニメの美点としてあげる人もいる。

これは今井監督がインタビューでも語っているけれど、動きが今回とんでもなくいい!

http://blog.monogatarukame.net/entry/nobita-takarajima

カエル「序盤からグリグリ動くし、その1つ1つがため息が出るほどに楽しいんだよね。子供たちのいる中で『この作画……ヤベェ』と呟いている、どっちがヤバイんだかわからないような状態になっていたし……」

主「それは別にいいんだよ!

 いつも語るけれど子供向け映画を魅せるというのは実は難しいことでもある。爆発や血みどろの描写で引き込むという選択肢は、基本的にはできないからだ。特にドラえもんのような幼児も鑑賞対象に入る映画は、あまり暴力的なことはできない。

 だけれど、今作はそのような暴力的だったり、派手なものではなくて動きだけで魅了する非常に『楽しい』ドラえもんに仕上がっている」

http://blog.monogatarukame.net/entry/nobita-takarajima

 だけど、それは何かの目的のために必要な効果なのであって、別に体がよく動くからといって、このアニメに躍動性を感じることはなかった。ぐにゃぐにゃ動いたからなんだというのだ。


 親子の愛情を入れ込もうとするありきたりさに始まり、ジャイアンスネ夫にからかわれるそのからかわれ方のステロタイプ、「冒険ごっこ」のために秘密道具を使って徹底して安全に進行しようとする技術思想、「海賊」の隊列や女ボスの類型的な描き方、セーラとしずかが笑って打ち解け合うシーンの平凡さ……そういうものにイライラしてうんざりした。
 それらはこの間のドラえもんの映画になかったわけではないのだが、ギャグが面白かったり、推進力となるストーリーに説得力があったり、それだけのことでそれらは帳消しになったり、また、逆に作品の良さに奉仕するものに反転したりした。今回はそれがなかった。一つ一つが次第に積み重なって、ぼくをイラつかせることになった。

*1:娘は「前作の『のび太の南極カチコチ大冒険』ほどよくはないが、それなりに楽しめた」派。

『ママレ』の設定で考えるスワッピングと2家族同居


 「サイゾー・ウーマン」の記事、「実写映画化『ママレード・ボーイ』はスワッピング漫画では!? トンデモ設定なのに支持されるワケ」でインタビューを受けて答えた。
http://www.cyzowoman.com/2018/04/post_182449_1.html


 このインタビューに関連して、もうちょっとここで書いてみたいことは、スワッピングと2家族の同居についてである。


 もともと編集部からの質問は、

しかし、大人になった今、改めて『ママレード・ボーイ』を読むと、離婚した光希と遊の両親が相手を入れ替えて再婚する設定に、「これって、2つの夫婦のスワッピング物語じゃないか?」と突っ込まずにはいられない。さらに再婚後、2組の家族が一緒に同居してるなんて、もはや乱交パーティーだ。にもかかわらず、なぜ誰もこのぶっ飛び設定に触れようとしないのか。

なのだが、ぼくは、こんなきわどい設定がなぜ読者である子どもたちに支持されたのか、という角度から答えた。
 回答そのものは、インタビュー記事の通りだが、少しだけ補足をしておく。

「コミュニティ家族」

 「ぶっ飛んだ設定」はむしろ少女マンガで待ち望まれているが、その「ぶっ飛んだ設定」を持ち込むことで逆に子どもたちにとって魅力や理想や憧れが増すことだ大事だ。

ママレード・ボーイ コミック 全8巻  完結セット

 『ママレード・ボーイ』で「連れ子の同居の恋愛」にする場合、ひとり親同士の結婚という形や、2夫婦が同居せず子どもたちだけの同棲(よくある海外赴任。それがダブルで重なるとか)という形などがありえるが、わざわざ2夫婦(2家族)の同居というスタイルを選んだのはなぜか、ということを考える必要がある。


 『ママレード・ボーイ』読者である小学生女子がそこに魅力を見出すとすれば、それが「親しい友だち家族との楽しい同居」ではないか。
 ぼくの保育園や小学生の人間関係をみると、親同士が子どもを預けあって、家族同然の付き合いをして、子どもたちも親しいというコミュニティが結構ある。あのコミュニティが進化して一つ屋根の下での「家族」になってしまうという設定だ。「コミュニティ家族」とでも言おうか。
 親しい友だち家族で遊びに行ったり、お出かけしたりする時は、子ども心には、このままずっと遊んでいたらいいな、と思えるような時空間である。
 実際、『ママレ』には全巻通じて、2つの家族が家の中でゲームをしたり、宿題をしたり、テレビを見たり、食事をしたり、旅行に行ったりするシーンが描かれ続ける。つまり、家族が非常に仲がいいのだ。


 連れ子をお互いに持ったステップファミリー……という設定はよくあるが、『ママレード・ボーイ』のようなコミュニティ家族は家庭の雰囲気、楽しさの度合いが全く異なる。劇的に楽しいのだ。


 『サザエさん』のような2世代が同居する拡大家族が解体し、核家族となった80年代*1を経て、共働きが広がった90年代初頭に、普通の核家族の家庭ではそこに楽しさを作り出せないのである。

オトナ目線で『ママレ』のスワッピング・2家族同居を考える

 子ども目線を外れて(つまり子どもが納得するかどうかを全然別にして)、オトナの目線で、もう一度『ママレ』の家族を考え直してみると、ある種の合理性が浮かび上がる。


 もし仲の良い家族とコミュニティを作れたら、住居費・食費などの生活費用や家事労働コストは共有ゆえに低下するのではないか。

……例えば、メルシナ・フェイ・パースは一八六〇年代に協同家事(cooperative housekeeping)の概念を示していた。
 パースの考え方はひとことでいえば、協同組合組織による家事労働の集約化というものであった。一二人から五〇人の女性が協同組合をつくり、そこで、家事労働を集約的に行う。協同組合の建物や設備は、組合の会員によってまかなわれる。料理、洗濯、裁縫、育児などがおここでおこなわれる。彼女たちには夫たちから賃金が支払われることになる。協同家事が成立すれば、家族向けのキッチンのない住宅と単身者むけのアパートメントをつくることができるとパースは考えていた。(柏木博『家事の政治学』p.13)

 単婚家族にはない、賑やかさ。楽しさ。


 そして、2夫婦のスワッピングは、一夫一婦制のもとでのセックスのタイミングのズレ、セックスレス、パートナーに「飽きる」という問題に対して、一つの解決策を与える。
 スワッピングについては坂爪真吾が『はじめての不倫学』の中でも論じているが、簡単に言えばよほど条件が整わなければストレスなしには広く実行できない、という旨のことを述べている。
 だが、逆に言えば、もしお互いの夫婦で完全な合意があれば、理想的とも言える解決策となる。


 これはぼくの勝手な設定(つまり妄想)だけど、『ママレ』の2夫婦は、単純にパートナーを交換しただけじゃなくて、前のパートナーともセックスし続けてるんじゃないのか。つまり実は「2夫婦」じゃなくて「4人で1組の夫婦=セックスグループ」だったんじゃないのか、と思う。
 坂爪が紹介しているが、スワッピングが単なるセックスのための交換であるのに対して、複数の恋愛感情を許容する「ポリアモリー」というものが存在する。
 もし『ママレ』が前のパートナーにもいまのパートナーにも恋愛感情を持っていたら、それはすでにスワッピングを超えた、ポリアモリーであるとさえ言える。


 しかし……家でセックスするのは相当にきついな、と思う。何よりも物理的に。完全に防音でプライベートな空間が設定されていればいざ知らず、2つの夫婦がいて、高校生の男女の子どもがいる住宅で、セックスをするのは至難であろう。ホテルとかに行くしかない。それと、セックスしなくても家でイチャイチャするというのは厳しいような気がする。


 ここでも逆に、子どもたちがおらずに4人の夫婦だけしかいなければ、全く問題がないようにも思われる。


 いずれにせよこんな具体的なことは小学生女子は考えないはずである。
 オトナが妄想して楽しむにはもってこいだ。

*1:核家族が広がった……というのは統計上は単純に言えないと言われている。「核家族世帯は、実は戦前から『主流派』だった」(H18版少子化社会白書 http://www8.cao.go.jp/shoushi/shoushika/whitepaper/measures/w-2006/18webhonpen/html/i1511110.html )。ただ80年代から単独世帯の割合が急増し、拡大家族の割合が減っていったことは間違いない。

本を出します 『マンガの「超」リアリズム』


マンガの「超」リアリズム 4月に花伝社から『マンガの「超」リアリズム』という本を出します。マンガ評論の書籍は2冊目になります。連載当時から反響があって、連載をしていた雑誌の編集の方から書籍化を強くすすめていただき、花伝社での出版の運びとなりました。

続きを読む

萱野稔人『社会のしくみが手に取るようにわかる哲学入門』

社会のしくみが手に取るようにわかる哲学入門~複雑化する社会の答えは哲学の中にある 「サイゾー」で萱野が連載していたものをまとめた本。
 ときどきの社会事象を、わかりやすく大もとから解説する。
 「わかりやすく大もとから」というのが、池上彰的なそれではなく、哲学的にやろうという態度。
 というのは、初心者の疑問というものはそもそもラジカルな、根元的な問いを含んでいる。そのことをきちんとわかりやすく説明しようとすると徹底的に考えざるを得なくなるからである。
 まあ、萱野の本書が結果的にその課題にうまく応えているかどうかは別問題であるけどね。


 「4 なぜ日本のポストモダン思想は不毛だったのか?」は次のような書き出しだ。

 私が大学に進学したのは1989年ですが、そのころの日本の人文思想界ではポストモダンが全盛期で、少しでも哲学や思想に興味のある学生はほとんどと言っていいほどポストモダン思想(として紹介されていたもの)に感化されていました。
 愛知県の某地方都市でさして文化度の高くない高校生活を送っていた私は、ポストモダンなどというものが思想界を席巻していることを大学に入るまでまったく知らず、したがって当時スタートしてあがめられていたデリダドゥルーズといった哲学者たちの名前も知らなかったので、大学で先輩や同級生がポストモダンの用語や思想家の名前をつかって議論を交わしているのをみて驚いたものです。(p.56)

 その上で、萱野は当時の状況を厳しく総括する。

ただ、その当時日本でなされていたポストモダン論議の大部分は、いまから振り返るとひじょうに空疎なものでした。そのころ日本でだされていた書物や論文をいま読むと、あまりの無内容さと独りよがりな物言いに「よくこんなものにみんな熱中していたな」と恥ずかしくなってしまいます(もちろんだからといってドゥルーズフーコーの議論が無内容だということではありません、あくまでも日本の思想界の話です)。(p.56-57)

 ポストモダン思想への嫌悪は、萱野の初期の著作『国家とはなにか』の頃からにじみ出ていて、その後の彼の著作を読むと端々にそれが感じられた。
 本書のこの部分では、岩井克人貨幣論』が槍玉に挙げられる。

ポストモダン思想における貨幣論では、往往にしてマルクスの『資本論』(第一巻:1867年)における価値形態論が引き合いにだされ、それが記号論的に読み替えられることで、次のように論じられることが定番でした。すなわち「貨幣が貨幣としての価値をもつのは、みんながそれを貨幣として使っているからである(つまり、みんながそれを価値あるものとして受け取ってくれるから、私たちは紙幣を価値あるものとして受け取るのである)」と。(p.58)

 “こんなものは何も説明していない、単なるトートロジーではないか”と萱野は批判するのである。
 岩井克人が最近新聞に引っ張り出されてきて話をしているのをみたが、それはビットコインなどの仮想通貨についてのコメントであった。


 仮想通貨は、それ自体は無価値なものである。
 この点は紙幣と同じである。
 そのことはぼくも過日のエントリで書いた。
http://d.hatena.ne.jp/kamiyakenkyujo/20171224


 無価値なものが流通手段機能を果たし、通貨として働くのはなぜか?
 端的に言えば、岩井は「みんなが受け取ってくれるから」というわけだが、萱野は、本書で、「徴税力こそが貨幣の価値の裏づけとなる」(p.61)と言っている。萱野は徴税力を次のように補足的に説明する。

 徴税力とは単に政府の権力の大きさや国民からの支持だけを意味するのではありません。税を支払う人びと(国民)の経済力も、その政府がどれぐらいの額の税を徴収できるかを決定します。
 要するに徴税力とはその国の「国力」全体をあらわすものなんですね。(p.61)

 マルクスは紙幣がなぜ流通するのか、という問いに対して、国家による強制通用力があるから、説明していた。つまり、権力を持っていたからだ、というのである。


 権力を持っているから通用する、というのは「ほら、受け取れよ」ということを暴力をバックに強制できる、という意味であるが、マルクスの時代はその説明で済んだ。なぜなら、紙幣は価値の実態を持つ金(gold)の裏づけがあり、交換を保証してくれたからである。紙幣は単に「私は金100グラムを持ってますよ」という証明のようなものだった。


 しかし、今は金の裏づけはなくなっている。
 それなのに、なぜ紙幣という無価値なものが通用し続けるのか。
 萱野があげた「徴税力」は、いざというときは、国家が「徴税」という形で価値の実体のあるものをどこからか集めてきて引き換えてくれる、という意味にとっていいんじゃないかと思う。ぼく流の解釈だけど。
 そのコアにあるのは、国家権力、国家がふるえる物理的暴力の脅しである。
 ただ、いくら棍棒を持っていても、棍棒を振るわれる国民の方が富を持っていないと話にならないので、萱野のいう「国力」とは、「国家の棍棒+その国民の富」の大きさ、ということになる。いざというときは、その「国力」で、紙幣と富を引き換えてくれるから、安心して使ってください――こういう理屈で紙幣は通用する。


 この説明はなかなかよくできている。
 単に「国家権力の裏づけがあるから」という説明だけだと、例えば貧しい国家の紙幣はあんまり信用されない理由がわからない。貧しい国家は、いくら棍棒を振るっても国民も貧しいので富が集められないのだ。


 この説明は、ビットコインのような仮想通貨と紙幣の違いをも説明する。
 同じ無価値なものであっても、仮想通貨には「徴税力」の裏づけがない。だから、資産価値がゼロになった時(つまり「欲しい」という需要がなくなった時)、本当に無価値になってしまう。


 他方で、ビットコインのような仮想通貨がなぜ流通するのか、という説明としては萱野の説明は苦しい。岩井の説明、「みんなが受け取るからそれは貨幣なのだ」がまさに仮想通貨を言い当てているかのようである。


 萱野が不換紙幣・管理通貨制度下の紙幣の根拠が「徴税力」=「国力」であるというなら、逆に言えば、仮想通貨のようなものは通貨たり得ない、と主張していることになる。
 これは萱野の予言ではないか?
 つまり、ビットコインのような仮想通貨は実は通貨たり得ず、やがて消えて行くのだ、という。今通貨としての通用力をもっているのは、一時的な現象に過ぎない……と。いや別に萱野はこんなことを言っているかどうか知らないが、萱野の主張を延長していくとこういうことが言えてしまうのではないか。


 紙幣自体は、金と違い*1、価値を持たない、無価値なものである。
 しかし、紙幣は国家が「徴税力」=国力の裏付けを持っているので、いざという時はなんとかしてくれるかもしれないという期待がある。
 ところが、仮想通貨はそうではない。
 仮想通貨は、それ自体は紙幣と同様に無価値なものである。だから「1万円」という表示がしてあっても、それ自体が1万の価値を持っているのではなく、「1万円の価値物との交換をしてくれる」証票のようなものにすぎない。価値の実体的な裏付けも、客観的な担保もないのに、「貨幣として受け取る」という合意だけで成立しているのが仮想通貨である。これほど岩井の想定を裏付ける存在はあるまい。
 岩井は、朝日新聞のインタビューで、仮想通貨が無価値な流通手段のままでいることをやめて、分不相応な資産的価値を持ってしまったことを嘆いている。

――貨幣になるには、何が不足しているのでしょうか。
「いえ、逆に過剰な価値を持ってしまったのです。あるモノが貨幣として使われるのは、それ自体にモノとしての価値があるからではありません。だれもが『他人も貨幣として受け取ってくれる』と予想するからだれもが受け取る、という予想の自己循環論法によるものです。実際、もしモノとしての価値が貨幣としての価値を上回れば、それをモノとして使うために手放そうとしませんから、貨幣としては流通しなくなります」

https://www.asahi.com/articles/DA3S13318005.html

 もし、今の仮想通貨バブルが弾ければ、仮想通貨は資産価値を持たなくなる。
 その時、初めてただの流通手段・決済手段としての純粋な通貨として仮想通貨が現れる可能性は確かにある。


 萱野的な予測が勝利するのか、岩井の理屈が勝つのかは、ぼくには今のところどちらとも軍配をあげにくい。


 なお、萱野は、本章を

国家は単に犯罪を取り締まり、市場での交換のもととなる所有権を保護することによって、外在的に市場とかかわっているのではありません。徴税をつうじて貨幣の価値を支えることで内在的に市場を構成しているのです。(p.63)

と結んでいる。
 これはマルクス主義を意識しているのだろう。
 つまり、資本主義国家は経済にとって外在的な存在なのだというアレだ。この点への批判もまた萱野が『国家とはなにか』から唱え続けていることだ。
 しかし、この萱野の考え(国家は貨幣という点で市場に内在的に役割を果たす)は、例えば近代初期において金・銀が国家の関わりなく国際的な決済に使われ、人々によって追い求められてきた、という歴史をうまく説明できなくなるマルクスは、商品経済の中で、貨幣が国家権力の媒介なく自立的に登場して「金」という形態を得ることを、萱野が参考文献として紹介したはずの『資本論』のなかで説明しているのだ。


 萱野の説明は、不換紙幣の説明としてはうまくできているが、それ以前の価値物としての貨幣、それ以後の仮想通貨を説明するのには向いていない、という気がする。

萱野は右傾化したか

 なお、萱野については「右傾化した」という批判がネットを中心に非常に多い。
 正直、本書でも各テーマのポジショニングだけを問題にすればそれは「右」の方にいるな、ということは言える。テレビや新聞で萱野の発言を見ていても、同断である。


 萱野は例えば『ナショナリズムは悪なのか』(NHK出版新書)でも表明しているし、本書でも上記のような物言いをしているように、自身の学生時代に自分の周囲にいたであろうポストモダン的な左派に非常に強い嫌悪感を覚えている。いったん、自身がそこに身を沈めつつ、違和感からそこを脱却したような感じであろう。
 ナショナリズムが俗悪な形で現れた時(例えばヘイトスピーチのような排外主義)、それは「反ナショナリズム」でいいのか、という問いの仕方は、ぼくは誠実なものだと考える。


 他に、萱野は例えばベーシック・インカムには批判的である。
 ぼくも現時点ではベーシック・インカムの現実的導入には課題が多すぎると感じていて、具体的な社会保障制度の改革が積み重なって結果的にベーシック・インカムのような「最低生活保障」に到達する、というのが一番現実的ではないかと思っている。だからベーシック・インカムに手放しで賛成する向きに批判的な萱野の気持ちはわからないでもない。


 萱野が結果的に「右」にきてしまっているのは、彼なりの知的誠実さの結果だと思いたい。むしろ萱野を乗り越えるつもりで左派は具体的対案を考えるべきで、萱野が「右」に行ってしまったこと自体を非難することに、あまり意味はないと思う。

*1:マルクスの説明では、金はその採掘に莫大な労働量を投下すし少ない量で大きな価値を表すとされている。

拙著が大学入試の問題に採用


(118)どこまでやるか、町内会 (ポプラ新書) さっき、出版社から通知が来ていて、ぼくの『どこまでやるか、町内会』(ポプラ新書)の文章が鳥取大学の小論文の入試問題に採用されていて、ついては過去問集に載せたいから著作権者として許諾をくれ、ということが書かれていた。


 ぼくは知らなかったのだが、著作権法第36条には次のような定めがある。

第三十六条 公表された著作物については、入学試験その他人の学識技能に関する試験又は検定の目的上必要と認められる限度において、当該試験又は検定の問題として複製し、又は公衆送信(放送又は有線放送を除き、自動公衆送信の場合にあつては送信可能化を含む。次項において同じ。)を行うことができる。ただし、当該著作物の種類及び用途並びに当該公衆送信の態様に照らし著作権者の利益を不当に害することとなる場合は、この限りでない。


2 営利を目的として前項の複製又は公衆送信を行う者は、通常の使用料の額に相当する額の補償金を著作権者に支払わなければならない。

 いちいち入学試験についての規定があるんかい……と驚かざるを得なかった。もともと学校教育で使うものは規制が緩和されていることは知っていたが、入試は後で付け加えられた条項のようだ。グレーゾーンだったから整理したのだろう。


 どんな問題か、興味はある。
 よく言われるように、著作者がうまく問題を解けない、みたいな話はある。
 その入試では、ぼくが新聞記事や政府の事例集などを引用している部分を使って問題を出していた。「そこを使うのか」と意外に思わないでもなかったが、たしかに「著者の主張」はそこにおいて出ている。
 町内会をめぐる問題を基本点から学生たちにわかるように、しかも著作権法上の規定を損なわずにぼくの著作から利用し、しかも著者であるぼくの主張のコアもきちんと汲み取らせるというのは、なかなかできることではない。出題者に脱帽である。


 ぼくが『どこまでやるか、町内会』で提起したこと――町内会活動の本当のコアはコミュニティ意識やお隣さん意識の醸成さえあれば良く、町内会の負担の抜本的リストラを行うべきである、それこそが町内会の自発的な担い手を増やし、町内会の本来的な発展の道だ――は、新自由主義のもとで市町村が次々に公的な責任を解除して仕事を町内会に下請けさせる流れがつよまる中で、ますます問われるテーマになっている。


 つい今しがた、隣町の元町内会長――彼はもう高齢のコミュニストである(仮にAさん、としておく)――から電話があった。隣町ではいまの町内会長が就任後すぐに病で倒れ、副会長がずっと代行していたのだが、隣町の会長報酬50万円(年間)は倒れていた会長に渡ったが、事実上会長の職務をほぼ1年間代行していた副会長には手当の増額も何もないのだが、今後もそれでいいのか、意見を聞かせてほしいという相談だった。


 Aさんが会長をしていたのはほんの数年前だが、その時に「これでは担い手ができない」というので会長手当を30万円(年)に引き上げたという。シルバー人材センターで働いても年間それくらいは稼ぐから、ということが根拠のようだった。
 Aさんは役所から持ち込まれる「依頼仕事」に抗しつづけてきたが、会長も代わり、今ではAさんの時よりもはるかにたくさんの仕事が行政から持ち込まれてきているという。そのもとで本当に会長の引受手はいない、という。
 業務量がリストラできればいいけども、もしそれができない場合は、会長や役員の手当を引き上げることは、町内会の合意さえあれば、致し方ないことだとぼくは思う。しかし、そうやってもやがては破綻するのではないかと心配する。


 資本主義のもとでの現在はもちろん、ぼくがめざしている、あるいはコミュニストであるAさんもめざしている共産主義の社会になっても、自主的な地域の活動の発展と、公的な行政の責任をどう組み合わせるかは問われざるを得ない。
 それは抽象的な理念や知的ヒップスターを追いかけることから生まれるのではなくて、現実との格闘からしか生まれるのだと考える。


 ところで、ぼくの町内会関係の本を読んで、批判の記事を書いた人がいた。

 この記事について、ぼくのマンガ評論(『オタクコミュニスト超絶マンガ評論』)を評価してくれていることには、まずお礼を言いたい。


 そして町内会関連の著作への批判については、少し時間をおいて考えてみることにしたい。
 3日で考えを終えることもあるかもしれないし、5年かかるかもしれないが、時間をおいて考えてみるつもりでいる。*1

*1:こう書くと、結局反省しないんだろ、と抗議する人がいる(無論、上記のツイートの人とは無関係である)。実際最近も、ぼくのマンガの解釈(こうの史代の作品論)に抗議して来た人がいて、それに対して「よく考えておく」という趣旨の返事をしたら「批判意見はスルーかよ」「クソ左翼」などといった激昂した再反論を送り返してきた「残念な人」がいた。

川崎昌平『編プロ☆ガール』


編プロ☆ガール (ぶんか社コミックス) 『重版未定』のような話をもっと読みてぇ……と思っていたところに、本書『編プロ☆ガール』が出た! 
『重版未定』 - 紙屋研究所



 『重版未定』は弱小出版社の話だが、『編プロ☆ガール』は編集プロダクションの話である。

出版社の刊行物における編集業務を手伝うのが主な任務。(本書p.9)

 『重版未定』の主人公が『重版未定』の舞台、漂流社に勤める前に編集プロダクションの会社にいたときの話で、本作の主人公は『重版未定』の主人公の後輩の新人女性・瀬拍子束美である。
 「フィクション」と断りをしているが、『重版未定』の主人公=作者・川崎の一部分身であり、本作も川崎の体験をベースにしている。


 『重版未定』の面白さを編集プロダクションでやっている、という感じで、まさに自分が望んだものだった。
 このテイストが痺れる。
 どうしても自分で書いてみたい。
 自分の体験ではないが、自分が聞き知った話を同じようなテイストで書けないか、ぼくも描いてしまった。カッとなってやった。後悔はしていない。

 オリジナルを見ずに描いた。
 むろん自慢ではない。そうすることで、自分の中でどこをこの川崎の作品の本質と捉えているのか、また、それがうまく再現できないことで、川崎のオリジナルの良さがどうやって保たれているのかもわかると思う。




※1:質問骨子
議会質問を作る際、地方議員あるいは会派ごとに全く流儀が違う。個人個人が勝手に作って、最後に全体の了承をもらうだけ、というものもある。会派の了承をもらわないところさえある。この会派では、個人が起草するが、集団で練り上げていくスタイル。「質問骨子(しつもん・こっし)」というのは、その議会質問のロジックの大筋を書いたものであろう。もちろん「質問骨子」などという呼び方が世間一般に共通しているものでもない。骨子で大筋を定めて、肉をつけていくのがここの会派の流儀のようである。


※2:質問3問
地方議会の質問は、市長などが出してくる議案を取り上げる「議案質疑」と、なんでも質問していい「一般質問」に大きく分かれる。本会議での一般質問は(1)演壇に質問者が立って、演説のような展開を述べて質問し、自治体当局が答弁する、というのを1回だけやるパターンの地方議会と、(2)この往復を3回繰り返す「3問3答」のパターンと、(3)短い質問と答弁を制限時間の範囲内で何回でも繰り返せるパターンとがある。この地方議会では「3問3答」なのだろう。1問目の質問が「この交差点での事故件数はどうなっているか」、市が「年間20件」ですと答えると、2問目が、他の交差点に比べて多いし、住民は「すごく心配だ」「早く信号をつけて欲しい」などと不安を述べ、アンケートでも8割が信号をつけてほしいと言っている、「住民のこの声をどう思うか」となる。市が「心配は聞いている。県警と連携し安全対策に万全を期します」と答えるので、3問目は「信号設置をすべきではないか」……という展開を丸めがねは考えたのであろう。


※3:県の予算
信号設置は県警の仕事。県が必要性を認め、県の予算で設置される。しかし、ここは市議会のようなので管轄外なのかというとそうでもない。市民の安全にかかわかることだし、信号設置で道路拡幅などが必要なら道路の拡幅は県道でもなければ市の予算で行う。よって、県と市は連携して信号設置について対処する場合が多い。丸めがねは「県の予算が乏しく、ここの箇所はなかなか実現しないのではないか」という趣旨のことを言っている。


※4:質問は本当に質問するのではない
そのテーマを取り上げるとき、議員は議場に到着したときには、すでにあらかじめの調査でそのテーマの全貌をおさえ、数字もつかんでおかねばならず、当日の議場の質問では、それを前提にして問題点を浮き彫りにしていくような論理の展開をしなければいけない。議会「質問」というので、「夏休みこども電話相談」のようにソボクに当局に質問する議員がいれば完全に当局の手のひらで転がされるだけであり、完全な敗北を意味する。ただの無能なアホ。もともと予算をたて、執行するのは行政当局であるから、議員はそれをチェックするしかないわけで、チェックの武器が質問である。質問によって事実上問題点を浮かび上がらせて要求することが求められる。当局は議場では「まいりました」とは言わないが、裁判と同じように明らかに問題が浮かび上がるかどうかが大事。


※5:住民のナマの声をぶつける意義
この会派の責任者と思しき議員が言っているのは、質問に難しい論理の展開がなくても、議員は住民の代表として住民の声を議会・行政に届けることにあるのだから、行政が知らないような住民の声・実態を届けることが大事だという指摘。特に新人議員は、問題点を浮き彫りにするような考え抜かれた質問はできなくても、まず自分がつかんだ住民の声や実態を行政に伝えるという基本の質問はできる。その原点を言っている。しかし、行政も認識を改めるような「住民の声や実態」でなければやはり行政は動かないので、とにかく「住民の声」っぽいものを質問に散りばめればいい、というものではない。


※6:1問目がヌルい
行政当局の問題を明らかにせず、ぼんやりとした質問になっていること。このベテランっぽい女性議員は、事故件数を尋ねるだけでは3問しかない中で、勿体無いと思ったのだろう。数字を聞くことは、議事録に公式に残るので意味がないわけではないし、単に統計書や行政の報告に出ている範囲ではない数字を行政に特別に計算させて初めて明らかにすることは意味がある。それがインパクトのある数字なら、新聞などでも報道されやすい(例えば異様に事故件数が多いなど)。しかし、もう行政もよくわかっているしちょっと統計を見ればわかるような数字を聞く意味は乏しいと感じられたのであろう。


※7:市の認識を聞く
議会質問ではよく使う手。例えば信号機の設置の場合、予算不足などなんらかの都合で実現していないけども、市は今の信号機がない現状を「問題がある」と思っている……ということをあぶり出す。現状が法令違反である場合はもちろん、何らかのガイドラインに照らしてまずい場合などがそれに該当するし、わかりやすく問題を浮き上がらせるので、そういう基準を持ち出すことが多い。


※8:3問目とダブる
2問目に「信号をつけるべきではないか」あるいはそれに近い質問をしてしまうと、3問目も同じような質問になってしまい、答弁もかぶるし、もったいないということ。1〜2問目は行政の部長・局長が答弁に立ち、3問目だけ市長が立つ……というようなケースの地方議会もあるので、あえて2問目と3問目に同じ質問をすることもある。


※9:担当者に電話
相手の基本的な認識がわからないと質問は作れない。それもわからずに質問をするのは時間の無駄である。ここの会派は担当者に電話で聞く、という簡単な「ヒアリング」をしたようだ。


※10:武器がない
ここで「武器」と言っているのは、質問において当局の対応の問題を浮かび上がらせる有利な材料のこと。例えばもし信号機の設置が「事故件数◯件以上なら設置」という国のガイドラインがあったとしたら、それ以上の事故件数があれば「未設置はガイドライン違反」は武器として使える。他にも過去の当局の答弁と矛盾するとか、学者や有識者の意見を持ち出すとか、統計や住民アンケートを使うなどがある。つまり「大事だからお願いします」というような質問ではなく、相手も認めざるを得ないような根拠を質問に入れること。もちろん「武器」という言い方は普遍的なものではなく、この会派だけでしか通用しないのではないか。


※11:当局に台本
会派によっては「当たり前」になっている。自分の読む部分が黒、当局の答弁が赤……のような色分けをしているケースもある。当局に原稿を書いてもらうために、当の議員が質問中に漢字が議場で読めなくなり、立ち往生してしまうというアホな話もある。
http://d.hatena.ne.jp/kamiyakenkyujo/20150521/1432151288


 という具合に作ってみたが、まず絵柄として「答え合わせ」をしてみたら、頭身が小さくなってしまうんだよな。川崎のオリジナルは手が大きく、独特のゆるキャラみたいな感じ。ぼくが描いたものはどうしても頭が小さくなってしまう。


 あと、結局全体が会話シーンになってしまった。
 会話シーンになってもいいんだけど、川崎オリジナルの会議シーンは、『重版未定』でも『編プロ☆ガール』でも読ませる。なんで読ませるのかといえば、『重版未定』ではやっぱりセリフが効いてる。「ちょっと待ってください。冗談でしょう? こんな企画」という殴り込みの論争を吹っかけるバケツの言い草がいい。まさにハードボイルド。『編プロ☆ガール』は短く要点を切り取っている。ダラダラとしていない。特に誤植シーンは誤植自体が笑えるので、うちの小5の娘も真似しているほどだ。


 やっぱり、会話シーンの連続、という普通に単調になってしまう展開なのに、そこをぐいぐい読ませているというところに『重版未定』『編プロ☆ガール』のすごさはあるよな、と思う。それはつまり本質をつくセリフ、夾雑物を排除しズバリと見せる思い切りがある、ということなんだ。


 というわけで、プロのすごさを改めて知る。


 ライターに逃げられた時、川崎自身が新書の半分を書いたことがある……って、『重版未定』2のあのエピソード、おおよそ実話なんかーい!